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現代人にも通用する仏教思想コミュの010-無明からの脱却

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 釈尊は、数多くの説法を各地で行いました。そのたびに、コーサラー国やマガダ国の王様。各地の大富豪達から、寄進を受けて各地に説法壇を設けます。有名なのは、日本で良く知られている祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)や竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)。霊鷲山(りょうじゅせん)が良く知られています。

 結局、釈尊が数多くの説法をしたのは、どうしてなんでしょうか?

 それは、この世に生きている人々は「無明(むみょう)」の中にあるということですな。簡単に言えば、この世に生きている人々は、「明かりが無い状態だ。」明かりとは「真理」と言い換えていいんですな。人は、自分の本当の姿を知らないということです。人は何故苦しむのか?その真理を知らないから苦しむのだ。釈尊は菩提樹下で悟ったことを、多くの人々に知らしたい。知って貰って、この世とあの世を貫いた幸せを享受して貰いたい。その一心で、求められる人々に、出かけていく土地土地に・・・一生をかけて説いて回る旅を続けました。

 そして、仏教教団を育成し、弟子達もまた釈尊の思いを実現する力となったんですな。(^_^)v

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 それでは、無明とは何でしょうか?釈尊が説法した「無明」とは何か?それを、エッセンスだけ語ってみましょう。
 「無明」は、現代的に言えば「無知」という言葉に置き換えることが出来ます。何に対して無知なのか?それは、「智慧(ちえ)」が不足しているから無知と言えるんですな。智慧がない状態を「無明」と言って良いと思います。

 人生のほとんどが、この「無明」からくる智慧の光が無い状態から苦しみが生じると・・・釈尊は、常々説かれました。無明の状態から何が生じるのか?それは、もうおわかりだと思います。欲心からくる心の中に生じる毒ですね。これは「心の三毒(貧瞋癡の三毒)」と申しました。それをもう少し掘り下げて語ってみましょう。これを三毒に加えて全部で「五毒(ごどく=貧瞋癡慢疑)」といいます。

 「貧(とん)」=むさぼりの気持ち。

 おなかが空いて、なんかガツガツ食べている人を見ると・・なんだか浅ましく感じます。その浅ましさの対象となる「欲」とは何でしょうか?それは、「食欲」ですね。
 あと、男女の仲でも夫婦間の正常な関係ならまだしも、もう何が何でも女性とセックスしたいという人が世の中にいますね。これは、過ぎた「性欲(色欲とも言います。)」でしょう。
 また、お金の亡者みたいな人もいます。人生すべて金みたいな人ですね。これは、「財欲」です。
 肉体の生存に関わる欲もあります。もう眠くて眠くてしょうがないとき、どうしようもないでしょう。これは、「睡眠欲」です。
 人は、人間関係が濃密になればなるほど、人によく見られたいという思いがつのるものです。これは、自己顕示欲の表れです。これは「名誉欲」でしょう。

 この五つの欲を仏教では、「五欲(ごよく)」と言います。伝統的仏教では財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲の五つの欲を五欲と呼びます。また・・五欲を呼び覚ますものとして、仏教では、我々の眼(目)、耳、鼻、舌、身の五つの感覚器官(五根)の対象として、それぞれ色、声、香、味、触(しき、しょう、こう、み、そく=五境)であると考えます。この五境(ごきょう)が、五つの欲を呼び覚ますと考えるんですな。

 これを、仏教的精神。つまり「苦楽中道」の物差しでよくよく点検しなさい。さすれば、「貧」の毒から離れることが出来る。そういうことです。(^_^)v


 「瞋(じん)」=統制できない怒り。

 なんか「カーッ!」とくる気持ちですね。自分で統制しようと思ってもカッと来て気持ちを抑えられない。そういうことがありますね。これが、「瞋恚(しんに)」と仏教で呼ぶんですな。わかりやすく言えば・・瞬間湯沸かし器のような怒りですね。これは、いわゆる動物的な怒りの気持ちです。動物がカッとして唸る感情と同じです。
 これは、少し考えないといけません。感情的になって怒るのと、冷静に相手のことをおもんばかってしかるのとは違います。
 また、怒るという感情には、「私憤(しふん)」つまりわたくしの怒りと違って「公憤(こうふん)」というのが、あります。たとえば、政府が圧政をひいて国民を苦しめるような政治をすれば、これはおとなしくしていてはいけませんね。これは、公の怒り「公憤」です。

 よくよく、「瞋恚(しんに)」の毒を抑えて、中道の精神を呼びさますことが大事です。

 「痴(ち)」=愚かさ。

 おろかといえば、人間なら誰しも愚かに出来ています。いくら賢いと言われる天才でも・・どこか間が抜けているところがいくつかあるものです。本当の意味での悟りを得た仏陀でない限り、人間というのは愚かな存在です。
 ただ、毛針にだまされて食いついてしまう魚のように、毛針を餌だとおもってパクッと食いついてしまう愚かさというものがあります。これは、「知恵」が足りないからそうなるんですな。人間なら、すぐに毛針だと解るでしょうが、魚にはその知恵がありません。
 田舎から出てきて、おいしい話に飛びついて大損をするなんてことが良く聞きますが・・・これは、経験と知恵が不足していることになります。 「痴」という毒ですね。真実を知らないということ。知恵が足らないということは、実は心に毒を作るんですよ。(^_^)v

 「慢(まん)」=我慢(がまん)と増上慢(ぞうじょうまん)。

 いわゆる慢心のことをいいますが、仏教的には「我慢(がまん)」と言います。何事も我慢我慢という我慢ではなくて、自慢が過ぎる心。心がおごり高ぶった状態を「我慢=自我が慢心を呼んでいる状態」と呼ぶんですね。
 次は、「増上慢(ぞうじょうまん)」と言って、うぬぼれる心です。うぬぼれてくると、自分の失敗や自分の立ち振る舞いが解らなくなります。これが・・「慢」という毒です。

 「疑(ぎ)」=「信(しん)」をさまたげる心。

 これは疑問の疑です。解らないことがあれば・・疑問が浮かびます。科学的探求心も疑問から始まるでしょう。警察が犯人を疑うこともあります。
 しかし、仏教的には、仏陀に対する「信仰心」を疑うことを「疑(ぎ)」と呼びます。自分の信じるものを一旦、疑ってしまうと・・そこには「信(しん)」が消えてしまうんですな。「疑」という毒は、実はもっとも恐ろしいものでもあります。

 以上、「心の五毒」について語りました。「無明からの脱却」というのは、この「心の五毒」を良く知る。人間の心の中に湧いては出てくる毒を知ることによって、取り除いていこうとする心こそが・・・無明を脱却することができるのだ。と、言うことを釈尊は各地で説法したんですな。

 それは、現代に生きる我々にも・・充分役に立つ教えでもありますね。

 (^_^)vhttp://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42663499&comm_id=4273190

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