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たましいの寺小屋コミュのインテグラル理論の学びの部屋

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インテグラル(包括・統合)の部屋において対話が始まっていますいが、インテグラル理論の大まかな概観さえも掲載途中なので、対話はこちらに引越しさせて頂きます。

判っている人は良いのですが、何となくの理解では混乱するので、過去の書き込みも勝手ながら、こちらに移行させて頂きます。

完全に対話の部屋ですね。 よろしくお願いします。


文章移行する時に、書き手のハンドル名が落ちてしまっています。
僕の書き込みになってしまいますが、ご容赦ください。



コメント(39)

インテグラル#18からの引越し




カルマ・ランジュンさま

大変、興味深く拝読させて頂いております。
カルマ・ランジュンさまのご意見を賜りたい点がございまして、
質問させて頂きました。

<イ>4象限で表されるウィルバーの世界観とは、
   法有として、4象限のそれぞれの象限を実在論的意味で捉えたもの
   だとお考えでしょうか。
   或は、法空として、いわばそれらは経験的な認識論として捉えられ
   たものだとお考えでしょうか。

<ロ>法空の立場からの提唱であったとした場合には、
   認識され得る4象限全ては、あくまでも実在とは言えず、
   経験的認識行為においてのみ体認されるところの現象的対象とし
   てのみ語り得るものとなり、
   4象限全体が、さらにそれら4象限自体をも対象として認識すると
   ころの個人の主観内容(さらなる左上象限)として立ち現れて来ると
   いう構造を語っているものに思えてしまいます。
   これを逆から言えば、左上の認識内容をひらいて見たら、
   それらは4象限的認識対象として取り上げられ得るところのもの
   であった、と言えるものであった、という事が出来る事態になるか
   と思います。
   しかしながら、その場合、どの様に、認識主体としての「我」を立
   て得るものなのか、疑問に感じています。
   或は、「無我」の立場でありつつ、4象限に対する認識主体を仮設
   し得る理解の仕方があるのでしょうか。

<ハ>ウィルバーにおいて、健全なプロセスや病理的プロセスといったも
   のが、想定されているかと思いますが、
   そうした「健全性」「病理性」もまた「空」だとお考えでしょうか。
   また世俗諦で語られる内容が、即、第一義諦で語られる内容と、
   離れる事が無いという見方でウィルバーのシステムを眺めた場合
   に、例えば、特に右下象限との関係が強くなるかも知れませんが、
   原発をどうすべきかといった問題や、
   他国の占領・虐待行為が為された場合などにおきましては、
   現実的対処としては、どの様にすべきとお考えでしょうか。
   特に以下の「理趣経」との関係などが気になっております。

金剛手
若有聞 此理趣受持 讀誦
設害三皆 一切有情  不墮惡趣
爲調伏故 疾證無上 正等菩提

時金剛手 大菩薩 欲重顯明 此義故
持降三世 印 以蓮華面 微咲而恕 頻眉猛視
利牙出現 住降伏立

松長有慶さんの『理趣経』による、この意訳は
-----------
 こうして「悪はもともと悪ならず」という善悪を超えた法門を説き終わり、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。
 金剛手菩薩よ。もしあなたたちがこの「悪にその性なし」という理趣を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、たとえ三界の一切の生き物を殺したとしても、決して悪の報いを受けて地獄に墮ちることはない。それどころか悪しきものを調伏(うちなび)かしたことの果報を得て、速やかに無上正等覚を証することであろう。

 かくて、金剛手菩薩は、この悪を調伏する教えを、より一層に明らかにしようと考えて、手に降三世の印を結び、蓮華の花のような美しい微笑みをうかべながら、一方では、はげしい忿怒の表情で、眉をひそめて睨みつけ、鋭い牙を出しながら、法力を以て仏敵や怨敵や魔障などのすべての悪を降伏する姿に変身された。
インテグラル#19からの引越し




ash様



余り皆は内容まで関心ないのかな・・・なんて疑問に思っていたので、質問は嬉しいです
ありがとうございます。

ただここは、中観思想のコミュと違い、多くの人には何をいっているのか解らないという感想を持つでしょう。 そのことを踏まえてお答えします。
但し、僕の感想なので、ウイルバーの真意とは違うかも知れませんのでご了承ください。



まずウイルバーの世界観で、法有か法空と問われるならば、ナーガールジュナや金剛乗の視点を理解されているので、法空の立場に立つと思われます。


そして左上の象限は、個人的且つ内面的な主観の領域のことです。
ですから実在している対象物ではありえません。
「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュの「仏教論理学の発展の学びについて」のトピックで僕がたくさん書きましたが、「知」の対象は様々あります。そしてどの様な立場に立つかというのが大事です。

ウイルバーは、象限は、妥当性を短絡的に判断することは避け、どのようなコンテクストの中で意味を持つのかが検討されています。

インテグラル理論の重要な視点の一つに「誰もが正しく、また部分的手である」というのがホロン構造を表す表記です。





ウイルバーの理論は全て仮説です。 仏教の仮設とは意味が少し違いますが、全て確定ではなく多様な研究者と実践者の対話の中で更なる探求がおこなわれています。
ですから今だ発展途上の思想なのです。



認識主体の意識は、意識レベルという段階を経て進化していくと考えてますので、「私」の感じ方も包括して展開して「私たち」へと進化していきます。


ですから、「無我」というスタンスは取りません。 それも概念であって、法有になってしまうと考えるのです。

 そして「健全性」と「病理」についてですが、全ての存在は進化するものとして捉えているので、執着や固着は退行を生み出し、それらが「病理」であって、それ以外は進化のベクトルを持っているので健全であるとなるのでしょう。 プレ(前)とポスト(後)の混同も病理のもとであると捉えます。

世俗諦と勝義諦のことですが、勝義諦においては、語られるものは無く、世俗諦だけで十分だと思いますが、原発の問題や侵略の問題に関していえば、「死の拒絶」は生命体にとっては重要かつ最大の衝動を作ります。 かつて僕も命を脅かされる危機的な状況が何年も続きましたが、それぞれの人や民族や集団が知恵を搾り、力を合わせて人類全体、もしくは惑星規模で取り組まなくてはならない状況に置かれた時、存在の問題としてどう取り組むかですよね。

理趣経は空思想の中で後に金剛乗の母体になっていますから、人間の理性と欲求、カルマと超越の基盤的教えですから、人間の生理機能や意識のマトリックスである集合的無意識の理解無しには統合するのは難しいですよね。

インテグラル#20からの引越し





カルマ・ランジュンさま

ご返答頂きありがとうございます。
まだよく分からない点が残ってしまっておりまして、もう少し、対話を続けさて下さい。
どうぞ宜しくお願い致します。

>そして左上の象限は、個人的且つ内面的な主観の領域のことです。
>ですから実在している対象物ではありえません。

具体的操作や形式的操作、ヴィジョン・ロジックなどの認識対象として把握された現象認知も、また更に「空じる」ことを必要とされるものであり、また提唱された進展しゆく発達段階自体もまた仮設である、といった理解で宜しいのでしょうか。
また、【分離→統合→超越】のプロセスの動きは、縁起の進展と捉えて宜しいものと、お考えでしょうか。


>「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュの「仏教論理学の発展の学びについて」のトピックで僕がたくさん書きましたが、>「知」の対象は様々あります。そしてどの様な立場に立つかというのが大事です。
>ウイルバーは、象限は、妥当性を短絡的に判断することは避け、どのようなコンテクストの中で意味を持つのかが検討されて
>います。

自身で、各象限を検証しようとした時、右上内容が「確かにウィルバーの言う通りである」という事が確認されるのは、戻ってやはり自身の左上象限においてであり、また下半分に関しても、それが各検証者にとって、実際に、どの様であるのかが確認されるのは、やはり各検証者における、左上象限においてである様に見えてしまいます。
4象限システムの各象限の検証が為されるのは、各検証者個々における左上象限の認識対象としてである、とせずに、
4象限のそれぞれの象限を直接把握する認識モードが、必要とされている、という意味になりますでしょうか。

ウィルバーのモデル全体も、現実の実践的認識においては、
そのシステム全体までもが、それを理解する者の左上象限における認識として、左上象限内の1つの或るホロン階層に属するものとして処理される以外無く、提唱システム全体までもが、次成る部分を構成する要素として、(未だ語られてはいないとしても)含みつつ超越される更なる階層において、その全体が、さらなる階層内の左上象限として、「含みつつ超えられるもの」に見えてしまいます。


>認識主体の意識は、意識レベルという段階を経て進化していくと考えてますので、「私」の感じ方も包括して展開して
>「私たち」へと進化していきます。

【物質的段階→心的段階→霊的段階】で言えば、
霊的段階とされる、【心霊段階→微妙段階→元因段階→非二元段階】の進展の中で、「自他不二」が果たされ、ここにおいて、各象限は互いに互いへと還元出来ない、という基本原則が超越される、という理解で宜しいでしょうか。


>ですから、「無我」というスタンスは取りません。 それも概念であって、法有になってしまうと考えるのです。

「我」の常住を見る「常見」でもなく、「我」の断滅を見る「断見」でもなく、
「不断不常の中道」と見る、という理解でよろしいでしょうか。
また「仏性の常住」に関しては、ウィルバーのシステムは、こればかりは実在的に認める立場であると、お考えでしょうか。
或は、どこまでも「法空」として一貫されるものと、お考えでしょうか。


>そして「健全性」と「病理」についてですが、全ての存在は進化するものとして捉えているので、執着や固着は退行を生み出
>し、それらが「病理」であって、それ以外は進化のベクトルを持っ>ているので健全であるとなるのでしょう。

「健全性」や「病理」、あるいは「進化のプロセス」といったものも、仮設されたものであり、法空の立場から見られるべきものとお考えになりますか。


>原発の問題や侵略の問題に関していえば、「死の拒絶」は生命体にとっては重要かつ最大の衝動を作ります。 かつて僕も命を>脅かされる危機的な状況が何年も続きましたが、それぞれの人や民族や集団が知恵を搾り、力を合わせて人類全体、もしくは
>惑星規模で取り組まなくてはならない状況に置かれた時、存在の問題としてどう取り組むかですよね。

<「死」をもたらし得ると見えるもの>に対して、それもまた「空」であると知り、
逆らわず、縁起するにまかせ、死するときは死するなるべしと捉えるのか、
少しでも回避すべく、動くべきなのか、カルマ・ランジュンさまは、どうお考えになりますでしょうか。
ここに「理趣経」理解も関係してもいる様に見えてしまうのですが、
現実的対処と教義の間を詰める必要が、私にとっては、すぐ身近に、差し迫っている様に、思えてなりません。

カルマ・ランジュンさまの現実的対処の指針について、何かご教授頂ければ、幸甚であります。
インテグラル#21からの引越し






ash様 こちらこそ対話は愉しいです。 よろしくお願いします。


>具体的操作や形式的操作、ヴィジョン・ロジックなどの認識対象として把握された現象認知も、
>また更に「空じる」ことを必要とされるものであり、また提唱された進展しゆく発達段階自体も
>また仮設である、といった理解で宜しいのでしょうか。

ウイルバーは、ヴィジョン・ロジック(左上象限)とケンタウルス(左下象限)の関係性を身体と心の統合された状態を生物圏(バイオスフィア)と心圏(ヌースフィア)の差異化のシンボルとして使います。

 極端にいうならヴィジョン・ロジックとは、「観念論」です。把握される認識対象ではありません。 ですからなお更「空性」に還元し安いのです。



>また、【分離→統合→超越】のプロセスの動きは、縁起の進展と捉えて宜しいものと、お考えで
>しょうか。


縁起は、此縁性(シエンショウ)のことですから、分離→統合→超越の経路を使うとは限りません。
分離→統合→超越のプロセスはホロン構造で有効なホラーキーですから、縁起の進展と捉えては誤ってしまうものと考えます。






>自身で、各象限を検証しようとした時、右上内容が「確かにウィルバーの言う通りである」とい
>う事が確認されるのは、戻ってやはり自身の左上象限においてであり、また下半分に関しても、
>それが各検証者にとって、実際に、どの様であるのかが確認されるのは、やはり各検証者におけ
>る、左上象限においてである様に見えてしまいます。


この辺は分り辛いです。
右上象限というのは、外面的・個的な象限です。 即ち客観的な部分で、標準的、客観的、経験的、科学的地図のことですから、左上の象限における確認の必要はありません。




>4象限システムの各象限の検証が為されるのは、各検証者個々における左上象限の認識対象とし
>てである、とせずに、4象限のそれぞれの象限を直接把握する認識モードが、必要とされている
>、という意味になりますでしょうか。


四象限は四つの非常に異なるタイプのホラーキー数値が指し示しているものは同じ領域のものを扱っていますが、四つの異なる領域を扱っているのです。




>【物質的段階→心的段階→霊的段階】で言えば、
>霊的段階とされる、【心霊段階→微細段階→元因段階→非二元段階】の進展の中で、「自他不二
>」が果たされ、ここにおいて、各象限は互いに互いへと還元出来ない、という基本原則が超越さ
>れる、という理解で宜しいでしょうか。


ここは仰る意味が判らないのでスルーします。



>「我」の常住を見る「常見」でもなく、「我」の断滅を見る「断見」でもなく、
>「不断不常の中道」と見る、という理解でよろしいでしょうか。


仏教の基本ですが、ウイルバーは理解してると思われます。
ですから、その理解でいいと思います。



>また「仏性の常住」に関しては、ウィルバーのシステムは、こればかりは実在的に認める立場で
>あると、お考えでしょうか。
>或は、どこまでも「法空」として一貫されるものと、お考えでしょうか。


やはり「法空」として一貫されるものでしょうね。




>「健全性」や「病理」、あるいは「進化のプロセス」といったものも、仮設されたものであり、
>法空の立場から見られるべきものとお考えになりますか。


ワザワザ法空の立場から見る必要もなく、進化か固着で考えればいいと思います。




><「死」をもたらし得ると見えるもの>に対して、それもまた「空」であると知り、
>逆らわず、縁起するにまかせ、死するときは死するなるべしと捉えるのか、
>少しでも回避すべく、動くべきなのか、カルマ・ランジュンさまは、どうお考えになりますでし
>ょうか。



自分の存在をどう考えるかで、違うと思います。
生存は執着から輪廻に入り込み、生・老・病・死の苦しみの中にありますが、他との関係性を考えれば、菩提心を育み、悲哀を持つ習慣に慣れ親しんで来た僕には、「運命」というのは無く、他の為に自分が何が出来るのか? と考えれば、取るべき態度は明白です。





>ここに「理趣経」理解も関係してもいる様に見えてしまうのですが、
>現実的対処と教義の間を詰める必要が、私にとっては、すぐ身近に、差し迫っている様に、思え
>てなりません。



僕は般若理趣経には馴染みがないので、判りませんが、生まれた者は死に行く定めです。
しかし、その有暇の中で何をするのかは生きる意味でもあります。

ashさんは何をするんですか?



インテグラル#22から

カルマ・ランジュンさま
ご返答ありがとうございます。
私の表現がまずい点が多々あり、申し訳ありません。
なるべく伝わる話し方に注意しながら書く様に心がけます。

(ash)
具体的操作や形式的操作、ヴィジョン・ロジックなどの認識対象として把握された現象認知も、また更に「空じる」ことを必要とされるものであり、…(以下、省略)

(カルマ・ランジュンさま)
極端にいうならヴィジョン・ロジックとは、「観念論」です。把握される認識対象ではありません。

〓「具体的操作や形式的操作、ヴィジョン・ロジックなどの認識対象として把握された現象認知も、…」と書きました部分は、
「…、ヴィジョン・ロジックなどの(認識行為における)、認識対象として把握された現象認知も、…」と書いた方が良かったです。
ヴィジョン・ロジックというものを、それが認識対象だ、とお伝えしたかった訳ではないのですが、誤解を招く書き方をしてしまい、失礼しました。

(ash)
また、【分離→統合→超越】のプロセスの動きは、縁起の進展と捉えて宜しいものと、お考えでしょうか。

(カルマ・ランジュンさま)
縁起は、此縁性(シエンショウ)のことですから、分離→統合→超越の経路を使うとは限りません。
分離→統合→超越のプロセスはホロン構造で有効なホラーキーですから、縁起の進展と捉えては誤ってしまうものと考えます。

〓例えばですが、【分離→統合→超越】のプロセスが、
「これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず」に適って見える場合だけを取り上げるなら、
その成長が健全に進む様子が、一見「分離→統合→超越の経路」という形で、
縁起に従っているかの様に見える場合が存在する事は、場合により、あったとしても、
それは、本来、同値のものではなく、
また、「これなければこれなし、これ滅すればこれ滅す」の方は、
それが、そのまま成長における病理や退行の発生に一致するとは言いにくく、
かえって「縁起の進展と捉えては誤ってしまうもの」となる、
といった理解で、概ね、理解できておりますでしょうか。

(ash)
自身で、各象限を検証しようとした時、右上内容が「確かにウィルバーの言う通りである」という事が確認されるのは、戻ってやはり自身の左上象限においてであり、また下半分に関しても、それが各検証者にとって、実際に、どの様であるのかが確認されるのは、やはり各検証者における、左上象限においてである様に見えてしまいます。

インテグラル#22から   前文んが長すぎたため、分割しました。



(カルマ・ランジュンさま)
この辺は分り辛いです。
右上象限というのは、外面的・個的な象限です。 即ち客観的な部分で、標準的、客観的、経験的、科学的地図のことですから、左上の象限における確認の必要はありません。

〓済みません。中々、上手い表現が出来ないのですが、
私も、カルマ・ランジュンさま同様、ウィルバーの主張は実在論と言うより、
仏教的な経験的認識論の立場から語っているものだと思っていたのです。

ですから、もし読者の分かり易さの為、などの理由から、
一見、実在論的にも思える書き方をしている場面があったとしても、
それでも、ウィルバーが実際に主張したい事とは、
(彼が仏教的理解を踏まえながら話している、という文脈の中での話として)

「各人が認識対象として捉えた(自身を含む)世界には、
ホロン階層を読み取る事が出来る。と共に、各々のホロンには4象限的側面が在る、という立場からアプローチする事によって、「認識の混乱」と呼ばれる近代の問題点を解決し易くなる」
というものだと思っていた訳です。

また、自分でウィルバーの主張を検証しようとした場合には、
例えば、深い瞑想から出た直後に、鏡に自分の姿を映して、通常時と比べて、顔などの表情の変化の様子などを、外面的に観察する様な場合でも、
今の文化の状況や、社会のシステムの状況などを眺めてみた場合でも、
そうした観察結果は、結局、私の主観の中で、主観的に解釈されたものとして以外には、
私には知覚する事が出来ない、と思った訳です。
また、そうであるが故にこそ、尚更、
ウィルバーは実在論的にではなく、経験的認識論の立場に立って、論を展開していると思えましたし、自身の認識内容に対して、それらを4象限という観点から分類し、把握する事が推奨されている、と思えた訳です。
ただ、各象限が、実在として語られている可能性が、まだ残ってしまう可能性もあり得る、と思い、仏教的理解の深いカルマ・ランジュンさんのご意見をお伺いしたかったのです。

まだ途中ではありますが、一度、ここまでで切らせて頂きます。
急な話ですが、先程、実家で不幸があったとの連絡があり、続きの投稿が、
少し先になってしまう場合もあるかも知れないのですが、追って書かせて頂きます。

ありがとうございました。
インテグラル#23から




ash様 
ご実家で不幸があったのですか、無常の風は絶えず流れていますね。

 了解しました。  ここで一旦中断しましょう。

 文章で気になったのは、後半の認知論で、四象限の全てを経験的な主観に還元しようとしているのが気になりました。 ちょっとカテゴリーエラーを起こしてしまいます。
 その視点自体が、左上の象限そのものであるということに気が付けば、もっとシンプルになる気がします。
インテグラル#24から


カルマ・ランジュンさま

無常の風、まさに常に流れていますね。
また東北大震災から後、葬儀の数が極端に増え、火葬場の順番待ちが大変らしいです。火葬場が確保出来る迄は、取り合えず、葬儀社の遺体安置所で保管して頂く事になりました。昼に葬儀社の方と相談して見通しを立てる迄は、いつ火葬が出来るのかも、分からない状態です。

もともと、ウィルバーを調べ始めたのも、重度の精神障害に陥ってしまった知人に対して、自分が何か出来る事はないかを探すつもりで始めたものでした。

快く、中断とおっしゃって頂き、感謝しております。
ただ、出来れば、完全に中断してしまうのではなく、
カルマ・ランジュンさまから頂いたご返答に対しての、
私の一回のレスで触れることの出来るテーマが、数個だけに減っていってしまって、せっかく頂いたご返答内容の全テーマに対して、一度にレスが出来なくなっても、何回かに分けながら、続けさせて頂ければ、ありがたいです。

もし、その様なやり取りでは、あまり建設的でないとか、かえって誤解を生み易くなりお勧め出来ないなどの、ご指摘がありましたら、教えて下さい。


私としては、周囲に、ウィルバーに対して、仏教的な読み方を話し合える方がおりませんので、大変、勉強になっており、
また、現況にアプローチする為の有効な1つの手法として、
どの様に、実践的に活用出来るかという事を、是非知りたく思っておりますので、少しずつでも続けさせて頂けますと、かえって、ありがたいです。
(レスが遅くなってしまう事もあるかも知れませんが…)

取り合えずは、ご報告まで。

ありがとうございました。
インテグラル#25から


ash様 

お好きなように書き込んでください。
 僕もウイルバーに関しては、意見の研鑽する相手がおりませんので、ashさんとのやり取りは、いい刺激になります。 僕は中観に拘る部分もあって、それだけでなく瑜伽行派の認識に深い敬意を払っているので、トランスパーソナルの主張や理論家の見解には嚙合わない部分もあるので、あえてウイルバーの土俵にはいかずに、ここで様子を伺っている次第です。

これからもよろしくお願いします。

インテグラル#26から


カルマ・ランジュンさま

明日の早朝に火葬となりました。火葬場が大変混雑しており、それを逃すと
来週以降まで、周囲の火葬場の何処にも空きが無いとの事でした。
遠方の親戚も多い為に、告別式は無しとなりました。



前回のレスで、少し触れさて頂きましたが、
私は、現況にアプローチする為の有効な1つの手法として、
どの様に、ウィルバー・システムを実践的に活用出来るかという事を、
是非知りたく思っております。

原発や他国の侵略的行為の問題、一部国際金融家などの搾取や詐欺的行為の問題、
戦争、憲法問題、どの様な政策を目指す政治家に投票すれば実際に理想的社会を作り得るのか、
どういった形態の経済活動が必要なのか、
日々の生活の様々な場面の中で、瞬間瞬間に、自分はどうすべきなのか…。

先ずは、自分が、ウィルバー言説への単なる信念としてではなく、
ある程度、正しく、システム理解をした上で、
上記問題にも、その自分の理解から、答えられる様になる事が、
どうしても求められると思いました。

ですので、今後とも、私の誤解している点などあれば、忌憚無く、どんどんとご指摘頂きたく、
改めて、宜しくお願い申し上げます。




「現実の中での実践を考察する」という事は、
いかに「システムを理解」し、
またいかに「その実践方法というものを理解する」のかに掛かって来ると思います。

そこでの、1つの方向が、仏教的理解と仏教的実践という観点を採る事でした。
ウィルバーは、カルマ・ランジュンさまのご紹介の通り、チベット仏教の実践的理解があり、
また曹洞・臨済の両宗での見性も果たしているらしいので、
この観点は、それ程、悪い見立てでは無い様に思えました。

ただし、仏教的視点を根底に据えながら見てゆく、とは言っても、
彼のシステムが、いわゆる「万物の理論」を目指したものであるからには、
当然に、現時点なりの、<「西洋思想的まなざし」と「東洋思想的まなざし」の統合>が、
既に果たされた形のものとして、書物などで我々に提示されており、
その為、確かに、仏教の根幹部分はシステムに流用されていても、
それ以外の部分の中には切り捨てられたところも出て来ているであろう事が予測されます。
(他にも世界中に様々な宗教がありながら、それでもそれらの統合を目指す故に)




前置きが長くなってしまい、済みません。


話が前後してしまいますが、
実は、これからの対話にも、恐らく関わると、私には思えますので、
最低限の「仏教的認識」の擦り合わせを、先にさせて頂きたい、と思った次第です。


カルマ・ランジュンさまには、
「僕は中観に拘る部分もあって、それだけでなく瑜伽行派の認識に深い敬意を払っている(以下、省略)」
とお書き頂きました。


このご意見も参照しながら、先ず、ウィルバー理解の上で、
「仏教的認識」として保持すべき、私なりのポイントと思えるもの、をまとめてみて、
それをカルマ・ランジュンさまにも見て頂き、
共通の「仏教認識」とすべき足場が、どの様なものかを、ある程度、明確にしておく事が、
今後の対話を建設的に薦める上で、私には有効だと思えました。


特に、<「西洋思想的まなざし」と「東洋思想的まなざし」の統合>が、
既に果たされているシステムに対して、
それを「仏教的に眺め、仏教的に実践する」という部分に関して、
私の側の、擦り合わせの必要を感じております。

と言いますか、私がついていけていないだけですので、
私の誤解点を確認して頂き、
私が最低限、ある程度、対話可能な状態に立つ為に、
必要なだけなのですが…。
(中々、大変な作業になりそうですが…、宜しければ、少しずつでもやらせて頂くつもりです)



質疑応答は、もう先行して、始まっているのですが、
そちらは少し保留させて頂いて、こちらの共通認識の確認作業を先にさせて頂くか、
或は、少なくとも、それらを同時進行的にしてゆくか、
いずれにしましても、
どこかで、共通認識の足場確認が出来れば、と思いました。


なるべく完結にまとめる様に心がけますが、
或は、いたずらに煩瑣になってしまう可能性もあると思いますので、
「逸脱して来ている」と思えましたら、どうぞご教授下さい。

宜しくお願い致します。



ありがとうございました。

ash様

火葬場が繁盛するのは嬉しいことではありませんね。

うちの親父が他界する時には頭部に熱を持って足先が冷たいままでした。
インド・チベット仏教の死者の意識に対する身体論のことです。

捕鯨船に載っていたりしてたので地獄に落ちるかもと思っていましたが、生来の温和な性格が功をそうしたのか、リンポチェ達のお力か判りませんが、天の世界に行けたようです。
 ashさんのご親類の方のご冥福をお祈りします。






>ただし、仏教的視点を根底に据えながら見てゆく、とは言っても、
>彼のシステムが、いわゆる「万物の理論」を目指したものであるからには、
>当然に、現時点なりの、<「西洋思想的まなざし」と「東洋思想的まなざし」の統合>が、
>既に果たされた形のものとして、書物などで我々に提示されており、
>その為、確かに、仏教の根幹部分はシステムに流用されていても、
>それ以外の部分の中には切り捨てられたところも出て来ているであろう事が予測されます。
>(他にも世界中に様々な宗教がありながら、それでもそれらの統合を目指す故に)


とありましたが、様々なスペクトルの中心は「自己」や「自我」に据えていると僕には見えます。 彼の初期の頃の著作『アートマン・プロジェクト』は、洋の東西を超越する視点です。
様々な西欧の哲学も中心が「私」とは何なのか?という自己の探求に最大の勢力や情熱がそそがれています。

仏教の空の哲学の研鑽も、世界では日本は遅れている方です。
フランスやイタリア、ドイツやロシアでは仏教の研究も進んでいて、日本独自の甘えの文化というか構造が障害になっているのかも知れません。



僕は、20数年前に中村元(ハジメ)氏の研究機関である「東方学院」で少し学ばさて頂いていたのですが、中村教授もインド緒哲学の研究では世界に名だたる研究者で、自我の考察に関して深い含蓄があります。 新しいこのトピックの最初の写真はウイルバーと、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェですが、このトゥルンパが作った「ナロパ学院」は仏教思想の総合大学で、アメリカには多数のナロパ学院があります。このトゥルンパの特徴が自我の考察で、クリシュナムリティとトゥルンパは近年の偉大な二大知性といわれています。


そしてウイルバーはナロパ学院の理事を務めていて、エゴの習性に関する注意深さは、トゥルンパの系譜の特徴です。





 そしてこの「自己」や「自我」に関する自覚、及び知覚は仏教的認識の中では重要なポイントだと思っています。
 更に、自己の探求は<「西洋思想的まなざし」と「東洋思想的まなざし」の統合>に必要不可欠な要因だとも思います。

それが重要な足場になると思います。


宜しくお願い致します。

写真はヤントラ・ヨーガを行なうミラレパとその伝承者であるカル・リンポチェ(ウイルバーも師事してました)




ash様

>カルマ・ランジュンさまのお父様は、臍などではなく、頭頂部から抜けられたので
>しょうか、
>「天の世界に行けたよう」との事、大変、喜ばしく思います。


ありがとうございます。
チベットにはバルドゥ・トドルという『チベット死者の書』といのがあって、身体論や拠り所にしている教典によって四大宗派でもその支派によっても違いますが、高名なリンポチェの見解にしたがい、そう記述しました。

 天や阿修羅が臍からという説も知っていますが、頭部から出た場合、の見解なのです。


>分別説部

といえば、南伝仏教の源流ですね
大乗仏教は、大衆部やアビダルマコーシャを作った経量部の説の流れを尊重するので、問題は発生しないでしょう。
刹那滅理論は、ナーガールジュナが空の理論と共に、法有の成り立たないことを論証して、ウイルバーもそれに載っといていると思われます。

中有に対するウイルバーの見解は、先に挙げたチョギャム・トゥルンパや、亡くなった奥さんのトレヤも熱心に師事していたカル・リンポチェらが、共にカギュ派の伝統を継ぐ人達なので、ashさんが気にしている部分は大丈夫だと思います。


>「非我/無我」問題については、
>一応の合意を得た上で、話を進めさせて頂ければ、ありがたいです。

それに関しては既にすり合わせが完了してますね。
禅の影響を強く受けているシナ(中国)では、禅宗の影響下では、自我のことを「吾」と訳します。

ギリシャの用語<プシュケー>がサンスクリットの<アートマン>と同じで、「自分自身」を指す言葉です。


ashさん自身が自ら纏めていますが、非我・無我の要点は、用語の瑣末な森に入られると、本質的な問題である「自己とは?」 「自我とは?」 というウイルバーの発達論的な、自我を確立させて、分化していく作業の問題―アートマン・プロジェクト―の意図を見失ってしまいます。



仏教認識論が、上座部や唯識論とは別に、論理学派を形成指せたデクナーガとダルマキールティの聖教量は、「仏陀が説いたから正しい」のではなく、誰もが、その意識状態に至れば、誰もが同じように認識出来るから、現量(直接知覚)の範疇に纏めました。 

 これは『中論』を持ち出さなくても主観、間―主観、客観的視座で、非我・無我の表記に関する問題は解決すると思います。




思いっきりシンプルに書いた積りでも、おおくの読者の人には何を書いてるのか判らないと思われるでしょうね。

ウイルバーの視点は、体験に沿って読まないと、意味は無く、理解しようとする作業が、より複雑な分化をもたらすものだと思います。
ash様

ウイルバー理解にあたり、カギュ派の師の方々の指し示す実践的修行の必要性はないのもだと思います。
先に挙げた師達は、ヴィヴェーカーナンダやオーロンビンドと同じで、高い意識状態に至った例として捕れ得ればいいとおもいます。

 方や慈悲の優れた主観及びそれに類するホロンを持った環境を実現している人で、方や自我の考察を徹底されていて金剛喩定に至った、自己の防衛と委ねることを指し示してくれた偉大な知性であった。 
この二人のリンポチェは、実際にアメリカにおいて大きな影響力を持っていましたが、カギュ派の伝統がウイルバーの人格形成に大きな関与があるのではと思っています。

>一見、統合から漏れてしまう様にも見える立場のものを、

と全ての宗教やセクトや緒哲学を統合しようとする試みは、検証の時点で「全ての」という事を信念なり理念を掲げると「拘り」という固着を生み出してしまうものだと思います。
 例えばご存知のように部派仏教は20の部派に別れ、それぞれが違った信念を所有して、それらを統合することは可能でしょうが、細かく分類するのが、上座部というカテゴリーだけでなく、無数の宗教・教義が存在しています。
学ぶべきは、分類の仕分けの仕方であって、基本的なルールは無く、多くのデータをどの様に土俵に上げるか、どやって分類していくかの線引きをするのか?

しかしそういったことは文化人類学学者がやればいい問題で、そういうことに時間を割けるのかというという問題が浮上します。


カギュ派の二人の例を挙げさしていただいたのは、真実の根拠にしたのではなく、道徳・倫理の観点の真実性を追究する為の欺瞞を暴く知性、常識が正しいとは限らないといった他方性の検証の仕方を、二人の師の特性を持って代弁していることを含ませていたので、余りにも端折り過ぎているとの批判を受けてもしょうがない事です。

カギュ派の伝統に触れなくても、もしくは仏教の伝統に触れなくても、各人が持つ「私とは?」という視点から理解を深めることは可能だと思っています。
ただ、伝統の大いなる知恵を理解したならば、ウイルバーとの共通した文脈の理解がしやすいものと感じます。

僕自身は、ウイルバーの「意識のスペクトル」を著作した頃の視点、意識の進化や深化した状態から他を照らし出し、明確にし分化させ、複雑に増大していくというアウトラインに焦点を合わせているので、当然偏りや偏見が生まれやすい土壌があるものだと思っています。

 ただその視点だと、普通にウイルバーの発想や視点が理解しやすいと、思っているのです。

ashさんが仰る、「仏教界内部での他宗派への非難」は、各国で起こった超宗派運動で大まかには包括されています。 「部分的には正しい」というホロン構造内部でのそれぞれの進化ラインに包含されて対立はあるでしょうが、違いの強調や異差の特視に拘れば、進化は止まり、退行が起こってしまいます。

書き切れなかったので、続きを・・・



中世のインドでも(後期インド仏教)では、ヴィクラマシーラやナーランダーといった大僧院(大学)では、中観・唯識・説一切有部、経量部といった四宗派は確り共存していて、視点の違いはそれぞれが納得していて、共存していたから宗派変えは比較的安易で、更に検証し易かったと思うんです。


 真実を求めるという事では一致していたと思うんです。
宗教や哲学では、真・善・美の「真」が特に強調されますが、善を求める分野もあるし、美を求める関わり方もあると思います。

>こうした方々は、向こうの側から理解を望む姿勢が無いのであれば、
>統合から漏れこぼれてゆくのも仕方ないと、捉えておけば宜しいと、
>お考えになりますでしょうか(若しくは、現実的にそうならざるを得ないと)。

この視点は「統合」というより、「統一」しなくてはならないという価値観の押し付けに陥りませんか? 全てをキリストの愛の元に統一し、それを拒む者は異端であり、社会の破滅者としてこれを裁き、踏み絵を踏むか、拒絶して死ぬか・・・
 キリスト教やイスラム教が世界宗教になった背景でもありますが、数少い、非暴力の仏教では強制はしないのにashさんのいわれるようにセクトの違いによる、宗教の違いは多く実際にあります。 チベットにはリメー(超宗派)運動というのが、流行し、大きな山は、麓の裾野は広く、様々な入り口はあるけど、同じ頂上を目指しているという観点があります。

違いをいったら切が無いけど、共有出来る部分を見つけるようにしていけば、共通の認識を見出せるし、もっと広い視野が持てるので、自身の意識も広がっていきます。

中有にしても同じです。
バルドゥを知識として知っていても、実感としての認識、つまり経験を得れるとは限りません。 身体に執着する「有身見」の感覚が強ければ、肉の身体に固着して、心が魂(スピッリト)に展開するのが難しくなります。
 ですから中有を認める認めないと言う前に、物質としての身体にしかリアリティを感じられないならば、問題がありますよね。  ただ、問題があるとかないの問題ではなく、身体に対する固着があれば、スピリットということも理解出来ません。


>根本的思想立場を異にする方々をも統合してゆく事が、難しいとすれば、
>実際に、戦争や侵略、経済摩擦等々の問題に向き合うにおいても、
>ウイルバー・システムを根本においての解決は極めて困難とも思えます。


この問いに関しては、別に答えたいと思います。

>・中有思想に代表される、根本教義レベルで噛み合ない方々は、
> 切り捨てられるも良しとして構わないのか、
>・梵我一如の非二元を「無所有処/非想非非想処」で留まったものと捉え、
> 慧の観に釈尊固有の教義価値を見る方々、をも含めた統合へのアプローチに関>して、
> どの様に理解すれば良いのか、
>
>・カギュ派の実際の修行に入って行ってこそ、
>真のウィルバー理解が得られるという事であるのか、

これら最期の問いは全て象限・レベル・ライン・ステート・タイプの5つのAQAL(アークル)という地図で解明できます。 長くなるので、後ほどお答えします。


ash様




すいません、気分転換してました。

先ほどの続きです。


>根本的思想立場を異にする方々をも統合してゆく事が、難しいとすれば、
>実際に、戦争や侵略、経済摩擦等々の問題に向き合うにおいても、
>ウイルバー・システムを根本においての解決は極めて困難とも思えます。


同じ人間が感じることであれば、思想や信念の違いは、見る角度の違いや、意識レベルの違いから生じる視点の違いが中心でしょうから、統合は可能なはずです。

 但し、意識のレベルは、そう簡単には変化しないので、修行を深めるとか、心理療法とかで同じ視点が持てる状態にならないと、真の共感は難かしいですよね。

 そしてレベルの差は、スペクトルの違いですから、異差のことは、忍耐強い接点を探し出す作業によって見出されるかも知れません。

戦争や侵略、経済摩擦等々の問題のことも根底には、相互理解の原則を働かせないと、力で対処するという構図が支配的になってしまうと思います。

愛を語るダライラマの祖国も中国に侵略され、世界の眼がダライを支援しても実際には中国の支配下にあるという現象も誤魔化せない真実です。



>・中有思想に代表される、根本教義レベルで噛み合ない方々は、
> 切り捨てられるも良しとして構わないのか、

 前のコメントにも書きましたが、中有の思想を理解できるか出来ないかの相違は、物質から心〜スピリットという進化の構造を理解出来るかどうかが重要な部分です。 
左手象限の上下に関する具体的な発達ライン―拡大して包んで超えるというホロン構造は意識の状態とそれに基ずく身体のモード(様態)の変化を作り出しますが、ウイルバーは中有の事には触れませんが、チベット仏教の身体論はきっと視野に入っていて、カギュ派の幻身の理論と実践から、ウイルバー自身が、中有に対する実感までは至っていないのかも知れません。 しかし、対話の相手がそれを理解出来ないとしても、基本的な意識のレベル、意識のステート、四象限だけでも、理解が及ばないからといって切り捨てなくても十分、理解し合えると思います。



>・梵我一如の非二元を「無所有処/非想非非想処」で留まったものと捉え、
> 慧の観に釈尊固有の教義価値を見る方々、をも含めた統合へのアプローチに関>して、どの様に理解す>れば良いのか、


ウイルバーは、そこまで至った意識を留まったものと捉えることはしないと思います。 普通はそこまで至ることが出来ませんから。
ある意味、釈尊の無上正等覚に至った存在は他にはいません。
 現実の話としては、仏教の伝承の中では、過去仏として存在していますが、ある意味伝説の話です。 それが観察対象になるとも思っていないでしょう。
 梵我一如の非二元の状態は可能性として、視点に入っているものの、理想的到達点として考えているだけじゃないでしょうか?



>・カギュ派の実際の修行に入って行ってこそ、
>真のウィルバー理解が得られるという事であるのか、

 これは、そんなことは無いと思います。
 特定の宗派に属することは、方便としては有用だけれど、実際には様々な固着を生み出します。 ウイルバーは最近はグルに対して職人的な専門家として位置付けをしていて、自らをパンディタ(賢者)としています。 周りがいったのか、自らそう宣言したのか判りませんが、自分はグルじゃないと宣言しています。



ash様

そうですか、ある教団の支部長だったのですか(笑) あえてどこのとは聞きませんが、大乗・小乗の両側面を確りと学んでいらっしゃるようですね。



サンフランシスコ禅センターの創立者の鈴木俊隆老師の後継者のリチャード・ベーカーですね、禅宗は、インド仏教にしたら異端です。
曹洞禅自体が仏教に非ずという認識を持つ人もいる位です。

頓悟と漸悟の違い、南宗禅と北宗禅の違いで、アプローチの違いが明白になりつつある中で、似たような取り組みの「禅」と「唯識瑜伽行派」は全く違います

中観や唯識を、仏教の伝統的アプローチとして認めるならば、禅は邪道ということにもなります。 しかしウイルバーはサンフランシスコ禅の影響もかなり入っています。


仏教的系列を並べて仕分けすれば、「仏教」とは何ぞやということが浮かび上がっては来ますが、仏教とはこういうものだと確定するのが非常に困難です。

そんな中で、「ウイルバーの思想は仏教に非ず」と宣言されても、仏教側に立つ僕自身も、仏教という枠組みに収まり切る思想ではないと思ってしまいます。



多様性のある人間の意識、文化・文明の発達、神経細胞の発達、集合的な意識の発達や物質から有機体への展開‥‥つまり人の存在する背景も含めた視点での考察は、インド最高、最後の顕学であったシャーンタラクシタの『タットヴァ・サングラハ』に匹敵する考察を示したウイルバーの仕事に敬意を払います。



禅の視点(頓悟の哲学)の人が、仏教では無いと主張されても、そもそも、インテグラル理論は、仏教の枠組みには収まり着れないと思っています。

仏教には様々まセラピー論もゲシュタルト療法的な方法論もあるし、ありとあらゆる理論を大乗仏教は包含していますが、残念ながら「仏教」というセクト的グループに収まらなくてはならないという宿命が、スタート時点から付いて回るのが、意識レベルが上がり切れないという問題が付いてまわります。

ナーガールジュナが主張を立てれば、必ず矛盾という誤謬を生み出すので、帰謬論証派は如何なる事も主張しないとう徹底ぶりでしたが、認識が苦しみを生む因になると喝破した見解ではしかるべくとも思います。





>当時の私では、解決出来なかった問題点の1つとして、
>存在論と認識論に関わる、洋の東・西の根本的捉え方の違い、に起因する、
>「相互理解の停止」という問題がありました。


これは、洋の東・西の根本的捉え方の違いと見る事が、最初の間違いだと思います。
東・西の両方とも欠落があっては歩み寄る為のナビゲートが出来ないという問題が出てきます。


>ウィルバーを理解し、実際に実践してゆく上で、この点をどの様に捉えるべきと
>お考えになりますか、ご教授頂きたく、お願い致します。



それに続いて、洋の東・西の基本的まなざしについての要点列挙して頂きました。

インド思想史において概念の実在性、と非実在性については、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派は、実在物と思われる物事には、「普遍性」を認め、普遍は恒常であるとする仏教を批判する概念論を形成しました。

これが西欧的なまなざしに通じる視点だと思われます。 史実ではヴァイシェーシカ学派らの説に対しディクナーガが、正しい認識手段を定義して、現量(直接知覚)と比量(推理認識)の二つしかないものとしました。


 これは一般的な東洋思想とは言えないのかも知れません。 何故なら、直接知覚というのは、表象されたものの把握を直接するという意味ではなく、表象されるものは、イメージ作用が働いて作り上げられるので、イメージの介入前の知覚のあり方に注目した 論理学派のスタイルは、瑜伽行派の有形象真実派や無形象形象真実派などの、知覚の真実を追究した学派の分裂を作りましたが、ディクナーガからダルマキールティ へと受けつがれ、シャーンンタラクシタへつがれましたが、インド仏教はそこで衰滅、以降は、チベットのサキャ・パンディタへと受けつがれました。

 日本でもディクナーガとダルマキールティは関心を集めましたが、空性理解が不十分なのと、止観の修習が十分ではなかったことも手伝い、仏教認識論と論理学は、実際には余り浸透しませんでした。



それらは、仏教のオタッキーなな話で、ウイルバーは注意深く、実体を欠いているという存在に対する「空」なる観点で、実在の否定を為しながら、一般の四象限に対する実体視する傾向を認め、それはそれで、レベルの問題とステートの状態で、見方は変わっていくという前提で、AQALやIOSという地図の位置付けを明確にしようとしているんじゃないですかね?


ash様

このような対論の目的として、ash様が認識の統合の為に統合する為には、煩瑣にせず、接点を見つけましょうという意図があるものとお見受けしました。


そのことは今朝の書き込みにも表現されていました。

> と書かせて頂きましたが、今カルマ・ランジュンさまと私との間では、
>仏教的な見地からウィルバーを見てゆくというテーマでお話をさせて頂いており
>ましたので、
>あまり煩瑣にせず、他学派に関しては、なるべくシンプルに扱おうとしまして、
>上記の書き方になっておりますが、




僕は六師哲学についても余り立ち入らずに、学者先生が統一された概略で、それで良しとしてしまいます。その辺はashさんには十分に語り合うことに対して不満足を感じさせてしまうかも知れません。


 ashさんが挙げてくれたダルマとダルミンも仏教内部でも「基体」は存在しないと見るとは限らないのですが、「基体」は存在しないと見るのが仏教と括られているのが一般的なので、それを承認します。

 その辺の異差は、統合の意図からすれば、問題になることはありません。

それと同時にインドの六師哲学と仏教を多少の異差があっても東洋的視座として纏めても、レベルやステートの違いはあっても問題無いことにしてしまいます。
それらを西欧哲学と統合させるには、分化と統合のプロセスは必要になります。

 日本でも常識的な認知を受けているデカルトは、中世のシャンカラの自我の考察は一致する部分が多のですが、ミーマンサー学派やヴェーダーンタ学派やヴァイシェーシカ学派との統合した認識を思うと、歴史的経緯や民衆の要望を加味すると、東洋的視座に収まる気がします。


例えばナーガールジュナとニヤーヤ学派も最初違いはあっても、ニヤーヤ学派はナーガールジュナを論破する為に発達してきて、最終的には違いが解らなくなるくらいに似た認識になりました。 『廻諍論』と『ニヤーヤ・ビンドゥ』の成立の経緯を見るのはオモシロイですが、そんなことをしていたら、それだけで長い時間を費やしてしまうので、他にやることあるでしょうと考えてしまうのです。


統合的で包括的な五つの地図は、ウイルバーが他の研究者達とISO(インテグラル オペレーション システム―統合動作システム)やAQAL(アークル)をつくってくれました。
検証に最も時間をさいたと思われます。

今後も追加されていく可能性は否定できませんが、それらを骨子に、検証していかないと、人生はあっという間に終わりが来てしまいます。

 どう感じますか?

ash様

最初にお断りしなくてはならないポイントに、ash様からお問い合わせを頂いておりますが、僕はそれほどインテグラル理論に精通しているとは言いがたく、解った様なことを言える立場ではないということを、深くご了承ください。

更に何冊かウイルバーの著作がありますが、読んでいるのは、その邦訳だけで、且つ全てを読んだ訳ではありません。


>システム自体の理解だけではなく、実践方法をも見出したい、と述べました>が・・・・


この問いに対する返答は、ウイルバーの共作でもある『実践インテグラル・ライフ』の中に具体的な実践的アプローチの幾つかが紹介されているようです。

 この表記でお分かりと思いますが、そうです。僕も読んだことがないのです。
この『実践インテグラル・ライフ』は、ウイルバーが提唱するILP(統合的生活実践<インテグラル・ライフ・プラクティス>)というAQAL(アークル)の総合的実践のアプローチとして載っているそうです。  知人にそれに載っている影(シャドウ)、状態(ステート)、段階(ステージ)について聞かれるものの、読んだ事が無い為に正確なコメントが出来ずにいました。

それが何度か続くと。もどかしさから東京の大きな書店に置いてあると情報をもとに買いに行ったものの、他の持っていないウイルバーの著作を何点か見つけ、最初の目的とは違う本を手にして帰る有様です(笑)



>戦争、侵略、経済摩擦、一部金融資本家による詐欺的暴虐等々に対して、
>自分がどう生きるのか、という観点から対話を始めさせて頂いております。
>システムを用い、実際に何が出来るか、という事です。

一日に約100種類の生物を絶滅させていることや、毎秒フットボールのフィールド程の熱帯雨林を破壊している。こういったことの原因は分裂した世界観の持ちかたがばらばらであることに起因していると考察しています。『進化の構造1』で生態的な危機として語られています。

エコに関する関連記述は至る所に散りばめられていて、比較的纏まった記述が環境倫理というトピックで考察されているのが、『進化の構造2』311pにあります。

ash様の問いに対するストレートな回答的な内容は無いものの、現代の社会的な病理は、個人における病理と無関係である訳がなく、調和や治癒も個人か社会的なものかの違いであって、単純な原因があって結果がもたらされる・・・と言うことも単純ではありません。


個人のカルマで考えても、縁や増長縁があって、因果だけではなく言葉通り、簡単な事ではありません。


しかし、ash様はさすがグルジェフ系団体にて支部代表を務めた事があるだけあって、思慮深いですね。



 共通の足場の確認に必要と思われる瑣末な言及に至る事もあるということで、了解させて頂きました。


>1つの望みは「宗教に何が出来るか」で、
>もう1つの望みは「ウィルバーに何が出来るか」と、私は捉えており、
>
>出来れば、2つが、1つに出来る事を望んでいます。


ウイルバーのインテグラル理論は現在進行形なので、日々ホロンは拡大と精密化が進んでいるようです。 インテグラルライフのコミュニティからは2 3日に一通の割合で、メールが来ます。
 今はスピリチュアル·プラクティスの一環として子育てという実践モジュールの内容ですが、日々、広がっていく内容です。
 このような意識の展開の視点はグルジェフの思想からワークが考案されていった事にも通じているんじゃないかと、想像されます。 ぜんぜん違いましたら謝ります。  
 そのウイルバーの位置付けられる場所や地点によって、宗教に何が出来るのかが明白になるのではないかと期待しています。


ash様 こちらこそ辛抱強くお付き合いいただいたことを感謝いたします。


自分自身の無理な認知バイアスや、見ないで通り過ぎて行く部分も多いので本当にいい刺激になりました。

実際問題として、インテグラル理論には未だ大きな欠落している部分や、定義の分化を、必要とするトピックが沢山あるのではないかと予感する部分は多いと感じております。

ウイルバー理解には文脈の拘束が多く、誰でもすんなり理解しやすいものではないという難点があります。  この度の対話の様に仏教的認識を背景にすると話は早いけど、傍観している多くの人達には専門的認識の影に係り、言葉だけを追っても訳が解らない・・・と感じ人が多と思います


その辺は僕の拘りだけれど、ずっと注目していきたい事でもあります。


本当にいい刺激になりました。 ありがとうございました。

 機会がありましたら、また絡みたいですね。
拝



最近はウイルバーの視点の話しを良くするんですが、時として変な勘違い発言を目にする事があります。

「私は体験を重視しているので、理論や理屈を軽視してしまう傾向があり、心の問題は置き去りにしてきました。 ウイルバーの言うことは、難しくて、判り辛い。」



この言葉を読んでどう感じますか?



「体験」というのは、基本的に「自覚」を言い換えた言葉です。
もし私が身体を体験するならば、それは身体に気付いている事を意味します。

心(マインド)に気付いていることも出来ます。

心に自覚を持ち込む事によってのみ、あなたは心を超越し始めることができるのです。 心の限界から自由になれるのは、自覚を持つ事によって可能になるのです。


一般的には、瞑想や神秘的な体験をすることで、「悟り」、「見性」、「すべての存在の調和」などは、非二元的把握によって、直感されます。
 そうやって「霊(スピリット)」を体験するのです。

 これらの体験を身体だけに還元すると、重大なカテゴリーエラーが起きます。
身体感覚、感情、情動、衝動などを身体感覚にだけ還元することは、心や霊(スピリット)の高次のリアリティを否定することになるので、高次の無形の自覚と深い黙想的状態の意識を否定するので、それらの高次の体験を否定する前合理的状態へと還元されるしかなくなるのです。

 真の霊性(スピリチュアリティ)は、「心身脱落」です。

体験は、一時的なものであり、身体的な体験に還元するのは最も低次の領域に閉じ込めることになるので、本人には混乱と落胆しか残らなくなります。


実存のレベル=ケンタウロス

今日はケンタウロスと呼ばれ、ヴィジョン・ロジックと位置付けられる意識の状態の話をします。


ケンタウルスとは
 ギリシア神話に登場する半人半獣の種族。馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしているものです。

私が肉体としての有機的構造の「全包括的自覚(ホリスティック・アウエアネス)」という言葉は「心的」と「身体的」という分裂があって起こることではありますが、心的な分類にも様々なスペクトルもレベルもあって、更には身体にも知覚に沿って意識が存在しています。 教育で「心」を鍛錬し、体育では「身体」を鍛錬します。心理学では「心」を癒し、医学は「身体」を癒す。


 クンダリーニの覚醒で、それぞれが、感情の抑圧で分離していた心身の分裂をケンタウロスの視点で別物では無いという事に気付き始めるのです。 それをウイルバーはケンタウロスの一瞥と言っていますが、「身体」は苦痛や屈辱の源になる時、自分自身のアイデンティティがら切り離され、捨てられるのです。

 身体は快楽を齎してくれますが、自分を惨めにし、コントロール不能な「身体」は、自分から阻害して様々な投影を起こすようになります。

 そうすると自分と自分の身体が別々のものの様な気がしてきます。 自分の所有物ではあるが、思い通りにならないお荷物のような気がしてきます。

 そこから心と身体を統合する目論みが、ハタ・ヨーガやロルフィングやヴィッパッサナーの手法です。


 有機体である身体と心が別物であるという認識に至っている人は、身体はいつもコントロールしなくてはならないという強迫観念があり、慢性的な緊張があって、常に肩こりや罪悪感、憎しみや否定的な感情や無感動で憎しみに支配され、安心感の無さに居て、生命のエネルギーもブロックされ憂鬱な身体になってしまうのです。

 ヴィッパッサナーやロルフィングやハタ・ヨーガや感覚自覚は、呼吸や身体の感覚に意識を集中させ、身体を再所有させ、実存のレベルに一旦、下降してバラバラになってしまった心と身体を再統合するのです。

 するとブロックされた身体のエネルギーの流動が起こる様になって、快楽を取り戻し、笑う様になるのです。

 これが実存のレベルとして、自分が身体の中に存在しているという感覚から、自分の身体として存在しているという感覚に変わるのです。
喜びは身体的?

私たちは日常の中で、心と身体は別々のものであり、心は頭の中にあり、身体は唯のオマケ様に感じている人もいるかと思います。 これはアイデンティティを何処に置くかに関わっています。

 二元論的思考では、自らのアイデンティティを身体の中に見出すことは良くあります。 そうすると身体を鍛え、良く調御することで、身体を思い通りにすることが出来ます。
 スポーツ選手やバレーやダンスをしている人も思い通りに動くことは、自らのアイデンティティを「身体の中」ではなく、「身体」として感じることが出来るのです。

ちょっとニュアンスが伝え辛いのですが、解りますかね?
 一体感を達成し統合された有機体として自分を感じます。


これはロルフィングやハタ・ヨーガ、マッサージ療法でも自分のアイデンティティは、身体の中にあるものとしてではなく、身体と共にあるとして感じるのです。

 これは第三の二元論の消滅とケン・ウイルバーは重視しています。 つまり心と身体を分離させてしまったケンタウルスの様な人と馬の合いの子の様な心と身体の分離を再統合することに重きを置くのです。

 その為に、呼吸に特別な注意を払う、ハタ・ヨーガや止の瞑想、身体の感覚に重きを置く、マッサージ療法や、筋膜に重きを置くロルフィング等々は、自己に対して二元論的に分離してしまった自我に対する有効なアプローチだと言えると思います。
統合と言うことは、包含し超越していることを指します。

宗派や学派の主義や主張に囚われていたら自己の正統性を主張をすることに終始してしまい、包含してそれを超越する「ホロン」の自然な構造とは言えません。

全ての宗教、哲学、科学、心理学、経済、教育、など壮大なこの視点に立つ「統合」という視点は「インテグラル」という言葉でケン・ウィルバーが大学を卒業して、アルバイトをしながら書き上げた「意識のスペクトル(上・下)」から一貫して貫かれているスタンスです。

宗教でしめされた聖者の高度な境地で示される、一般人には理解出来ない知覚の深さや繊細さ等の知覚の完成はどこまで発達するのか? という疑問と、一般的な社会通念上の自己実現から個性の発展を通して、自分の可能性をどこまで展開させられるのかという視点は、人格や性格、家族構成や小規模な意味でのコミューン、例えば家族や会社という単位であったり、土地のもつ分化や歴史の影響もあるでしょう。 

ですので個人を考える場合、実に様々な構成要素が絡み合い、一律に条件付けすることは難しいと言えます。

 人間が何かを感じたり、意欲したり望むものは全然違うし、同じものを見たり聴いたりしても、感じるものは百人十色です。


この全く違う個人をどの様に俯瞰するのかが、以前から時々書いている四象限(クオグランド)の見方、意識のレベル(段階)、意識の状態(ステート)、発達ライン、多様なタイプを知ることで、自分がどういう傾向があって、どんな特性が有るのかが明確になってきます。

こういった見方やアプローチを「インテグラル(統合)」と言うのです。

クオグランドの「左上象限」と言えば、主観の領域ですが、どんどん繊細に緻密になって行くものですが、例えば止観の状態が深まっておくと観の領域が広がり、観るものと見られるものも、広がり変わって行きます。 左上の象限だったのに、右上の個人の行動の領域(脳内の生理的現象)も発達し包含するようになっていきます。 さらには右下(集団のシステム)、左下(間主観=文化や経験)も統合化が進み、意識レベルも意識状態も変わって行くのです。

ちょっと複雑になってきました?


ウィルバーは最初っから全体の見方に注目していましたが、僕は師匠達が皆、リメーパ(超宗派)の人達だったので、宗派の壁は越えようとしていたので、ある意味自然な流でインテグラルな視点を求めていたんですね。
左右の象限


久し振りにケン・ウイルバーの統合的アプローチが現実の問題として分化されておらずに、さ迷う人がいますので、ちょこっと一緒に考えましょう。

四象限って覚えていますか?
四つの象限に別れていますが、大きく別けると二つに大別することが出来ます。

左右の二つに分けた方が慣れない人には良いと思います。

「左側の内面世界の個と集団」
「右側の客観世界の個と集合」のことです。




これを解りやすく例えると、左側の上が知覚と心のことです。
右側の上が脳の状態や生理的な問題のことです。

ですから意識の状態と脳の生理的な脳波の状態において密接な関係があります。
 解りやすく極端に言うと「脳の状態(右上象限)と心の状態(左上象限)」
の二つと考えた方が理解しやすいですね。

 基本的に四つ象限は関係しあっていて相関状態にあると云われています。

 ただ象限というのは互いに還元出来ないという問題があります(思
考は脳によって説明出来ず、脳は思考に還元できない。) つまりは唯物論と観念論の違いの様に大きな違いが出てきます。

 右上象限だけが発達すると、霊(スピリット)は脳に過ぎない。神は脳の状態によって作り出されるだけであると言ったように、脳生理学に全てを還元する科学的物資主義の台頭がスピリチュアリティの研究を殺したという歴史があります。

こういった思想傾向が仏教の現象学のような深遠なものがインテリに拒絶されているのは、「主観性のタブー」が根本的にあるんです。

主観的な内面世界は測量できないので不確かだから、曖昧であるので嫌なんですね。 そういった曖昧なものを拒絶するによって物資主義が台頭してきました。
 科学主義は内省や意識や内面性を拒絶することで、科学主義の支配力を強めたのです。

話は横道に逸れましたが、左右の象限は互いが還元出来ない関係にあるものの相関関係にあるので、自分が得意な部分を強化していてば、他の象限も増えていくという関係があります。

AQAL(アークル)は実在に対する論理的なアプローチです。 自分がどういう傾向があってどういう意識状態でどういう段階にあってこれからどうすれば良いのかというのを知る手立てになります。 なので生きてるってことが修行なのです。


迷信について考えてみました。


迷信というのは、何かを「信じる」という信念に基づいた見解だと思うのですが、その信念が迷っている状態を迷信と呼ぶのではないでしょうか?


 「迷信」 この言葉の意味は、何が「迷い」で何が 「確信」かのかという人間の知覚や推理認識の妥当性に基づいて「迷信」なのか「微細な認識」なのかを別けられると思っています。

 地域によって違いが有りますが、僕の住んでいた横浜では霊柩車が通る時に、親指を隠さないと、親が死ぬっていう、思い込みと言うか、呪術的な思い、呪われると言った都市伝説的な思いが幼少期には横行していました。

そういった呪術的な迷信は、かなりの数広まっています。

貴方の地域にはどんな迷信が有りましたか?

 この様なことを信じ、受けいれるのは意識のレベルに関係があるのです。 人間は誕生時には殆どのことを自分自身では出来ません。 空腹や暑さ寒さ等の生理的な不快なことも、自分では何もすることは出来ず、ただ泣くだけです。

 しかし人間の意識は発達するのです。

 心や身体を叙々にコントロール出来るようになって合理的な事を理解していきます。


 幼い時は世の中全てのことが不思議なことに満ちていて、空腹感や排泄欲求や苛立ちや孤独感も摩訶不思議な事として認識されます。


 この時に経験することは法則性は理解されず、摩訶不思議な思いが信念として形成されていきます。「夜に爪を切ると知人が病気になる。」「月光が美しい時は、幸運に恵まれる」といったように、法則性よりも感覚に対する判断と摩訶不思議な世界がどの様な関係があるのかは、理解することは出来ません。


このような意識段階(レベル)をインテグラル理論では「呪術的段階(マジックステージ)」というのです。



この段階は、意識が発達する中で「信念」は信頼性のない思い込みとして認識されて忘れられていきます。

この「呪術的段階」は精神・肉体が発達していく中で「利己的段階」へと進化していき、やがて「合理性段階」へと進み、仏教等でいう「縁起」という見方を理解するようになっていきます。 

 更に進化が進むと「統合的段階」へと意識は進化しますが、「呪術的段階」が悪い訳ではないのです。

 逆に呪術段階を経なければ合理性段階に至れないのです。

フロイトがいつも、一時過程の領域ともろもろの本能的衝動とを結び付け、通常それらを同一視してたのは、「前言語的」な空想と本能的衝動に支配されている身体的自我(下位チャクラにまつわる関心)が「迷信」を信じる意識状態と関係があるのです。

何言っているのか解らないですよね。

幼児期に誰でもある肛門愛的、男根的、乳房的、去勢モチーフや母系的な近親相姦・・・これらは性的趣向の話ではなく幼少期から自我が芽生え、意識が成長する段階を抽象的に表した心理学の表現なのです。

 簡単に言うと、生気的―プラーナ的な欲求や願望、衝動に支配されている段階は下位チャクラの持つ欲求・・・力(猿山のボス)の支配、嫌悪や怒り、要領の良さによる欺瞞、知識の収集、これらは段階的に欲求の変化を見せますが、「前言語的」であり感覚的把握、快―不快原則に支配された身体的快楽と満足の追及(緊張、不快感、不安感の回避)という欲求に支配されている意識は、どうしても呪術意識段階を脱することが出来ず、迷信的思考になり易いのです。


人間の全包括的進化は、アメーバから人間を生み出した進化の力ですが、幼少期から成年期に至る一個人の成長は、宇宙的進化のミニチュア版に他なりません。


 ですから何となく全体を包括して曖昧な意識が広がって行くのではなくて、「明晰性」「差異性」「段階的統合性」は増大した状態へと進むのです。


 なので、分化(識別)は自我に基づいた分別ではなく、より緻密になって行くプロセスなのです。
 曖昧さを抱え込んでも明晰にはなれず、混乱と矛盾が増大するのです。

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