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たましいの寺小屋コミュの心理療法と統合心理学

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今回、このトッピクを立てたのは、意識と言うのは常に進化しようとする働きがあって、様々な家庭環境や、それぞれの宗教、土地に纏わる文化や時代の風潮によって、霊的な変化や意識の変容をもたらします。


ここ数十年は、心理学の発展によって、こころを扱う基準も社会に浸透してもいます。
スクールカウンセラーの普及や、会社の成長の理論も、心理学に根ざしています。

会社も人間によって成り立っていますので、当然といえば、当然ですが、フロイトが創始した精神分析学は、無意識と欲求や理性のバランスに注目し、社会全体で、必要不可欠な概念になりました。

心理学もユングやアドラーによって多方向に展開した心理学も、人間の存在は、生の哲学とは切り離せない事が明らかになってきました。 

 そうすると、人が生きるということは宗教とも密接な関係を形成します。 しかし宗教と言うのは互いにこちらが正しいという主張がぶつかり合い、相容れないと思っていたのに、一人の天才が大学生の時に書いた論文が、意識をスペクトルに例え、色んな階層や視点の角度によって見かたが変わると言う事を指摘したのです。  その天才こそケン・ウイルバーで、今では、インテグラル理論という考え方を啓蒙しています。

ケンは、マズローの欲求の階層理論をベースに、全ての宗教や伝統に地図を与えることに成功しました。
それは、様々な宗教家から、彼の理論の批判が出なかったのです。

世界には様々な宗教や修道論がありますが、それらがどういうことなのかと、地図を示したのです。

コメント(86)

めまいと共に平衡感覚を失い、呆然としている内に、至福の感覚に包まれる。
あの全てが調和し、総てが綿密に織り込まれた完全に統合された世界を、時折垣間見る人がいます。


この感覚は、私というアイデンティティが自分の枠を超え、至高のアイデンティティを体験する時の体験です。 これを俗っぽい言い方をすれば「宇宙意識」とか、「統一意識」とよんでいます。

これは、人類の進化の過程の中で、「わたし」と感じている枠組みを超越しようとする欲求に促され、自覚無しに何らかの要因を切欠に突如生じる体験なのです。

 この時に身体感覚に限定していえば、クンダリニーの体験をします。

光明や背筋の痺れや部分的な拡大感覚等、人によっての違いはありますが、様々なクンダリニーの体験が起こるのですが、重要なのは、その後の認識の処理の仕方です。

この至高体験の後、身体や認知の在り方が、変化していきます。
この時に、合理主義的傾向や、倫理感が優位に立つと、自分の認知の仕方が普通の人より劣っている様に感じ、昔の状態(進化前の状態)に戻ろうとして、自分の感覚や認識に劣等感を感じるようになっていき、コンプレックスを形成します。

これが第一の誤りなのですが、知性が高い人ほど、他人との調和や世間体が気になるので、コンプレクスはドンドン強くなっていきます。

しかし、基本的には本人は自己超越の勢いが残っているので、感覚は人間的ではなくなっていきます。
それを人間的な視点で判断するものだから、本人は落ち込むばかりです。


これらの体験や認識を世間的な常識を基に判断しようとすると、重大な過失をしてしいまいます。
世間の枠を超えようと、生命力が進化のベクトルを持ち始めた人には、普通の常識が通用しなくなっているのです。
発達心理学

「プレ(前個)からトランス(超個)へ向かうドライブ(要因)」

この括弧に包まれた文節は、発達心理学ートランスパーソナルー統合心理学に一貫した理論で、原始仏教から大乗仏教を通じて密教に到る流れを包括する理論の背景にあることなんです。

カウンセリングにおいても、前/超の現象は非常に似通っていて、この虚偽の二つを見分けるのはむずかしいのです。

そのことはカテゴリー・エラーと呼び、仕分けの過ちを指摘し、<前>と<超>の二つはいずれも合理的ではないために大いなる誤解を受ける。 認識の仕方である<分化>と<未分化>に似ているこの概念は非常に重要なことです。

  何となく分かっているけど、言葉に出来ない。  このモヤモヤした心境は、身分化の状態です。
つまり、物事をちゃんと一つ一つを別けて捉えることができずに正確な分析ができないことを、未分化というのです。
 分化というのは、一つ一つを細かく捉えて明瞭で、正確な判断が下せる状態にしてあるのが「分化」と言われる状態です。 
 前/超は、一般的な認識は通用しないということは、同じです。
不合理な超個の状態は、理解しづらいけど、裏打ちされた経験と認識があるのですが、それも一般常識や道徳に照らし合わせると、同じように前も超も不合理なのです。


私たちは現象というのは、発達の流れにあることを発見する。

 発達はその内容を時間や空間の中に発見することができる。

 それは幾度となく姿を現し、それを否定する思考によって打ち消されてしまう。

 世界自体は、より上位の構造的組織化のレベルの方向性に向かう。

 より偉大な全体性(ホーリズム)、統合性、自覚や意識と言ったものに向かっている。



  物質から植物、下等動物、哺乳類をへて人間に至る進化に至る、進化の足跡を見てより意識は自覚に向かうことは明らかです。 よりスピリット(精神)へ向かおうとする本能の傾向は愚かな知性―比較や合理主義―にありながら、肥大した自我を中心に構成された意識は、常に言い訳を繰り返しながら自分の正当性を見つけようとする。
 こういった意識が中心になると、退行していきます。
進化のドライブに対抗するから、苦しくなるんですが、その苦しみも思考の混乱で判らなくなるんです。

 だから、ラマや精神の友を粗末に扱うと、本人は退行し苦るしい状態に陥るのです。
進化のプロセスに無理して逆らってはいけないのです。



めまいと共に平衡感覚を失い、呆然としている内に、至福の感覚に包まれる。
あの全てが調和し、総てが綿密に織り込まれた完全に統合された世界を、時折垣間見る人がいます。


この感覚は、私というアイデンティティが自分の枠を超え、至高のアイデンティティを体験する時の体験です。 これを俗っぽい言い方をすれば「宇宙意識」とか、「統一意識」とよんでいます。

これは、人類の進化の過程の中で、「わたし」と感じている枠組みを超越しようとする欲求に促され、自覚無しに何らかの要因を切欠に突如生じる体験なのです。



 この時に身体感覚に限定していえば、クンダリニーの体験をします。

光明や背筋の痺れや部分的な拡大感覚等、人によっての違いはありますが、様々なクンダリニーの体験が起こるのですが、重要なのは、その後の認識の処理の仕方です。


この至高体験の後、身体や認知の在り方が、変化していきます。

この時に、合理主義的傾向や、倫理感が優位に立つと、自分の認知の仕方が普通の人より劣っている様に感じ、昔の状態(進化前の状態)に戻ろうとして、自分の感覚や認識に劣等感を感じるようになっていき、コンプレックスを形成します。

これが第一の誤りなのですが、知性が高い人ほど、他人との調和や世間体が気になるので、コンプレクスはドンドン強くなっていきます。

しかし、基本的には本人は自己超越の勢いが残っているので、感覚は人間的ではなくなっていきます。
それを人間的な視点で判断するものだから、本人は落ち込むばかりです。


身・口・意の3つは、関連し合っていることは、仏教とくに密教の中では、強調されています。

自分の発言が、身体や意識にまで影響を与えることは直ぐに忘れられてしまいます。

それは小声であろうが大声であろうともです。

否定的な言葉と、肯定的言葉は出した言葉の影響は、潜在意識に達し深いレベルで心身に影響を与えます。
例えば、「私は幸せだな・・・」と言葉を発すると、私たちの意識は、幸せを感じる記憶を探します。
それを意識とよばずに脳とよんでも良いのですが。  幸せの脳に詰まっている記憶を引っ張り出す。

色々と幸せの記憶を出していくと段々幸せの意識が溢れて来やすくなる、ところが「自分は不幸だ」と表現すると、不幸だと感じる関連付けられた記憶が出てきて不幸な気分になり、不幸を探し出す達人に早代わりします。

なので、否定的な言葉を発すると、自分の為にも、相手の為にもよくないんですよ。


集中力がないので集中力を付けたいんです、という質問が多いのはびっくりします。

やるべきことがあって、それに取り組んでいても飽きちゃうと いうんです。

やるべきことをイメージ化すると起こる現象です。
パターン処理するので、新鮮味もない、退屈な日々になってしまうんです。 これは瞑想なども同じで、観念的に捉える癖が付いている人の場合、知覚は退行し、あらゆることで喜びが見いだせなくなるのです。

脳も活性化を失い、意識も思考も退化して行きます。

六感の全てをフル動員させて、知覚を楽しむ事が必要になります。


「魂」という概念は、実際には存在しない。


このことは、仏教中心に論じていく中で、「断滅論」と「恒常論」の否定で、「永遠不滅のたましいはないけれど、死んだら全て無に帰することもありえない」と半ば常識的な捉え方で、論じて来たけれども、皆さんはどの様に感じているのでしょうか?  



 心理学の正統派とよばれるフロイト主義が台頭した後、客観的視点を尊ぶ行動主義心理学が一世を風靡してから、人間存在の認識も変わりました。 そして第三の心理学の登場によって、人間に対する概念も変わり、自己実現することが、自己開発や心理療法、教育、産業、宗教、企業、経営などで応用され始めて久しい。


しかし、第三の心理学は人間性心理学といわれ、これは過渡的なもので、その次に現れたのは、第四の心理学、すなわちそれは、トランスパーソナル心理学です。 これは人間を超えた心理学の準備段階で、人間存在よりもより高次の意識にベクトルを置いている。 人間の欲求や利害よりも宇宙やもっと大きなホロンに意識は向かっているのです。




 残念なのは、その研究者は研究の対象者であるクライアントの症例を見て分析するだけなので、自らが超越意識の体験や意識を味わう訳ではないということです。


 トランスパーソナル心理学がここで広まったのは、マズローの欠乏欲求の研究から自己実現の欲求のアウトラインを定着させて、その上でケン・ウィルバーが意識の地図を著したというのが土台だと思いますが。


 ウィルバーが超越欲求を具体的に人間意識の進化として捉える事が出来たのは、ハコミセラピーからサイコシンセンスという魂の進化のプロセスを宗教という既存のあり方の中に見出し、ホロトロピック・ブレスワークを創始したのは、スタニスラフ・グロフ博士夫妻が開発したものですが、ヨーガや音楽、ボディワークを用いて、心身の潜在意識にアプローチする技法なのです。


 色々メソッドはあるのですが、それらは瑜伽行派の仏教のあり方や中観派という伝統を治療理論に使った簡易的方法ですが、最終的にはウィルバーが示した理論に戻って来るというのが、原状です。




 かなしいかな、基本は変わらずそこにあって、集中とか継続とかの力を日々、付けていくしかないのです。




エーリッヒ・フロムは、快楽に高次のものと低次のものがあると、区別した。



欠如性の快楽と、豊かな快楽との別けたのです。


言い方を変えると少し分かりやすいかな、欠乏欲求が満たされた結果としての緊張喪失は、「気休め」ともよべるもので、低い快楽です。



 それに対し、自分の力を出し切った時に経験する機能的快楽、恍惚感、平静心は、成長動機があるので、目標を設定し、次第次第に願望や興奮を高め、いずれは成功と達成のの瞬間には、絶頂に達する。



 こういう成長を望む人もいるのも事実です。


しかし、欠乏欲求の充足ではなく、成長動機による自己実現の欲求の場合、目的、願望、興奮、快楽の頂点から速やかに静かな緊張解除という高原状態に移り、動機が消滅するのです。

 オーガズム的な瞬間もないので、目標もない・・・成長は連続的で、上方あるいは前方に発展し、幸せの感覚は際限なく広がり、完成もありえないといった菩薩の心境になっていきます。




 面白いですね、心理学の目指す、人間の完成図と、仏教の生き方が完全に一致するんです。





〜グラウンディングを試してみましょう〜

グラウンディングとは、イメージを使って大地とつながり、必要のない感情やエネルギーを手放し、浄化する方法です。道具は何も必要なく、数分でできます。是非、お試しください。



【1】 椅子に腰掛け背筋を伸ばします。

【2】 目をつぶり、ゆっくりと呼吸を深めます。
    吐く息と一緒に、緊張が緩んでいくイメージをします。

【3】 尾てい骨周辺に意識を向けます。そこから下に向かってコードが伸びていくイメージをします。そのコードは地球の中心に向かってどんどん進んでいきます。

【4】 コードが地球の中心に到達したら、そこにいかりをおろします。コードを通じて、ご自分が地球の中心としっかり繋がるイメージをします。

【5】 ご自身にとって必要のない感情やエネルギー(いらいらや怒り、不安、焦り、緊張など)を、コードを通じて吐く息と一緒に地球の中心に流すイメージをします。

【6】 それらの感情やエネルギーは、地球の中心でリサイクルされ、浄化されたエネルギーに変わります。そして、必要なものだけがコードを通じて吸う息と一緒に体に戻ってくるのをイメージをします。

【7】 【5】【6】を、気持ちがいいだけ繰り返します。


【執筆】
ピースマインド・イープ 若尾秀美

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こういったイメージを使った一種の瞑想もあります。
 これは、伝統的にはチベット仏教に限らず、いろんな宗教・宗派において使われている瞑想法と酷似しています。

具体的には、金剛薩捶(ヴァジラ・サットヴァの百字真言)の瞑想や、スリーライトメディテーション、マハーカーラの瞑想など、出せば切がない程、沢山あります。
 それぞれのイメージには深層心理的には意味があり、効果を狙ったものです。

人に拠っては効果絶大の時もあるし、効果を出せない人もいます。


 それらがタイミングや縁の問題もあるし、今は効果が出ないけど、半年前なら効果があっただろうとか、一年後なら効果的と思われる場合があります。




 それはその人の意識の発達段階によっても違うのです。

「悟り」ってなに?



この言葉は何を指してるの?
どんな意味?
この言葉の意味が不明確でありながら、私たちは何となく聞き、何となく納得しています。
「悟り」はお釈迦様が悟りを開く前からあった言葉なのですが、実際にはそれを目にする人がいなかったので、伝説的なのもで、抽象的概念だけがあったのです。


 要約して言えば、「悟り」とは滅多に到達する事が出来ない、生命の最高の状態である・・・としか言えないものでした。

 ところがゴータマ・シダールタが悟りを開いた事が広まり、バラモン教や他の宗教をやっている人達もブッダの教えを聞きたいと多くの人が弟子になりました。

多くの人が仏陀の教えを聞き、実践することで悟りを開く人が沢山でたのです。


手探りで悟りを開くいたブッタとは違い、教えを聞いて悟りを開いた人を「阿羅漢」と言います。

教えは型どおりのものはなく、人によりけりで千差万別、後には8万4千種の方法があると目され、マニュアルはなかったのです。 トランスパーソナル心理学では、それを共通の概念を使って、体験的・科学的・社会的・文化的の4つの側面で、迫ろうとしています。


日本にカギュ派のセンターを作りに来た、ラマ・イェシェ・ロサル師は、リトリートマスターとして有名です。
瞑想に関しては判らない事は何も無いというくらい瞑想に長けている人で、3年3ヶ月に渡る隠棲修行を3セットも4セットも行っています。

悟った者同士は、互いが悟っていることをよく解るそうです。

僕は悟っていませんが、ラマ・イェシェが日本にいらした時、公民館で結縁灌頂を行なったのですが、その前の法話の時、僕のことを一瞥しただけで、どういう修行をしてきたか瞬時に見抜き、声を掛けて頂きました。


一般的に仏教はヒンドゥー教の影響を受けている様な錯覚があるのですが、「悟り」も「輪廻転生」もブッダの体験から生まれ、その体験が民衆に広まり、バラモン教や、ヒンドゥー教が取り入れたのです。

「輪廻」の思想はヴェーダの中にもあるのですが、未整理で不明瞭な伝承しかないのです。

仏教の思想で、補強されたのです。


ブッダの体験はそれほどに強烈で、ブッダの一言一句を正確に残そうとしたのが、今のテーラワーダなのです。

近年では、文献学の一面だけを見て、ブッダは「輪廻」も「悟り」も否定していたなんていう困ったちゃんもいらっしゃいますが、空性の理解を言葉を頼りに判断してしまっている過ちです。


歴史の流れや文化の発達、主観的な知覚、客観的な把握の四つを見渡せば起こらない誤解です。


「悟り」にも頓悟(トンゴ)と漸悟(ザンゴ)という二種類の悟り方があります。

簡単に言うと、「一気にパッと悟る」頓悟
段階的に成長して、悟る漸悟

があります。
インド仏教は伝統的に漸悟、階梯をあがりながら成長する道が得意です。
中国や日本にある「禅」の教えは「頓悟」です。

両方に共通して大切なのは、「自覚」や「観照」です。

観照に力点を置くのが、最近流行っているヴィパッサナーの瞑想や、禅の智慧を発達させる取り組みです。

いずれにしても観照知を育てる為には、理屈(理論)に縛られない、自我への取り組み方が鍵を握っています。


テーラワーダは、漸悟の極みで、意識状態が進化するプロセスが、意識の発達と煩悩の軽減と禅定の体験に合わせて判断できるようにシステマティックになっています。
 この時に状態を確認しながら進める利点と、物事を固定化してしまう観点を強めてしまうという弱点が共存してしまうのです。
 ただ心の分析に関しては、現代のユング心理学でも参照しています。

日記に書いた内容ですが、日記に書き切れなかったので、補足的に書きます。


ウイルバーは自身の日記の中で、サイケデリック体験の伝道師、LSDの体験から変性意識の状態を見出したティモシー・リアリーの死、本名リチャード・アルパート=心理学者『ビー・ヒア・ナウ』の著者、ラムダスの脳卒中で、

死の波が自身に迫りつつ有る事を自覚し自分が菩薩の子宮を見出せるのか、自分自身を見出す事が出来るのかという事を日記に綴っています。




日記は1997年8月に書かれたもなのでウイルバーが50歳の時のもので



今から15年前のことだから、今、ウイルバーは65歳という事になります。






現在の日本ではヴィパッサナーが流行していますが、
「体験」とは「自覚」を言い換えた言葉です。
身体に気付いていること。
心に気付いている事に専念します。
 心に自覚を持ち込む事が、心を超越し始めることになり、自分の限界から自由になるのです。



霊(スピリット)が知性だけでなく、体験だ!と主張する人がいますが、それは大きな勘違いです。

身体的な感覚だけを霊性(スピリチュアリティ)と呼ぶのは滑稽です。
インテグラル理論の左上象限の内的・主観的な領域ですが、意識の発達段階(左下象限)や知的な解釈(右上象限)を誹謗されるのは、客観的な位置付けなのですが、概念的・観念的・抽象的に捉えるということは、社会的・集団的な位置付けを明らかにしてくれます。




「経験」という自覚は非常に重要な気付きであり、自分という限界(枠組み)から自由になる為に必要ですが、経験をリアリティの核心だと思うのは危険です。



当然、経験というのは、自分の知覚・感覚・表象・記憶からなっていて、総合的な自分の統合された自己が中心ですが、過去の経験に基づいているという事実があるのです。


自分の体験を絶対視して身体の感覚に集中すれば、知覚の制限は無いと言うことに気が付くのですが、その経験は過ぎ去っていくものです。 常に流れていく・・・



それがリアルな体験です。




その体験も心、霊に統合されなければ意味がなく、一面しか見ないでスピリットとは何か? と語るのはおかしいのです。






自分の影(シャドウ)がどのように世界を見ているかを知りたければ、方法は簡単です。


影とは、個人において生きてこなかったもうひとつの側面であり、意識にとって許容できない自分の暗黒面のこと。ユング,C.G.の提唱した元型のひとつ。


これは、自分の中の抑圧されて、阻害された自分の感情や態度のことで、自分らしく生きていくためには必要な自覚です。 例えヴィパサナー等の自覚を促す気付きの修行をしても、心の構造を理解しないと、自分を知ることは難しいのです。



話は戻って、実験的に自分を振り返って見ましょう。
 自分が意図的に欲するもの
 好きなもの
 感じるもの
 求めるもの
 意図するもの
 信じるもの

 これらのものの正反対のものを推測してみてください。 この正反対のことがシャドウ(影)の部分なのです。
このアプローチは誠に理にかなった方法で、このやり方で、意識的に自分と対立するものと接し、それを表現し、演じ、最後に再所有すること(統合)することが出来るかもしれない。

 そうやって自覚するのは、賢明なやり方ですが、さもなければ、それらに注意を向けざるを得ない状況に追い込まれるのです。



 簡単な影の実感方法ですが、気付くことは多いはずです。
シャドウ(影)は、個人における自分自身の暗黒面のことを指しますが、抑圧された感情なので、自分の感情の変型したものです。

この抑圧された感情は、怒りを中心に構成されることが多いのですが、怒りだけでなく、貪り、自分をよく見せる、といった三毒という感情に絡むもの、更には嫉妬や自尊心に関するものも多いのです。

これらの心理的な欲求は、そういった自分のシャドウ(影)は、個人における自分自身の暗黒面のことを指しますが、抑圧された感情なので、自分でも認識しづらい感情です。

この抑圧された感情は、怒りを中心に構成されることが多いのですが、怒りだけでなく、貪り、自分をよく見せる、といった三毒という感情に絡むもの、更には嫉妬や自尊心に関するものも多いのです。

これらの心理的な欲求は、そういった自分の心を知るためには非常に有用で、大きな気付きのチャンスです。

十戒や五戒の禁戒に行為を照らして見るのも非常に分かりやすいことです。  日常の諸悪の根元的な心の働きでは、無恥が大いに、悪事をやってのけます。

無恥は基本的には「無明」の状態から展開する心理作用ですが、「覆い隠す」というのが中心の働きで、やっていないのにやったと言う積極的な「嘘」と、黙っていればバレないという消極的な「嘘」の二種類の嘘があります。

怒りの為にやった行為を秘匿する嘘、自分の欲求を満たす為にに秘匿する嘘、曖昧な状態を秘匿するために付く嘘、これは未分化な意識を増長する働きになります。

これらは、その行為が問題というより、その嘘が更なる悪行を増長させる要員になるので、精神的な取り組みをしている人には大きなダメージを残します。

ですから、浄化を志しているプロセスの人には、精進してその時期を乗り越えて欲しいです。
その時期は永遠ではありませんが、それを乗りこえないと永遠に必要な取り組みになってしまいます。
それは窮屈でしょうから、開かれた精神性の発露は確りと取り組み、完全にマスターして欲しいものです。


分の心を知るためには非常に有用で、大きな気付きのチャンスです。

十戒や五戒の禁戒に行為を照らして見るのも非常に分かりやすいことです。  日常の諸悪の根元的な心の働きでは、無恥がおおいいに、悪事をやってのけます。

無恥は基本的には「無明」の状態から展開する心理作用ですが、「覆い隠す」というのが中心の働きで、やっていないのにやったと言う積極的な「嘘」と、黙っていればバレないという消極的な「嘘」の二種類の嘘があります。

怒りの為にやった行為を秘匿する嘘、自分の欲求を満たす為にに秘匿する嘘、曖昧な状態を秘匿するために付く嘘、これは未分化な意識を増長する働きになります。

これらは、その行為が問題というより、その嘘が更なる悪行を増長させる要員になるので、精神的な取り組みをしている人には大きなダメージを残します。

ですから、浄化を志しているプロセスの人には、精進してその時期を乗り越えて欲しいです。
その時期は永遠ではありませんが、それを乗りこえないと永遠に必要な取り組みになってしまいます。
それは窮屈でしょうから、開かれた精神性の発露は確りと取り組み、完全にマスターして欲しいものです。
意識のレベルの話をしましょう。

意識レベルというのは、ある一定の段階を踏みながら、ステップアップしたり、退行したりします。

 一生を通して段階的に成長して行くのですが、自分の思考や感情、行動を根本的に変容させる事もあるのですが、進化するプロセスは過去の自分を否定する事もありますので、混乱することもあります。



そうした混乱を乗り越えると徐々に新しい自己を切り開き基盤を固め、新しい可能性に開かれた自分を確立していくことが出来るのです。


その意味でも中有(バルドゥ)の死と再生の通過が必須になります。 気付きは、過去の自分の経験に基づいた認識に構成された自分の殻を打ち破ることで気付きは起こり、智慧は発達します。 過去の経験は次の欲求を生み出す要因になるので、無明の次に立ち上る『行』のことを指します。 その行のことをサンスカーラ(パーリ語ではサンカーラ)と言って、重要視します。

 そのアプローチは小乗仏教の方法では「ヴィパッサナー」という自覚を促す取り組みに専念します。

 この方法は非常に的を得た取り組みで、クンダリーニの覚醒もこれで容易く起こります。

クンダリーニの覚醒は容易く起こっても、心理的進化のプロセスは別問題と考えた方が良いでしょう。
 勿論関係し合っているのですが、心の問題は統合心理学的アプローチの方が優れています。 大乗仏教のアプローチはそういったことも包含しています。



意識のレベル(階層)についての話に戻ります。
ウイルバーは意識の発達段階を?の段階に分けて考えています。 ウイルバーを100パーセント支持している訳ではありませんが、かなり有力な視点であることを認め、彼のインテグラル理論はかなりの包含力があって、その中の「意識のレベル」は呪術的段階〜統合的段階に至る意識の階梯は、その段階毎に自分自身が引かかる個所を指摘してくれて、自分のテーマが見えてきます。

今回の話は多くの人には関係は無いのですが、精神的な係りを持つ人には全くの縁無きものでは無いのでここに取り上げます。

 どういう事かと言うとエマージェンスとエマージェンシーを相対的に考えると判りやすいです。


エマージェンスでは内的体験は外的体験と区別ができ、非日常的意識状態を、日常生活の中に統一するのは比較的容易です。
自己と世界への気づきがゆっくりと漸進的に変化するので、変化に対して受容的な態度が取れ、起こるままの内的体験にワクワクし、それらと協調していこうとする気持ちや能力を持ちます。変化のプロセスに信頼が置けるので、困難な体験も変化のための機会として受け止められ、体験は贈り物として受け入れることができるようになります。

自分の体験について、討論しようとする気持ちはあまり起きず、自分の体験をいつ誰にどのように伝えるかの判断ができます。




それに対してエマージェンシーとなると、内的体験があまりにも、ダイナミックで圧倒されてしまい、

時には内的体験と外的体験の区別がつかなくなります。
あまりひどくなると、内的体験は日常生活を中断し、妨害することにもなりかねません。身体的にも影響することがあるので、本人にとっては日常生活を妨害される感覚を持ち、肯定的な体験でもなかなか受け入れられずに、望ましくないものとして感じられ、苦痛になります。




エマジェンシーという「魂の危機」と言われる諸現象は精神疾患として位置付けられたりしてましたから、トランスパーソナルという意識の研究が進む前までは、統合失調や鬱病として誤った判断で、返って状態が悪くなる状態が多かったのです。 方や精神的な洞察に優れていると思われている「仏教」寺院でも幻覚や虚妄(コモウ)分別として片付けられていて、本人の直面している危機に対して腫物を触るように嫌厭していたのです。 ですから医者に繋ると病気性は悪化したのです。


 妊娠・出産もあれも病気として扱うのは正しくなく、緊急事態になったら医療がバックアップしてく
れるものとして位置づける方が良いのかも知れません。



スピリィチュアル・エマージェンシーの諸形態としては以下の様なものがあります。

A:法悦的気分。 喜びを伴う高揚感
B:新たな知識の獲得感 知性の高まり感
C:宗教的幻覚。 光に包まれる。 天使を見る等
D:死と再生の旅。 宇宙的闘争。 超能力的パワー
E:神秘体験に思考や言語の障害が伴わない


A’:至高体験
B’:クンダリニーの覚醒
C’:臨死体験・過去世の記憶
D’:超感覚的知覚の覚醒
E’:霊的存在と交信


この上に挙げた感覚は霊性を認める世界では、優れた知覚として優遇されますが、
日常においては知覚や洞察が優れているので、対人関係(コミュニケーション能力)や洞察に優れるので超感覚的なものを拠り所にになくても十二分に思いやりや、配慮においてその能力が発揮されることでしょう。
昨日、スピリチュアル・エマージェンシーの特徴が掴みづらい、と纏めを要求される人がいました。
実際に困難な状況に陥るのは、人が成熟し、より大きなスピリチュアルな広がりを持った存在に進化していく動きなのですが、この進化のプロセスが急速に動き始めると、「魂の危機」と感じることがあるのです。
 今までの生き方が脅かされ、内的経験に攻められて現実との関係が急速に変化してしまう。

身体的な感覚で言えば、強烈なエネルギーが身体の中を流れたり、コントロール出来ない震えが来たりすることもある。 自分の内的ヴィジョンや感覚と日常生活を合わせる事が困難になるのです。

エマージェンスの方は、修行などをして積極的に向上しようと願う修行者や、進化を受け入れる心境になった人は自分の変化を楽しめ、ワクワクしながら精神の階梯を登って行くのですが、準備も出来ていないで覚醒が起こってしまうと、過去の良かった時に執着し、その時の意識状態とどんどん離れてしまう気がするので、自分を喪失する不安感や危機感はマックスになります。


エマージェンスとエマージェンシーを対比して見てみましょう。
ワークシート(表)表示が出来ないので、箇条書きでリストアップします。

【エマージェンス(発達形態)】

1、内的体験は流動的で穏やか、統合が容易
2、新しい霊的洞察は望ましい広がりを持つものとして歓迎される。
3、考えや洞察が徐々に生活の中に浸透していく。
4、受容可能で容易に制御可能なエネルギーの体験。
5、内的体験と外的体験の区別は容易で、一つ一つ起こる
6、非日常意識体験を日常体験の中に統合するのは容易
7、自己と世界への気付きがゆっくりと斬進的(少しづつ)に変化する。
8、起こるままの内的体験にワクワクし、それらとも協調して行こうとする気持ちや能力を持つ
9、変化に対して受容的態度を取る
10、コントロールすることを放棄することは容易
11、プロセスに信頼を置く
12、困難な体験が変化の為の機会として受け取ることが出来る
13、肯定的な体験が贈り物として受け入れられる。
14、体験について討論や検証したいという欲求は起きない
15、自分の中で起こっていることを伝える時を判断出来る(いつ、誰に、どの様に伝えるか)



 これらは、修行(仏教の取り組み)をしていても、何らかの精神的取組をしていても意識が発達するプロセスとして現れます。 仏教やヨーガでも同じ様に起こります。 宗教とは関係ない取り組みでも、精神という心に係るなら同じ様に起こることです。


【スピリチュアル・エマージェンシー(魂の危機)】

1、内的体験はダイナミック、調和を欠き、統合が困難。
2、新しい霊的洞察は哲学的な挑戦や脅威になりうる
3、経験や洞察が圧倒的なほど流れ込む
4、身体ががたがた揺れたり、震える体験。 日常生活が妨害されるエネルギー体験。
5、内的体験と外的体験の区別は時に困難で、両方が同時に起きて来る。
6、内的体験が日常生活を妨害し中断させてしまう。
7、自己と世界の認識が、突然急速に変化する。
8、内的体験に対して相反する感情を持つ。 だがガイダンスや指導があれば協調しようとする 持ちや能力を持つことが出来る。
9、変化に抵抗する
10、コントロールする必要がある。
11、プロセスを嫌い、信頼しない。
12、困難な体験は圧倒するものとして現れ、歓迎できないものが多い。
13、肯定的体験は中々受け入れることが出来ず、苦痛に感じる。
14、体験を討論、吟味したいと切迫した欲求を持ち、その欲求は頻繁に起こる。
15、無分別にプロセスを伝えようとする(何時、誰に、どの様に)が、誰にも理解出来ずに、本人の 混乱は増してしまう。


【スピリチュアル・エマージェンス(発達形態)】と【スピリチュアル・エマージェンシー(魂の危機)】というのは、生命体が発達し、進化していくプロセスで、自然な「存在の在り方」がら外れ、極度
の名誉欲や執着を持つと、自然な在り方から逸脱する傾向を持つのです。

四象限という四つの見方、「個的な内側の視点と集合的内側の視点」と「個的な外面的側面と集合的な外面的側面」これを別の言い方をすると、「主観、私たち、それ、それら」という異なるタイプの領域が浮かび上がるのです。 この四つは相互に関連し合っていて織物のように、絡み合っています。

ここで「ホロン」という階層構造が重要なのですが、これを説明すると膨大な検証になるので、ここでは割愛します。


で互いに絡み合っている四つの象限は、バランスを保っていて、四つの方向性を持つ象限に、一つだけ、発達が遅れていたり、早過ぎたりしたりすると、バランスを取ろうと、自然な発達や停滞が起こります。  
【スピリチュアル・エマージェンシー(魂の危機)】も主観(知覚)の発達によって起こる突然変異なの
です。 問題は「解釈」なので、解釈(診断等)を誤ると、取り返しのつかない事態になってしまいま
す。

長くなりすぎるので、注意点や留意しなくてはならないことを次の日記で書こうと思います。
道を真面目に考えている人には切実な疑問点になるのですが、実際、大きな問題で、迷う場所なのです。

仏教、特に禅仏教などの般若を中心に説く教えの実践者は自我を忘れ、超越し看破するように指導されます。
方や精神分析では、我を強化して、防衛力を身に付け、自我を保護する方向が強調されています。


これは、選択ミスをすると非常に危険な状態に陥ります。

上の二つの選択肢は、正反対の方向性を持ち、自我を放置してもっと高い視点に導くのか? その場合、自我がある程度、満足した状態でない場合、欠乏感に支配され、人格が破綻する場合があるのです。

また逆に自我を満足させる精神分析のやり方で満足させる事に注目し過ぎると、マテリアリスト、詰まり物資主義になってしまう傾向を強めます。

そう考えると、どちらが素晴らしい?
と言う相対的な比較の意識状態になります。

この比較認識は様々な問題、争いや満足出来ない心を作り上げるのですが、このどちらが正しい?論は根本が違うのです。

これは意識の異なるレベル、自己のコントロールの視点やいる場所によって違うので、その人に合った方法を使わないと、選択ミスを起こすのです。

自我を満足させるのと放棄するアプローチも、本人の状態によって違うので、本人の状態こそが大切な問題であって、充足と放棄は、見ている角度やスペクトルのどの帯域に注目するかだけの違いなので、どちらも合ってる、間違ってるの問題じゃないんです。

ちょっと解り辛いかな?
>>[67]

今日の書き込みは、良い悪いの判断じゃなくて、自分がどう言う取り組みをしていて、何を求めているのかによって自我に対するアプローチは違うんです。
という書き込みなので、自分で味わい吟味して欲しいと言うものです。

これは一生ものの吟味なのです。
「朝日が昇ってくる」ことを見ている、貴方の経験は、概念では無い。



貴方がガソリンスタンドの店員であろうが、総理大臣であろうが、大した違いは無い。


生きている事の素晴らしさを味わったなら、ありのままの自分に敬意を払う事が出来る様になる。
重要なのは考える事じゃ無く、感じることです。

沢山の請求書が来る事や、通信のデータ量の制限や食事の準備、レポートの提出、ネットの書き込みをしなきゃいけないと、脅かされなくていい。




基本的なところで人間としてあること、死を恐れずに生きていることは、とても価値あるものだと感じる様になる。 これは自分らしく生きる為に重要な事です。

老・病・死は必ず、あなたを襲う。 遅らせる努力は出来るけど、絶対に避けられない。 それは生きているから起こることで、それがベースになっているから「生きる」ことは「苦」に必ず到る。

しかし生きていることを感謝と共に生きたなら、貴方の人生には気高さと崇高さが残こされて、貴方の周りの人は、貴方の人となりを知ることが出来る。


私達は常日頃から自分自身に不安を抱いている。
自分自身を恥じている。
自分という人間を、自分がやって来たことを、自分の職業や経済状態を、子供のしつけ、受けた教育、あらゆる自分の欠点を恥じている。

「登る朝日」の話しは、本当に必要なものを見抜くアプローチなのですが、これの逆に「沈む夕日」という恐れに基づいた「死」の概念を怖れ避けるアプローチがあります。

今は「沈む夕日」の事は置いておいて、「登る朝日」の話しに戻ります。
「登る朝日」のアプローチは、縁起観に基く極めてエコロジーなアプローチで物事は有機的に生起するものである、からこそ自然に階層(ヒエラルキー)が生じるけれども、一方的な押し付けをするものではない。 原因と結果という法則を受け入れる発想は、世の中の不平等に不平不満は漏らさない。

豊かさ幸福感も原因があるし、貧しさや不幸も原因があると知るからです。

太陽の如き人間の性質は、暗闇を照らす本物の太陽になぞらえることが出来ます。

全てを照らす輝きの源泉である太陽が昇ると、その光は家の窓の中まで射し込み、その明るい光に気がついたら、全てのカーテンを開けたくなる。

前科を持つ犯罪者でも、救える点を見いだし本人と共にチャンスを信じる。

購入したばかりのタオルは、清潔そのものだけれど、使っている内に、汚れてくる。 しかし洗濯したら元の綺麗な状態に戻る。

これは基本的な善良さの事ですが、波羅蜜の布施、持戒、忍辱に関わってくるのです。


先程、投稿した日記で「死を恐れず生きていることは、とても価値あること」と自分らしく生きることは、とても素晴らしいことであると、書き込んだんですが、自分自身を恥じている事は、中々克服出来ないですよね。
上に貼り付けているリンクは、4歳の頃から「尋常性白斑(じんじょうせいはくはん)」という
皮膚の色が抜け白い斑点ができる慢性的な皮膚疾患に悩んでいました。 そういう女性の話しです。
この病気は珍しいのですが、マイケル・ジャクソンも患っていたと言います。

男性でも人目が気になり、コミュニケーションの障害を起こしてしまう様な肌の病気なのですが、彼女はその奇病を逆手に取って、自分の夢を諦めず、マダラな肌を晒して、アメリカのオーディション番組に出て、そのマダラの肌が個性的と評判となり、今ではTOPモデルとして活躍しているので、多く人に、夢と勇気と希望を与えています。

だから私達も色々な不安感や欠乏感を抱いていますが、それで小さくなる必要は無いという事が言いたいのです。

自分自身に自信を持たせる為には、瞬間瞬間を大事に生きて、常に自分が出せる全力で取り組めば、最初は少しの事しか出来ないかも知れないけれども、積み重なると信じられない様な大きな事が出来るかも知れません、保証はしませんけど試す価値はありますよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「牛」と呼ばれた女性が「世界で最も美しいまだら肌」と称されるトップモデルへの華麗なる転身
http://buzz-media.net/moving/4918/

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>[72]

自分自身の
立ち位置がわかる様になるからです。

すると如何すれば良いのかがわかる様になるし、色んな視点を持てる様になって、とても良いってことです。
プロローグ
高校生の時、家の近くにある小さな中華料理店でアルバイトをしている時に、店主のマスターといつも会話していて、よく遅い時間まで語り合っていたんです。
その時に感じた「自意識」が記憶に残っている、「分裂」です。その時は意識は凄い多重構造なんだと思っていました。
親父はとうに他界していますが、無口で忍耐強く、非常に人望厚く色んな人に慕われていました。
僕は比較的無口で、要領の良さが自分の得意な事だと、ひっそりと思っていました。
小学生低学年の時、蓄膿症で、隣駅の病院に毎日通っていたことを思い出します。 詰まり蓄膿症のお陰もあって非常に頭は悪く、思考も殆どして居なかったのです。ちなみに初恋は中学三年生です。遅いでしょ。
しかし、思考をしていなかったのではなく、思考の原始的形態である「イメージ」に埋没していて、文節がなく、論理的な思考にまで昇華されてはいなかったのです。
日々、イメージの作用に振り回されていて、雨が降っていると、それだけで憂鬱な1日だったのです。
苦手だなって感じることがあると、嫌悪して逃げることしか望ま無いのです。 思考が出来無いので、世界が狭く、逃げ場が無いのです。
この幼少期の経験が、イメージ作用に埋没する事のデメリットを実感として、理解することが出来るのです。 しかしこの幼少期の経験を記憶して無かったたら、実感としての理解は出来なかったでしょう。
頭の出来が良い人は、思考(推論)で理解できるのでしょうが。
ケン・ウィルバーの「意識のレベル」では、意識構造は段階的に成長していくことを語っていますが、実感を持って理解することが出来る様になったのは、丸で知能遅れの幼少期の感覚のお陰なんだと、今は感謝しています。
>>[74]

経験を生かすも殺すも自分次第かも知れませんね。
>>[75]
ありがとうございます
ただ、経験に無駄や不要な経験は無いと思っています。
間違った解釈は、無駄な人生だったと、又は意味の無い数年だったと解釈する人はいますが、そう言った事も示唆に溢れていて、「無駄は無い」と思っています。
僕の友人で、良く大切な事態で判断ミスを起こす人がいます。 判断ミスは認識のエラーなら起こっているのですが・・・

精神分析の創始者であるジームント・フロイトはこう言ってます。
「さほど重要で無い問題で判断を下す場合、あらゆるプラスとマイナスを考えることが役に立つ。 だが問題が決定的に重要な場合・・・、決断は自分の奥底に眠る無意識の領域に任せるべきだと私は思う。」

と言って意識の活動(思考)には限界があり、複雑な問題は処理できずに、中道な状態にし、「無意識思考理論」と呼ばれる、意識を他のことに集中させたり、リラックスや楽しみに向けさせ、無意識の力、自分の本当の力に委ねるのです。

思考で吟味して研鑽することは、とても大事ですが、アニメの一休さんのように、座禅したりトンチの思考も閃きの智慧を得る有効な手段になるかも知れませんね。
何故、トランスパーソナル心理学というコミュニティーの中で、「仏教心理学」というトビックを作ったかというと、最近では「唯識瑜伽行派」の名で、2000年近く前から、潜在意識や自我意識は勿論の事、意識や知覚に対する洞察を深めていた、ヨガ行者達がインドの地に居て、研鑽されていました。

その教えは、「西遊記」で有名な玄奘三蔵がネパ収入源二刀流ールに位置するナーランダー大学に学び、中国に持ち帰った仏教は、日本では奈良仏教で伝承されてきました。

その当時、インド仏教は小乗・大乗は伝統はそのままに統合されて密教文化が花開き、後期密教が展開される前の時期でした。
丁度、弘法大師・空海が唐(中国)に渡った頃で、日本に後期密教が入って来なかったのは、空海が中国に行った時は、後期密教は未だ成立していなかったのです。

仏教文化の特徴が二つあります。
一つは、教えを広める文化や環境に融合すること。
二つ目は、争わず統合しようとすることです。

仏教はどこでも地域に溶け込み、融合する特性を持っていますので、アジアでは、テーラワーダ(上座部)仏教が広まりました。 中国や日本では大乗仏教が広まり密教を除く大乗仏教が広まったのですが、
強力なキリスト教文化には争わない仏教は浸透しませんでした。

密教文化は、小乗・大乗の上に立脚していて、現代の僧院に学びの為に例え出家しても、余程の天才的な人でないと、入門も許されません。

1939年、東チベットに生まれた活仏は、アメリカのコロラド州ボールダーのナロパ学院の院長でありアメリカ各地に散在する63の仏教瞑想センターを統合するヴァジラダートゥの長であるチュギャム・トゥルンパ・リンポチェは、十一代目のトゥルンパとして活仏認定されるのですが、トゥルンパの知性の高さは広く知れ渡り、今世紀の優れた知性として、クリシュナムルティと共に、よく謳われています。

このトゥルンパか長をやっていた「ナロパ学院」の理事をやっているのがケン・ウィルバーなので、無関係ではないこともお判りになると思います。

トゥルンパはイギリスのオックスフォード大学に留学し、比較宗教学、哲学、美術を納め、草月流生花の免状を取得している日本贔屓の人です。 日本に来たこともあります。また演劇、詩、心理学、映像に関心を示し、それぞれで指導的な役割を務めました。


トゥルンパがアコン・リンポチェと共に68年にスコットランドに「サムエ・リン瞑想センター」を設立し、ここを拠点として、ヨーロッパ・アメリカを始め、世界にチベットの精神性が広まったのです。

日本にもサムエ・リン瞑想センターの姉妹センターを作りにアコン・リンポチェの実弟であるラマ・イェシェー・ロサル氏が作ったのですが、すいません、ぼくが任を怠ったので、今の最高の瞑想指導者と呼ばれているラマ・イェシェーの法系は止まっています。 しかし今は、スコットランドにリトリートに行っているミクシィの会員でもある友人が展開してくれるかな? って期待しています。
自我を強化、防衛、保護する方向が強調される精神分析と、自我を忘れ、超越し、看破するように言う禅仏教。

この自我に対するアプローチの違いは、明らかに異なるレベルに対するアプローチです。
どちらが正しい? という事ではなくて、相補的なアプローチが必要であることが明らかになります。

アイデンティティー(自己同一性、自分らしさ、自分自身であることの根拠)というのは、絶えず変化していますが、何故それは統一性が無いのかは、変に思う事が有ると思います。

元々は非二元、宇宙と影(シャドー)の四つの縮小と拡大の上昇と下降の移行を繰り返しアイデンティティーの変化を実感している訳ですが、ウィルバーが最初に注目したのは、アイデンティティーから観た意識のスペクトル=私は誰か?
ということだったのです。

⑴統一意識
⑵有機体
⑶自我
⑷影・仮面

この意識のスペクトルと方向性は統合と言うことでは同じですが、「意識のレベル(呪術的段階〜統合的段階)」も個を完成させようと意向するベクトル
は同じです。 意識の状態(ステート)もリンクして非二元の状態になるべく意向して来ます。

基本的には、以上の「私は誰か?」「意識のレベル」「意識のステート」「発達ライン(多重知能)」「タイプ(パーソナリティー)」
の五つの発達する局面は相関的に関連し合いながら統合されて行きます。

仏教の中観派には、スヴァータントリカ(自立論証派)と、最強の論証家と言われるチベット仏教の主流と言われるプラーサンギカ(帰謬論証)派は四句否定で、どんな哲学的見解に対しても、漏れなく論破することが出来るのも、主張(リアリティー)はあり得ず、どんな主張も自己矛盾に陥るという名称と言説の限界を指摘し、それは意識の中でも同じあるという「空」の認識こそが重要であるとし、帰謬論証法という刀で総てを空化することが、「空性」の意義と意味、用法を明らかにすることでチャンドラキールティの帰謬論証派はチベットに受け継がれたのです。

最近僕が訴えている「主観」というのは、自我は宇宙大まで拡大し得るし、逆に自己を細分化してペルソナやシャドーを生み出し矮小化した自己になったとしても、主観というのは、最大でも最小でも自我の大きさに関わらずあるので、それを無視するアプローチをするには、よっぽど環境が整っていないと出来ませんよって、修業者に対する警告なのです。


インド仏教は13世紀、イスラムの侵攻によって、ヴィクラマシーラ寺院、ナーランダー寺院という最大の大学寺院が破壊されたので、それをもってインド仏教は衰滅しました。

今、インドにある仏教はチベット仏教と、インドの法務大臣であったアンベードカルが不可触民50万人と共に仏教に改宗し、今も佐々木さんと言う人が代表をやって導いているようです。 それと上座部仏教の東南アジア等の仏教が入っていますが日本でも有名なスマナサーラ長老などが世界的な活動をしています。

しかし、インド仏教が衰滅する前に、有名な学匠たちは、伝統をチベットに移す為に、シャーンタラクシタがチベットに招かれて仏教導入が始まったのですが、日本に伝承された仏教と、インド仏教が滅ぶ前の仏教は、全く違ったものです。

日本では、遣唐使、遣隋使が随と唐に、文化を学ぶ為に派遣した最澄、空海の二大巨頭が唐に渡り持ち帰った、天台宗の教えを持ち帰り、総合仏教の教えは、日本仏教の土台になっています。 唐招提寺は、長年にわたり日本に戒律を伝えようと苦難の道を歩んだ鑑真和尚(がんじんわじょう)は、奈良仏教の土台を形成し、インド仏教の発達の途上にあった密教の、ヨーガタントラの教え、つまり密教の最終段階の無上ヨーガの教えは、日本には入っていないのです。

つまりインド仏教の最後の華である、無上ヨーガタントラの教えは、チベットには全部伝承さらたのですが、日本には密教の途上の教えしか入っていないのです。

ナーランダー僧院の最後にして最高の学匠であった寂護(シャーンタラクシタ)は、チベットに仏教の僧院を創り、インドからテーラワーダの出家者を召喚して、最初のチベット人の試みの六人を出家させ、上座部仏教の取組みをさせたのです。

その後、インドのヴィクラマシーラ寺院の大学匠であるシャーキャシュリーバドラがイスラムの侵略から逃れてた時、サキャ派のサキャ・パンディタに授戒を授け、仏教の小乗、大乗、金剛乗の総ての伝承を受けたサキャ・パンディタ(サパン)は、顕教・密教の学を極め、論理学・認識論は、ダルマキールティ(法称)の後を継ぎ、『リクテル』を著し、唯識の聖教に依る、アサンガ・ヴァスバンドゥの兄弟の立てる唯識よりも、ディクナーガ・ダルマキールティの論理に依る唯識が優位になって、その統合された唯識を基にした中観派がチベットの共通した認識にったのです。

シャーンタラクシタが完成された中観派の教えを展開したのですが、土着宗教の「ポン教」が浸透していて高度な仏教の教えは馴染まず、難を感じたシャーンタラクシタは、インドからタントラの大成就者=バドマサンヴァバ(蓮華生)を呼び、布教に当たらせたのです。

なので、チベット仏教の古派(ニンマ)は、バドマサンヴァバ(グル・リンポチェ)を祖師として最大限の信仰を集めています。 このニンマの教義は、浅そうで、異様に深い知覚と認識論を駆使していて、とても興味深い構成をもっています。

お釈迦様入滅後、自制する事や煩悩の蔓延による「教え」が忘れられる事を怖れたアルハット(阿羅漢)の境地に至った弟子達は、伝承すべき教えを纏める作業に入ったのです。

編纂の責任者に、マハーカッサパ(大迦葉)、教えの確認にはお釈迦様の付き人をしていたアーナンダ、記憶の確認はアルハットの悟りに達した多くの弟子達が、確認することで、後世に残すべき経典を編纂したのです。 しかし、その当時、文字を記録する文化はまだ無かったので、口伝で、語り継ぐ方法が取られたのです。 その口伝が文字として編集されたのが、インド北方に残ったのは、古代仏教サンスクリット語の『アーガマ』。

インド南方(スリランカや東南アジア)には、パーリ語の『パーリ仏典』
「アーガマ」と「パーリ仏典」は、ほぼ同じ内容なのですが、お釈迦様の後継者と謳われたマハーカッサパの伝承は、シルクロードの方に向い、ボーディダルマ(ダルマ大師)に受け継がれ、「禅」という臨済禅というアプローチになり、そこから曹洞禅が生まれ禅宗が確立されましたが、言葉の伝承のアーガマやパーリ仏典、境地の伝承を重んじた禅の伝承という「斬悟」と「頓悟」というアプローチの違いがはっきりし出すのですが、インド仏教は段階的に、意識を高める「斬悟」を強調し、一気に悟りの境地に至る「頓悟」を強調する中国の禅のアプローチは、チベットの仏教導入時に対決して、斬悟が勝利してインド仏教の斬悟がチベットに導入されたのですが、中国禅とポン教とを融合して、チベット仏教ニンマ派の教えは統合仏教として新訳派の教えか導入された後、ロンチェンパの教えとして蘇りました。
ニューロンと集合的無意識

最初に心理学に興味を持ったのは、私たちの意識を探求して行くと、深いところで、皆意識は繋がっているという、ユングの世界各地の神話の研究を膨大な時間を費やして、基本的な神話のモチーフには、地域や国家などの集合体が受け継いでいる何かがあると感じたユングは、大量のデータからいくつかの仮説が成り立つことが明らかになりました。

それが、集合的無意識の発見に至りました。 前提としてフロイトの潜在意識の発見があったから、その中に集合的無意識がある事を見出したのです。

その中には遺伝的な素養も含まれ、進化論的なものも含まれています。 進化論を猿から人間に進化する事はあり得ないと否定する人達もいますが、近年では科学技術は進み、受胎中の妊婦のお腹の中の胎児の成長を観る事が出来ます。 受胎してから生命の成長は、アメーバ状から細胞分裂が増殖し、身体が形成していきますが、そのプロセスは生命体の形状は進化の辿ってきたプロセスが再現されるようにして、形状を変え、人間の形状容姿の形になって行きます。 そんなことは、ここで敢えて言わなくても、今は百科事典にも普通に載っていることです。

脳細胞の発達の仕方や脳の連合野の構成の仕方も、原始的な本能の部分が形成され、人間の知性が発達したのは、脳のニューロン(脳細胞)の数は生まれた時に決まっていて、後は加齢と共に減少して行くと言われてましたが、記憶を司る「海馬」は増やす事が出来るというのが、最近の学説です。

自分自身のことですが、僕は「脳梗塞」を二回と「脳内動脈瘤」になったので、頭蓋骨を開頭して動脈瘤が破裂しない様にクリックで血管を挟んでいます。 開頭すると、脳味噌は手が触れたりすると触れた部分は壊死します。 脳梗塞は血管が詰まる事による障害で、詰まった部分より先にある脳細胞は血液が行かない部分は細胞が死んでしまいます。
元々頭の出来は悪く、記憶力は子供の時から悪く本当に出来の悪い人間なのですが、不思議に仏教関係や心理学関係の興味がある記憶は、不思議と忘れないのです。 朝何食べたのかとか、昨日の夕飯は何食べたのか全く覚えてないのですが、相談受けた事や仏教関係のことは、忘れないのです。

仕事は建築の現場監督ですが、殆ど覚えてません。笑 しかし人間関係は忘れないのです。

話は元に戻りますが、意識は上昇すると、非二元の方向性に向いますが、下降しても自我からペルソナ、影の形成、影の投影として生きる事が困難に感じることもありますが、そこで感じる「苦悩」は、実はチャンスで、自我からの解放の又とない機会なのです。 こうしてセラピー論に結びつける視点と、集合的無意識という構造からはアーキタイプ(元型)論から、自分自身の内側にある思い込みや投影を洞察するヒントになるので、それもセラピー論として使えます。
低級霊域ー低いスピリチュアリティー

意識は、宇宙と等しい位制限の無い、拡がったアイデンティティーの状態から、「私」という個の存在へと、「自分」以外の存在から仕分けを作り、実存・実在という極めて小さな限定された、個体を他を否定して「私(自己)」を作り出していきます。

その後、役割に応じた「名称」を自分に付加させ、課長、社長、お母さん、班長、保母さん、気が利いている人、気品のあるお嬢様、数学が苦手で語学は得意な人、などと役割や特性に応じた「名称」で周りの人も自分自身も役割の名前と、個人が同一視して演じる役割の自己イメージは、演じている役割の仮面を被っていますが自分自身ではなく、「仮面(ペルソナ)」は、曖昧で、不正確な自己イメージです。

「〜らしい」と言うのは、基にイメージがあって、そのイメージに近くなることを「〜らしい」と言って固定しようとします。 作り上げたイメージに自分を合わせようと感情や認識を制御しようとして、自分の欲求を抑圧します。

もしくは自分のイメージ像とは合わない部分は、自分では無いと、感情や欲求を切り離ししようとして感情や欲求を自分自身から切り離すように工夫します。
自分自身から切り離すことが成功すると、投影のメカニズムが成立します。



自分が人々を否定しているのに、否定している感情を認め無いと、自分が否定しているのに、それは認識から外れてしまい、ナゼか皆んなが自分を否定している様に感じるのです。 これも「投影」でよく起こる現象です。
自分自身が、否定している事を忘れてしまうのですから、なぜ皆に嫌われているのか? 不思議に感じてしまうのです。 前のコウモリ傘の話しを覚えていますか? あれは催眠暗示でしたが、自分の潜在意識にある動機に気付けなくなるのは、同じです。
催眠暗示も本人が絶対に嫌だと思う事は、暗示としてもすり込め無いという原則があります。

否定の感情は、自分で受け入れたいからすんなりと自分の感情から切り捨てることが可能になるのです。

話しが、潜在意識と認識のメカニズムの説明で長くなってしまいましたので、低級霊域の話しは、引き続き、書く準備に入ります。
「自分とは何なのか?」「世界とはどんな場所なのか?」という人生の意味を見つけ出す為に「物語」を作る活動をしています。

人間には、「意味構築活動」という、人間存在を規定する最も本質的な精神活動をしていることを見出したハーバード大学教育学部のロバート・キーガン博士が発表したこの説は、実に説得力が高いと思われます。
日々の生活の中に「意味」を見いだそうとするのですが、自分が悲しみを経験したからこそ、他者の悲しみに共感することが出来るのだ、と意味付けや解釈が行われます。 逆に意味など有りはしなくて、全て偶然の産物であり、そこに意味を見いだそうとしても徒労に終わるから、自分の生理的な欲求に忠実に生きるべきだとする受け止め方も有りますが、どちらにしても意味を見いだそうとするのです。

「学歴信仰」も思春期の「意味構築活動」も、呪術的な迷信も、色眼鏡であってこの「意識の構造」は、段階的に成長していきます。
それが前回書き込んだ6つの意識の段階(レベル)なのですが、人によって、人生の価値や満足は違いがあります。 何かの成果や立場などの社会的評価なのかも知れません。 喜びの満足度かも知れません。
友人・知人・家族の評価かもしれません。

例えば何かの研究をしていて、自分にはこれ以上の研究は無いと言い切る程の研究が出来たなら、満足出来る様になります。 しかし仏教の様に、「学術的な研鑽」と「悟り」は、両輪の車輪の上に成り立つ物の場合、学問の研鑽だけでは、意味が無く、総合的な意識の成熟が無ければいけません。

成熟だけで、様々な見解の勉強や吟味も必要で、意識が成長しない学術的な研鑽では、意味が無いし、情報はコンピューターの方が、客観的だし、価値の変更が出来ますので、様々な研究結果をコンピューターに入力すれば、正確な情報処理をしてくれます。

偏った情報というのは、偏った価値観しか生みません。 偏った情報の中で霊性(スピリチュアル)を扱えば、当然偏よった思想を形成します。

近年では、一部分しか見ない情報で構築されたスピリチュアルは幼稚で、多くの人が常識的見地を持つ様になってきているので、幼稚なスピリチュアルは、淘汰されてしまいます。

情報は情報に過ぎません。 新たな発見も素晴らしいことですが、それによって自分がどの様に意識を成熟し、喜び多き状態になれるのかが大事なんだと思うのです。
インテグラル理論で、意識の段階の話を展開しているのに何故クンダリーニの話になるんだろう? と感じた人は少なく無いでしょう。

ケン・ウィルバーのインテグラル理論は、実践的なセラピー論も統括しているのですが、意識の段階(レベル)、意識の状態(ステート)、四象限(クオグランド)、発達ライン(ストリーム)などの主要な柱が4本あるのです。 クンダリーニというのは、意識の状態(ステート)に関することで、他の象限も同時に引き上げる、論理的な思考を超える事で、常識的な知覚も思考も通用しなくなるので、修行者以外の人は、目指さない方が賢明です。


スピリチュアル・エマージェンシー(魂の危機)に陥ってしまった人は、内的な経験に圧倒されて、自己を見失ってしまいがちですが、クンダリーニ覚醒は、霊的な進化が勝手に進み、他の象限がバランスが悪くなり、強制的に覚醒が起こってしまうと、いう場合が多いと感じています。 なので、インテグラル理論のどの柱が、自分が認識出来ていないのかを洞察すると、エマージェンシーから脱失できると思うのです。 ただ自己観察は客観的に自分を見る事は難しいので、専門家の相談を受けた方が賢明です。

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