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たましいの寺小屋コミュの顕教・菩提心の部屋

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菩提心は発願する段階と菩提心と自分の存在が別ではない状態があります。

密教では発言し辛いという方もいらっしゃると思いますので、原始仏教や上座部仏教、日本の大乗仏教、禅仏教、インド仏教、など、それぞれのスタンスで語られる場所にします。 何が正しいというのはありません。

近年の常識や倫理観も宗教と同じなので、どの説に立とうとも、それはあくまでも一説に過ぎないと言うことをお忘れなく。

コメント(67)

ふみ犬さんへ

鎌倉仏教をご理解されているのですか?

まさか『本を読んだだけ』って事はないですよねあせあせ
ふみ犬さん

貴方とは仏教、釈迦、悟りのコミュからの付き合いですが、ここの所の貴方の発言は意味が不明です。

レイキのやり取りども沢山の不評を買ってますが、貴方の真意が読み取れないです。 仏教系コミュの時もそうでしたが、ふみ犬さんに向けられた質問にちゃんと返し事がなく、U33さんが言うように、全てのことに対して、本を読んだだけの事しか知らない人なのかな?という疑問が生じます。

そんなことは無いと信じたいですが…


精神集中の大切さ。


私達の意識は絶えず散動していて、一つの事を達成出来ずにいます。


霊的向上しようと思っても、目先の情報に釣られてしまいます。

一つの事を考え続けるのでさえ難しいのです。 現代は知らない事はインターネットで調べれば、だいたいの事を知ることは出来ます。


しかし、行法の一つを完全に成就することは難しい。

それは何故か

それ自体が難しいのではなく、意識が散漫になり、他の事に注目がズレてしまうからです。





例えば、大周天の真気発動して、精神世界の隠された秘密を暴き出し、真実を体証しよう
その為には先ずは小周天を日々やらなくては…
やってみると想像以上に難しい。

気の実感さえ難しい。 こうして志しは曖昧になり、虚ろになり日々の生活に追われ、ついには忘れてしまう。クンダリーニも同じです。





その逆は、情報を集めると、自分が会得したような気になり安心して満足する。 しかし、知っている事と会得している状態は全く違います。
先日もそういうやり取りがありました。 例えば本を読んで知っているのと、体験して知っているのと、知り尽くしているのとは、全く違うものなのに、元々知的満足のみを求めている人は、「知る」ことだけしか関心がなく、少しのリスクも嫌がります。

自分の貴重な時間や財産などの消失を酷く恐れます。


ですから、大乗の道では、六波羅蜜の最初に寛容な意識を定着させるべく、布施波羅蜜から始まります。


完全に開かれた意識状態の完成(徹底)が最初に押さえるポイントとしています。そして戒律、忍辱(にんにく)、精進、禅定、知恵の徹底があります。
最近の社会的傾向を顧みると、「癒し」という言葉が数年前から注目されています。


なぜ癒しが注目されていいるのか?

その大きな要因は、一昔前の「幸せの価値観」が壊れてきていることにあるのではないでしょうか?


一流大学を出て・・・、
大企業に就職して・・・
マイホームを立て・・・
幸せな家庭を築き・・・


一昔前なら、幸せに至る約束された道であったこれらの条件は、不景気という社会情勢によって脆くも崩れてしまっています。  ネガティブ」なマイナス思考の連鎖を考えると、多くの人は無気力になり、無力感に支配されてしまいがちです。


そこで安らぎを得たい、安らいだ心境を回復したいというニーズが、「癒し」を求める状態が多くなったと見えるのは錯覚でしょうか?  基本的に安易な癒しを求める傾向は、安易な方法で解決したいという要求に繋がり易いです。  戦後流行り、現代も復興してきているレイキも、基本は仏教のような複雑さや困難さを排除して、遠隔なんたら・・・というインスタントな傾向も出てきています。


色んな方法論を物色しても、何故か矛盾したループに入り込み、どれをやっても満足出来ない。

その原因となるのは、仏教が昔から言い続けている「自己愛着」に答えがあります。


少し脱線しますが、「自己愛着」が問題になるのですが、これをイコール「エゴ」の放棄と捉える人がいますが、それは正しくありません。  エゴというのは、理性と欲求のバランスを指す言葉で、成熟した自我を構築しないでエゴは悪いから放棄すれば良いんだと捉えると、様々な問題を引き起こします。
自我は成熟させ、大人の自我を形成させなければ、成熟した魂になることは難しいのです。
(仏教では、魂と言う概念は無いと考えますが)

問題は「自己愛着」なのです。

人によっては、「自分が嫌い」ですという人が居ます。 「自分に愛着はありません返って自分を嫌いです。」なんて人も少なくありません。  しかし、そういう人は、自殺したいなんて言ったりもしますが、こういう人は、完全に自己愛が強すぎて、しかもエゴが成熟していないので、我侭な子供のような「自己愛着」状態です。


しかも、本人にはその自覚さえ生じません。 自分には理性ある大人としての分別があると思い込んでいます。
しかし、あるのは子供っぽい衝動なので、本人は、幼少期のせいにしたり、場合によっては前世のせいにして自分を正当化します。今の「自分は悪くない」ということで、自己愛着を維持し続けます。

つまり、自分が嫌いだと言っている人の多くは、自分に囚われ、強烈な程に自己愛着を起こしているという気付かなければ、起こる現象の全ては人のせいにしてしまうので、本当の「自己責任」ということを実感する事が出来なくなってしまいます。




で、話は脱線しましたが、全ての原因は「自己愛着」にあり、それらの強敵を打ち破るのは、「空性」の理解に他ならないということがありますが、その為には「中観思想」を学んだ方が早いのです。 いわゆる「色即是空、空即是色」という般若心経で有名な空の教えですね。



この文章は、メールにおける質問の返答なのですが、同じような疑問を持つ人も居るであろうと思い、このコミュにて載せます。


要約すると、その疑問は三乗に対する問いでした。
その内容の違いと、取り組み方の違い、結果の違いについてです。


仏教における要点と、階梯を説明すれば一通り理解できるような気がしています。



まず、要点としては3つあります。

「出離(輪廻から離れたい)」することによって、
「慈悲(菩提心)」が起きるようになります。
そしてあらゆる存在は、自性としては存在していないと了解する「正見(ショウケン)」を持つことが悟りに至る要点となります。


この3つの要点は小乗、大乗、金剛乗のいずれにおいても重要な要点です。

小乗、大乗、金剛乗は、中学、高校、大学の学習の階梯のように、誰もが学習が進むと通っていく道です。

小乗は、テーラワーダ仏教と言い、スリランカやタイ等の東南アジアに伝播しました。
戒律を厳守し、我が道を進むことに集中します。 清浄なることを意図し、浄化こそが進むべき道と考えます。 ヴィパッサナーなどの観の瞑想や数息観などの瞑想法が日本でも流行りました。

大乗は、慈悲を御旗にし、空の教え、即ち中観派の教えと、ヨーガによって意識をコントロール技術を中心にする唯識瑜伽行派の教えがメインとなる取り組みを、大乗と言います。
 インドではその中観派と唯識派の教えは統合され、瑜伽行中観派と呼ばれました。


密教は、その瑜伽行中観派の中で発展し、最高の見解を有し、ヨーガの実践で、一生で解脱(ゲダツ)を達成するシステムになっています。

本来、大乗仏教の取り組み方では、殆ど無限に近い年数を掛け、悟りに近づいていくのですが、それを一生で遣ってしまおうと言うのが密教の教えです。
密教の教えは、邪であると小乗仏教の人達に非難された時代もありました。

当時は主に性エネルギーを使うやり方が中心になったからです。

 誤解を生むから秘密の教えになるのですが、教えが整理され、戒を守る出家者でも密教は出来るようになり、密教行者でも戒を守ることが重要であると、アティーシャというインドからチベットに呼んだ偉大な僧侶の活躍によって、矛盾することがなくなり、仏教は中学、高校、大学まで進めるように、小乗、大乗、金剛乗の階梯があることが示されるようになりました。



ちなみに、小乗の悟りは、阿羅漢果というアラハットの境地に至った状態を指しますが、これは大乗が目指す菩提(悟り)とは違います。
大乗の修行者から見たら、小乗の悟りは、ディアーナ(靜慮)の一種で、修行上の単なる通過点に過ぎません。



瞑想(禅定)における「止・観」の止を進める秘訣を纏めたのがこのチベットの放象図です。
カマシーラ著のラムリムの「止の章」の中身を図解化したものです。

日本には中国の禅の中に十牛図という禅の階梯を表すものがありますがその十牛図と比較されるものです。

ここから引用です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


チベットの代表的な牧象図です。
白黒写真しかなくて申し訳ありません…。


図を見て下さい。

右下に修行者の瞑想道場があります。
その左側に修行者が見えます。

1 修行者は、自分の自由にならない心(象)を
  正智(鈎)と臆念(綱)でつかまえようとします。
  ここで必要なのが次の2つの力。
   [1]教えを聞く力
   [2]その教えを理解する力
  黒い象は、心の落ち込みを示していて、
  黒い猿は、心が高ぶり散乱している様を示しています。
 ※個々のものに心を安定させる。



2 象の耳と猿の頭が白くなっています。
  心の落ち込みや高ぶりが少し、
  穏やかになってきている様を示しています。
 ※心を連続的に安定させる



3 象と猿の顔が白くなり、修行者の方を振り向いています。
  また、象の背中に乗っているのはウサギは聴覚を示しています。
  修行者は、
[3]教えを記憶し、常に思い出す力
  によって、象を綱でつなぎとめていますので、
  心が制御できるようになってきている段階です。
 ※心を引き戻して安定させる



4 象、猿、ウサギの体半分が白くなっています。
  修行者は、かなり象に近づいています。
  だいぶん、心が安定してきています。
 ※心を対象に近接して安定させる



5 修行者が象、猿、ウサギを先導しています。
   [4]正しく理解する力
  によって、心に振り回されることはなくなります。
 ※心を制御する



6 ウサギがいなくなりました。
  象と猿は後ろ足以外は白くなっています。
  修行者は前を向いています。
  修行者と心が一体化した段階です。
 ※心を鎮める



7 猿が完全に白くなっています。
  つまり、心の散乱が完全になくなったということです。
  これ以上、猿はついてきません。
  また、象をつないでいた綱もなくなっています。
   [5]努力する力
  によって、修行者と心が完全に一体化し、安定している段階です。
 ※心を極めてよく鎮める



8 象が真っ白になっています。
  修行者と共に、同じ方向に向かって進んで行きます。
 ※心を一点に集中する




9 象は完全におとなしくなっています。
   [6]これまでに蓄積されてきた力
  によって心が完全に落ち着いています。
 ※心を平等に安定させる。


こうして、「止」の瞑想によって精神集中力がつくと、
次に「観」の瞑想に入ります。
気をつけなければならないのは、「観」の瞑想は
「止」つまり精神集中の上に成り立つものなので、
常に、「止」と「観」のバランスをとることが大切です。
右上の2つに枝分かれした道は、そのことを示しています。

ちなみに、上部で空を飛んでいる修行者は「体」の自由を、
象に乗っている修行者は「心」の自由を示しています。

また道すがら、時々見えている炎は、
「努力の力」を表していて、
上にいくほど、炎は小さくなっています。
6以降は、全くありません。
つまり、6以降は、努力しなくても、
自然と心を制御できるようになるということだそうです。







この文章は、京都に住む、すずからんさんのものです。
あえて僕の文章は入れていません。
僕が聞いた放象図の解説と同じ内容だったので、そのまま引用させて頂きました。
引用元ブログ  http://plaza.rakuten.co.jp/naomist/diary/200907290000/
引用の文章と絵は違うものですが、絵は『大乗仏典 中国・日本編』からのものです。

五蘊の説明を求める要請がありましたのでここに説明します。
まずはテーラワーダの五蘊の説明を展開します。

五蘊とは、部派仏教における一切法の分類である三科(五蘊・十二処・十八界)の中の第一。
「蘊」 (skandha) とは集まりの意味で、五蘊とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものである。
この五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとして、五蘊仮和合(ごうんけわごう)と説く。
これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした。

なお、旧訳(くやく)では五陰(ごおん)五衆(ごしゅ)といい、特に煩悩(ぼんのう)に伴われた
有漏(うろ)の五蘊を五取蘊(ごしゅうん、paJcopaadaana-skandha)ともいう。

五蘊は次の5種である。

色蘊(しきうん) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言わ          れるようになった。
受蘊(じゅうん、vedanaa) - 感受作用
想蘊(そううん、saMjJaa) - 表象作用
行蘊(ぎょううん、saMskaara) - 意志作用
識蘊(しきうん、vijJaana) - 認識作用



初期仏教の世界
五蘊<ごうん>とは「生命とは何か」「私とは何ものか」という命題に対する仏教の答です。




panca(パンチャ)は「五」、khandha(カンダ)は「塊」「集まり」のことで、五蘊とは「五つの塊」という意味です。
仏教の特色は、物事を明確に分析して理解することです。
そのようにして、「私」を分析して見つけられた五つの塊とは何かというと、
rupakkhandha (色蘊)、vedanakkhandha (受蘊)、sannakkhandha (想蘊)、sankharakkhandha(行蘊)、vinnanakkhandha(識蘊)の五つです。

五蘊は「『私』を分析してみると五つの塊が見つかります。それ以外は見つかりません」という仏教の答なのです。
塊といっても山のようにじっと止まっているのではなく、滝のようにずっと流れ続けてどんどん変化しています。
人々は変化し続けるこの五種類の塊に「私だ」と固執して苦しんでいます。



1.rupakkhandha (ルーパッカンダ:色蘊<しきうん>)
 「私」を分析するとまずルーパの塊が見つかります。ルーパ (rupa) とは姿形のことで、言い換えれば「私という物体」
「私の体」のことです。私たちは、自分の体にひどく執着していて、「体のおかげで楽しい、体こそ大切だ」という勘違いをしています。
体に食事を与えたり、洗ったり、おしゃれをしたり、住むための家を建てたりして、必死になって働いています。
つまり体の奴隷状態です。


そして、体のことで高慢になったり見栄をはったりして、人を差別したり人と争ったりします。
世界中の財産は、ほとんど人々の体のために使われています。



 私たちが死んだら何が残るかというと、この色蘊 (ルーパ)が残ります。
人々が「自分」だと思ってすごいお金と時間をかけて一生懸命に大切にしている体は、感情を抜きにして冷静に見ると、ただの死骸なのです。
体は強烈な勢いで変化していきます。変化には二種類あります。生きている間の変化と死んでからの変化です。
どっちにしてもあまり気持ちのいい変化はしません。死んでからはもちろんのこと、生きている間でも体から出るものは、垢や、汗や、唾や、大便小便など、気持ちの悪いものばかりです。その上にどんどん古くなって悪化して壊れていく一方なので、ずっといろいろな修理をし続けなければいけません。
そうやって私たちは毎日体の修理をして、体を作り直す、作り直す、組み立てる、組み立てる。体はずっと流れて変化していく物質であって、そこには何か「私たるもの」「私という実体」はありません。



五蘊の説明その2


2.vedanakkhandha (ヴェーダナーッカンダ:受蘊<じゅうん>)
 二番目に見つかるのはヴェーダナー(受)の塊。ヴェーダナーとは「感覚」「感じること」です。
 目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、身体で感じる、人間はこれら五つの感覚器官にそれぞれの対象が触れることによって常に何かを感じています。ちょっと観察してみると、私たちは非常に多くのことを感じ続けながら生きているのがわかります。
ですから感じることにも塊という言葉(蘊)をつけて、受蘊といっています。

 ぼんやりと生きている私たちには把握できていないのですが、人間が感じる感覚は実は「痛み」だけなのです。
「神経で感じる情報は痛みだけである」ということは、最近の医学でも言われています。
お釈迦さまは2500年も前に「感じるものはすべて苦だと私は言います 」とおっしゃっています。
お釈迦さまが「私は言います」とおっしゃるときは、皆が理解できなくてもこれは真理ですよと強調されるときです。


 たとえば長く立っていると体が痛くなってきて座りたくなります。
座わってすぐは楽だと感じるのですが、座り続けているとまた体が痛くなってイヤになってきます。
よく観察すると、その痛みのごく軽い感じは、座った瞬間から始まっていることがわかります。
ずっと立ち続けたことによる体の痛みが、座って新しい感覚に変わった喜びで「楽だ」と思っただけです。
私たちが楽と思うのは、負担に感じる量の苦しみが消えることです。たとえば苦しいときに助けてもらうと喜びを感じます。
喜びを感じるために、苦が前提条件となっているのです。

 見たり聞いたり味わったりすることも、感覚はすべて痛みです。
あまりにもゆるやかな痛みなので気がつかないだけで、感じる対象の量が大きくなれば痛みだと気がつきます。
非常に強い光を見ると目が痛くなりますし、非常に強い音を聞くと耳が痛みます。
そのように、感じることは真理の立場から見ると苦(痛み)でしかないのに、私たちは感覚に強く固執しています。
いつでも「いい感覚はないか、いい感覚はないか」と捜しています。
人は気持ちのいい感覚を求めて争い、戦争までするのです。

 この感じることもすごい勢いで変化し続けています。ただどんどん流れ続けていく滝のようなもので、そこに「私たるもの」はありません。
でも私たちは何かを見ると「私が見た」と思い、音を聞くと「私が聞いた」と考えます。「私」「私」という自我意識は、ほとんどがこのヴェーダナーから生まれます。「私」という言葉にだまされてしまうのです。ただの言葉であることに気がつかず、私という実体があるように考えてしまうのです。感覚は滝のように流れ続け、消え続けていくものであって、そこに「本来の私」「私たる魂」などはありません。



3.sannakkhandha (サンニャーッカンダ:想蘊<そううん>)
 三番目に見つかるのはサンニャーというはたらきの塊です。サンニャーは知識のようなもので、わざわざ意識しなくても知っているはたらきです。私たちは、朝だ、昼だ、机だ、椅子だ、うちの猫だ、自分は学生だ、等々、考えるまでもなく非常に多くのことを知っています。

車を運転していて赤信号を見たらブレーキを踏み、カーブになるとハンドルを切る、それもすべてサンニャーのはたらきです。
教育とはサンニャーを増やすことです。

 私たちはサンニャーにも固執していて、「私だ」と思っています。「私はあの人が田中さんだと知っている」と考えます。
この「私」もただの言葉で、実際は「その人を再確認できるはたらきがある」というだけのことです。
人は、「私はこういう肩書きを持っている」などといばったりします。
科学者であろうが、八百屋さんであろうが、サンニャーの種類が違うだけなのです。
その、サンニャーにおける「私」という固執が、仏教の智慧が入る邪魔をします。

 サンニャーは頭の中でずーっと妄想として流れています。「私は医者だ」「私は男だ」「私たちは日本人だ」などと妄想をして、仲間割れをして苦しみをつくり出します。人々に調和をもたらす妄想というのはありません。「子供の時に親にひどい目にあった」などと思ってずっと苦しむのもサンニャーです。人はそうやって色々なことを思い出して、妄想の流れをつくり続けて苦しんでいます。

しかもそれに「私だ」とひどく執着しているのです。サンニャーも滝のようにどんどん変化していく流れであって、「私たるもの」「私という実体」はそこにはありません。

五蘊の説明その3

4.sankharakkandha(サンカーラッカンダ:行蘊<ぎょううん>)
 「私」を分析して次に見つけたのはサンカーラ(行)という心のはたらきです。
ちょっと自分を観察すると、心の中に「何かをしたい」という気持ちが常にあることがわかります。それがサンカーラです。
「パンが食べたい」と食べながら「紅茶を飲みたい」と考えています。
何かをすると同時に「それで次はこれ、それで次はこれ」ときりがなく、完全に落ち着いている状態は全くありません。
人は一億分の一秒でも何も思わずに頭を空っぽにすることはできないのです。そして単純なことをどんどん複雑にします。
たとえば食べることにしても、フランス料理、中国料理、会席料理、食べ方、作り方、等々すごい数の本があり、料理学校まであります。
音楽をやる、建物を造る、ケンカをする、戦争をする。そしてありとあらゆる感情をつくり出して苦しみます。
すべてただ「何かしなくちや」としているだけなのに、そこに過剰な意味づけをして執着します。

 この「何かしたい」というエネルギーがどこから生まれるかというと、その前の状態から生まれていまず。
ある行動をすることによって次の行動をしたいというエネルギーが出てくるという、ただそれだけのことなのです。
「行かなくちや」と行って目的地に着くと「帰らなくちや」というエネルギーが生まれます。
人はそこにも、「私が」という妄想概念を作りだしています。
「行かなくちゃ」という気持ちこそ本当の私で「帰らなくちゃ」というのは本当の私ではない、などということがあるでしょうか。
「〜したい」という気持ちも、どんどん変化しながら滝のように流れ続けています。そこに「私たるもの」「私という実体」はありません。



5.vinnanakkhanda(ヴィンニャーナッカンダ:識蘊<しきうん>)
 五番目はヴィンニャーナ(識)です。
識とは認識することなのですが、頭で知るのではなくて「心で識ること」で、私たちが「心」と言っているのがヴィンニヤーナです。
生物と無生物の違いは心があるかないかということですから、ヴィンニャーナは「命」「生きていること」ということもできます。
ヴィンニャーナは少しわかりにくいかもわかりません。
いわゆる心のはたらき、見たり、聞いたり、感じたり、考えたり、そういうはたらきです。
そうするとヴェーダナー(感覚)と同じようですが、バラを見て視覚として何かを感じることがヴェーダナーで、「きれいなバラだ」と認識するのはヴィンニャーナです。
その「きれいだ、バラだ」という区別判断をするための情報や価値基準がサンニャー。
サンニャーを使ってヴィンニャーナが識別しているのです。
ですから心(ヴィンニャーナ)がはたらくためにヴェーダナー(受)とサンニャー(想)が必要で、そこには必ずサンカーラ(行)
もはたらいています。この四つはいつでもいっしょにはたらくのです。

 たとえば手を上げるときでも、これらの四つがはたらいて、心が「手を上げたい」と手を上げます。
それで私たちはそれに「自分だ」と勘違いします。でもどの心が自分かと言われると、誰も答えられません。
心は瞬間瞬間変化消滅しながらダイナミックな滝のように流れて変化し続けるものであって、そこに「私という実体」「魂という宝物」を見つけることはできません。

 私たちは以上の五つの塊(五蘊)に「自分だ」と執着して限りない苦しみをつくり出しています。

科学も、経済学も、哲学も、生き方も、技術も、何から何まですべてのものは、「私は何ものか」とわからないこと(無明)の上に成り立っているのです。客観的な目で観ると、私たちはわけもわからずに複雑でストレスだらけの苦しみを「文化だ」「進歩だ」と勘違いしてつくり続けています。

食文化だ、ファッションだ、インテリアだ、とたいへんなのです。教育にしても、経済にしても、すべては競争しよう、戦おう、という怒りと欲の苦しみばかりです。
 ですから、お釈迦さまは「正しく観て、そういう悪循環から脱出しなさい」とおっしゃっています。
もし「自分は何ものか」と本当に理解できれば、全く生き方が変わります。
そこに究極的な平安、心の完全な安らぎ、生命が目指すべき涅槃が体験できます。
ですから仏道は、無明を脱出する道、世間を超越した道なのです。


以上がテーラワーダ(上座部)から見た五蘊です。

五蘊の現代的説明


五蘊は仏教の勉強されている人には常識的な概念ですが、慣れていない人も当然います。

そこで、この五蘊を分かり易く現代的な感覚の話に変えて説明します。


五蘊というのは、5つの集まりという意味です。

色蘊(しきうん) - 人間の肉体を霊眼で見ると、五つの元素で出来ています。 地・水・火・風・空の五つを見ると5つの色で見えます。
受蘊(じゅうん、vedanaa) - 感受作用   目・耳・鼻・舌・身体の触覚・意で捕らええる感覚的作用のことです。
想蘊(そううん、saMjJaa) - 表象作用   受蘊で感じた感覚をイメージ化する作用が想蘊です。 
行蘊(ぎょううん、saMskaara) - 意志作用  過去の経験に基づき、記憶を形成する前の印象のことを指します。 その印象の蓄積を行蘊と言います。
識蘊(しきうん、vijJaana) - 認識作用   物事を認識し、識別する作用の集積を識蘊と言います。



極めて簡略化し譬えて説明します。
簡略化された理解をベースにして、最初のテーラワーダの理解を深めて下さい。

色蘊は物質次元の肉体のことを指していますので、例え話を展開します。

TVを見ている人を識蘊とします。

放送を受信するアンテナやケーブルを受蘊と考えて下さい。
受蘊で、情報を受け取ります。

受けたデータを映し出すのが想蘊です。 つまりTVモニターが想蘊ですね。

気になるなるTV放送はビデオに録画します。
その録画するビデオデッキが「行蘊」です。

気を付けなくてはならない事が1点あります。
 普通の感覚では、ビデオデッキは「記憶」を指します。
ここだけ符号しないのですが、「行蘊」は記憶ではなく、記憶は「想蘊」に当たります。
行蘊は、「記憶になる前の印象」のことです。
欲求の元になるエネルギーの事で、その欲求のエネルギーが最初に立ち上がり、その欲求に類似した記憶やイメージを探し出します。
そして代わりになる記憶{イメージ(想蘊)}を立てて、そのイメージを追及します。
記憶ではない、欲求のエネルギーが「行蘊」なのです。

故・中村元東大名誉教授はこの行蘊のことを「経験の構成」と訳を当てました。


経験の構成の代わりのものを得ても、何となく違うと感じます。
自分が欲していた物は違うものだった・・・そんなここは良くあります。
欲しいのは根源的欲求だけど、それを認識できない。

そして欲求故に、動き始めます。 これが無明の始まりです。







クンサン・ラマの教えとして名高いこの教えは、このコミュにも、「クンサン・ラメー・シェルン」のルンを受けている人も、いらっしゃいますが、その中から、六道輪廻の世界の特性を表現している記述を挙げておきます。





地獄:
 地獄には十八の種類があり、そのうちの八つは熱地獄と言われています。
一番上が「等活地獄」下に行くにつれ苦しみが増していく。
「等活地獄」に生まれたものは、瞋りにまかせて争いを繰り返していた者ちである。この住人たちは、激しく闘い、争いを繰り返します。烈しく争った末に、皆死に絶えると、天から声が降りてきます。
 「蘇りなさい」
この声で、死者は蘇り、また闘い始めます。



 四天王界の神の一日は、人間の50年に相当し、それが365日集まって神の一年になりますがその四天王天の五百年が等活地獄の一日に当たるといいます。 それを500年送ると、寿命が来ます。
人間の年数に換算すると、等活地獄に生まれたら、約4百50万年瞋りの闘争の苦しみがあるといいます。   これが一番軽い地獄です。



 第二の熱地獄は「黒縄地獄」です。
閻魔王の獄卒たちが地獄の住人たちを束にして、その身体に32本の線を引き、その線に沿って焼けた鉄のノコギリで身体を刻んで いくのです。
しかし、住人は死ぬことが出来ずに、苦しみだけが残っていくのです。

 この黒縄地獄は、等活地獄の住人よりも
更に寿命が長く、苦しみの期間は長いのです。




 第三の熱地獄は、「衆合地獄」です。数え切れないほどの生き物が、焼け
爛れた鉄の臼に入れられる。その臼めがけて、山のような杵が振り下ろされて、皆を潰してしまう。
 しかし押し潰されたはずなのに、杵が持ち上がると皆が生き返る。
この住人達は、のような恐怖と苦痛を気の遠くなるような長い期間、味あわされるのです。



 第四の熱地獄は、「号叫地獄」です。 扉も窓も無い焼けた鉄の部屋に押し込まれた数え切れない程の住人達が、いつも苦しみの号叫をあげている。 兜率天(トソツテン)−第四天界の神の一日は、人間の四百年に相当します。その神の四千年が、号叫地獄の一日になります。号叫地獄の住人は、その長い一日を四千年行き続けなくてはならないのです。




 第五の熱地獄は、「大叫地獄」です。  二つの焼けた鉄の部屋が入れ子状になっている。 部屋に入れられた住人たちが、仮に外に出られたとしても、そこにもまた別の焼けた鉄の部屋を見つけて、深い絶望と前にも増した苦しみを味わうことになる。楽変化天の一日は人間の八百年にあたり、その神の八千年が「大叫地獄」の一日に相当します。この地獄の住人はその苦しみを八千年も味わい続けなくてはならないのです。
   


 第六の熱地獄は、「炎熱地獄」です
宇宙全体をも覆うかと思われる巨大な鉄の鍋に、ドロドロに焼けただれた鉄が満たされ、その中にこの地獄の住人達が突き落とされる。
 苦しさのあまり住人が表面に浮かび上がってくると、地獄の獄卒が鉄の鉤(カギ)で押さえつけ、したたか殴りつけます。

 他化自在天の神の一日は、人間の千六百年にあたる。その神の一万六千年が「炎熱地獄」の一日に相当し、「炎熱地獄」の住人は一万六千年も味わい続けなくてはならないのです。



 第七の熱地獄は、「大熱地獄」です。
地獄の獄卒が手に持った焼けた鉄で出来た三叉を、この地獄の住人達を刺貫いて苦しめる。 三叉は、踵と尻の穴から突き刺さり、頭と肩に突き抜けている。 この地獄の苦しみがどのくらい続くのか、もう数えることも出来ない。



 第八の熱地獄は、「無間地獄」です
ここは最も過酷な熱地獄です。 灼熱の家に押し込まれた生き物たちに、絶えず、ふいごに煽られた火が吹き付けられて、火も身体も、見分けがつかない程になっている。 この地獄の苦しみを第七の「大熱地獄」の倍も長い間、耐えなければならないという。


 この最悪の状況に生まれる者は、父母を殺すなど恐るべき5つの大罪を犯したものと、密教の修行者で、師に背いたものだけである。





以上が熱地獄の八つである。他に八つの寒冷地獄、それとその他の地獄を含めると全部で18になりますが、これらの地獄の話は、リアルに想像して、そういったことろでも存在している生き物(地獄の住人)の苦しみを想像して、我々に巣作って居る様々な執着の力を弱める働きをしてくれるのです。

仏教を勉強する上で、お釈迦様の言説と、後の部派仏教時代の成立の時期に関しては、お釈迦様の真意を想定する上で、重要視する場合があります。



実際のところ、お釈迦様の生存時の教えはビデオのような記録は残っていません。
後の上座部と言われる、阿羅漢の境地に達した長老達が、お釈迦様のお話になった言葉を、状況において思い出し、従者であったアーナンダの記憶と、長老たちの記憶に基づき、経典が編纂されたのです。
阿羅漢の悟りを得た人たちなら、偏った見方をしないであろうと、目されたのです。


教えをちゃんと残して置かないと、教えが失われると危惧から、経典(記録)を書き留める会議が何度か行われました。

それは結集(ケツジュウ)と呼ばれましたがそれは第四結集までなのか、その後も有ったのかは、不明です。

その時に記録されたものが、残っています。
一つは、パーリ語として伝わったタイやスリランカなど、東南アジア地域に伝わったものと、阿含経典として残ったものの二種あります。

このパーリ語の経典は、テーラワーダの経典として残ります。
このテーラワーダは、教えを残すことを重要な使命と考え、教えや、律に対し、厳密に守られ、今も伝わっています。

ところが、お釈迦様の存命当時より、信者の数が膨大な数に達します。
乞食によって生活している修行者が何万人も居たら、施す側が大変です。 修行者が増えすぎて、その大勢に食を乞われたら、こられた側は大変です。

すると、当然、少しの食物さえ得られない托鉢の修行者が溢れるようになります。

すると、お釈迦様は、貯蓄することを戒めていたので、それに反発する人も出てきました。  人数が増えすぎたので、当時の律では運営できないと考える革新の人達です。

その戒律に対する解釈の違いから、上座部が分裂を起こします。
最初、上座部と大衆部に別れ、後に、解釈の違いから20の部派に分かれるのです。 そういった流れで、大乗仏教運動も起こり、中観派と唯識派が台頭しました。

お釈迦さまは、「空性」の教えは展開していません。
「空」を語った教えは、原始仏典にも多数残っていますが、空とはこういうものだとか、空の概念は無いのです。 


しかし、空の教えは般若経典に始まり、大乗仏教の核心的な部分です。
空の教えは、お釈迦様が言っていないから、仏教ではないなんて言う拘っている人も居ないこともなかったのですが、お釈迦様の教えは、「縁起」です。 縁起こそ、空の教えです。


縁起を軸にして考えると、アートマン思想は、真っ向から縁起思想と対立するのです。 仏教の中でも、本覚思想や、如来蔵思想は、仏教ではないという見解も強くあります。 そこに到達した唯識派は、最終的に否定され、ヨーガ(瞑想)や認識論・論理学は残ったのですが、取り組みは中観派に吸収されることになったのです。



仏教の根本義が「人間存在の迷妄から目覚める点にある」と言うことに異を唱える人は、まず、いないでしょう。


ところが、「悟り」って何だ? 「無知」って何だ? 「無明」って何だ?  っていう問題に直面します。


何となく解った積りになっても、次から次へと解らない事だらけであることを思い知らされます。


アビダルマ(存在の分析)の勉強をしても、原始仏教の勉強をしても、様々な言葉の指し示すものが何なのか? 

ということが解らないと、何となく解ったつもりになって、何となくイメージ的に捉えて、結局「何なの?」というものになりえます。


仏教は宗教でもありますが、哲学の部分が大きいのです。


人間って何なのか? どういう特性を持ち、どういう存在なのか?



「無明」とは、何ですか?

そういう問いが出てきました。

 僕は仏教は「縁起」が中心思想であり、「空」というのは縁起そのものを指していると確信を抱いているので、縁起と言う事を理解するようにお勧めしているのですが、問いの人物は「十二支縁起」に眼を付け、理解しようと勉強なさっているようなのですが、十二支縁起の始まりは「無明」ありて「行」あり・・・と始まります。

辞典で調べると、「無明」には色んな説があり、自分が納得できる理解となると、意外に難しい。

このように、理解に拘ると、言葉の使い方や用語の使い方には、こだわりも言葉の定義も必要であることを理解されてきます。

それが、僕が長いこと言葉が難しいとか、難解であると言われつづけながら、今のスタンスを変えられなかった理由の一つです。
(まあ、言い訳ですが(笑))


ですから、仏教などの哲学的討論をする場合、共通の認識に至る為に相互に寄り添う態度で挑まなくては、会話が成り立たないのです。

例えば、依所にすべき仏教理解の学会であったり、辞典であっても、バラつきも偏りもあるのです。
 多くは、近代の仏教研究による成果に期待せざるを得ないのが現状ですが、学者によっても見解が違います。

例えば、先に挙げた「十二支縁起」も最初からあったものではなく、後から教理研究の中で付け加えられたものである。 その根拠となるのは、成立が一番早かったであろう、この経典の内容には載っていなかったが、歴史学的視点で、後世になって付け加えられた単語である。 と解ったものも沢山あります。  そういう意味で証拠は沢山そろいつつあるのです。 そうやって経典の成立時期や時代背景なども解る様になってきています。


あれ? 時間が来てしまいました。
これから、仕事に出るので、ここで一旦終了です。

全然本題に入れませんでしたが、用語の重要性も、言っておきたかったものですから、まあ、善としますか(笑)

僕自身としては、「縁起」こそ仏教の中心だと考えています。



仏教の根本義が、人間存在の迷妄から「目覚める」点にあることは、言うまでもないと思います。



それに対して異議がある人は居ないとも思っています。


「輪廻」に対しては論理的帰結として当然あるものとして仏教徒は考えます。
これは、生まれ変わる主体のことを「心相続(シンソウゾク)」と言い、縁起による消滅を繰り返すものとして捉えています。 

永遠不滅の真我(アートマン)があることを否定するには、その内面に、全ては縁起するものであるという理法を見ているからです。


ここのあるトピックでは輪廻の有る無いに時間が割かれましたが・・・(苦笑)



しかしながら「悟りが」あるか無いかの議論には、賛否両論あることだと思います。
それは、「悟り」があると考えると、悟りの「理法がある」ということになります。

その理法のことを「法(ダルマ)」という表現がなされますが、それを「真理」とか「最高の存在」「最高の本質」等の訳が与えられます。ここで、法界(ダルマ・ダーツ)の意味と結びつき、如来蔵思想や阿頼耶識思想とが「世界」の根源の姿として浮かび上がります。


ここで出てきた「最高の存在」こそが、アートマン思想なのです。
その存在は壊れない常駐のもので、不変です。

ここで展開されている如来蔵の思想には、世界地図の様に、二元的な空間を想起した時間の無い空間です。
縁起は、時間と密接です。和辻哲郎博士や宇井伯寿博士は「縁起」に時間的な関係は無いと解釈され、和辻博士はアビダルマの法有の立場を取り、十二支縁起を胎生論的解釈を充てるというトンでもない理解を与えているのです。 また宇井博士も十二支縁起の時間の関係を敢えて概念上の区別に過ぎないと、日常の生活を、全体としては「実在である」として十二支縁起を複雑に曲解して「縁起」説を時間の無い相依説にしてしまって、更に玉城康四郎博士の華厳思想によって・・・時間無き空間の中国華厳哲学の二元論の導入によって、宗教性の無い「仏教」が台頭したように感じるのは、僕だけであろうか?

現代の異様なスピリチュアルブーム等の源流はその辺にあるのではなかろうか?
そう感じてしまう今日この頃です。
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)はご存知でしょうか。

これは在家の修行者様にゴエンカ氏が主宰してインドに本部があって各国にセンターがある「ダンマバーヌ」と言う非営利団体のセンターでヴィパッサナー(観)の実践をする為のお釈迦さまの教えの経典に基づいたセミナーで使う基となるお経です。 やっている人達は、自分達はお釈迦さまの言葉を信頼しその実践をしているので、小乗とか大乗とかは関係なくてブッダの言葉に忠実であることを誇らしく思っています。 がそれがテーラワーダなんだと言うことは知らないようです。 ダンマバーヌを小乗であると批難する気は丸で無く、逆に大乗だとか、金剛乗をより素晴らしいと、主張する場合は、より上の階層にあるなら、下の階層の要件を包含しなくては、単なる水掛け論にしかならないので、大乗や密教を名乗る場合は、テーラワーダの良さが分かっていなくてはならないと思うのです。 例えばテーラワーダを卑下する人が日本には多いのですが、修行レベルも意識状態もテーラワーダの実践している人には全然敵わないと言うのも多いと言う事も良く見られます。

僕の率直な思いを言えば、知恵が磨かれている筈の、日本の仏教オタクより、テーラワーダの実践をしている人の方が、人としても、仏教の実践者としても優れている人が遥かに多いなと思うのです。
当然の様に、物事に自性を観てしまうと言う弱点はあるのですが、それにも自覚して乗越えるという利点があらから、ダンマバーヌの回し者の様な事をいってますが、ヴィパッサナーの瞑想は経験した方が良いですよと言う事なんです。


最初に挙げたサティに参加するには、ゴエンカ氏のアシスタント指導者であるアシスタントマネージャーを少なくとも1回、それ以外に十日間コースを三回修了していることが参加資格となり、しかも前提となる条件があります。

・エネルギーを使ったヒーリングを他者に施している方は参加できません。
・すべての戒律を、できる限り守っていること。



サティパッターナスッタコースは、通常の十日間コースと同じ時間割や規律を守って行われます。 通常のコースと違う点は、夜の講話でゴエンカ師がサティパッターナスッタを読み、講義されることです。 これはとても重要なテキストで、ブッダがヴィパッサナーについて順序立てて説明したものです。 このコースは真剣にヴィパッサナーを実践する生徒の為のもので、参加するには十日間コースを3回終了し、 最後の十日間コースから別の瞑想法を行っていないこと、 1年以上、毎日ヴィパッサナーの修行と5つの戒律を守ることを心がけていることが求められます。


ダンマバーヌの紹介になってしまいましたね。
>>[40]

「色」とは外界(直接的経験によるセンス・データ(感覚所与))のことかと思ってました。

自らの身体のことなんですか・・・。
>>[49]

色は元々は身体を指している事だったのですが、それが外界の存在を指すと言う意味も包含される様になったと言います。 そう言う意味の包含・拡大は『ダルマ』も色んな意味と関連付きますよね。
>>[41]

人間が感じる感覚は実は「痛み」だけというのは、新鮮でした。
>>[51]

笑、刺激が強まれば痛みと感じ。
軽ければ、心地よいものになるのでが、快感も強くなると痛いんです。

禅定でも良く感じるのですが、行が進むと、身体はより深いレベルの構成要素(粗雑な身体・微細な身体・元因体)等のことですが、生体生理学上の変化が起こる様になります。

で行で非常に強い快感状態になることも多いのですが、余りにも快感が強くなり過ぎると身体か、雑巾絞りの様に、非常に強い痛みになるんです。

>>[50]

元々は身体のことだったというのは知りませんでした。

ありがとうございます。
聞・思・修が必要な訳。
特に仏教を学んでいる人には馴染みがある言葉ですが、教えてを沢山聞いて学び、その事を良く吟味(考えて)して、繰り返し習得する事なのですが、

なぜ、そんな事をするの?
修行なり勉強をしてる人、答えられますか?


病気に対するアプローチと同じで、今苦しいから今だけ凌げれば良いや、と思う人もいるでしょう。
大変かも知れないけど、この期に根本から治したいと考える人もいるでしょう。

あなたは、どのタイプですか?

根本から治したいけど、複雑だし、方法が分からないと言う人が多い様に思いますが、どうなんでしょうかね?

話しは戻って、聞・思・修、つまり学んだり、修行するというのは、何の為?

ブッダになる為、悟りを開く為と、言うかも知れません。 じゃあ、悟りって何だ? という事になりますよね。 あえて簡単に言うならば、「気付く」事なんです。 何に気付くの?思い込みや勘違い、知らないこと、分化されて無いもの事の事なんです。 だから宗教としての仏教は、入り口の形なだけであって、どんな形でも良いんです。振興宗教でも良いし、アニメや占いでも、勘違いや思い込みを脱却出来れば良いのですが、社会的に問題になるもの達は、だいたいその逆の方向性をもっているのです。



>>[55]

明瞭な認識、認識の分化、不満足さの自覚、全部、気付きに向かうことで、解(ほぐ)されて行くものです。

僕が主張しているものが、仏教の本流から脱線さていると思っている人も居たかも知れませんが、仏教といペルソナ(仮面)を敢えて被らない、誤解されることを承知で、こういうスタンスなんです。
>>[58]

そうでしょうね、しかし繰り返し、聞・思・修を繰り返す事は必要ですが、それだけでは無く、こころを鎮める止の修習をするか、同じ効用のある取組みが必要なのです。 考えているだけでは、正しい見解に到達出来ないので止の修習が必須なのです。
>>[58]

色々吟味して、気付きは深まって行ってますね。
それはそれで大事な事です。

それだけじゃ、足りないという事を頭に置いていて下さいね。
>>[62]

いつも謙虚である習慣は、自我が肥大しない為には、役に立ちます。

自我は自己正当化が凄く巧みで、少しづつ慢心は大きくなり、対象の否定は、自己正当化から始まり、自我感は肥大して行きます。 それも心を止めて観照していれば、内なる自我の肥大の発育を知る様になるので、退転はし無くなり、ある意味無敵になりますよ。
対話の展開が理解を深めますね・・・。

楽しみです。
>>[65]

止が出来る様になると、今は未だ知覚できてい無い、もう少し微細な事柄も解決していくなので本当に良かったと思いますよ。
お知らせします。

心の状態の話しで、障害となる2つの状態に使っていたものがあるのですが、「コン沈」と「掉挙」と言う漢字を使っていたのですが、変えます。

コン沈は、沈鬱。
掉挙は興奮。

に変えます。

元々はカマラシーラが『修習次第』で記し、それをツォンカパか、ラムリムチェンモとして書き下ろしたものを、同じツォンカパの系譜であるダライ・ラマが『仏教哲学講義』として著した本と同じ表記に変えましたので、宜しくお願い。

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