ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

おも詩ろ荘コミュの2012・春季詩‐1グランプリ!

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
【2012春季詩-1グランプリ】開催要綱

投稿期間:4月1日(AM0時)〜30日(AM6時)

審査期間:4月30日〜5月6日
(審査結果公開期間:3日〜6日・PM6時)

結果発表:5月6日PM6時以降、日付が変わるまでに管理人が発表。

合評期間:5月6日〜

【投稿について】

?三編まで投稿できます。

?当コミュ未発表の作品をお願いします。(ブログやmixiの日記などで公開された作品の投稿も可)

?作品には必ず題名をつけてください。

?投稿作品は、後の合評会の批評、感想を受ける対象となります。

?締め切りまでに作品の入れ替えは可能です。

【審査について】

?公開審査といたします。当トピにて?の要領で順位を公開ください。

?「3位までの順位づけ(1位=5ポイント、2位=3ポイント、3位=1ポイント)ですが、投稿作が20編を越えれば、5位までの順位づけ(入賞は3位まで)といたします。

?ご自身の作品への投票は禁止いたします。

?順位の公開とともに、簡単な一言、寸評、総評をお寄せいただければと思います。

?審査期間締め切りと同時に、集計結果を出し、チャンピオン、2位、3位を発表いたします。

?3位(5位)以内に同一人の作品が複数編入ってもよいものとします。

?投稿された方は必ず審査に参加してください。

?投稿されなかった方でも審査の参加は可能です。奮ってご参加ください。

?3位までに入賞された方は、合評が始まるまでに、当トピに「受賞の言葉」をお寄せください。

?各人の審査結果は、26日〜30日の結果公開期間に入ってから発表ください。


【合評について】

 参加は自由です。投稿参加されなかった方もどうぞ感想、批評をお寄せください。本企画の眼目でもありますので、より多くの方の参加をお待ちしております。

【失格について】
以下の作品については失格となります。

?題名のない作品
?締め切りを過ぎて投稿された作品
?審査に参加しなかった方の作品

【その他】

?審査、合評期間前の作品の寸評、感想を述べることは可能です。ただし、審査に影響が出る可能性があるような突っ込んだ批評はお控えください。
 なおその際は当トピではなく「つぶやき部屋」などをご利用いただければと思います。
 
?作者の方は自作について深く語るのは合評後までお待ちください。


 以上、ご不明な点ありましたらコミュニティ内のいずれかのトピにて管理人までお願いします。
 お一人でも多くの方のご参加を、心よりお待ちしております。

コメント(107)

・よしたかさん『ゴリラカー』
「あーゴリよ/こーゴリよ」という言葉のおもしろさに全て持っていかれた作品でした。
散歩しながら「あーゴリよ、こーゴリよ」って呟いてしまう。

ゴリ(ラ)という言葉になんらかの意味を含ませているようにも感じられるのですが、何を意図したのかは私には読み取れませんでした。

ざっくりと思った印象を言うと、車に乗って進んでいく進化史の途中で横道にそれたゴリラ=人類は、話すことや薀蓄することを己の線路に乗せたのだけれど、それがゆえに情報に押しつぶされそう(パニック)になる。けれど笑って街へと進め。かなり強引ですが、こういう感じに読めなくは無い。

ですが、(これ以外の意図だったとしても)内容に意味を込めた詩として読むのだとしたら、ちょっと出来が荒いように思います。

 「車の車種」の重複。
 聞き取ったセリフの長さを考慮すると、「一瞬」という言葉は必要か。
 最後は何故「名も知らないこの車」なのか。

あたりに改良の余地があるように思います。
・べつのしかたでさん『コレは涙じゃない ver2012.』
「哀しい」という言葉からはじまる四行一連の中にある言葉の連ね方に面白さを感じた詩でした。
同じ言葉を連ごとに書く手法は私もよくやるものなのですが、

 四角い画用紙が
 冒険の目つきが

や、
 
 冷えてないフルーツゼリーが
 座りっぱなしのキタゾノカツエが
 ゆきてかえらぬ春山行夫が
 
など、次の行への飛び石のやり方が、私には思いつかないやり方ばかりで、非常に参考になりました。
個人的な好みを言うと、要所に出てくる

 ボクは泣いてない
 コレは涙じゃない

と、最後の

 でも
 ボクは泣いてない
 〜

は、もっと別の表現で書いたほうが良かったように思います。
よしたかさん 「ゴリラカー」。
よしたかさんの作品を3位以内にいれることができなかったことで、今回のレベルの高さがうかがいしれようというものでありますが。
 
好きだなあ、ゴリラカー。ていうかたまらんねこのゴリは。
 たぶんメシとかアホみたいに食べるんだろうな、ゴリは。で、ナイター中継見ながらウンチク垂れつつビール飲みまくってる。車と女の子が好きでね、昔だったら『スコラ』とか『GORO』は毎号買ってるな。エロDVDとかも爽やかな顔でどっさり借りるのかもしれない(笑)。でもね、人情味には篤いんだよ、ゴリは。そういうゴリの輪郭がくっきり浮き上がってくる。
 でね、「おれ」はそんなゴリ見て「あー、もうどーしよーもねーなー」と思いながら、ゴリのことが大好きなんだ。ゴリといるときの空気感がたまらなく気にいってる。
 居心地のいい作品なんだな。まるでゴリラカーの後部座席に座ってるみたい。
 だから、もうっちょっと読ませてほしかったなあ。「佳品」ではあるんだけど、それではもったいない。何よりゴリがもったいない。
 この感じで、連をもっと重ねていってもいいのじゃないでしょうか。ストーリー性にこだわる必要ははないけど、ロードムービー仕立てにしてもじゅうぶん楽しく読めると思います。

「ミッドナイト・ドライブにオレも連れてっておくれよ、ゴリ!」ってね、思いました。


ルウさん「鉄塔」


この詩は良くも粗にも見える部分があって不思議に思いました。凄く豊かな無防備に見えて。

題が「鉄塔」ですが、僕は「深呼吸」のほうが合うと思いました。
主題、投影としてある鉄塔が隅のモチーフになるほど、辺りへの視覚、心細いように巡らせる思案や無防備な等身大の心情に富んで、深呼吸、背伸び、を通り清らかな光が見える晴れ間に向かうから。
その包容力ある空間は鉄塔より、鉄塔を囲う円をイメージさせる深呼吸でした。

二連目などは、菜の花、セイタカアワダチソウ、桜の木の下にいた猫などがでてきて、モチーフの多さが雑にも見えて、セイタカアワダチソウって僕には聞き覚えないカタカタの植物名への引きつけもあり、また心情語りが続き、鉄塔がぼやけて離れていきました。
たぶん、二連目で大事にしてるのは日常の中で生きているものの、愛情や変化への哀感や寂寥や精神の根。

詩としては無防備にも見えて、精神性はとても魅力的で、すっごい不思議で安らかな気持ちになりました。豊かできれいな円を感じます。

セイタカアワダチソウは漢字にすると背高泡立草って書くんですね。
背伸びと背高を連想して、多分狙った効果ではいないと思いますが愉しい気持ちになりました。

ルウさんとけいきょうさんが互いにポイントいれたのはなんだかわかる気がします。
性質やアプローチは違っても日常を大切にしてて、自分の弱い部分を描いて、生に向かう意思をもって抜けるって共通点がある気がします。


きるさんたす考3

さて、先日作者が軽率あるいは意図的に重要なヒントを出してしまいました。それはポール・セザンヌの代表作「リンゴとオレンジ」です。本詩の冒頭に登場するセザンヌの実がこれであることを明確に示唆しています。私は絵の知識はないのですが調べてみますとセザンヌは静物画に革新的な手法を持ち込んだ画家らしい。写実的に外面を描かず、多角度的に捉えたり、重力法則や遠近法を破ることにより、存在の本質に迫る静物画を目指したとのこと。「リンゴでパリを驚かす」と語ったとされています。

この考え方は詩にも当てはまると作者は考えたのではないか?それで本作中に植物と食物(それも腐り易い食品を排除したもの)が執拗に列挙されたのではないか?


(続く)

 よしたかさんはパンクロックかなぁ、なんてことを思ってしまいました。とにかく音楽的。
歯切れがよくて、言葉を繰り出す角度が通りいっぺんでなくて。意味じゃないんだよ、意味じゃ、そのうしろにあるものなんだよ、ってのを言葉を打ちだす呼吸とかスピードに乗せて伝えているように感じます。だから、意味を追えば難しいけど、ノッて聴いたら、ああ、なんかわかるよ!って言いたくなる。

 よしたかさんが「詩はいいよ」って言っていたことがあって、よしたかさんの作品にはこの「詩はいいよ」が核になってると思う。詩というものに対する明るい信頼というのかな。

 で、今回の作品でいえば「ゴリラカー」とか「天気雨」なんかはやっぱりもっと読みたいと思うんです。ちょうど、エンジンが温まっていい感じになるところで終わってしまっている。いやん、いけず。

「午前5時のアシッドハウス」はいいですね。タイトルもいいし、出だしもいいと思います。私は書店に行って、タイトルだけを見て歩くっていうことをやります。で、目をひいたタイトルの本を手にとってめくる。
タイトルだけで、注意をひく力、或いはそういう言葉を持ってくる力というのは詩においても軽視できない要素だと思います。
出だしもピタッと綺麗に決まっている。出だしが決まるっていうのは、剣道でいえば最初の一足に成功するみたいなもので、自分自身と相手を自分のリズム、ペースに乗せることができる。文章の書き方で起承転結というけれど、最初が「起」という語で表されているのはなかなか含蓄があるように思う。

ただ途中でバランスを壊したんじゃないかなって感じました。息が切れたのか、リズムに乗りすぎたのか、語勢が言葉を追い越してよしたかさんの詩が持っている聴覚的、肉体的な部分が弱くなったような印象があった。

最後の最後まで迷った挙げ句、今回は選外にさせてもらいました。だけど、読むがわにしてみればよしたかさんの作品は言葉の冒険に近いとこがあって、ハラハラドキドキがあるし、「詩はいいよ」が聴こえるから好きなんだなあ、、、。
きるさんたんす考4

セザンヌの実=「リンゴとオレンジ」が本詩の大きな柱であることは後半に現れる、
 赤い楓も
 黄色い山毛欅も
 アルビノの蛇も

でも明らか。
絵画「リンゴとオレンジ」はリンゴの赤、オレンジの黄、テーブルクロス及び水差しの白で構成されている!

うにゃ〜。

さて、本詩はもう一つの特徴がある。ロードムービー(ストーリー)としての側面である。

(続く)

ps. お昼寝の時間です。
 大怪獣コヒモンさん 「ひとつの山」

 最初に読んだ時、また感想を書くにあたってはじめに読み返した時、各連の冒頭が引っ掛かりました。そう「愛」の一語です。もちろんコヒモンさんは確信的に思い切ってこの言葉を使っているとは思うのだけど、それがどうも生きてないように思ったのです。自販機のジュースとか卵焼きの記述はすごく胸に迫ってくるのだけれど、その前に「愛」を提示する必要ははたしてあったのか?と思ってしまったのです。

 んがしかし。

 突然なんですけど私ね、今とあるダンジョン型のPCゲームをやってるんですよ、ええはいこの年になってね、けっこう夢中(笑)。そのゲームにね、仲間として女の子妖精がいるのですよ。こいつがね、かわいいんだ。今時のギャル語でしゃべる設定でしてね。
 何が言いたいかといいますと、ここです。
 
<愛は咽喉が渇いたと言い>

 二回目に読み返した時、ここでその妖精のことふと思い出しまして、この詩の世界が自分の中で明確になったのです。 そんな風に繋げるのは誤読なのだろうけれど、でもこの作品の主人公が「愛の妖精」と共に登山しているのだとしたら。そう考えると自販機のジュースや、富士山のカップラーメンや、卵焼きと「愛」が一気に繋がったのです。

 だから、ここで書かれてる「愛」はけして抽象的なものではないのじゃないか。だけど、なにか具体的なもので表現できるものでもない。それこそ「愛」とでしか表現できないものなのだろう。だからコヒモンさんは「愛」とそのまま書いた。そのことによって読み手は喉元にいきなり切っ先突きつけられたのだ。

 私の場合はそんなふうに妖精まで引っ張り出してこないと、読めなかったわけなのだけれど、もしそのイメージに思いいたっていたら、三位以内に入れていたかもしれません。
 そしてまた読んでみる。
 もう一度読み返してみたくなる。
 つくづく滋味深い。スルメのような詩だと思う。

きるさんたんす考5

ロードムービーっていうと、個人的には「パリ・テキサス」ですかねぇ、なんてことはここでは関係ないですね。さて、本詩のストーリーの大筋を振り返ってみましょう。

1. セザンヌの実だと思いきや玉子豆腐。
2.  榛の実を食べたくて近所を徘徊
3.  漆が渦巻いて難渋。
4.  外に出られず、ギリシャ神らにくだを巻く。
5. 意を決し、握り飯などをリュックに詰めて旅に出る。
6.  渓流にてサワフタギに手を伸ばすが失敗、転倒。
7.  嫉妬と河原の芒に恨み言
8.  橋の裏をくぐる
9.  けものみちに出る
10. つがいの狸に遭遇
11.  狸ら逃走
12.  狸に挨拶するやり方に後悔。
13. 瞑想状態。狸vs自分、モノvs自体、記憶vs幻影、有vs無、らの相対関係が揺らいでいると感じる。
14. 悪魔学者からソラリスまで理解不能。
15. 自宅近くと思われるウエの植物園に空間移動。
16.  坂の途中の島崎さんに遭遇。自然薯と落花生を分けてくれるらしい。島崎は藤村かも知れない。

どうかしら?

あえて苦言を呈すらな、13.に工夫が必要。14.は不用。因みにスタニスワフ・レムは私の最も愛する小説家の一人だけれども、ソラリスも好きだけど、不要。

ちゅうことで、長きに渡り批評的駄文を書き連ねてきましたが、要は言葉の意味さえ分かれば、詩の概要を解析するのは可能であるということを証明したかったのです。普通の人に難解な言葉を使う場合は、是非脚注を付けて欲しい。

了。

ps. サイバネティクス万歳!
べつのさん、しましんさん、いるかさん、よしたかさん。受賞おめでとうございますブタ
さて、私もさっそく感想いってみます。体調が思わしくないので多少ざっくり行きますがご勘弁を。


べつのさん、「きるたんさす」。

話者はへべれけになってウンウンうなされている。夢の中ではとぐろを巻く秋の山の気に当てられてフラフラ状態。俺は秋の実りが食いたいのよ、玉子豆腐は夏場に散々お世話になったし(ましてや加工品だし)、タイモの粘っこい感じもお呼びじゃないの!でも望むものにはことごとく手が届かない。
夢は「けれども」を境に次々と場面転換する。そのうち話者は自分が夢の中にいるということに気づき必死に目を覚まそうとするが、覚めたと思ったらまた夢だったを繰り返すばかり。去れ幻影、自意識という名の狭いカオスモスで同じところをグルグル回るのはもうたくさんだ(>_<)
話者は夢から覚める。さっきまで迷い込んでいた深い山は実際には植物園ほどの規模だったのかしらん、と認識が少し広角的になっている。また、あまり好ましく思っていなかったネバネバ(ジネンジョ)をくれると言われても「社交辞令はつまらん!」とはならず、キルタンサスのように腰を曲げて礼を言える大人の対応。他者と交わることでしがらみ(ネバネバ)は増えるけれど、自分だけでは得られられない実り(落花生)を貰えたりもする。
と、私は心の成長の物語として読みました。べつのさんの詩はデリダの思想を勉強してから読むとまた違った魅力が発見できそうですがWikipediaの説明は私には難しすぎた。べつのさんはどうしてそんなにギリシャ神話が好きなのかなぁ、と小学生並の質問しかできない私をどうかお許しください(^_^;)
大怪獣コヒモンさんのひとつの山

こんばんは。

愛と表記するものが、愛とは言わない大きな愛の山をのぼってるものなのかな。

たぶん連の頭の愛が胃袋って名前を表記する役割。
胃袋。愛の胃袋は事象などをこう消化して愛にしてます。ってこと。

山の景観や険しい部分はあまりでてないから、精神的なものや命のサイクルの意味にかかってる。
連の頭ごとに愛と言ったものを観念的にどこか滑稽で愛着湧くような感じでだして、見るもの、食べるもの、思考を、咀嚼しながら汲み取るものを確認していって大きなサイクルの一部であることを日常的な意識や思考のとこでどこかはぐらかしつつの語りでだして、最終連の二行でぼかしてたサイクルを強くだしたような。
タイトルがひとつの山だから、詩的というよりは観念的にたくさん表れたものより、大きなものを見ました。
背後に事実としての山と違う山をのぼってるような精神みたいなものがあり、どの山もひとつの山ととらえてるような気するし、その器官の動きのどっかはぐらかしたような日常的表出がいい塩梅なってる気はします。
けいきょうさんのスルメ要素は同意。モヤモヤの要素もあります。

難はもっとタイトル以外に巨視的なものがあってもいい気がしました。
最後自己のサイクルに結んで、ひとつの山ってタイトルがあるから僕は大きなサイクルの中でのものに見た部分はあるのだけど、事実としての山をちょっとないがしろにしてるような切り取り方、作り方がどこか閉じてる部分もある気がする。この部分になにか余地がある気がしました。

コヒモンさん、「ひとつの山」

「愛」の言葉遊びが楽しい作品です。一連目では概念としても人名としても解釈できるのが、二連目では「あれ、娘さんの名前かしら?」と人寄りになり、三連目ではもっと抽象的なものへ広がっていく。
また、これを全体を人間の成長過程として見ることもできます。一連目で赤ちゃんの「名付け」以前の認識の場における愛着を匂わせ、、二連目は知識を獲得していく子供〜大人の不貞不貞しさになんだかんだ愛しさを感じ(笑)、三連目はもっと達観した境地で自然の理のなかに大きな愛を見いだす。
構造自体がわりとシンプルなので、もっとタイトルにパンチがあってもいいかもしれませんね。「愛、山々(さんさん)と」とか……あっ、ダメ?

ペリカンさん、「生の残像」


まず面白いと思ったのが、歓びさえも「帰れ」と手放そうとするところ。一時の感情の波から逃れて高次な所から人生を俯瞰している。ストイックというよりは無常感。また、光の表現や「丘」「塩の柱」という言葉が聖書のイメージを喚起して作品を神秘的なものにもしています。
それから「ペパーミントの押し花」、この表現いいですね。第6連で過去を彩度の低い自然物で表しているから、よりいっそ映える。クローバーでなくペパーミント。香りが弾ける感じ。
でですね、実は困っております。第7連と第10連の解釈がまだ定まらないんです。
第7連の扉の向こうにいた「男」、おそらく話者自身なんだと思うのですが、それが過去の彼なのか未来の彼なのかが分からない。「懐かしい山野の気配を感じ」という文から考えれば過去。しかし、扉は進行方向にあるものなので時間の進む方向を考えると未来??
この扉の問題は第10連でも引っかかっていて、出会いや別れが「新しい扉」の向こうに去り、かつ、話者も「誰も知らない扉」の向こうに消える。これらの扉は同じ?それとも二つ?「新しい」ってことは人生を歩む話者の背後に次々と扉が現れている??ボカーン\(☆o☆)/
その辺についてもう少しヒントがあると第10連の静謐な映像がもっと生きてくると思います。
言葉を使う         いるか(敬称略)

まず、幾つかの設問と答えを考えでみた。

1. 言葉を言葉で説明する事は可能か?        答え      可能。

2. 数字を数字で説明する事は可能か?       答え       可能。

3..  意識を言葉で説明することは可能か?   答え     部分的に可能。

4.   感情のコアの部分(直情的)を言葉で説明することは可能か?
答え      不可能

今、論ずるべきは3.です。
私たち人間には進化の痕跡、単細胞生物から現在に至るまで、が遺伝子の情報として残っています。私たちが言葉を身につけたのは、長い旅路から見れば、ごく最近の事ですが、我々の意識の大部分は言葉に支配されています。何でも彼でも言葉に翻訳してしまう。痛い時も「痛っ!」とか言ってしまう。しかし、本当に痛い時は「ギャッ」とか叫ぶ。その時が言葉の支配を超えた事なんでしょう。本当に美しいものを見た時もそのような瞬間がある。

続く。

ペリカンさんの生の残像

吉兆夢さんが指摘した六連の聖書のような敬虔で神秘的なイメージとペパーミントの押し花の存在感は自分も。


まずこの詩は無常感の中で、生を噛み締める5連で終わる形もあったのじゃないのかなと。
そこに丘の人と扉という空間を肉付けして精神の奥行きをだそうとしたのかなと。
1つの核を三部屋くらいにして1つにしようとしたいうか。

丘は吉兆夢さんの言うとこの無常感を俯瞰してる魂としての語り手。
哀しみが捨てられた丘、朽ちた理想の丘と同じとして見ました。
荒涼としたイメージ、荒野の風が吹きつける中に丘に立つ、また詩の位置的にも、生や存在の孤独や苦味を裏付けて、孤高感や逞しさもかいまみえます。
生の中で出会った精神の成長ともとれる孤独な自己との出会い。
それでそれが各々の連の無常感と呼応して9連の清冽な香りのするペパーミントの押し花との対比で明暗の彩度を引き立てました。

歓びよ
木漏れ日の森へ帰れ

面白いって見方で、そっかぁと目をひきました。
今見ると、これの歓びというのは、この詩の中じゃ、歓びでなくなった歓びが歓びなるためにというニュアンスなのかなと読みました。固く強く結んだ手の中のもの、ペパーミントの押し花として後ででてくる。

扉の先にある木漏れ日の森。語り手の理想のビジョンなのか、それとも人間が行く死後の世界なのか(六連のイメージからも出たイメージ)、最終連で新しい扉の向こう、誰も知らない扉の向こうと記されているから、判断に迷うけど必ずしもいけるかはわからない、無常感、荒涼としたイメージの丘との対比としてある、闇があるだけ光があるような願いのビジョンで純粋な生に満ちた自然としての場所かな。わからん。ちょっとかすってます?
最終連は誰も知らない扉の向こう、つまり、それでもそこへ行けるかはわからないということ、またはペパーミントの押し花を見いだした木漏れ日の森への扉をすでに開け、哀しみが捨てられる丘の自己と出会い、ある種の調和をもった精神が開ける扉ということかも。
そして人それぞれ開ける扉は違う。
そこにある読後感には無常で孤独だけど、ささやかな光が射してるような。ペパーミントが強すぎにもなるのかな。

心地よく読めました。
自分も好きなのですが、抽象的な詩世界の中で多層で重複したイメージなどがあり、それが統合されてく道程の謎解きな味もあり、ぼやけた部分もある気がします。
ペリカンさんの生の残像は突っこんで読み解こうとすると、語り手と一緒に頭が整理できたり精神が落ち着く浄化作用がある。やり方が違う感じでルウさんの鉄塔と似た安らぎあった。読む側の自己投影にもよるんだろうけど、ペリカンさんのはこういうのをふまえてる気がする。なんか作り手なの忘れて読み手になる。どうなんですか?(=゜-゜)

私としてはペリカンさんの作品は「熱」が語調にはっきりでている点で、いるかさんとの共通点を抱きましたね。でも「熱」の度合いからするといるかさんのよりも激しいし、明確。こういうのを詩熱っていうのかな、とちょっとおもいました。
八木重吉の作品に「こころよ…」と心に対して呼びかけるものがありましたが(これは鑑賞部屋にも紹介されてましたね)、あんなささやきめいたものとは違う印象がする。で、やや照れ臭いというか、気恥ずかしさを覚えました。
だから一字一句に踏み込んで読むということができなかったんです。
ただ熱の高さに関して言えば今回の詩−1のなかじゃトップレベルなんじゃないかなと感じました。

前のコメントでよしたかさんが挙げてるような詩句を堂々と書けるところに、ペリカンさんの強さとか、詩というものに対する思い入れの深さとかがあるんじゃないかと考えることもできるんだけど、一方で言葉としての脆さ、あやうさみたいなものも感じました。どこかしら平面的な印象が拭えなくて。

「木漏れ日の森」ってきっと森のなかからじゃないとわからないんじゃないかな。木々の下、土や葉の群れの上に立ってみないと。そこには風も吹いていて、森特有の湿った空気や匂いなんかもあって、鳥の鳴き声とか虫とか小動物とかもいるわけですよ。冒頭にもってきたり、詩句として置く以上は、そこにもってくるだけの意義というものがあると思う。でなければ、木漏れ日でなく、明け方でも雨でも夕暮れでもかまわないんじゃないか。
そう考えると、「木漏れ日の森」というのが、希望のような明るいなにかが鬱蒼とした状況のなかにさしこんだ心象なのかな、と思えるけど、そうすると今度は「歓び」がそこにかえるというのがいまひとつわかりづらいんです。だからどうしても語感で選んだように読めてしまう。あるいはそういう心象とも違った単に、明るく澄んだ場所として読むと意味としては繋がるしイメージはしやすいんだけど、どことなく平板な印象を抱かざるをえない。冒頭にもってこなければならないほどの強さを感じないんですね。

で、まあ、「哀しみ」は「静かな丘に捨て」る。
こういう「感情」、あるいは「儚く貴い」ものが
とどのつまり「流れ」たり「消え」たりしてるってことはわかる。

これはたしかに「残像」を追っているのだから、平面的であってもおかしくはないんだけど、「歓びよ」という呼びかけは、いま目の前にそれを見ているように読めてしまう。感情が込められているように読めるんです。残像なんかではなく。

むしろ、消え去っていく感情を葬るとか、哀悼しているんじゃないか。ところが、流れていくものもわかるし、変転していくのもわかるんだけど、痛みらしいものもそこはかとなくしか読み取れない。というか、それすらも「流れ」てる感じがして、そこが脆いんじゃないかと思いますね。
この脆さを補うに十分な「おさえ」があればもっと違ったかなと思います。

「君は今どこにいる?」
ぼくが今いる素寒貧の路上
ふいに浮かぶもう会えない人の顔

ははは、まったく何やってるんだかな


けいきょうさんの「県道素寒ピオーネ」のこの部分。私はこの部分で、この作品を高く評価しました。ここは素晴らしい。殊に

ははは、まったく何やってるんだかな

は、実に詩はいいなあと思わされました。詩を読むことの歓び、詩とつきあってきたことの幸せを味わいました、はい。

出だしは、ねじめ正一のお茶の間詩的な印象でした。けいきょうさんがしばしば言っていた漫画詩のようなことを(たとえエログロであれ)ねじめ氏はやっていたような気がします。

しかし上に抜き書きした部分、これによってこの作品はただの闇雲に突っ走る単調な漫画から人間の生活感情の妙を描き出す劇画になったと思います。

「悲しみ」を「悲しい」と書く。または「悲しくない」と逆説する。そういう仕方でなく、また、悲しみを連想させるようなイメージをちりばめるでもなく、「自嘲する」もしくは自らを他者の目で見て、皮肉る。そこにひとりの個人が社会生活を営むうえで、逃れることの困難な引き裂かれの悲哀を読むことができます。

ははは、まったく何やってるんだかな

というなんでもないはずの一行が、生きることのうまくいかなさを捉えたとんでもない一行として屹立しています。

さて、それと私の好きなのは、懲りずにファイティングポーズをとるところ。ここに希望が見いだせるので。ファイティングポーズをとるかぎり一発逆転巻き返しの可能性はあるわけで(笑)

ははは、まったく何言ってるんだかな(((^^;)

吉兆夢さんやよしたかさんの書くように、ペリカンさんの作品が無常観に沿うものだとしたら(私もそういう受け取りをしていたようなんだけど)、けいきょうさんの作品はそれと肩をいくらか並べつつも、やはり対極に位置しているんじゃないでしょうか。活路を見いだそうとするとか、闘う意志を表明するというところで。
だからペリカンさんの作品も最後まで候補から外せなかったんだけども、どちらがよいとかではなく、より共感できるという意味でけいきょうさんの作品を採りました。
ペリカンさんの「生の残像」。

 前にも書いた覚えがあるのですが、ペリカンさんは「真善美」とでも言いあらわせることどもを我がものにしようとしているんだと思う。そう思ってる私にとって、

 そして見つける
 荒野の風が吹き付ける
 丘の上に立つ一人の男を

 ここはとても印象に残りました。
 
 作品云々というよりも、わたしはこの作品から「書き手」を感じました。今回いちばん「書き手」を感じた作品です。
 自分の作品、自分の「熱」へ絶対の信頼感を持って、ぶれることなく書いてるペリカンさんがこの作品から伝わってきたのです。もしかしたらこの詩はペリカンさんにとって創作者としてこのタイミングで「どうしても書いておかねばならない作品」だったのかも、と思ったりもしてます。

 羨ましいと本気で思うし、このまま、歯を食いしばって、まなじり決して、汗水たらして取っ組みあってほしいです。
 
しましんさん、「墨堤奇譚」

誰も言わないだろうから私が言います。
この詩の出色は第6連にあると。
大事なことなので二度言います。
紅茶をすする、待乳山聖天、の対面座位。これなくしてこの作品の魅力は語れません。

ぴゅあな私は最初こう思いましたよ。単に山と山が重なって並んでることの比喩だろうなと。そして念のために「待乳山聖天」を検索にかけ、それが浅草寺の子院の一つであることを知りました。
思えばここで止めておけば良かったんです。好奇心に駆られて「聖天」をググりさえしなければ「桜の木の下には怨念が〜おんねんっ(>_<)」と適当に紅茶を濁しつつ体位の記述をスルーすることもできたでしょうに…。

聖天…ヒンドゥー教のガネーシャに起源を持つ仏教の守護神。欲望を抑えきれない類の衆生に対して、まずは願望を成就させてあげることで心を静めさせて仏法へ心を向かわせる。形像は男天・女天2体の立像が向き合って抱擁している歓喜仏的なものが通例である。(By Wiki)

ここで「歓喜仏」も説明した方が親切なんだろうけど、あんまりやると管理人様から出禁を言い渡されそうなので止めときます。要は待乳山聖天はほんとに対面座位をしてますよ、ということ。意外と仏教って懐が深いのね…。
西洋と東洋(紅茶・寺院)、神聖と猥雑(神仏・性欲)。一見すると対極にある物同士をさらりと同居させてしまう軽妙な語りが舞台のリアリティとも相まって実に良い味を出している。明るさを伴った混沌、とでもいいますか。この妙味は桜と怨念の組み合わせだけではきっと引き出されなかった、第6連あってこその「墨堤奇譚」と言っても過言ではない、と年々散りゆく僅かな恥を掻き捨てつつ主張してみた次第です。押忍('◇')>
「言葉を使う」孝2

このように意識は言語下の意識と非言語の意識の二つに分けられる。我々の生活のほとんどは言語下の意識により営まれているが、動物としての発達史的に見ると、実は非言語の意識の方が広大なのかもしれない。言語下の意識ではそれを感じることができないけれど。

ああ〜、脱線してきましたよ〜。

本詩は三連目の穏やかな自然を描くことで、言葉を超えた感動を伝えようとしているが、言葉で言葉を超えた存在を表現する試みの矛盾を提示している。それと対極する形で、愛憎の修羅場を言葉で構成された世界として必然的に言葉で表現しているが、筆舌に尽くし難い怨念が心の奥底にあり、これは言葉を超えた存在ゆえに、同様に言葉では表現できないことを提示しているように僕には感じられた。

執拗に繰り返される「言葉」という言葉で、「言葉」では表せない非言語の意識を提示しているのではなかろうか?それは大変難しいことだが、じつは非言語の意識は海原のように広大であり、僕らが日常を送る言語下の意識はポツンと浮かんだ小島のようなものかも知れない。僕らは「小さな場所で大騒ぎ」しているだけかもね。

えっ?
詩について何かないかだって?
うーん。上手なんで特にアドバイスはありません。

了。

こんなに合評のコメントが伸びると読みなおすのに手間がかかって、パソコンが欲しいと思うわけで(笑)
コヒモンさんの作品、不思議です。いま読みなおしてみて、あらためて不思議だなぁと感じています。コヒモンさんはどちらかというと、まっすぐな詩を書くイメージがあります。言葉遊びめいた詩やユーモアを効かせた作品もあるのだけど、骨太で背筋が真っ直ぐ通ったというのかな、ストレートで勝負するのが上等とでもいうような気概の詩を書くイメージ。
そんなコヒモンが「ひとつの山」に登ると書く。「ひとつの山」です。なぜ「山」ではいけなかったのか。山に登ることが中心にあるのなら「ひとつの」はなくてもいいんじゃないか。論理に尽くすこともできるコヒモンが敢えて「ひとつの」を入れた、または削らなかったとを考えると、やはり必要な一語だったにちがいないと思います。日本語としては違和感があるけれど、この一語がなかったらなんの違和感もない普通の詩文になっていたかもしれない。詩は論理ではないからむしろこの奇妙さ、違和感こそが味になってると言ってもいいんじゃなでしょうか。

「愛」という語の使い方というか、違う角度から光をあてる仕方というか、これも面白いんだけど、詩行のすすみかたが単調なんですね。しかも特別に言葉の置き方に注意を払ってるようでもない。で最終の二行の巧さがある。

いえばこういうアンバランスさによってうまれたミスマッチの妙というか、奇妙さというかね。そこは詩だなぁと思うわけです。
巧いなあ、と思います。

 一位に入れた、じゅらいちさん「わんこの首輪」

 その前に「古代詩」「偶必然」について少し。
 この二編については、正直首肯しかねるところがありました。確かにこれは詩と呼んでいいのだろうけれど、「古代詩」においては衝動が、「偶必然」については主題が、あまりにむきだしになっているように感じました。上位入選を果たしうるだけの熱量という点において、やはりわたしは不満を抱かざるを得ませんでした。

 と、思っていたところに、きたよ、きちゃったよ「わんこの首輪」。

 やはりどこか「異界」に連れ込んでほしいという思いがあるのですわたしは、詩を読むときに。異界というのがおおげさならば「ここではないどこか」とでも言いましょうか。その力が自分にとっての詩性と呼べるものなのかもしれないなあと、最近思うようになってきてます。
 
 またも話はお門違いの方に向かうのですが、漫才師『笑い飯』がM-1で披露し最高得点をたたき出したネタ「鳥人」。あれがなぜあそこまで爆笑を誘い、伝説的ともいえる傑作ネタになりえたかといえば、聴衆を鳥人のいる異界に引きずり込んでしまう力、つまり詩性があのネタに満ちていたからなのではないかと、勝手に私は思っています。

 で、「わんこの首輪」。もう言わずもがなですが、一気に引きずり込まれました。わたしの思う詩性に満ち満ちているのです、この作品は。
 構成としてはみごとな「起承転転」の作品になっています。
 一〜三連、いいですねえ、なんだかこの主人公のとなりを自分もテクテク歩きたくなる。「まあ散歩ですね」の「まあ」がのどかな雰囲気をいっそう醸し出していていい。ストローハットもこの主人公の輪郭をいっそうひきたたせてていい。
 そしてわんこの登場。主人公はこの犬が「雑種のメスで老犬」であることを知っています。ということはいささかでもこの犬とこれまでに交流があったのかもしれません。ですから、彼とわんことの心温まる親交の場面が展開されるのかと思いきや…
 どぶに落ちるわんこ!

  すみません続きます(笑)

 
けいきょうさん、「県道素寒ピオーネ」

まだ寒い夜明け前の路上、自分の体を自分で温めるせわしない息で一気に紡がれたような詩。
第二連があまりにアレで身につまされます。

>はい仕入れと払いと税金のために働いております

うちでも車のローンやら何やらの返済でなけなしの給料はあっという間に飛んでゆきます。結果、支払い延ばせる税金は延ばせるだけ延ばせ〜、そして確定申告前にワタワタとお金の工面をするというね。ほんと、いつになったら楽になんだか、宝くじも全然当たんないし…グチグチ(>_<)
とまぁそんなわけで素寒貧レスラーのファイティングポーズにはひじょうに共感が持てました。ともすると悲壮感漂う状況で敢えておどけてみせる(語り手は大真面目かもしんないけど)、そこが素敵。川柳に通じるものを感じます。
表現について。オリオン座の登場が舞台に奥行きを出していて良いなぁと。私語りの文章ってどうしても視野が狭くなりがちです。ましてこの詩はオッチャンのハイテンションシャウト+心情吐露のダブルパンチ、自分の吐息でまわりの景色も曇ってしまうというものゼハゼハ。
だからオリオン座という上方への空間の拡張がとても心地よかった。そして欲を言えば、もっと鳥の目があってもいいかもしれない。例えば、寒風吹きすさぶ街の、素寒貧の路上にいる、一人の男、というのを上から迫るカメラワークで見せるとか。語り手がレフェリーのくだりで自分を客観視するのにうまく連動できるんでないかなとそんなことを思いました。どうでしょう。
以上、すかんぴん上等オッス('◇')>


コヒモンさん、すいません。今頃になってやっと気づいて狼狽している午前03時33分のルウです。

コヒモンさんへの批評コメントで、敬称を入れていない箇所が多くありました。この場を借りて深くお詫び申し上げます。 
>ルウさん:
ははは、気になさらずに。
どちらかというと、怪獣は敬称なしのほうがカッコイイしウッシッシ
「わんこの首輪」 続き。

 で、わんこバシャンとドブに落っこちてからの展開はそらもうえらいことになってしまうのだけど。
 ここから先何を書こうかと一週間つらつら考えてたのですが、なんかもういちいち「ここがどう、あそこがどう」っていうのが無駄なことに思えるくらい何書いても「蛇足」になってしまうように思えてきたのです。
「狂気性」という言葉で読み解くべきなのかなあ、ここから以降は。でも背中に怖気が走るようなことはなかったし(私はね)。
 持ち味なのだろうなあ。ぞっとするような場面や事象を書いても、「巧まざるユーモア」につながって笑いを誘うことができるという。

 ただひとつ言えるのはこの場面をエッセイで書いてもちっとも面白くないのだろうなあ、ということ。散文で表現するとなると、どうしても「理由」を書かなくては読み手は納得しないですからね。この主人公がどうして散歩していたとか、これまでに犬とどのような関係があったかとか、このご令嬢がいつからどうしてこんなんなっちゃってるのかとか、そんなの逐一説明されて、この場面描かれてもちっとも面白くないと思う。この作品に満ちている「理由のなさ」は詩でしか表現できないだところのものと思うのです。

 あとこれ読んでですね、去年(おととしだったか)の夏の盛り、コンビニ行った時、黒いドレス着たオバァちゃんがレジのオネエチャンにトラッシュトークかましまくってて、オネぇちゃん困りきってて、「うわぁ〜なかなか香ばしい風情やなあなぁ…」と思ったのですが、買い物終わって店出るとき、この「黒いドレスのオババ」とほんの一瞬目が合って、そしたらオババこんどは私にトラッシュトークしかけてきて、もちろん無視して店出たんだけど、後ろから何か話しかけながら駐車場までず〜っとついてきて、「早よ逃げな…」と思いながら車に乗ったんだけど、「どこまで行かれるの?私も乗せていって!」と助手席に乗り込もうとしてきて、もうホントにこわくてこわくて、
「ヤバイヤバイヤバイ…」
と呟きながらソッコーバックで逃げました。

……というようなことを思い出したのですよ、ということをご紹介させていただいておきます(笑)


 >  ほかけさん


 拙作気に入ってくださりどうもありがとうございます♪。

 1ヶ月遅れの返信になりすみませんでした。




  べつのしかたで(^^;)




 > ペリカンさん。


 平明秀逸な読解。しかと落掌いたしました。微に入り細を穿つ。ペリカンさんや皆さんの細やかな解析のおかげで拙作にもずいぶん箔がつきました。

 どうもありがとうございます!。




  べつのしかたで(^^;)




ルウさん、「鉄塔」

ゆっくり走るローカル線の車窓から日常を覗いたような詩。
遠くには孤独に立ち続ける鉄塔、それを取り残すように移ろっていく景色、語り手もまた寄る辺なく流されていく。
アワダチソウ、鉄塔、煙る山々、この寂寥感が何ともいえない。けいきょうさんがアワダチソウを使った詩を書きたいと仰っていましたが、実は私も同じことを考えてたので「やられたなぁ」と(笑)なぜか彼らには詩情を掻き立てられるんですよね。さして綺麗なものでもないし、鼻は痒くなるし、繁殖力が強くて繊細でもない。この図太い植物が人工物の中にぽ〜んとあると途端に「わびさび」を醸し出す。不思議です。
で、作品の話に戻りますと、私もいるかさんと同じく最終連の「晴れ間」に違和感を持ちました。自身の卑小さ、生きる切なさがこんなに軽く昇華されるものだろうか、と。軽く、と感じたのは最終連の「深呼吸」がうまく働いてないせいもあるかもしれません。感傷的な気分を切り替えるスイッチがさらりと流れてしまっている。あと「晴れ」という言葉がプラス寄り過ぎるのかな。もう少し微妙な、+0.2くらいあたりのに抑えてみてもよいかもしれません。そんな感じです。

ログインすると、残り76件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

おも詩ろ荘 更新情報

おも詩ろ荘のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。