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おも詩ろ荘コミュの詩と詩のぐるりをうねうねと

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 詩とは何か。これについて書かれた著作はたくさんあります。詩の入門書なるものにも詩とは何かについて触れられているものは少なくありません。これはどういうことを意味しているのでしょうか。

 詩というものを文芸、つまり、芸術のジャンルに属するものと考えるとして、他の芸術、例えば絵画や彫刻、建築などなどに、これほどまで「とは何か」と問われ、また問い直されることがあるでしょうか。

 これほどまでに問い直されつづけるのは、その背後に詩というもののわかりがたさ、定義し難さ、また詩というものに対する考え方の多様な変化があるからだと思います。

 実際に、詩を書いていたり読んでいる方々のなかには、いったい詩とは何だろうと疑問に思った経験をもつ方もいるのではないでしょうか。私もそのなかのひとりです。

 もちろんこれまでに幾度も繰り返し語られてきた「詩とは何か」という問いに、明確な解答を与えることができるとは思いません。しかしながら、詩と詩にまつわる周辺をぐるぐると散策してみることで、詩という不可解なものへの理解を広げ、深めることができればという思いから、このトピックを立ち上げてみました。

 学究的な考察になるという自信は残念ながらありませんが、詩について考えるための参考や刺激になればと思います。

 また不足の点、行き届かない点などについては皆さんの補足や意見などいただければと考えています。

おためし、おためし。飛べたら本こ。
(うおー、堅い〜)





コメント(147)

諸井さんの言われていること、わかりますよ。言葉でというよりも肌で。

私の経験した〈失語〉に関して言うと、それまである程度既知としていた世界とか自己とかが瓦解した――瓦解には至らなかったとしても弾けとんだ。

私は谷川俊太郎の「芝生」だとか「コカコーラ・レッスン」だとかに共鳴した記憶が未だに残っているんですが、私にとっては「その時」の感覚を思い出させたからなんですね。あのなんとも表しようのないこと、これは外的とも内的とも言い難いことを、言葉によって定着していたこと。それにはまったく詩のもつ言葉の力とか詩人の業というもの、それからやはり、詩という世界の内部で、他の言葉と関係をもつことで、既知の言葉を未知のものとして出会わせる力を内在させている言葉というものに驚きました。

たとえば草がありますよね。私にはその時草が「草」であることが不思議でならなかった。あの皮膚感覚や温度、形や動き、そのようなものが在るということが異様にも感じました。だから草に触って眺めながら、何度も「草」と声にだしてみたんです。

草が在るのではなく、存在が草をしているとしたら、草という言葉が在るのではなく、「草」という〈言葉〉の言葉(詩)が、「草」という〈言葉〉の形をとっていると言うこともできるでしょう。この時の動き、存在がある言葉になろうとする時の動き、蠢きを詩と呼ぶ、そのように理解すればよいですか?

それから書かれていることとは外れますが、私には多神教と一神教というのは、円錐形の底面の中心から頂点に直線的に伸びた一本の線と周縁から螺旋形にのぼる曲線というふうに思えてしまって、異なるように見えながら、同じひとつの円錐形に属しているという気がしてなりません。まあ、このことは、トピック上、大きなズレになりますね(汗)

うーむ。予想通りわからなくなってきた(笑あせあせ(飛び散る汗))



> 諸井さんさん

海外だと、いまはわからないけど、脚韻を踏む伝統てのがあったからね。

日本なら、西洋詩が入るまでは、中心は一行書き下しの短歌形式だったわけ。まあ、歌謡とかを除けばね。

で、西洋詩が入った時に、行わけ・改行って道がある、って発見があったわけ。それまでも聖歌をモデルに試されたりもあったんだけどね。

短歌形式だと一行にこめなきゃならない。でも、それだとこぼれてしまうものがある。ってことで、伝統的なリズムや詩的感覚を残しつつ、しかもそれまでの短歌形式とは異なった新しいしかたで表現するために、用いられたんだよ。

歴史的に見て、いきなり「飛び越える」はまずないね。


> 諸井さんさん

歴史的に、ってとこはひっかかっるかなーと思ってたんですが、ほんとにひっかかるんですね(笑)

(詩の)形式と本質について言うと、まず本質ってところを明確にしなきゃいけないと思うんだけどね、そこが書き手によって違うんじゃないかと思うんです。

詩の本質なんて定義できないよね、誰にでも適用するものとしては。逆に本質をすべからく詩の書き手や読み手に対して強いるとしたら、それはもはや詩とは呼ばないんじゃないかな。

言葉は詩という空間に置かれて、日常で使われてる言葉じゃない姿を見せることができることもあるから。
で、高橋さんの話をだしてくれて助かるんだけど、改行したら詩になる、なんてことはないよね。ていうか高橋さんが本気でそう書いたとしたら(つまり挑発でもなく戦略でもなく皮肉でもなく)、高橋さん、どうしたのかな、って思うよ。まあ、彼は詩人じゃないからかまわないんだけど(笑)

改行したら詩になるというのは大間違い、みたいな感じで北原白秋が民衆詩派を批判したことがあるけど、その通りでね、改行なんてしなくてもいいものを、無駄に改行して詩を書いたつもりになってるひとだっているわけ。

でね、詩というのは一面で省略の文法みたいなのがあると思うんです。全部を言葉にはしない。

たとえば、憂鬱な気分の時に歩いていると、子どもが遊んでいる、として、それを、

私が(ある場所を)(ある問題のために)憂鬱な気分で歩いていた(時)、子どもが遊んでいる(様子)を見つけた。

とは書かないで

私は歩いていた
子どもが遊んでいた

と書く。

この改行には視点の変化っていう動機がある。
それと、省略することで締めたり、想像を促したりする。読み手の想像に委ねてる部分もある。それから、何を強調したいかと考えると、強調したい部分を示すために改行を用いる場合もあります。呼吸の長さとかもあるかな。

書くよりも書かないほうがより多くの想像力を刺激したりする場合もある。人間心理には不完全なものを想像力や推察とかで補う働きもあるから。
だから改行に難しい推論をあてなくてもいいと思うのね。いや、改行は大切な問題のひとつとして残され続けてると思うけど、そのことと、ひとつの仮説に結びつけて説明してしまおうとするのは別のことだと思いますね。

それをするのは諸井さんの問題であって、私はそういうところに固執しないからもっと自由に考えたいと思っています。

ちなみに、改行ってときどきスリルですよ。ドキドキする。私はしょっちゅう改行で迷います。流れを切るわけだし、つなぐわけだしね、そこのジャンプと着地がうまくいくかは賭けにも似ててね、何度もやり直すこともあります。生身でやってたら間違いなく傷だらけ(泣)

書かれていない部分と書かれている部分の空間比というのも面白いけど、私なら書かれていない部分と書かれている部分との対立を含んだ調和みたいなところを好きに思います。こぼれそうでこぼれない表面張力の調和や緊張感ね。

短詩運動ってのもずいぶん以前にあって、それはやっぱり短いのだけど、短いなかで示そうと努力しているぶんエスプリも効いてる。膨らみも含みも感じさせる。

諸井さんの言うのはそれとは違って、絵に近いんじゃないかと思うんです。言葉を絵として見ているようなね。書かれていない部分(沈黙)に動きを感じとるというのかな。なんかそんな感じ。ちょっと禅なんかに似てるのかなと思います。

僕こういう言葉が不慣れなので読むので一杯になってるんですけど、やりとりにインスピレーションもらってます。

わかってるかわからないけどあれかな?ってなんとなく当てがある感じ。

ごくたまに一行ずつ改行してって、一行ごとに連想ゲームのように飛躍して、自分のそのときのたどり着きたいものを目指すって性質の詩をつくるときがあります。
それは諸井さんがどこかで言ってるのに近いのかな?

僕はここで連って言葉覚えました。
それは飛躍して核心みたいの触れるより、庭園みたいに石を空白の庭に自分なりの黄金比みたいので置いてくような感じに近かった。
余白が存在感あるやつです。
それと起承転結のような形式的なものもありました。これすごい堅くて無愛想だなと思ったけど好きなものもあります。

ルウさんが改行にスリル感じるのなんとなくわかる気します。
集中が散るとこぼしてしまう感じがあります。
最終連によく気が散る。

よく改行たくさん使う人で思うのは呼吸の雰囲気づくりみたいので、空間つくるのうまい人いて、僕はそれも好きなものがあります。

あとはなにしてるのか今は思い出せません。

浮かんだこと喋りました。

どうも。

> 中林ジャムさん

ジャンプと着地って、けいきょうさんも前に飛躍って書いていたけどね。あの時にこぼれちゃうものもやっぱりあってさ、それはこぼれてもしかたないっていうか、そこで言わなくてもいいものがスパッと落ちてしまって、着地したとき、いちばんスマートになってればいいなって思う(贅沢)


ジャムさんは言葉の角度が一行のなかでも変化するからもう目で追うのが難しいスピードファイターって感じするのね。で改行はブレスっていうか小休止と方向転換とギアチェンの息づかいみたい。なんていうのかな、今は首を動かしたとかちょっと振り向いたとか角を曲がったとかね、少しの動きって感じが増えた気もするんだけど、もっともっと前は坂道を猛スピードで駆け下りるとか暴れ馬乗りこなしてるとか大波でサーフィンしてる感じだった。
ぐはっっっっ!!!てね(笑)



テーマは同じなんだけど、それぞれの人にイメージする景色があって面白いね。
私の「詩の改行」に対するイメージは、「川に点在する飛び石」です。

まず先に、小説だと「川にかかる橋」になる。橋には、歯抜けがあったり、途中に穴が開いていたら存在価値がない。綴られる言葉と状況とは、読み手が理解できる(しやすい)ように文章を書かなければならない。

 私は歩いていた。
 寝苦しくて枕を直した。

私の歩くシーンから、部屋に戻って布団で寝ているシーンへと、いきなり飛び越えちゃった。
これは、詩なら可能な表現だけど、小説だと駄文になる。

詩は、橋とは違って、点在する飛び石を使って向こう岸(作品の終わり)へと渡らせるイメージ。
橋は、必ず人(読み手)を渡らせるように出来ているのに対して、飛び石だと、石を飛んで渡りきれる人と、途中で飛べなくなって、向こう岸にたどり着けない人が出てくる。

でも、途中で飛べなくなった人でも、川に落っこちながら向こう岸に渡ろうとする人と、それ以上渡るのをやめる人がいる。ずぶ濡れになりながら渡った人は「書いている事の理解は出来ないけれど、詩を読むタイプ」。渡るのをやめた人は言わずもがな。どちらのタイプが良い悪いとわけではない。ずぶ濡れで渡ったものの、濡れたことに怒っちゃう人なんかもいる。

で、作品の規模が、そのまま川の規模になることが多い。
宇宙を取り扱った作品と、日常生活を取り上げた作品とでは、河川の規模が違う。宇宙(大河)対日常(川)といったように。

これは、「大きいことはいいことだ」という訳ではなくて、飛び石にはどういうものを使えるかという意味に近い。「犬」という題名だと規模の小さい川なので、作品に使える言葉はそんなに沢山は(思い浮かば)ない。対して、「生命」という題の作品だったら、ほとんどどんな言葉も使える幅ができる。

まあ、これはあくまでイメージであって、実際には、詩人さんの力量次第でどうとでも変えられるものだけど。


極端な飛躍は遠くにある飛び石になる。で、遠くに飛ぶためには(万有引力の法則上)高く飛ぶことが必要になる。なので、それを飛び渡れる人はほとんど現われない。その代わり、飛べる人は、ジャンプした高所から川の全景を見ることができる。

形よく、誰でも飛べるくらいの等間隔にならべられた石だと、ほとんどどんな人でも川を渡ることができる。でも当然、川の全景を上から眺めることはできない。

私自身の詩のほとんどは後者かな。しかし、川は大きくしたいと思っている。
多くの人が渡れる大河のイメージ。
> 大怪獣コヒモンさん

コヒモンさんはみんなが渡れるってところに重きをおいてるからなのかなあ。あんまり日常語の構造を裏切らないですよね。読んでいても頭を抱える語と語のつながりとかは少ない印象が強いです。

ところが行全体は軽くないのね。イメージとしては大木を伐る斧のひと振りとか大きな石を川に落としていく感じ(川じゃなくてもいいんだけど)

で、その反響とか振動とかで空間をふるわせて、意味を増幅させちゃうところがある。

ずいぶん前の柔らかい感じのも好きなんだけど、どっちにしても骨太なイメージがすごくする。ちょうどジャムさんが今はだいぶん丸みを帯びて、スピードもちょっと緩めてる感じがするけど根本的にはずっとホットな印象が変わらないのと同じように。

一読、あ、これはあの人が書いた、ってわかるような違いがあるというのも面白いですね。詩が書き手を浮かばせるというのは。

ところが実際のところ、作品は読んでいても、ご本人のことは知らないんですよね。にもかかわらず書き手のイメージをつくってしまう。

書き手が詩作品をつくるわけだけども、詩作品が書き手を形成するってところ、興味深いです。で、実際の書き手と作品を通じて形成された書き手とは同じじゃない感じもする。後者はなんというか、あれですね、詩作品自体が声をもってしまうのかな。ひとつの身体をもってしまう感じがあります。

ちょっとずれたかもしれませんねポリポリ




> 諸井さん

諸井さんが書いてきた『言葉は詩』というのは、諸井さんも書いているように新しい説ではないですね。このトピックスを読んでる方のなかでも知っている方は少なくないと思います。

詩そのものは実際には掴みきれないものではないでしょうか。詩というひとつの語によって言い表されながら、ひとつの決定的で固定された姿をもたない、もっと多様性に富み流動的且つ遍在的ななにかではないかと思うんです。まるで奇妙な化物。宇宙からの物体Xみたいな。

それは文芸ジャンルにおいては、作品として言葉によって表現されているものをいうのだけど――いや、この場合「実現」というべきかもしれませんね。なぜならば詩とは言葉によって個人の感情や経験を表現する(ある形式に則って吐露する)ものではない、という考えもあるくらいだから――作品上の言葉に表されたものが詩そのものを呈示していることとは違うんじゃないか。つまり、言葉によってすべてを言い切ることができるのであれば詩は生きてこなかったんじゃないかと思うんですね。その意味で詩はなにか言い切れないもの、言い表しようのないもの、実体としては存在しえないようなものとも言える。

たとえば私の住まいは川の近所で、外に出ると土手が延びているのがやや遠目に見えるんだけど、土手なんかを歩いていると草群れのなかに小さな花が咲いてるのを見つけるんですね。中島みゆきの歌のタイトルとかで「地上の星」とかあって、ダ・ヴィンチがデッサンした花を「ベツレヘムの星」と呼んだという話があるけれども、その花を見たとき、まず「星!」という言葉が過ったんです。発見や驚きと同時に。地上にも星があるんだなあという感慨(確認(追認になるのかな))はそのあとで訪れます。
だから私は、『花はしばしば星である』といってもよいと考えるところもあります。といって「花」は「星」であってはいけません。「花」が「星」であっていいのであればどちらかの語は必要ないからです。しかし、私がここで書いていることは「花か星か」ではありません。また、「『花』が『星のように見えた』」ということでもありません。

簡単には「花が咲いていた」ということなのです。土手の脇に花が咲いていた。まるであたりまえのように。ただそのときの私にとっては、そのまるであたりまえのようなことが文字通り非常に驚きだった。その不可思議さに邂逅した。花などというモノはいたるところに咲いていて、そこらじゅうに見ることができる「とるにたりないもの」です。

しかし、それが、ある時理解できないもの、言語化しえないもの、「花」の一語では収めきれないものになることがある。要するに「花ではなくなる」ことがある。

そして、ここで言いたいこと、諸井さんのコメントに対して「わかります」という返しをしていた根拠は、
花が「花でなくなる」、「花」という一語では収めきれなくなる、の後に行き着く考え、即ち、そもそも一語においては収めきれない、理解しえない不可思議なもの(it)を「花」と名付けたのではないか、ということです。

したがって言葉は詩であるという考えには頷ける。




脱線しますが、もう何年か前に金曜日のことを「はなきん」と呼んでいた時代があります。「花の金曜日」を略して「はなきん」

週休二日制が一般化して土日が休みになるから金曜日の夜は解放されて遊べるという切ない言葉です。これはうまいネーミングだと思います。花(フラワー)の金曜日(フライデー)。フライデーの元は、北欧神話に登場する女神フレアだといいますから。

神話では事物や事象を多彩な姿として表していますね。アポロンが四頭馬車を駆って空に昇る、とか、クピドー(cupid)の矢に射られると恋情が起きるとか。プシュケー(PSYCHE・サイキ)は美しく、ヘルメスは冥界への導く者であり、知恵者であり、盗みを働き、欺く者でありエコーは木霊としてナルシスが溺死した湖畔で同じ言葉を繰り返すニンフ。

太陽も恋も心も多様な動き、現れをもつダイナミックなものであって、一語には到底言い尽くせないものであり論理的には語り尽くせない不可解なものです。そのダイナミズムを物語として創造(ポイエーシス)すれば神話になるでしょうし、また物語性をイメージとして集約させ内蔵しているものが語である、とも言えます。そして、だからと言って、双方とも実体がわかっているわけではない。もちろん科学的な説明を別にして、という話になりますが。

だから私は「言葉」というのは、定義しがたくいつも意味と意味を超えたもの(その枠から外れたもの)との間で揺れ動いているものだと思っています。
そもそも、世界に存在する事物や事象が本当には理解し難いものである以上、語によって表された言葉もまた意味不明なものを多く含んでいると思います。その上でさえなお逃しているのではないか。



書いたとたんに消えてしまったので、どっと疲れたんですが。

上のように書いていながら、それとは別にこうも考えるのです。

この考え方は一面にとどまる、と。

なぜならば詩というのはかなりの場合において「書かれたもの」として発想されるからです。

詩は「書かれたもの」であり、「読むことが可能なもの」である。
一般的にはこれが共通の理解ではないでしょうか。

そしてそれを基準にすると「詩は言葉でできている」ということになるわけです。詩に対するアプローチは諸井さんのように言葉以前の側からも可能だし、作品において「書かれたもの」からも可能なのではないかと私は考えます。


で、真実は隠れた姿を表すというのはアレですね、古典絵画でいうところの裸婦が意味するものです。【着けている衣服を脱ぐ⇒包み隠さぬ真実をさらけだす】という絵画の言葉。視覚言語のひとつです。それをただの裸婦ととるか、露にされた真実の象徴ととるか、その両方ととるか。

そこで先日行った美術館で企画されていたゴシックからロココへの展開という絵画展のことを思い出したんですが、ゴシックがもつ古典的な格調に比べると、ロココ調というのは肉感的で流線的で装飾的な印象でした。色彩も全く違う。前者が荘厳で格調の高さを売りにするとしたら後者は華美で柔らかい。

ひとつひとつの絵画を単体として鑑賞すると、様々な角度から解釈や解読ができ、それはそれで面白いと思います。描かれた時代的な背景や画家の経歴などにも興味がわくかもしれない。

そのいずれに魅力を感じたとしても、一枚の絵画が描かれた意義があると思うんです。画家の真意、もしくは描かれた絵画が暗示しているものがわからなくとも、です。

なぜなら、私たちとはまず生きている時代が違う。彼らが彼らの生きている時代に、絵画の素材や構図や方法に、なにを意図して込めたとしても、私たちが立ち会えるのは、この時代に生きる私たちの目の前にある一枚の絵画だから、読み取れなければならない理由はない。鑑定士になりたいなら別ですが。

ただ、一枚の絵に描きだされた美しさを感じ取りさえすれば、描かれた一枚の絵画と私たちの出会いは成功といい得ると私は考えます。

詩についても同様に、書かれた作品の言葉の美しさに魅了され感じ取れれば、詩とはなにかなどと問わなくても、十分に意義があると思います。

それは特殊な体験を前提としなければならないものではなんらありません。
(そんなものならくそくらえです)

そして、それはひとつの作品に対して一人の読み手でもかまわないし、いつ現れるか知らない未来の読み手でもいいのです。それほどに詩の寿命は恐らく永い。私はこの考えを不思議と信頼しています。

おお、逸れたー。


おはようございます。寝落ちして、書きこみが消えたルウです(泣)

ちょっと思うところありまして、試しに書いてみます。再チャレンジ(笑)

前に、時代背景とかを知らなくても面白い詩はあると書いたことがあって、またかつての友人で、「現代を生きている自分たちが書いた詩が現代詩なんだ」と言っていたことを思い出したので、そのことに関して。

前者については特に変わっていないんですが、やはり時代や社会を知ることで面白さというか、もっと読めてくる詩作品はずいぶんあるだろうと思います。それは後者の「現代を生きている自分たちが書いた詩が、、、」というのと関わってくると思うんですが。

どういうことかというと、どの書き手であれ、生まれてくる時代や社会は選べないですよね。それから無限定に生きるなんてこともできません。誰であれ、ある時代やある社会のなかで限定された一回性の生を生きるしかない。そのなかで詩に出会うわけですが、そこで出会った詩というのはたいてい前の世代の書き手が書いたものではないかと思うんです。で、育った時代環境がまったく違うことだって大いにありえる。

たとえば内戦とか暴動が頻繁に起こっている物騒な社会で生きるひとと、それを安心してご飯たべながらテレビで観ていることができる社会で生きている私とでは、もう生きることに対する緊迫感からして違うわけですよね。茶碗片手に、テレビ画面を眺めながら、「物騒だよね〜、早くやめればいいのに」なんて言ってる余裕はまずない。それに終わったところで、建物やらはあちこち壊れているし、怪我人だっていて、なに不自由なくというわけにはいかない。もうにっちもさっちもいかないで気の安らぐ暇なんてないんじゃないか。
そういうひとが詩を書いた場合、それを読んで「よくわかんないな、難解だな」と、仮に思ったとしてもまるっきり無理な話ではないと思います。

そしてそれと同じように、そういう社会の現実を生きたひとが、私が書いたものを読んだ場合に「なんだ、こりゃ」と思ったとしてもおかしくはない。

だから詩がどんな時代に書かれたか、またはどんな時代を生きる書き手に書かれたかを知ることで、その作品をもっと知ることができるんじゃないかと思います。

で、どの作品も限定された時代、社会を生きる書き手によって書かれるものに違いないのに、にもかかわらず、なんの周辺情報も知らないずっと後の世代のひとまでが読んで影響されることもある。

書かれた作品の言葉が、時代や社会の制約を越えて、読み手に働きかけるなにかがあるというのは面白いところです。
もちろんすべてではないんですが。
それとは逆に、背景を知ることでわかってくるものもある。

有名な話ですが、高橋新吉の「ダダイスト高橋新吉の詩」は、中原中也に影響を与えたといいます。でも、私が初めて読んだとき、さっぱりわけがわからず、困惑しました。
「これって詩なの?」(キョトン)状態です。

それから神原泰なんてのはもう参りましたと言う他ない。もう、読みようがない。完全に圧されてしまいました。

しかし、まあ、アナキズムやダダイズムといった文芸思潮が海外から流れこんできた時代であったことや、外見的な近代化がすすむなかで、閉塞感も募りつつあった時代であったことを考えると、無理もないことだと変に納得できてしまう。とにかく、それまでのしかたではどうも表しようのないような感覚を抱いていた一部のひとにとっては、ダダやアナキズム的な表現のしかたは、新しくまたぴったり来るように感じられたのかもしれないと思えます。
むしろ、そういうふうな仕方によってこそ表しえると思ったのが、彼らにとっての現代だったのかもしれません。

だから、ひとくちに「現代」と言っても、私がいま生きている現在と当時とでは、現代のありように違いがある。もちろんそこに生きている人々の生活形態や考え方にも違いがある。である以上、現在の自分の詩に対する認識そのままで読んでわからないのはいたしかたないことでもあるわけです。そのためにも時代を遡ってみるというのは必ずしも無駄ではないと思います。

で、「現代を生きている自分たちが書いた詩が現代詩」という点ですが、現代、あるいはもう少し幅を狭めて「現在」というのはどういう時代なんでしょうね。

いまは私が子どもだった頃とは環境が格段に違っているんですね、改めて考えると。
夜中にこんなふうにサイトに書き込みしていること自体ありえなかった。

いまはノートパソコンを持ち歩いているひとも少なからずいると思うんですが、ひと昔前はワープロを持ち歩くひとのほうが多かったように思います。

営業でも紙媒体を使って商談をして、会社に持ち帰って後日正式に打ち込んだ契約書を作って云々、ではなくて、パソコンで図とか比較表とか使って説明したほうがわかりやすいから、ワープロ持ち歩くよりは圧倒的に便利なんですね。報告もメールで済むし、大量の資料を郵便とかで送るよりはデータで送れば早い。

10年くらい前に高校卒業したあと、入社してきた男の子がいて、これがまあ、パソコンを平然とサクサク使いこなすんだけど、報告書は当時はまだ手書きだった。ところが、彼が書いた手書きの報告書はもう読めないわけです。およそ文字と呼ぶのも文字に悪いような体をなしていたんですね。おまえ、恥ずかしくないの?みたいな。

でも、向こうに言わせれば、パソコンで打って印字したほうが早いし間違いもないし見やすいのに、わざわざ手書きさせるほうがおかしいと(笑)

手書きでずっとやってきた世代は、読む相手がいることを意識するから、できるだけ丁寧に書こうとした。だから字が上手なひとはそれだけでうらやましがられた。

私は学生の頃、某デパートで開催された宮澤賢治の世界展というのに行ったことがあって、驚いたんですが、なにが驚いたかって自筆原稿の字が読めないんですね(笑)
それまでは作家はいつも文字を書くから字が上手だとずっと思ってたんです。なんの根拠もなく。それをあっさり裏切られた。

まあ、関係ない話ですが、とにかく、ずっと手書きでやってきてそれが当たり前だったなかに、パソコンが流通しだして、平然と使いこなす世代が流れこんでくる。こうなると手書き世代というのはパソコン世代から見れば社会の変化に対応できないで乗り遅れたひとになってしまうんですね。いくらベテランと威張ってもついていけてないじゃないか。

パソコン相手にやってきた若僧が、と言ってもそれこそわからないことは検索して調べたり、いろんな情報を拾うのに慣れているから意外にものを知っているんですね。

テクノロジーの進歩は社会を変えて、それまでのしかたを変えてしまうから、まったく馬鹿にできない。いまはネットの書き込みが企業の未来を変えてしまう部分もあるからなおさら軽視できないんです。こういう時代を誰が想像したか。

けれども古さを知らないというところもあるわけです。たとえば私が子どもの頃は、祖母も同居で、どちらかというと年長者は大切にされていたし、肝っ玉がすわっていた感じがありました。夜中に口笛吹いたら蛇がでるとか、嘘をついたら閻魔さまに舌をぬかれるとか、おてんとうさまの目はごまかせないから悪さはいつかバレてバチが当たるとか、およそ科学的ではない物言いでしつけられたし、「いくさ」の話も聞かされた。
自分の住んでいる町も「いくさ」に巻き込まれた土地の一部で、家族に巻き込まれたひとがいるということは、どんなに未経験でも現実味のある話として感じるんですね。

だから湾岸戦争の時やイラク戦争の時に、テレビに映る攻撃の様子にはとても嫌悪感を覚えました。ああいうことが行われていることにも、映像を流されることにも。

でも、自分は晩ごはんとか食べながら観れるんですね。いやだなぁとか思いながら、リアルタイムで起きているのに、箸を動かしていることができる。嫌悪を感じているには違いないんだけど、ここで起きていることじゃないからと心のどこかで安心しているんです。

それから爆撃の様子を、「あれ、観た?」となんとなく楽しそうに話すひとたちがいました。まるでそういう番組をみたかのように。よそ事なんですね。コーヒータイムの話題になってしまう。
フィクションでしかなかった出来事を、ノンフィクションで観れるようになった。またはノンフィクションのほうが「よりリアル」だったと。

ひと頃の話なんですが、ベトナム戦争を舞台にした映画が流行りました。「プラトーン」「キリングフィールド」「グッドモーニングベトナム」とか。あれはフィクションですね。ところが、テレビ画面を通して観た対イラクでの空爆映像は編集が加えられていたにせよ現に起こっている事実でした。それに対して「よりリアル」というのは、不安や恐怖ではないと思います。
単純にいえば、迫力があるとか臨場感があるという意味であって、どこか第三者的な立場にあってこそ言えることでしょう。
映像を含めたマスコミが発達したということは、現に世界で起きている事柄を観ることができるようになったと同時に、「よりリアル」と言うような、フィクションを上回る衝撃映像を観る感覚をもたらしたかもしれない。悲しい事実さえどこか見世物に変換されるような違和感を感じた記憶があります。

「いくさ」が終わって、1980年代末には東西ドイツもひとつになり、社会主義体制の代表格だったソ連も崩壊したあと、生まれ育った世代は、偏見を恐れずにいえば、発達したテクノロジーの産物であるパソコンには慣れているけれども、それで作成すれば気遣うことなく、読める文字が誰でも作れるので、古い世代ほどにはひと付き合いや気遣いが不得手かもしれません。
逆にいうと、そのようなひと付き合いや気遣いがかつてほど重視されない時代になったのかもしれない。
と書いてアレですが、これといってそういう世代を非難しているのではありません。それにみんながみんなそうだということでもない。
それにかくいう私もひと付き合いは得意ではありませんでした。特に仕事終わりにどこかの飲み屋で一杯やるといった仕事上の付き合いというのは苦手でした。
仕事が終わっても職場の関係をつづけるのは面倒くさいし、疲れるだけ。それでなんだかんだ言い訳をして断っていたんですが、断ったらそれはそれで「あいつは付き合いが悪い奴だ」と(笑)

そんなことをやっていたら自分のしたいことをする時間、というか、ひとりでリラックスして過ごす時間がなくなる。職場の関係というのは気がぬけないところがありますからね。
それを考えると、私はどうも社会や集団などよりもプライベートに重きをおく世代のひとりとして生活してきたのかもしれません。

どうなんでしょうね、ちょうど生まれて間もない頃にオイルショックがあり、母親がトイレットペーパーを買いに並んだという話をきいたおぼえがありますが、恐らく戦後としては最後の好景気にはいるころ幼年期を過ごしたのではないかと思います。

ああ、そういえば、政治だとか社会で起こっている出来事には関心が低かったですね。テレビから流れる話題には、ニュースを除いてほどほどに関心を持ちましたが。テレビ番組はドラマからバラエティーまで花盛りでした。漫才ブームにアイドルブーム云々、これについては既に書きました。
それから社会のことをあれこれ言うより、受験とか進学とかそういう方面のほうが忙しかったかもしれません。
来る日も来る日も学校へ通い、午後まで机に座って時間を過ごすという退屈。「いまがんばっていたら将来らくだから」みたいな。
でも、そのいまを退屈に感じて面白味を感じてないから、がんばりにも身が入らないわけです。といって、そこをぬけだして何かに向けてまっしぐらというほどの情熱とやらもない。そして、がむしゃらに頑張る熱血ぶりに対する照れくささのようなものがありました。そんなにがんばってなにになるの?みたいな。
おお、ということは当時言われていた無気力、無関心のうちのひとりだったのかしらん!

なんだかんだとひとり語りをだらだらつづけてしまってすいません。
とにかく私は、戦時中の統制生活下に生まれ育ったわけではなく、戦後間もない復興期に育ったのでもなく、学生運動や安保闘争のど真ん中に十代を過ごしたのでもない、この国の社会が安定して、経済が上向きになり、いわば大衆消費社会が確立され、マス=コミュニケーション文化が大手を振って闊歩する時代を通ってきたんですね。
それが当時の私の「現代」で、ちょうど高校生の頃だったか、授業でやった宮澤賢治の「永訣の朝」は共感するどころか、何が言いたいのかさっぱりわからなかったし、恥ずかしくてしかたがなかったことを覚えています。

さまざまなテレビ番組、漫画、アニメーション、ラジオ、音楽。こういったメディアが満開で、 気楽に楽しめるなかにあって、なかなか小説も読まないのに、どうして詩に接近するか。そもそも「文学」という言葉のどこか偉そうなところ、キザったらしいところ、くそまじめで、陰気な感じを持っていたのだから(まったく大いなる偏見)、「軽いノリ」とか「軽薄」とかがもてはやされていた時期には斜にかまえて、気にはなっても距離をおいていたわけです。とりわけ愛だの人生だのを大真面目に真剣に考えたり語ったりすることは「ネクラ」な気がして、鼻をつくしそういうタイプになるのは嫌だった。
「そんなことしてもどうしようもないやん」という南の空へ飛んでいくシラケ鳥よろしく、わかりにくい人生や愛よりも、わかりやすくて手にとれる「いまを楽しく」過ごすには、詩や文学よりも、わかりやすいメディアのほうが考える必要がなくて、手っとり早く受け入れられたのでした。

地方のラジオ局で、某雑誌に掲載された詩をアナウンサーが朗読する番組をやっていて、ああ、好いなと思ったけれど、それは声を通した読みのうまさで、たいてい中身はおぼえていなかったですね。
詩という言葉はとにかく気恥ずかしくて、グズグズ、なよなよしているようで、苦手でした。まあ、感情というものを大袈裟にだろうと滲ませる程度であろうと、表に現すなんてことにはものすごく抵抗を感じていたからなあ。

とにかく、私が子どもの頃には世の中とか社会とかというのはずいぶん遠くに感じられました。ある程度社会は安定していて、いわゆる中産階級家庭というのが一般的になって、大きな混乱もなく、小・中・高と進学して二十歳を過ぎたら社会人、という感じで、それまではとにかく、勉強して学力をつけなさいとかでした。社会というのは仕切られた壁のむこうのことのように見えなかったわけですね。鈍感なものですな。

ちはみに私が子どもの時代は1970年代から80年代後半にさしかかるあたりでした。
詩の状況としては荒川洋治以降というところでしょうか。戦後の第一期から簡単に見てみると、
戦争経験者→戦争中は子どもだった→戦後復興期に生まれ60年代闘争が青春→大衆消費社会とマスメディアの発達。
読み手と書き手のうちに共通といえる体験がもはやなくなり、それぞれの作品の違いを見いだせるのは体験ではなく修辞しかなくった、と表された「修辞的現在」以降の時代を呼吸してきたことになります。書店の書棚にアイウエオ順に本が並び、自分の好みで選んで購入できる時代。
大きな不自由もなく、社会基盤が安定したというのは、言い換えれば、それまでの時代とはいくらかの断絶もしくは明確な温度差を含んでいて、且つ均一化されていく社会に突入した時代なのかもしれません。

とすると、それまでに書かれた詩がわかりづらかったとしても無理はなく、また安定しているからこそ見えにくい時代であったと言えなくもないわけです。
であるならば、「現代」もしくは生きている「現在」をどのように感受して言葉によって捉えたのか、また他でもない「私」という個人を通して、どのような言葉によって応答しようとしたのか。それが実現されていないならば、必ずしも「現代を生きている自分が書いた詩が現代詩」だとは言えないようにも思います。

ところで思うのだけど、マスメディアが高度に発達すると視聴覚としては多様なものを情報として得ることが可能になるわけだけど、そうなると、実感からは遠ざかるのではないかしらん?
それと、多様な情報を得ることができるということは、自分の生活圏内で見聞きしていることが絶対ではないということを知ることだとも言えます。

たとえば日本は高度経済成長期において先進国のなかでも経済大国と呼ばれましたが、一方でエコノミックアニマルと揶揄されもしました。それは労働時間の長さや休日の少なさからもあながち間違ってはいません。いまでこそ、企業の週休二日制というのは珍しくなくなりましたが、かつてはそんなになかったんじゃないかとおぼろげながら記憶しています。年次有給休暇も滅多にとらず、サービス残業をして、休日出勤も辞さない働き手は少なくなかったと思います。他の西欧先進諸国は豊かで発展的であるけれども、労働時間は当時の日本より少なく、余暇を楽しむことを重要視しているということでした。アメリカの企業では終業時間になるとすべてのパソコンの電源が自動的にいっせいに切られた、と聞いたこともありました。

私の記憶に間違いがなければ、労働時間の短縮も休暇についても、国際社会との協調のために改善されたのではなかったでしょうか。

ただ、ここでの話は、どちらがよいかではなく、多様性を示されることで、こちらではそれが当たり前と思っていたことが絶対ではなく、相対化されることになったということです。

児童文学作家カニズバーグ女史は作品のなかの母子に面白い会話をさせています。

(母)「食べたくても食べれずに飢えている子も世の中にはいるんだからきちんと食べなさい」
(娘)「じゃあ、私ががまんして食べたら、その子たちは飢えないでいられるってこと?」

明けましておめでとうございます。新年早々うねうねしているわけですが、はい。

少々逸脱しますが。
教科書や、他の詩を読んで、「まったくわけがわからん」とか「なにをいわんとしているのかさっぱりだ!」と感じた、ということについて。

そこには「詩作品というのは書き手の考え、または何かしらの言いたい内容を表したものだ」という考え方――詩に対する認識――があるということを暗に示しているように思います。
しかし、本当にそうなんでしょうか。詩作品というのは、本当に、なにかしらの言いたい内容があって、それを言い表すものなんですかね?

もし、書き手の考える内容を言い表すための手段であるとするならば、読み手が理解しがたいような言葉で書くことの必要性はなんでしょうか。それはもっと、読んだひとならば誰でも理解できる言葉でいいんじゃないか。
それは詩でなくても、ただの文でも事足りるんじゃないかしら。

いやいや、考えを正確に、わかりやすく言い表すためには、やり方というものがあってだね、比喩を用いて具体的に表したり、強調したい部分は繰り返したりする必要があるんだよ、
などというのであれば、そういう文であれば済む話であって、わざわざ詩などと呼ぶ必要はないとちょっと思うんですね。

相手にわかるように、伝わるように、というのであれば、伝達文でも表明文でもいい。

誰かに、または多くのひとに、なにかを伝えようとするならば、伝わるように書いたほうがいいんです。読んだひとが首をかしげて書いたものの理解に困るのではそれこそ、考えた内容を書く意味がない。

書き手が考える内容を言葉で言い表し、読み手に伝達するための手段として詩というものがあるならば、詩というのは、誰が読んでも意味内容を理解できるものであるはずです。
そして、もし、そうであるならば、上述したように「なにをいわんとしているのかさっぱりだ!」なんてことは起きないでしょう。

逆の言い方をするならば、そのような考え方、考える内容を言い表し、読み手に伝達するための手段、という考えかたがあるから、わからなくなるのではないか、とも考えるのです。

「言葉は意思伝達・相互理解の手段」というふうに云われてきました。それは間違いではなくて、たいていの場合、言葉によって思考内容を伝えようとしますし、またコミュニケーションをとろうとします。なので、日常の会話では相手にわかるように話す、という話し方、言葉の使い方をするように心がける。お互いにこの暗黙の約束を守っているからこそ意思の疎通が成り立つんですね。
この場合、第一義になるのは言葉の意味を明確にすること、そして日常文法に沿っていること。そこがしっかりしていれば目的は果たせるんですね。何を言いたいのか、伝えたいのかが相手にわかればいい。
だから、ブンガク的な言い回しははっきり言って必要ない。比喩なんていらないし、それから長ったらしく語をつらねる必要もない。なにかの解説文みたいにくどくど話されたら、聞く側も疲れてくるし、普段使わないような語をいれたら違和感がでてくる。できるだけ簡潔で、意味が明瞭でさえあれば足りるのが
「意思伝達・相互理解の手段」としての言葉です。

言葉の用い方は他の場面では、日常会話とは違うしかたでされます。たとえば法的な文章とか、またアナウンサーの読むニュースなども違う。日常会話では文法は必ずしも十分でなくとも、互いに理解しようとするので成立しますが、歩み寄って理解するというやりとりでなく一対多数で同じ事実を伝える場合、誰にでも理解できるように、いつ、だれが、どこで、なにを、なぜ、いかにして、などを厳密に明確にする必要がでてきます。それから主観を省いた言葉、曖昧な表現は極力排除します。アナウンサーが主観で話したら、受けとる側は事実を正確に知ることができませんしね。
いつだったか、冬季オリンピックの解説者が興奮して、名前を連呼したりするだけのとんでもない解説をしたことがありましたが、アレはテレビを観ていて笑ってしまいました。
ちなみにニュース言葉にでてくるような「未明」を日常会話で使うと、キョトンとされるんじゃないかと思います。たしかにニュースや新聞の言葉は日常語で書かれているような気がするものですが、よくよく気をつけてみると必ずしも日常的ではない部分もある。決してコミュニケーション的な言葉の用い方に沿っているとは言えないものです。馴れてしまって気づかないこともあるけれど。
で、「言葉は意思伝達・相互理解のための手段である」という言葉への考え方を前提にした場合、読み手は書かれた内容や、それを通して書き手の言わんとすることを読み取ろうと努める。「書き手は何を言いたいのか」と。

そうして努めた結果、そこ、つまり、「作品を通して書き手が伝えようとしていること、または言いたいことが、理解できない」 から、「さっぱりわからん」とか「いったい何が言いたいんだ」とか「難しい」という印象を抱くことになるんじゃないでしょうか。

国語のテストで、いやというほど見てきました。「この作者は何を言いたかったのか」
あるいは、詩や短歌などを書かせる時に、教師が言うのは、きまって、「思ったことや感じたことを書きなさい」でした。

だから詩というのは、思ったことや感じたことを書いたもので、書き手は作品を通して言いたいことがあるのだ、と思う人がいてもおかしくないんですね。そうすると、そのように思っているひとが、たくさんの詩を読んだときに、「さっぱりわからない」「難解」なものだという印象を持ってもなんら不思議ではないわけです。

したがって、言葉は「意思伝達や相互理解のための手段」ではあるけれども、常にそれのみではなく、詩もまた、書き手が思ったことや感じたことを、作品を通して言わんとするためのものではないこともある、と考えてみることも必要ではないでしょうか。

もちろん書き手が、読み手に向けて、何かを言わんとしていることがくっきりと表れている作品もあります。そのことが伝わってくる作品がないわけではない。この言い方はしかし、適切ではないかもしれません。本当に何かを読み手に言おうとしているのか、伝えたいことがあるのかを直接確かめたことはないのだから。けれどもまた、作品を読むことで、何かしら伝わってくる感じを受けることはたしかにある。伝えたいことがあるから書いたのだと思いたくなるようなものはある。そのくらい言葉がビンビン入ってくることがあるのは間違いありません。

だから、本当に読み手に向けて、書き手が作品を通して言いたいこと、思考や感情の内容を伝えようとしているのかは定かではないのだけども、読んでいてそのような気持ちになってしまうことがある作品があることは否めません。このことをどう言い表すべきなのか。

試みとして書いてみるならば、たとえば音楽や絵画などの作品、あれらはどれもひとつの完成された形であると思います。それと同じく詩も完成された一篇の形なのではないか。
それが演奏され聴衆がどんなリアクションをするのかは作り手にもわからない。
一枚の完成された絵画もまた、観衆がどんな鑑賞と解釈をし、感想をもつかは画家にもわからず、詩作品もこれと変わらないのではないか。

意味伝達を目的とする言葉は、相手が理解されることによってそれを達することができます。これによってコミュニケーションは成り立ちます。したがって「意思伝達・相互理解を目的とした言葉」の成立には、他者の存在が欠かせない。
けれども詩作品の言葉が必ずしも、「意思伝達・相互理解を目的とし」ているとは限らないとすると、読み手としての他者は、音楽における聴衆や絵画における観衆と同じ位置にあるのではないでしょうか。

読んでみて初めて、それに対するなんらかのリアクションをもちうるということです。読む前は、すべての作品はブラックボックスであり、わかりやすいかもどうかもわからない。
完成された一篇の詩を読んで、初めてある人は「何かが伝わってくる」と感じ、他のひとは「さっぱりわからない」と感じ、また別のひとは、「この書き手は○○を言いたいのか」と解釈する。
ブラックボックスを前にして、なお、詩というものが、なにか書き手が伝えたいことがあり、その思考や感情内容を書いたものであると考えているとしたら、読む前から規定をしている以上、他のものを受け入れることは難しく、また排除の準備さえ整えていることになるように思います。その受け入れ難さが新しい驚きとしてショックを与える可能性もあるのですが。

いや、そうじゃないだろ。むしろ「詩は書き手の意思や感情などを表現したものだ」という、なんとなく流通しているような考え方を逆手にとって「あたかも書き手本人が彼の意思や感情などを表現しているかのような」作品を書く場合に用いる一種の戦略にもなりうるだろ。

作中の「私」が、意識的偽装である場合がないとはいえまい。




「意識的偽装」というのは言葉がよくないかもしれない。つまり〈仮構としての私〉ということだ。

で、この〈仮構としての私〉を、読み手は書き手本人と無意識的に思ってしまう。そして、書かれた内容が、読み手自身の経験や思考内容などと近いと思えるような言葉である場合、共感することができるし、「わかる」と言いたくなる。
逆に、読み手自身の経験や思考内容と、仮に類似しているとしても、そうとは思えないような言葉で書かれている場合(読み手が日常において、自身のそれを把握する際の言葉の用い方とかけ離れている場合)、共感できないばかりか怒りさえ感じて、「さっぱりわからん!」と言いたくなるひともいる。

これをつかまえて、詩はなにかを伝えるための表現だと思うひとがいる一方で、詩はさっぱり理解できない、とか、詩なのに何を言いたいのかわからないというひとがいる。同じひとが全く両極のベクトルをもって反応することも珍しくないわけだ。









知人の話。
バイクで帰っているとなにかが前のカゴに降ってきた。それでびっくりしてしまった。黒くて気持ち悪い。よく見るとカエルだった。カエルはやがて彼の腕辺りに跳んできて、しばらくすると跳びおりたそうだ。

これを普通の文章で書くと、
「先日、バイクで帰っている途中、前のカゴにカエルが止まってきたのでびっくりしてしまった」とでもなるのではないかと考えるのだけど、文章化した時点で既に、認識した順序とは異なっている。

なにかが降ってきて、「うぉっ!?」と驚く。これが最初です。それはなんだかわからない。で、なんだなんだとヒヤヒヤしながら、その気味悪いものをよく見る。その結果、「なんだ、カエルかよ〜」と、正体が明らかになって安心する。ちなみに彼はカエルは嫌いではないので、カエルだとわかってからは落ち着いて成り行きを見ていたそうです。

このように、認識の順序と、体験を言語化するということ、または文章化することは違うんですね。言葉の表れかたが。

ところがどっこい、わかりやすく伝えるための文章の書き方、いわゆる日常文法にあまりにも親しみすぎているから、その仕方で表されている方が普通だと思ってしまう。

認識する順序を基準にしたら、私たちが頼りにしている日常文法、わかりやすい文章なんてのは、かなり奇妙なんじゃないかと思うわけですよ。

で、当たり前ですが、この文法、わかりやすく伝えるための表現方法なんてのも、作られたものなんですよね。ええ、ツクリモノなんです。このツクリモノがメジャーになって、世間に幅をきかせているんですね。で、いまや、文章ってのはそれに沿って書くのがキマリみたいになっちゃってる。不自然きわまりないことを、みんな、やってるんです。

子どもが書く作文がわかりにくいとか、おもしろいとか、たまに聞きますが、アレが実は自然なんじゃないでしょうか。言い換えれば、大人のほうがわかりにくいことをやってる(笑)









ちなみに、このツクリモノ、国語の時間に習ったんです。いつ・だれが・どこで・なにを・なぜ・どのように、をはっきりさせると相手にわかりやすく伝えることができます、みたいな。

国語教育でこういうのをやられて、おまけに日記や作文やらを書かされて、なにかを話すときもそういうふうに話さないとわかりませんよ、なんて言われちゃうと、まあ、そういう書き方、使い方が身についてしまったとしてもしようがない。そういうふうに書く、という言葉に対する考え方が染みついても責めようがない。

国語教育を通して、一般化されちゃったら、ツクリモノでももはや堅固な規範として、言語活動を枠にはめてしまうような働きをするようになる。良し悪しではないんです。これに乗っかることでスムーズな伝達が相互に成り立つことは言わずもがなです。

しかし。

仮に、日本語という言語を使っていながら、その時代の社会に強い反発や憤りを禁じ得ず、何をか言わねばという時、どうでしょう。既成の(与えられた)意味のつながりや統辞法を歪めてしまいたくなったらおかしいもんでしょうか。


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