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聖書のおはなし小部屋 Part2コミュの返されたタラント?

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※希望の光・キリストの実物教訓P1312〜1330に基づく。 『』は引用文
※マタイ25:13〜30に基づく。


■**マタイ25:19
<19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。>

しもべの主人が帰ってきました。
当然預けたタラントをどれだけ増やしたかを主人は知りたいはずです。

『主がしもべたちと計算される時には、すべてのタラントがどれだけ増したかが綿密に調べられる。行った働きが、僕たちの品性を現すのである。
 5タラント与えられた者と、2タラント与えられた者とは、託された物と利益とを主に返した。これは彼らが、何も自分の功績を認めないことを示している。
彼らのタラントは、与えられたものであった。
別のタラントをもうけたのではあるが、元金がなければ利益もなかったのである。
彼らは、ただ自己の義務を果たしたことを認めている。
資金は主のものであったから、利益も主のものである。もしも主が彼らに愛と恵みとを賜らなかったならば、彼らは、永遠に破産してしまったことであろう。
 しかし、主がタラントをお受けになった時、それがいかにも彼らの功績であるかのように、僕たちを賞賛し、報われたのである。
彼の顔には、喜びと満足の色が現れていた。主は彼らに、祝福を与えることができることを喜ばれるのである。
神が僕たちに与えなければならない義務があるからではなくて、愛とやさしさにあふれた心からなさるのである。』

■**マタイ25:20〜21
<20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。
21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。>


主人から預けられたタラントを増やすことは、僕の義務であるけれども、僕は主人の喜ぶことを喜びとし、主人は、僕に報いて賞賛の言葉を与えることを喜びとしています。私たちに与えられたタラントを用いて、主がお喜びになるように増やしたいものです。

『神が喜んでお受けになるものは、神への忠実さ、忠誠、愛の奉仕である。
聖霊に動かされて、人々を善と神とに導いた行為は、天の書に記録される。そして、このような働きをした僕は、神の日に賞賛を受けるのである。
 彼らは、自分たちの働きの結果、贖われた人々を、神の国でみる時に、主の喜びにあずかるのである。そして、彼らは、この地上で神と共に働くのにふさわしい者となっていたから、天でも神とともに働く特権が与えられる。
わたしたちが、天でどうなるかは、現在どんな品性をもち、神のみわざの中で何をしているかによって決まる。
「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」とキリストご自身が言われた(マタイ20:28)。
キリストのこの地上の働きは、キリストの天の働きである。この地上でキリストと共に働くことの報いは、来るべき世界で、キリストと共に働くという、より大きな力と特権が与えられることである。』 アーメン。

このような大きな意味がありますので、私たちの働きには、無駄はありません。
主はすべてをご存知で、その報いも手を広げて与えようとなさっています。
主を賛美します。

■**マタイ25:24〜25
<24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。
25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。>

1タラントを渡された僕は、主人を酷い人と言い訳して、何も増やさず、預かった1タラントを返そうとしています。これにはどんな意味があるのでしょうか。

『人々はこのように、神の賜物を用いなかったことの弁解をする。
いかにも神が横暴過酷で、人間の欠点を探しては、罰を与えるもののように考える。何も考えずにおいて要求し、まかないでおいて刈るもののように非難する。
 神が人々の所有を要求し、彼らの奉仕をお求めになるのを非難して、神は過酷な主人であるという者が多くいる。
しかしわたしたちは、すでに神のものである物のほかに、何も神にささげることはできない。・・・・万物は、想像によるばかりでなく、贖罪によって神の所有なのである。現世ばかりでなく、来世においても、受ける祝福のすべてにはカルバリーの十字架が押されている。でるから、神が過酷な主人であって、まかないところから刈るという非難は不当である。』


■**マタイ25:26〜27
<26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。>

この主人の言うことは、当然の言葉です。
この何も生み出さなかった僕には、銀行に預けることもできたのです。

『主人は、悪い僕の不当な非難を別に否まなかった。しかし、この僕の行動は何の弁解の余地がないことを示している。主人の利益になるように、タラントを増やす方法は、すでに備えられていたのである。
 私たちの天の父は、私たちが与えられただけの才能を、発揮することをお求めになる。私たちには負うことができない重荷を、無理に負わせられることはない。「主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」(詩篇103:14)。神がわたしたちにお求めになることは、すべて恵みによって、私たちのなし得ることなのである。』

ルカ12:48には、次のように書かれています。
<多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。>

タラントを多く与えられた者には、多くが求められます。

『私たちのできることから少しでも足りなければ、それに対する責任を負わなければならない。主は、私たちにどんな奉仕ができるかを正確にお計りになる。活用した能力と同時に、活用しなかった能力も調べられる。わたしたちの才能を正しく用いたならば、到達し得たはずのことに対して、神はその責任を問われる。
私たちは当然し得たにもかかわらず、才能を神の栄光のために用いなかったために、なし得なかったことを、さばかれる。自分の魂を失わないまでも、用いなかった才能の結果がどんなものであるかを、永遠に渡って知らされることであろう。なぜなら、得るべきであって得なかったところのすべての知識と才能はとは、永遠の損失となるからである。
 しかし、私たちが自分を全く神にささげて、神の指導に従うならば、その達成については、神が責任を負ってくださる。わたしたちが忠実に働くならば、こえが成功するかどうかを気にすることを神は望まれない。失敗については一度でも考えてはならない。わたしたちは、失敗することのないお方と協力しなければならない。
・・・・自分の弱さや無能のことを口に出してはならない。これは、神に対する不信を示し、み言葉を拒むことを示している。・・・・
真の謙遜は、神の力に頼って神の目的を成就することである。
神は御心にかなう人々を用いてお働きになる。・・・・・
神が負わせて下さった荷を神のために負い、常に神のみ前に出て、安んじているべきである。仕事はなんであっても、真心から喜んでする奉仕を神は喜ばれる。
神とともに働く者とされたことを喜び、感謝の心をもって義務を果たすことを、神は喜ばれるのである。』

アーメン。


では、今日はこれでおしまいです。

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