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国家民営化。未来、SF、反重力コミュのラピュタの書庫(4周目)

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4周目は「マルハナバチのパラドックス」で象徴させる。

この写真がマルハナバチなのだが、このボディと小さな羽のバランスの悪さ!
とても飛べるとは思えない。だが実際は飛べる。
人間の想定と「現実」とは違うということだ。
もちろん「現実」こそが正しい!
人間が作った浅い既成の体系に閉じずに、「現実」の不思議な現象に目を向ければ、道は開かれると思う。
「現実」「具体物」への注目こそ「反重力」に一番近いと考えるのだ。

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私は謝らなければいけない。この書庫に一日一個のコメントをしよう、と言っておくながら放置していたのはこの私自身である。
しかし!
私自身が停滞していたとは言え、3周目は思想的に最も実りが多かったと言い切れる!

3周目の大賞はこれだ!
◆大栗博司『大栗先生の超弦理論入門』講談社ブルーバックス(2013/8/21)


文系の思想家にはどうも物理の評判が良くない。物理は存在の素材の階層を説明しているだけだと言う。素材の追求としては尊重するが、それを制御しているもう一段高い原理云々…と言ってくるんだ。
3〜4年前の栗本慎一郎コミュでは、ヒッグス粒子は発見できない、むしろ還元主義が瓦解する良い機会だなどと数名が言っていた。
追い込まれ、役立たずの烙印を押されたのは文系の思想家の方だ。

文系の思想家はすぐに誤解しようとする。コメント#1で「コネクショニズム」を紹介するが、コネクショニズム自体に惚れ込んでいるのではない。問題を極めると、解決法が段々似てくるという点を知って欲しいからだ。

=================

物理では、ある階層を極限(究極の素粒子)とすると、その階層で無限大の値が出現し、前に進めなくなる。その階層よりミクロな階層を想定することで無限大の問題は解決する。問題をよりミクロな階層に先送りしているようなものだ。だから還元主義がダメだと言いたいのではない。これで辻褄が精度良く合ってしまうところが神妙なところだ。

求むべき全体=「知っている世界」+「知らない世界」

まず知の仕分けをする。「知っている世界」で生じる問題点を「知らない世界」に先送りする。とりあえず「知っている世界」の足場を固めるのだ。これだと無限後退だが、必ず無限後退を回避するという決意があればOKだ。どんな現象も説明できてしまう思想は役立たずだ。全ての理論には適応限界がある。それを自覚しよう。思想とは「知らない世界」を常に追い求める冒険である。

……

超弦理論によって物理の無限後退は解消しそうだ。それは良いとして物理のフロンティアにおける最大の目玉はこれだ!


素粒子の理論は、数学的な美しさ(対称性)から演繹されたものである。うかつに還元主義と罵ってはいけない。
「理論は美しくなければならない」という信念は、哲学・思想にも強く存在する。

素粒子の方程式は数学的な美しさ(対称性)を完璧に表していた。惚れ惚れするくらい!ハート達(複数ハート)

ただ、これだと世界に存在する「重さ」(慣性質量)を説明できないのだ。

「重さ」を説明するためだけに、方程式の辻褄合わせをした。当然、美しさはかなり減退した。
しかし、これで世界を完璧に記述できるという事実の方が凄いのだ。
そして、ヒッグス粒子の存在は疑いないようなレベルで証明された。

★世界=美+醜


世界は美ではあるが、美だけでは世界を説明しきれない。世界を語るためには、「醜」を含む必要があるのだ。世界には明白に「醜」が混じって入る!
私は芸術も科学だと思っているが、芸術は純粋に美なのではない。むしろ極めて醜いものが混じっている。美醜混淆こそが世界を表現できる。この事実が世界の深遠さである。


我々には、【まだ】重力は制御できない。(将来はできる! ここが「反重力」のコミュだということを忘れてはいけない)

重力は、世界の美しさに隠れている深淵なる「醜」であろう。ラスボスのようなものだ。

世界の深淵を潜ってその「醜」に辿り着こうではないか!


4周目の方針は、書きたいときに好きなことを書く「自由」。制限無し。
Be Free !

コメント(946)

瀬戸内寂聴『手毬』新潮文庫





私〔貞心尼〕は良寛さまの枯木のようなお掌を、まるで百合の花でも抱くようにそっと握りあたためていた。…人はこうして病み、苦しみ、糞尿にまみれながら逝くものだということを教えられているような気がした。人の世の人の苦しみを一身に代り受けてくださっているような尊さと有難さが湧いてきた。そだを折る音が愕くほど静かな空気をきりさいた。



滝川一廣『「こころ」の本質とは何か』ちくま新書






個体的でありながら共同的であるとは、深い矛盾をはらみます。私たちのこころはその矛盾からなりたつことを本質としています。その矛盾した本質ゆえにこそ、統合失調症や自閉症と呼ばれる精神現象がまれならず(必然的にある頻度で)生じるのでしょう。




内田樹+高橋源一郎『沈む日本を愛せますか!』ロッキング・オン






内田:国際化っていうのにはさ、「国連の公用語に日本語を採用しろ!」「国際会議を日本語でやらせろ!」って選択肢だってあるわけでしょ。
高橋:グローバリズムって「どこにでも通用する」とかいう規範を持ってくるところが、おかしいわけ。




名越康文『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』PHP新書






「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに対する仏教の答えも、実は言葉にならない世界にあります。だからこそ仏教では「行」を経験していくことによって一人ひとりがその答えを自分で得ることができるよう、修業の道を整えてくれているのです。…「言葉で説明できる限界」を超えていく方法というのは、実はスポーツや武道、あるいは楽器演奏、舞踏といった技芸の世界においては、あるレベルの壁を超える上で欠かせないものだと思います。




アンリ・ベルクソン『笑い 喜劇的なものが指し示すものについての試論』竹内信夫訳 白水社







観客の笑いは、劇場の客席が埋まっていればいるほど大きく広がる、とは繰り返し言われてきたことではないだろうか?また、喜劇的効果の多くは、ある言語から別の言語に翻訳できない、したがって笑いはある特定の社会的集団の風俗や観念に相関している、と何度指摘されてきたことか?



澁澤龍彦『快楽主義の哲学』文春文庫






最後に王が、
「何かほしいものがあったら申すがよいぞ。」
というと、ディオゲネスは片手を上げて、大王をはらうような身ぶりをしながら、
「じゃまをしてくれるな。きみがそこに立っていると、日かげになる。」
といったというのです。
…ディオゲネスは九十歳で、タコを食って死んだといわれています。



福田恆存『論争のすすめ』新潮社





救世主としてあれほど強烈な自信をもつていたイエスも、ぎりぎりのところでは、弟子たちに向つて、自分の人生は自分で生きて知れといつてゐるのである。たしかに生きて知らねばならぬ。つひに知りえぬものがあることを。



イザベラ・バード『日本奥地紀行』高梨健吉訳 平凡社ライブラリー






その〔アイヌ人の〕体格はいかに残忍なことでもやりかねないほどの力強さに満ちている。ところが彼らと話を交わしてみると、その顔つきは明るい微笑に輝き、女のように優しいほほえみとなる。その顔つきは決して忘れることはできない。…男たちが「獰猛な野蛮性」をもっているように見えるのは、厚くて柔らかで黒い髪が豊富にあるからである。




釈徹宗+秋田光彦『仏教シネマ』文春文庫






秋田:「がんばろう!日本」と連呼されたフレーズも、人によってはものすごく無神経なメッセージになります。がんばれないときもあれば、がんばらないほうがいい場合もある。
釈:そうですね。どうも日本の現代語には応援する言葉が少ないんですよね。「がんばれ」「がんばろう」しかないでしょ。



白石一文『草にすわる』光文社文庫





不意に曜子さんが言った。
「私、もうダメだよ。ほんとにもうダメだと思う」
ここでようやく洪治は思い当たった。こういうとき、人は誰かの格別の言葉を求めているわけではないのだ。
「ダメなのは、俺もおんなじだよ」
必要なのは共感と同意だけだろう。そう思うと気が少し楽になった。



竹村公太郎『日本文明の謎を解く』清流出版






官庁のみならず民間会社も、説明責任を果たすといった名目で膨大な説明資料やパンフレットを作成し配分している。しかしパワーを持った資料にはめったにお目にかかれない。ほとんどが資源の浪費といってよい資料だ。
その資料がパワーを持つかどうかの分かれ目は、…トップリーダーが、情報を間引きしたかどうかである。多くの情報の中から意味ある情報を選び抜き、それを示し得たかという点である。



三好十郎〔1958年肺患病歿〕『知識人は信頼できるか』東京白川書院






ウソをつかされる君が悪いのではない。雇主や上長が反省すればよいことであって、君がそのことで不当に苦しむことは正義病というものだ。…つぎに君はなるべく楽しいことや快い事をとりあげ、苦しいことや不快なことは避けて通るようにしたまえ。そうでなくても、この世は苦しみや不快に満ちていて、楽しいことや快いことはわずかしかない。わずかしかないことは大事にしたほうがよい。



今西錦司『生物社会の論理』平凡社ライブラリー






さきには形態がちがえば、その生活様式もちがうであろうというところから、生活形を形態に直結させた―これを生活形の形態原理ということができる―のであるが、こんどは、生活の場がちがえば、その生活様式がちがってくるべきだ、ということから、生活形と生活の場を結びつけるのである。これを生活形の棲みわけ原理ということができる。




『大杉栄評論集』飛鳥井雅道編 岩波文庫






生の拡充は生そのものの根本的性質である。原始以来人類は既にその生の拡充のために、その周囲との闘争と、およびその周囲の利用とを続けて来た。また人類同士の間にも、お互いの生の拡充のために、お互いの闘争と利用とを続けて来た。そして人類同士の闘争と利用とが、…その生の道をふみ迷わしめたのである。



岸田秀『「哀しみ」という感情』新書館






いい歳になったあるとき、がんばるのがアホらしくなり、がんばるのをやめた。すると、非常に気が楽になった。そして、かつての父のように無責任にだらしなくぶらぶら遊んでいて別に生活上、差し障りはないのであった。やはり、わたしは父の子であった。




宮崎市定『西アジア遊記』中公文庫






私がこの旅行中に気付いたのは、歴史上におけるシリア地方がもつ重要性である。…私が〔自説を補強する〕こんな細かいことを数え立てるのは、決して功を誇ろうという意味ではない。反って内心では私の説に賛成しながら、いざ公けに意見を発表する段になると、大先生の名声に圧せられてか、私の説が無視されることが多いのを知るからである。




清水博『生命知としての場の論理〜柳生新陰流に見る共創の理』中公新書






西田幾多郎は「物来たって、我を照らす」といっています。私はこの言葉を、自己を捨てた(自己否定をした)自己の内部に深い無が現れて、根元的な創出ルールが働きかけてくる様子を表現したものとして理解したいと思います。



西田幾多郎『善の研究』岩波文庫







実在は一に統一せられていると 共に対立を含んでおらねばならぬ。ここに一の実在があれば必ずこれに対する他の実在がある。而してかくこの二つの物が互に相対立するには、この二つの物が独立の実在ではなくして、統一せられたるものでなければならぬ。



山本健吉『ことばの四季』文藝春秋






昔から日本人は、海も山も生きものであり、生きているからには、死ぬものだと思い、大事にしなければならないと考えていた。海や山が死んだら、草も木も、魚も鳥も虫も、人間も死んでしまうのだと知っていた。
その深い「縁」を忘れて、人間はいま、まっしぐらに死に急いでいるのであろうか。



森繁久彌『あの日あの友』中公文庫






コト絶えた伴淳さんの顔は眠っているようにいい顔をしていた。…一切消滅した時に、人は皆こんな顔をするのかと、私は枕元に座ってしばし考えこんでいた。
<人は何も分からなく生き
人は何か分かったような顔で死ぬ>
と拙著の扉に書いたことがあるが、すべての死は極楽への道であろうか。



大木惇夫「山蘭」:『現代日本詩集』新学社文庫 所収





素直に日向を掘つてゐる、
そのうちいいこともある、
山蘭のしろい匂ひがする。


北杜夫『或る青春の日記』中公文庫






くだらないことをスイスイとしゃべれる人は幸福だよ。でもむやみに腹が立つ。僕はかなり無理してそういう語を発する。怒りっぽくなったよ、たしかに、この頃は。シメシメ。…日々があきれるくらいどんどん経ってしまう時、人はどんな顔をするのだろう 僕みたいに眠そうな顔をしているのかしら?



多田富雄『残夢整理』新潮文庫





病理解剖も、〔岡林篤〕先生のやり方は変っていた。たとえば脳腫瘍の遺体解剖でも、脳の病変をいくら詳細に記載しても、先生は満足しなかった。関係ないと思われる全身のリンパ節、脾臓や骨髄、胸腺まで詳細に調べさせられた。「病変局所に目を奪われるな。背後にある全身の変化のほうが大切だ」というのが口癖だった。




あと70で1000!

この辺が汐時か、と思います。


おアト、よろしくお願いします!


湯のみ





「stuttさんは意外に早く帰ってくる」と踏んだのですが予想が外れそうです。
自分で「あと70」を埋めるしかないようです。

「意外性」や「予想外」を求めて、
綾辻行人『十角館の殺人』を読みました。
評判通りダマされました。

読み進むにつれ「この人は怪しい」と誰もが思うでしょう。
そして→誰もが←その怪しさの期待を裏切られずに、別な意外性に「あれ?」と思います。

本書は「読者」というストーリー以外の外部を含むメタ構造になってます。

意外性はありましたが、推理小説本来が持つ意外性からは外れると思います。
私の読後の評価は「あまりおもしろくない」です。

意外性があろうとなかとうと、本は面白いか面白くないかが重要です。
私にとってはやや単調で中だるみしている本です。(あくまで個人の感想です)

ちょっと褒めましょう。
全263ページあって、108ページまで誰も死にません。実は連続殺人が始まるこの前段階の方が私好みだったりします。「連続殺人が始まる前」に別な推理が悠々と開始されるのです。
このまま《本編で誰も死なない》ということをどれだれ期待したことか!
(実際にそういうアナザーストーリーが可能な構造になっています)

「何々殺人事件」という題名があって、実際には誰も死なないという小説が成り立ったら実に痛快だと思うんですよ (笑)
誰か書いてくれないかな…。
期待を込めてもう一度書きますが、本小説は「本編で誰も死なない」ことがあり得る構造をしてます。
「十角館の殺人」の前に、謎を多く残した怪事件があります。
本編の犯人は、完全犯罪を実行する直前で、その怪事件の犯人の心理が分かってしまい犯行を中止します。
あとは、一つ前の怪事件の推理に終始します。そういう物語にすることも可能です。
(もちろん多々の設定や十角館に来る人数も変えなければいけませんが)

「誰も死なない」かつ面白い推理小説を書くのは難しいかもしれませんがチャレンジのしがいはあります。

わたくしの推理小説1位(といってもあまり読まないのですが)は、
岡嶋二人『あした天気にしておくれ』です。
なんと人間が一人も死なない!のです。


言いたいことは言い尽くしたので何ですが「瓶」について語ります。(ネタばれは避けるようにします。
瓶が最後にほにゃららになるのは、もう「予想通り」過ぎますよね。
瓶なんて目にしてもふつうは気にも留めないでしょう。ゴミだと思ってしまう。
瓶が他人の目に留まるよりも、書いた自分がほにゃららしてしまう確率の方が圧倒的に高いと思うのです。何より地元ですし。それが何かを知っているものだけが気付ける仕組み。
タイミングは神掛かってますが、ああいうエンディングの状況自体は奇跡というほどじゃないと思います。

=================

70コメントも待ってられないということで、
ラピュタの書庫(5周目)の触りを書きます。

5周目は、新井英樹『キーチ!!』に象徴してもらいます。
意外だったでしょうか。そもそも知らないでしょうか?
本コミュに相応しい「革命」物語です。
>>[931]


新井英樹『キーチ!!』、知りませんでしたが、なんだかオモシロそう!


ゆるゆると、ご紹介ください。


湯のみ




「吃音症」を題材にしたドラマ、フジテレビ「ラヴソング」(月曜後9・00)について。

「吃音症の原因は…近年は発達障害が関係しているのではないかと言われています。」←専門家たちは、ムカシから、大マジメに、この種のことを学会発表して来ました。マジメな分、マジに困ったもんです。がまん顔




>>[933]

お察しいたします。
間違ったことをマジメに主張されると、本当に対処に困りますね。
しかも相手の意見は固定していて、こちらの意見は聞いてもらえません。
◆生き辛さ解消の決め手
瞬間瞬間、やらなければならないことに没頭すること!(心と身体を一致させること)

いや〜、久しぶりの更新ですね。申し訳ありません。みんな、そもそも忘れてる? (笑)

◆小池龍之介『煩悩(ストレス)フリーの働き方』

本書を小池龍之介の最高傑作と認定したいです。でも本書の真価は伝わりにくいかもしれません。
なぜなら、あまりに本当のことが書かれているので、無明なる自我はきっとスルーしてしまうでしょう。本当のことはみたくない!
わたくしなどは、書かれていることに当て嵌まり過ぎて激痛を感じます (笑)。
そんなことを言うけれど実際は…とか、でも〜でも〜と心で言い訳を探してしまいます。
書かれている内容を必死で否定しようとする自分がいます。

=================

郡司ペギオー幸夫の影響学者である森山徹の著書
『ダゴムシにも心はあるのか』
おける「心」の定義はこうでした。

顕在している部分とは別に、表現しないように抑制された潜在部分があるとき、その体系には「心」があると考えます。

たとえば、お歳暮を持って来たお客様が来ました。(今は宅配便ばかりでしょうが)
顕在部分には「こんな結構なものを頂戴して」と慇懃に御礼を言っている表の顔があります。
潜在部分には「お前が俺に対する恩義はこんな粗品では釣り合わぬ!」「俺この人嫌いなんだよねー。こんな挨拶面倒だな〜」「今お腹減っているのにー」といった思っているけど表現することはない裏の顔があります。そんなことを表立って口に出したら喧嘩になってしまいますね(笑)

抑制され表現されない隠れた部分が、心があるという根拠です。

*******************

普段仕事しているとき、隠れた心がぐるぐる反芻し、増大することで人生をロスします。
「こんな単調作業面倒だなぁ」
「優秀な俺様にはこんな仕事は相応しくない」
「今日は16時間勤務だ。嫌だなぁ」「今日から2週間休み無しだ。嫌だなぁ」
「やる気がでない」
「飲み会なんて時間外勤務と同じだよ。残業手当が欲しいよ」
「職場に嫌な人がいる。口が悪くて嫌だ」

こういう仕事上での身近な悩みが本書の題材です。
昨今では無明な自我が煽られています。
「あなたに相応しい収入、転職先がある」
「自分が本当にやりたいことをしなければ」
「一度切りの人生。夢に向かって羽ばたけ!」

「夢」だの「やりたいこと」というキーワードで自我=煩悩が煽られます。

☆「意味」とか「やりがい」といった人間臭い代物は、目の前の仕事に【集中する】という精進を通じて「身に覚え」させてコツコツ努力した人間だけが、後からおまけの様に与えられる副作用にしぎないのです。

嫌なことでも、とにかく初めてしまって「心」を脳内から追い出して身体とぴったり一致させてしまえば、どんなことでも楽しく充実するということを「身に覚え」させるんですね。

「心」とは潜在し見えませんが、仕事中や仕事前にぐるぐる反芻し居座って、仕事を明白に邪魔しています。心が潜在者なら身体は顕在者。余計なことを考えずに、まず身体から始めます。そして心は身体に合わせます。心が先じゃないのです。心の正体は抑制されている煩悩なのですから。

=================

本書を読むと身につまされます。
仕事中に妄想し、他人に怒り、自我という幻覚を肥大させています。仕事前は億劫で先のことばかり心配して、それを反芻しています。それでは仕事の能率を落とすだけです。

どうすればよいか?
時間を限りなく細分化します。「今すべきこと」その瞬間瞬間に没頭するのです。
時間を意識すると煩悩(心)が迷い込みます。頭から心を追い出し、今やっていることに意識を集中する訓練をするのです。
身体(今なすべきこと)と心が一致したとき煩悩(ストレス)から解放されます。

【今なべき一瞬に没頭する】これが結論です。

=================

私は本書を絶賛しますが、世間一般的にはどうでしょうか?
真価が分からないのじゃないでしょうか。
養老孟司さんの名著『バカの壁』が指摘しているように、大事なことなのに
「そんなの既に分かってるよ」と意識に入らないかもしれません。

本書の題名に注目です。
「働き方」なんです。これを「生き方」にしても全然内容と合致しないことはありませんが、「働き方」の方がダイレクトに響きます。
働くことが生きることの大半だということを教えてくれます。

→つづく


本書に対して別な読み方もできます。
時間論が可能です。
時間は煩悩がつくっています。だから100%幻想です。
煩悩とは、ふだん顕在化されると困る抑制された欲望・怒り・迷いです。ある特定の条件でのみ、欲望・怒り・迷いを発動させる必要があるだけです。
何かに没頭しているとき、そこに時間感覚はありません。
時間を感じるとき、それは煩悩に侵されているのです。

人間においては、欲望・怒り・迷いは反芻され増幅され、身体に独自のループをつくり出しました。
まるで煩悩(欲望・怒り・迷い)の方が本体で、身体をコントロールしているかのような倒錯に陥ってます。

心身論も可能です。
心身論という問い自体無駄です。心が身体と違うように感じるのは、抑制されている煩悩が肥大しているからです。
心の本質は、ふだんは発動しないように抑制された煩悩なのです。
時間を細分化して「一瞬」にします。その一瞬に没頭します。
そこには煩悩から自由になった自分がいます。
>>[936]


>生き辛さ解消の決め手
瞬間瞬間、やらなければならないことに没頭すること!(心と身体を一致させること)



武道をやっていて、痛感することです!



ペンギン




ラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』池田雅之訳 角川ソフィア文庫






人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。…もし、この倫理体系が、…知的発展に不可欠な、自由に対する科学的認識によって普及していたならば、もっと高度で、もっと幸福な社会が、できていたことであろう。だが実際には、独創性を伸ばす方向では実現せず、むしろ、今日広まっているように、自分の意見や想像力を抑えあたりさわりのない中庸にとどまる、という傾向の方が強い。








忍耐で人は成長することができない。人は葛藤を通じてしか成長しない。(更新ブログ「内田樹研究室」より引用)








[トピック]高橋源一郎の何が好きですか?より赤さんのコメントを次に引用。



《吃音的なところですね。流れるような文章は書けないんでしょうね。単語を繋げていくような文章は珍しいというか他には読んだ事がないです。失語症だったせいでしょうね。
ジャンルはちがいますがラッドウィンプスというバンドの歌詞も吃音的です。それは作詞している人が帰国子女のせいでしょうね。
両方とも言葉が零コンマ何秒か遅れてくる感じがします。》








中島梓『タナトスの子供たち』 筑摩書房





「〜〜ねばならぬ」というカセが少しでもとれてゆけば、世界はその分やわらかなところになるのではないかと思いますし、暗い真夜中も、おどろおどろしい闇と暗黒も、あやしい黄昏どきも、私はこの世界にはあるべきであると思う。明るい真昼しかない世界はどんなにかまちがった、そこで生きるのがある人々にとってはきわめて苦痛なようなゆがんだ世界であるかと思います。その人々とは要するに強者として生きたくなかったり、病気をかかえていたかったり、病気というかたちで現実にようやく適応したりしている人々だと思うのです。






山本哲士『吉本隆明と「共同幻想論」』晶文社 2016年12月25日





フーコーは、「人間概念」を始末してしまっていますので、外在性が意志力を働かせているとなります。
しかし、吉本さんはちがいます。個体の意志をまずは設定しています。(単純な個人の意志ではありません)。しかし「対の意志」といい「共同の意志」ともいっています。それはもはや個人主体の意志ではありません、対なるものが意志を働かせるのです、共同なるものが意志を働かせるのです。…わたし〔山本〕は、そこを主体が主語として意志を働かせるのではなく、述語意志であるとして、日本語の言語表現にみていくと同時に「場所の意志」に主意味をもたせました、場所を構成している意志です。人間はその場所の述語意志にもとづいて判断をしていくだけです。これは西田〔幾多郎〕哲学「場所」の論述です。




思想本質的に提示された理論閾、実証不可能の閾に描かれたものですが事態を正鵠に把捉し示しています。

吉本共同幻想論/国家論を「意味されたもの」として説明することに何の意味もありません。…そこから主体は切り離されます。「意味するもの」の働きや作用は消し去られて何ら問題にされません。これが、その解説者の程度に応じた理解水準でしかないことを、いかにも客観であるかのように擬装するのです。




吉本思想というのは、日本語の述語表現の言語形態・思考形態によって固有になされていますから、西欧言語では思考しえていない界閾を開きえたのです。そこがまったくわかられていませんから、自立論=主体論であるかのように誤認されていたのではないでしょうか。




原発支持した吉本はけしからんという表層の始末の仕方は、吉本思想を読みえていない態度からくるものです。吉本さんの追悼集会であまりのその発言に、わたし〔山本〕は本質論読んでいないだろう、だからそう裁断できる。無知からの裁断…だと反批判をしましたが、思想を活かすことは、「意味されたもの」に従うことによってではなされないからです。科学技術の自然過程とは、「主客非分離の述語的科学技術」においてのことで、主客分離の科学技術は自然過程ではない。人為過程でしかない、というのがわたしの吉本継承の仕方になります。「意味するもの」をつかめばそうなります。




吉本論理は、思想的論理です。…フーコーは詳細な「理論的緻密さ」の考察をなしましたが、吉本さんにはそのような詳細さがなくとも、「思想的緻密さ」が確固としてあります。


思想的な緻密化とは、飛躍のなかに正鵠な問題構成をなしていくことです。そして理論化とは、その飛躍に潜む未解決の課題をときあかして概念ツール化していくことです。




吉本共同幻想論は、フーコーやブルデューの国家論が届きえていない界閾を、彼らよりもはるかにすぐれて、彼らが考えられていない次元で考察しえています。国家論は、幻想概念なくして理論生産しえません。ここは、世界へ、わたしたちが発信させていくべきものです。









三嶋寛『「空想すること」の復権を!−大空想家、シャルル・フーリエに学ぶ−」』:《遊民》誌 2017年 春号 所収






フーリエの空想の魅力は、その奇想天外な大胆さにあるわけですが、それは彼がアカデミズムからは無縁であり、したがって既存の理論などに縛られず自由奔放に空想を巡らせたことができたからだろうと思われます。しかもその内容が実に楽しいのです。…空想への権利と能力を失わないことは、人間が人間であり続けることです。その意味で、フーリエの空想魂は二一世紀に生きる私たちにも呼びかけるものだと思うのです。







あなたは もう 忘れたかしら (笑)

唐突に将棋の本、しかも【誰も興味を持たないだろう】相振り飛車の本を紹介する。
これまでに、ここに載せたい本はいくつかあったのだけど、結局こんな本のことを書くことになった。

西川和宏『これからの相振り飛車』

☆1または☆4の評価!?
 本書は、昔ながらの角道を止める・先手の振り飛車視点で書かれていて、先手向かい飛車では苦戦するという結論になる。それを避けるために改良された西川流四間飛車も、アクロバットな手順で苦労が多い。アマチュアには指しにくいだろう。その割りに嫌な変化も多い。要は使えないし勝ちにくい。
 
 とてもこの戦法を使う気にはなれないのだ。先手視点の本なのに、先手を持って指したくなくなるとはどういうことだ! だから☆1の酷評を与える。


【逆に】後手の角道を止めない・7一玉7二銀型の美濃+三間がいかに優秀かが分かる本。
第2章は、先手の美濃・金無双・矢倉に対して全てに十分な結果となり、よくまとまってる。
逆の発想で【後手視点の本】と考えれば☆4の優良本となる。

=================

先手視点の本なのに、後手の方がむしろ良いじゃん!
後手番の時にこそ大いに参考になるという皮肉さ!
この辺がひねくれ者のYUJIの執筆意欲を刺激したという次第。

▲7六歩▽3四歩▲6六歩、ここから後手に相振りをされると先手が苦戦するということだ。


ということは先手が振り飛車をするなら、久保王将のように、
▲7六歩▽3四歩には▲7五歩(石田流)
▲7六歩▽8四歩には▲5六歩(先手中飛車)
角道を止めない振り飛車がベストのようだ。

将棋も変わった。
市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、わたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。

千年に一度しかあらわれない巨匠と、市井の片隅で生き死にする無数の大衆とのこの〈等しさ〉を、歴史はひとつの〈時代〉性として抽出する。

(吉本隆明「マルクス伝」、『カールマルクス』光文社文庫2006.3.より引用。)

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