ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

佐竹氏(清和源氏義光流)コミュの佐竹義昭への関東管領就任要請

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
関東管領上杉謙信。いくら歴史に興味がない人でもその名前くらいは知っているだろうと

思われるほど有名な戦国武将である。さて、その上杉謙信であるが、彼は元々、越後守護代

である長尾家の当主であり、上杉憲政から関東管領職と上杉の家名を譲り受けたため、

上杉姓を名乗ることになったものである。しかし、実は上杉憲政が謙信を頼るより前に、
 
一度佐竹氏に関東管領職と上杉の家名を譲り渡そうとして申し入れをしたものの佐竹氏に

断られ、やむなく謙信を頼ったということはあまり知られていない。そこで、この項では

上杉憲政と佐竹氏ならびに関東管領職の関係について考察をすることとする。まず関東管領

であるが、これは室町幕府の関東における出先機関である鎌倉府において鎌倉公方を補佐

するために設置された役職であり、鎌倉幕府における執権、室町幕府における管領と同じ

役割で公方足利氏に次ぐ地位にあったものである。この鎌倉府は室町幕府より関東八ヶ国

(相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野、常陸)ならびに伊豆、甲斐を含む十カ国の

管理を一任され、さらには陸奥、出羽についても統治権があたえられるなどさながら関東にも

小幕府が存在しているかのようなものであった。また、室町幕府における管領は細川氏、

斯波氏、畠山氏が交互にその職に就いたが、関東管領職については早くから上杉が独占をして
  
いたので、室町時代の関東における上杉氏の権力は大変強大なものであった。しかしながら、

時は応仁の乱を経て、下剋上の時代となり、関東においても北条早雲の登場により、ついに

戦国時代が到来し、以後、氏綱、氏康、氏政、氏直と続く北条氏五代による、関東の制覇の

野望の前に関東一円は争乱が激化していくこととなる。そして天文14年〜15年

(1545〜1546)にかけての河越合戦で公方足利晴氏、関東管領上杉憲正をはじめとした、

上野下野、北武蔵、常陸、下総などの連合軍はその数、実に8万余騎で河越城を包囲するも

わずかに8千余騎の北条氏康軍の前に大敗し、結果、扇谷上杉朝定は敗死して同家は滅亡、

また鎌倉府以来の公方、関東管領の権威も地に堕ち、以後、北条氏の度重なる攻勢の前に、

上杉憲正は天文20年(1551)常陸の佐竹義昭を訪ね、北条氏の討伐を要請し、上杉の

家名と関東管領の職を譲りたいと義昭に申し入れた。この年の正月に居城である平井城を

北条氏康により落とされていた憲正はもう関東で生きる場所はない。それ故の義昭への

申し入れであった。佐竹家と上杉家とは、義昭から遡ること5代前の当主義人が上杉家からの

養子であったことを考えれば、まったくあり得ない話ではなかったのだろうが、この憲正

からの申し入れに対して義昭は「関東管領職については望むところであるが、当家は
 
清和源氏新羅三郎義光の後裔であり、上杉の姓を名乗ることは本意ではない」として

この申し入れを断った。清和源氏の後裔である名門佐竹の名を重んじたのである。このため、

憲政はさらに越後に走り、長尾景虎を頼り、関東管領職と上杉の家名を譲りたいと申し入れ、

景虎も承諾した。これが後の上杉謙信である。



↓※こちらでも紹介しています↓
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage173.html

コメント(3)

養子義人の件で、当時の佐竹は親族、家臣の中でかなり反発があって、長い内乱状態が続いた事があったから、義昭も上杉姓を名乗るのは、また内乱をおきかねないと思ったのでしょう。
それと、やっぱり源氏の誇りもあったに違いない。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

佐竹氏(清和源氏義光流) 更新情報

佐竹氏(清和源氏義光流)のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。