★勇猛かつ細心。鬼義重。坂東太郎。
常陸の大名で太田城主・佐竹義昭の嫡子。馬上での采配ぶりから「鬼義重」「坂東太郎」と呼ばれ、家中で義重の顔をしかと仰ぎ見た者はほとんどいないほどの威圧感を持ったといわれるほどの猛将だった。一方、館の寝所を毎晩変えて寝るという細心さも持ち合わせていた。
義重の領内には小大名のような勢力を持つ国衆が多かった。また義重から領地をもらいながらも岩付復帰をあきらめず、北条氏包囲網のための外交を繰り広げた客将・太田資正など、個性的な家臣が多く、彼らを統率するには義重のような威圧感を持った人間にしか務まらなかっただろう。
義重は1562年には元服して、家督を譲られた。義重は常陸南部、下野、南奥羽へと猛烈な勢いで侵略を開始する。その佐竹軍の先頭には、常に黒糸縅の鎧に鹿の角をつけた兜をかぶり、黒鹿毛の馬に乗って自ら陣頭に立つ義重の姿があった。
常陸国をほぼ軍事指揮下に置いた義重は、蘆名家の跡継ぎが絶えたと見るや次男・義広を送り込んだ。また、血縁戦略を駆使して各氏を従属的な同盟下に置き、「東方之衆」と呼ばれた北関東・南奥州大名連合の盟主となった。さらに外交によって北条氏包囲網、伊達氏包囲網を作り上げ、常陸南部では北条氏繁を討ち取り、下野では那須資晴や北条氏照と、南奥州では伊達政宗と死闘を繰り広げた。
摺上原の戦いで義広が敗北して常陸に逃げ帰ると政宗の攻勢が激しくなり、苦境に立たされた。しかし信長の時代から進めていた秀吉との外交が生きて、小田原の陣で秀吉に出仕し、五四万五千八百石の豊臣大名として家を存続させることに成功した。このとき、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将とまで言われたという。
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