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200×年映画の旅コミュの2007年10月上旬号(シネマヴェーラ・1)

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「海女の化物屋敷」(10月1日 シネマヴェーラ渋谷)
1959年/監督:曲谷守平

【★★ 幽霊騒動の底はすぐに割れるし、展開も薄っぺらい代物だが、三原葉子の下着姿などには惹かれる】
 シネマヴェーラ渋谷での特集“妄執、異形の人々?U”における1本。今回の特集では、新東宝の低予算ゲテモノ映画を何本か観るチャンスがあり、この映画の監督をしている曲谷守平は「蛇精の淫」(9月上旬号)も手がけた人で、「蛇精の淫」のほうは、題材の割りに手堅い出来だと思えた一方、こちらの海女映画は、設定も展開もいい加減すぎて、苦笑が漏れる代物でした。
 冒頭のタイトルバック、海女たちが薄い肌着1枚で水中を泳ぎ回り、真珠貝を採取する様子を延々と水中撮影で描いてゆくのですが、肌着から乳房や局部の翳などが見えそうで見えない編集を巧みに施してゆく編集術など、新東宝の逞しい商魂を見せられるようで、頼もしく思えたほどです。
 物語の主人公は、海女による漁業の盛んな町にやってきた三原葉子。彼女は、友人の瀬戸麗子が、最近義姉に死なれて以来、屋敷に幽霊が出るという悩みを訴えるため、瀬戸を慰めようとこの町を訪れたのですが、次第に瀬戸の家の秘密に関わってゆくようになるのです。
 屋敷に住み込む老婆、召使の男、近くで海洋研究をしているという大学教授・沼田曜一、その助手・国方伝、瀬戸の家に世話になっているという海女・万里昌代、さらには、三原の恋人で、今は東京の江戸川に上った謎の水死体の身元捜しに躍起になっている刑事・菅原分太などが、物語の中に入り乱れてゆくのですが、幽霊騒動の底はすぐに割れて観客には大体の予想がついてしまいますし、瀬戸だけが知っている家宝の在り処を巡って欲深い人物たちが鎬を削るという展開も、薄っぺらいものと言わざるを得ず、最後、悪人が足を滑らせて銛銃で自爆してしまうというエンディングの呆気なさには、場内からも失笑が漏れていました。
 とはいえ、三原葉子の下着姿や文太の眉の真ん中にわざとらしく付けられたホクロを見ているだけで、飽きはしませんでしたし、万里昌代の色っぽい海女ダンスもまずまず愉しませてもらいました。


「にっぽん’69 セックス猟奇地帯」(10月1日 シネマヴェーラ渋谷)
1969年/監督:中島貞夫

【★★★ 記録映画としての出来は誉められないが、同時代を生きた者として、映された風俗には感慨深い】
 70年安保に向けて盛り上がる学生運動、新宿駅にたむろする若者たちのシンナー遊び、花園神社を拠点とする状況劇場の「腰巻きお仙」、美容整形に群がる女たち、ハプニング集団ゼロ次元商会の屁理屈、離れ小島の山でブルーフィルムを撮影するエロ事師たち、関西ヌードを売り物にする特出しストリッパー、飛田の旧赤線地帯でアルバイト料亭やトルコ風呂として模様替えした売春、返還前の沖縄で米兵相手に身体を売る娼婦たち、等々を追うドキュメンタリー。
 わたくしが大学生の頃、映画村運動という自主上映の動きを通じて、ちょっとお付き合いのあった竹中労さんが“構成”として加わり、中島貞夫が監督。しかし、中島の述懐によれば、竹中さんは“アジテータとしては大した人物ではあろうが、言うこととやることが違う”というような人だったそうで(確かに、わたくしたちの前で見せた竹中さんの人物像も、概ね中島の言う通りでした)、途中からは加わっていないようです。
 60年代末を見つめるという、中島のインテリとしての側面が出た映画ですが、ちょうど同じ頃、日活でも藤田敏八と河辺和夫が「ニッポン零年」というドキュメンタリーを作っており、中島にせよ、藤田にせよ、東大出のインテリは、60年代末という時代の結節点をフィルムに記録したいと思ってしまうようです。
 ただし、この映画は記録映画としての出来は決して誉められたものではなく、ただのんべんだらりと繋いでいるだけであり、ナレーションで問題点を浮き彫りにするとか、ある決定的な瞬間を切り取るといった覚悟もなく、ただ事態を羅列してゆくだけです。そこには、記録映画作家としての格闘はまったく浮かび上がってこないと言えましょうが、68〜69年の風俗とは、ただそこに映っていることだけでも貴重な時代の資料となってしまうものが点在しているのであり、例えば、この映画の中で悦に入ってマゾヒスムの魅力を滔々と語っている人物が、かの「家畜人ヤプー」の沼正三らしいということを知るだけで、何やら凄いものを観たという感慨はあります。
 さて、わたくしはといえば、69年はまだ先輩たちが暴れるのを、指をくわえて見ているだけでしたが、翌年には花園神社の状況劇場や、新宿東口のフォークゲリラや、10.21国際反戦デーのデモや、数年後にはゼロ次元商会のハプニングやらを体験した者の一人として、この映画に映された事象を眺めながら、わたくし自身の内側に残っている、時代の変化を肌で感じた実感をもう一度甦らせる一方、当時、己のやったことの軽さと薄っぺらさを唾棄したい気持ちにもさせられました。


「二匹の牝犬」(10月2日 シネマヴェーラ渋谷)
1964年/監督:渡辺祐介

【★★★★★ 男に騙されて転落する女と、対照的な女の二人を生活感豊かに描き、女性映画の傑作にした】
 過去に観る機会を逸してきた映画なので、シネマヴェーラの今回の特集で一番観たいと思っていた映画です。
 評判通り、いや評判以上の傑作で、わたくしが観た渡辺祐介監督作では断トツの出来であるばかりでなく、日本映画史上においても相応の位置付けをすべきだと思われ、ミクシィを通じた友人の南木顕生さんが、鈴木英夫「その場所に女ありて」、増村保造「妻は告白する」と並ぶ女性映画の大傑作と指摘されていることに、全面的な同意を表明しておきます。
 映画はまず、1958年3月31日、売春防止法の施行によって廃業を余儀なくされた赤線宿で、遣り手婆の沢村貞子に対して、田舎から出て来たばかりで客をとったこともない小川真由美が、田舎には帰りたくないので売春の手ほどきをしてほしいと訴える場面から始まるのですが、売春宿の狭い勝手口を舞台に、多彩なアングルの採用と明暗のコントラストを計算した照明設計、さらには小川、沢村という芸達者の散らす火花によって、グイグイと観客を引きずり込んでしまいます。
 牝犬として生き抜く決心をした小川の顔をマスキングして四角く切り取り、小さな文字でメインタイトルを示したのち、女性の裸体を短く繋いだクレジットバックへと続きます。
 クレジットが明けると、時間を数年後に飛ばした兜町証券街。いかにも野心家らしい杉浦直樹が、得意先と電話でアポイントメントを取って会うと、現れたのは実業家然とした小川で、小川はディーラーとしての杉浦を信用し、多額の資金を運用して儲けていることが窺えますが、杉浦は小川の本業は知らないようです。
 小川の本業は、今は新宿のトルコ風呂店でナンバーワンの人気者になっており、稼いだ金を株で増やしながら、いつか自分で美容院を持つという夢を抱いているのです。そして人並みに結婚したいという夢も捨てきれず、自分がトルコ嬢であることを隠し通して、杉浦のような証券ディーラーの妻になることも夢見ているのです。
 脚本の下飯坂菊馬と渡辺は、こうした小川の設定を、セリフで説明するような愚を冒すことなく、トルコ嬢としての小川のクールな客あしらいと対照的な杉浦への態度、トルコの同僚・若水ヤエ子(助演賞ものの好演!)と交わすさりげない世間話、小川が独りアパートに帰ってきて札を数える場面に色濃く漂う寂寥などによって表現している点が素晴らしいのです。
 このあと小川が体言してゆく、ダメな男に惚れて、騙されて、坂道を転げ落ちる女の悲痛という主題は、映画史において掃いて捨てるほど描かれてきましたが、先述したような独り暮らしの寂寥など、生活感の細部が実に丁寧に描き込んでいるため、類型的になることを免れて一級品の説得力を持ち得ていますし、さらにこの映画の凄いところは、この女の悲哀とは対象的に、悲哀などケラケラと笑い飛ばして狡猾に図太く生きるもう一人の女を登場させている点であり、ここでの“二匹の牝犬”の対比は、東京オリンピックを間近に控え、高度経済成長に向かってなりふり構わず突進する戦後日本社会と、高度成長の陰で見捨てられてゆく者たちを見事に象徴する社会論的な視座を持ち得ていると思え、優れたエンタテインメントはどんなに饒舌な社会派映画よりも深く観客を打つ社会性を帯びるという真実を証明しているでしょう。


「戦後猟奇犯罪史」(10月7日 シネマヴェーラ渋谷)
1976年/監督:牧口雄二

【★★ 室田と五十嵐義弘のパートは、テンポよく見せるが、川谷のパートは役柄が合わず、違和感】
 またしてもシネマヴェーラの特集、西島秀俊くんにも遭遇しました。
 泉ピン子が往年の「ウィークエンダー」そのままにナヴィゲーターを務めて、戦後の著名な事件を紹介するこの映画。ピン子のまくし立てる口調がうるさく耳に纏わり付き、うざったいと思わせるのですが、イマヘイが「復讐するは我にあり」で描いた連続殺人事件を室田日出男が演じたくだりや、歌手の克美しげるが愛人を殺した事件(克美に似ているために抜擢されたのであろう五十嵐義弘が熱演)などを、殺しの場面とセックスシーンだけをつないだように作った構成はいかにも安上がりであるものの、荒々しい手持ちキャメラの動きで場面を作ってゆく牧口雄二の演出は、山下耕作、石井輝男、加藤泰などについて助監督修業しただけのことはあると思わせるに足る迫力を生んでいます。
 思えば、セックスと殺しというアクションに徹したことにより、屁理屈を排除することができて、映画にテンポをもたらしているとも言えましょう。
 しかし、川谷拓ボンが希代の好色殺人鬼・大久保清に扮したくだりは、尺を使ってじっくり描いているものの、哲学的・文学的なセリフで女を口説くという大久保の役柄は拓ボンには似合わず、彼が「心の空洞を愛で埋める」などと発言するたび、苦笑が漏れました。
 大久保が魔の手をかけた女性たちの名前と殺害の日付が、犯行があった場所に咲く野草の絵にかぶせて字幕で流れる詩的な表現も、正直なところ、題材に相応しいとは思えませんでした。

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