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200×年映画の旅コミュの6月上旬号・フランス古典映画

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「ぶどう月」(6月6日 フィルムセンター)
1919年/監督・脚本:ルイ・フイヤード

【★★★ 初めて観るルイ・フイヤードの映画だが、活劇性は薄いものの、どっしりとした人間ドラマだった】

 京橋のフィルムセンターでは、“フランス古典映画への誘い”と銘打たれた特集上映が始まりました。ルノワール、クレール、フェデー、デュヴィヴィエといったフランス映画の古典はわたくしが高校生の頃、やはりフィルムセンターで数多く観る機会がありましたが、今回の特集ではわたくしが観ていない映画も含まれていますし、たとえ昔観たことがあっても中身は忘れているものがほとんどですから、なるべくチャンスを見つけて通おうと思っています。
 ルイ・フイヤードの映画は、わたくしが観ていないものに含まれ、彼が作った名高い連続活劇「ファントマ」は、フィルムセンターにかかった時も観逃しています。
 とにかくフイヤードといえば“連続活劇の人”というイメージが先立つため、この「ぶどう月」も活劇性の強い映画を想像していました。しかし実際に観ると、第一次世界大戦でフランス北部がドイツに侵攻された頃、北部を逃れて南部の葡萄園へと収穫の季節労働者たちが集う中に、捕虜収容所を脱走してきたドイツ兵士2人が潜り込むことによって巻き起こる人間模様を、活劇性を排してじっくりと描き出しており、この日は寝不足状態だったため2時間半近くのサイレント映画ではきっと眠気を催すだろうと覚悟していたものの、確かな作劇に引き込まれて睡魔に襲われる隙がなかったのであり、フイヤードという作家の演出力を思い知ったような気になったのでした。
 物語の狂言回し役は一人の退役軍人。といっても年寄りではなく、徴兵期間を終えたといった感じの若さです。彼がフランス南部に向かう船の中で、葡萄園の季節労働者として働きに行くところの老人と二人の娘に出会うところから映画は始まります。退役軍人と老人との会話の中で、フランス北部がドイツ軍によって占領され、国土が“野蛮人”に荒らされていることを嘆き合う科白が出てきますので、船上のキャメラが河岸の山並みや町などをじっくりと長回しで捉える絵にも、フランス国土へのフイヤードの愛情が込められていることを感じます。
 そうした船上場面と並行して、捕虜収容所から脱走してきた二人のドイツ兵士が、葡萄園に向かおうとするベルギー移民を襲撃して殺し、移民が持っていたパスポートを奪って彼らになりすまそうとする場面が描かれます。
 こうして南部の葡萄園に到着した退役軍人や老人と娘、ベルギー移民になりすましたドイツ兵士、さらには夫を戦争で亡くしたジプシー女などの登場人物が、葡萄を収穫しながら、日々の生活を共有するようになります。
 1918年製作の映画ですから、まだサイレント映画の話術は完成していない時期に当たりますが、アイリス・イン〜アウトで律儀にシークエンスを区切ってゆく場面転換にせよ、ロングとアップの呼吸をわきまえたフレーミングと編集にせよ、グリフィスを祖とするサイレント話術の数々がきちんと咀嚼されて使われており、世界の映画が同時進行的に進歩を重ねていた時代の空気を感じることができます。
 さて物語のほうは、葡萄園に潜り込んだドイツ兵士二人が、逃走資金を得ようと、元フランス軍人で今は盲目の葡萄園主の事務所から金を盗み出し、その罪を被差別者であったジプシー女になすりつけようとする形で展開します。結局はドイツ兵士の悪事は露見し、すべては予定調和の輪に物語の本筋は収まってゆくのですが、そうした本筋だけなら上映時間はせいぜい90分以内に納まるものでしょう。しかしこの映画が2時間半近くの尺を要してしまったのは、フイヤードが至るところで話を脱線させたからにほかなりません。
 老人と娘二人がフランス北部の故郷をドイツ軍に追われた経緯、その老人の長女(一緒に南部に行ったのは次女と三女です)が北部で占領ドイツ軍に抗して夫を匿い続けた経緯、葡萄園主がフランス軍人だった頃にワインを最前線の兵士たちに届けた過程で盲目になった経緯など、本筋とは直接関係のないエピソードを、本筋と全く変わらぬ(否、それ以上の)比重で描いてゆくのであり、そこから浮かび上がるのは第一次世界大戦でドイツによって荒らされてしまったフランス国土に対するフイヤードの愛情というナショナリズムなのであって、その激情とすら思える国土愛が全編を統御しているがゆえに、本筋からは脱線しているかに見える展開にも説得力を与えているのです。
 わたくし個人としては、こうした国家主義的な主張にくみする思想は持ち合わせておりませんが、グリフィスのレイシズムの極致たる「国民の創世」がアクション・スペクタクルとしては滅法面白かったのと同様、このフイヤードのフランス礼賛=反ドイツ映画も、単に物語として面白かったと思ってしまったのでした。


「パシフィック231」(6月11日 フィルムセンター)
1948年/監督:ジャン・ミトリ

【★★★ 蒸気機関車が走るメカニズムに魅せられたような短編映画。音とのシンクロを計算した作りが魅力】

 駅のプラットフォームに停まっている蒸気機関車がゆっくりと動き出し、蒸気によってもたらされたエネルギーが機関車の車輪を回転させるメカニズムの美しさに作者が魅せられたかのように、車輪軸の正確な動きを丹念に追うキャメラに執念のようなものが宿っているのを感じます。
 僅か9分間の短編ですが、機関車の車輪の回転、外を流れる風景、無人のキャビン、石炭をくべる機関士、交差する線路、飛ぶように過ぎてゆく鉄橋、などといった映像に音楽がシンクロし、観ていて心地よいリズムが観客にも伝わります。
 ちなみに、“パシフィック231”というネーミングは、東大前総長・蓮實重彦氏のご子息が組んでいる音楽ユニットの名前として使われているそうです(蓮實ジュニアは音楽家なのです)。


「たそがれの女心」(6月11日 フィルムセンター)
1953年/監督:マックス・オフュルス

【★★★★★ オフュルスらしい“恋の戯れとデカダン”のメロドラマ。ダリューとデ・シーカが凄味を発揮】

 わたくしは今回初めて観た映画ですが、これでマックス・オフュルスがフランス時代に撮った映画4本(「輪舞」「快楽」「たそがれの女心」「歴史は女で作られる」)はすべて観たことになります。
 オーストリア出身のオフュルスが第二の故国フランスで撮った4本の映画については、常に“流麗”と形容されるキャメラワークによって彩られた魅惑のラヴストーリーとして記憶の中に鮮明な像を刻印しているのですが、単に惚れた腫れたの戯れを描くような能天気な感性をオフュルスが持ち合わせているはずはなく、恋愛というものが苛酷に人生を左右するデカダンな裏面にも残酷な光を当てるのがオフュルスという作家の凄味なのであり、わたくしは「快楽」を観た時の感想メモとして「2003年映画の旅」5月下旬号で次のように書いています。
 “オフュルスは、フランス的な恋の戯れの快楽を謳い上げるだけでなく、老残や絶望といった、恋の裏面にも視線を配るデカダン趣味を見せています。”
 また、わたくしの中学・高校時代の友人であり今は学習院大学でフランス文学専攻の教授をしている中条省平は自著「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)の中で、次のように書きます。
 “(オフュルスのフランス時代の4本は)一見、失われた時代の風俗を描く豪華な時代劇(コスチューム・プレイ)にすぎないように見えるかもしれません。しかし、それは、流麗なカメラワークと洗練のかぎりを尽くした美術装置のなかで展開する、ゲームのように空しく、残酷な、愛と偶然の戯れです。そこから浮かびあがってくるのは、はかないがゆえにもっとも美しい人間の感情であり、時と共に去るかに見えて、永遠の印象のなかに宙吊りにされる、真実の愛の残像なのです。”
 この「たそがれの女心」は、中条やわたくしが指摘するオフュルスの残酷さという特質がはっきり出た1本であり、フランス映画らしいエスプリの効いた恋愛遊戯を描く側面に酔いながらも、次第に“死に至る病”としての恋愛の残酷さに観客を愕然とさせられてしまうという、言葉の真の意味での“メロドラマ”を形成しています。
 映画はまず、ダニエル・ダリュー扮する“ある貴婦人(原題の「マダム・ドゥ…」の通り、この映画では主人公の姓は一切出てきません)”が、自宅の戸棚を物色しながら売却しても惜しくない装飾品を探している光景を、オフュルスらしいワンカットの移動撮影によって描きます。ダリューはいろいろ迷った挙げ句、ダイヤモンドをあしらったイアリングを売ろうと決め、そそくさと宝石店に向かいます。宝石店主との交渉がスムーズに運ぶことを祈るため教会に立ち寄ったダリューが、聖母マリア像を飾った祭壇と教会の椅子の間を何度も行き来する様子はコミカルな味つけで演出されており、ダリューのコケットリーな魅力が画面から溢れ出して微笑を誘います。
 また、その夜のオペラ鑑賞の席でイアリングを失くしたと嘘をついたダリューの言葉に、夫のシャルル・ボワイエが必死になって探し出そうとする様子を、何度も立ったり座ったりを繰り返さねばならぬオペラハウスの貴賓室のドアマンたちによる迷惑そうな態度というコミカルな味付けで演出されている部分にも笑いを誘われます。
 しかし一方、イアリング一つでそれほど必死になる必要もないような富豪のボワイエが、オペラの上演などそっちのけにしてオペラハウスと自宅を往復してまで探し出そうとしている理由が、結婚のお祝いとして夫が妻に贈った記念のイアリングだったことが明らかになることによって、そのような大事なはずの品をいともあっさりと売却して涼しい顔をしているダリューの残酷さから、この夫婦の間に流れる冷え切った空気の恐ろしいまでの頽廃を感じさせ、観客を慄然とさせるのです。
 このあとイアリングは、くだんの宝石屋がこっそりとボワイエのもとに持参し(宝石屋が店を出る際に、店員の小僧にあれこれ命じて、小僧が何度も階段を行ったり来たりする場面も笑いを誘い、この映画の冒頭10数分間では、教会におけるダリューの往復運動、オペラハウスでの貴賓室のドアでのボワイエの往復運動、そして宝石屋の小僧の往復運動という3つが相次いで描かれることによって、画面を活性化させるオフュルス演出の妙味を味わうことができるのです)、ボワイエは妻がこっそり大事なイアリングを売却していたことを知っても、己のプライドを守ることのほうを重要視して、妻には内緒でイアリングを買い戻した上、パリを離れる愛人にあっさりと譲ってしまうのです。そして、オペラハウスでのイアリング紛失が新聞には盗難事件として大々的に報じられていることを苦々しく思う妻ダリューを横目に、ボワイエは何知らぬ顔を貫き通すのです。この何という夫婦間の頽廃。
 ボワイエの愛人の手に渡ったイアリングは、その女性がコンスタンティノープルのカジノで大負けした時にあっさり胴元の手に渡り、その胴元は地元の宝石屋に手放した末、街に居合わせたイタリアの外交官ヴィットリオ・デ・シーカの手へと納まることになります。そしてデ・シーカはイタリア大使としてパリに赴任した結果、偶然出逢ったダリューの魅力に惹かれたデ・シーカがそのイアリングをダリューに贈ることとなり、結局は元の所有者の手に戻ってくることになるのです。夫婦間の冷え切った空気の象徴としてあっさりと所有者の手を離れたイアリングが、今度は情熱家のイタ公によって貴婦人の手に戻った時には“熱愛の証”として輝き出すという皮肉。
 イアリングが転々とした末、元々の場所に納まるという経緯は、恋の戯れが男から女へ、その女から別の男へと次々と連鎖してゆく「輪舞」とよく似た構造を持っており、いかにもフランス映画らしい洒落た味付けだと思わせもするのですが、甘美さの中に隠し味として苦い毒を注入するオフュルスらしく、冷えた夫婦関係にがんじがらめになったダリューは、次第にデ・シーカの熱情に心を奪われるに従って、“死に至る病”としての恋愛の残酷さに生命を燃やし尽くすことになるのです。
 次第にやつれてゆくダリューの美しさは、冒頭におけるコケットリーとは違った妖艶なまでの凄味を発揮し、慇懃無礼で傲慢な夫を尊大に演じるボワイエの貫禄もさることながら、本気になればなるほど恋愛の恐ろしさに人生を絡め取られてゆくイタリア男を演じるデ・シーカの迫力にも圧倒され、あの“名もなく貧しく美しい”人々を描いた「自転車泥棒」や「靴みがき」の作家がかくも気品ある貴族を演じてしまうことに驚きを覚えました。
 自分の手に戻ったイアリングについて、ダリューは夫に対しては、長い手袋の中から見つかったと嘘をつくのですが、それがデ・シーカから贈られたものであることを見抜いたボワイエは、デ・シーカに決然とイアリングを突き返しつつ、これ以上自分のプライドを傷つけないよう忠告し、デ・シーカのほうも一度は身を引く覚悟を決めるのですが、最早デ・シーカに対する“死に至る病”に侵されてしまったダリューの不可逆的な熱情を目の当たりにした夫ボワイエは、己のプライドを堅持するため、デ・シーカに決闘を申し込みます。
 衰弱しきったダリューが決闘場に向かう途中で響く1発の銃声。そこに崩れ落ちるダリューの姿からキャメラがパンすると、続くカットではダリューが祈りを捧げていた教会のマリア像が映り、エンドマーク。
 これぞメロドラマの極致です。


「赤い風船」(6月11日 フィルムセンター)
1955年/監督・製作・脚本:アルベール・ラモリス

【★★★★ 美しい映像詩のメルヘン。2度目の鑑賞だが風船の自然な動きの秘訣がわからず不思議でならぬ】

 この映画を観るのは、1975年のフィルムセンターでのフランス映画回顧特集以来31年ぶり2回目です。
 監督の息子パスカル・ラモリス扮する少年が街角で見つけた赤い風船が、人称性を持ち少年と意志疎通を果たす、科白が皆無の映画という印象を持っていました。しかし今回観直すと科白が皆無なわけではなく、パスカル少年が風船に向かって「バロン、バロン」と呼び掛けたり、「授業が終わるまで外で待っててね」と話し掛けたりする科白がいくつか語られていました。
 それはともかく、パスカル少年の手には捕まえられる風船の紐が、ほかの人間には決して掴めぬようにヒラリと躱してしまうという風船の動きは、一体どこでどうやって操っているのか、今回も全く見当がつかず、茫然とするばかりでした。恐らく透明なテグスのようなもので引っ張っているのだろうと思うのですが、紐の先端も、風船に括り付けた部分も、故意に引っ張られているような様子は画面からは窺えないのであり、あの自然極まりない風船の動きを実現しただけでも、この映画は奇跡だろうと思えます。
 パスカル少年以外の人間には従順になろうとしない風船に腹を立てた子供たちが、寄ってたかって風船に石をぶつけるなど攻撃を仕掛けるうち、そうした人間たちの醜さに絶望したかのように風船自身がしぼんで自死を選んでしまうあたりは、己の所有欲の果てに戦争を繰り返す人間たちへの批判というメッセージを読み取ることもできるでしょうが、傷心のパスカル少年への救いを目指してパリの街じゅうから色とりどりの風船が意志を持って寄り集まってきて、パスカル少年を大空へと飛翔させるというラストには、政治的メッセージなど込められてはいないように思え、わたくしたちはただこの映像詩のメルヘンに心身を委ねていればいいのかも知れないと思いました。


「陽気なドン・カミロ」(6月11日 フィルムセンター)
1953年/監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ

【★★★ 戦後社会の縮図コメディとしての面白さはあったが、やや作りが取り散らかっており、睡魔を招いた】

 この映画を観るのは初めてです。何度か観るチャンスはありましたが、ジュリアン・デュヴィヴィエといえば1930年代が絶頂期という先入観があり、どうしても観たいとまでは思えなかったからです。しかしその後、「巴里の空の下セーヌは流れる」「埋れた青春」「アンリエットの巴里祭」など50年代のデュヴィヴィエ映画にも魅了されたため、「陽気なドン・カミロ」を観逃したことを後悔していた折、今回のフィルムセンターのフランス映画特集にラインアップされているのを知り、勇んで足を運んだわけです。
 イタリアの田舎村を空から映したヘリコプター・ショットから映画は始まり、折しもこの村では次期村長就任が確実視されている共産党員の男ジーノ・チェルヴィによる演説会が行われようとしています。一方、共産党を毛嫌いする保守派の司祭フェルナンデルは、この演説会を妨害しようと教会の鐘を鳴らしまくるのですが、キリスト像に向かって彼がチェルヴィの批判を呟くとキリスト像が言葉を発して応えるといったあたりで、軽妙なコメディタッチが強調されます。
 フェルナンデルとチェルヴィは幼馴染みで戦友でもあるものの、思想信条の違いからいがみ合ってばかりいる仲で、晴れて村長に就任したチェルヴィが“人民の家”という党員たちが集まる施設の建設を宣言すれば、フェルナンデルのほうは対抗してすぐ隣に遊園地の建設をブチ上げるといった具合に、諍いを続けます。
 しかし、共産党員のチェルヴィも、生まれてきた赤ん坊の洗礼と命名には司祭の力を借りなければならないという、根っからのカソリック教徒でもあり、妥協を余儀なくされることもありますし、若いカップルの親同士が片や党員、片や保守派といがみ合っているがゆえに“ロミオとジュリエット”状態にあることを悔やんで心中を図ろうとした際には、フェルナンデルとチェルヴィが力を合わせてこのカップルを助けたりもします。
 いかにもイタリア的な風土におけるイタリア式喜劇の構造を持ったお話ですが、フェルナンデルとチェルヴィの対立が様々なエピソードによって何度も繰り返される展開や、狂騒的な人物が次々と画面をうるさく立ち回る作劇は、やや取り散らかったものにも思え、ちょうどこの日は開幕したばかりのサッカー・ワールドカップの深夜に及ぶTV観戦で寝不足状態だったこともあり、次第に睡魔に負けてしまうことになったのでした。
 しかし、共産主義と反共が同じ村の中で鎬を削りつつ共存する姿は、東西対立に見せかけた世界の分割支配を進めていた戦後世界の縮図として見事なまでの鳥瞰図を形成しているとは思え、恐らくジョヴァンニ・グアレスキという原作者の功績だろうとは思いますが、その時代認識にはなるほどと人を納得させる説得力がありました。
 ただし、それがデュヴィヴィエという作家に相応しい題材だったかというと疑問も残るのであり、「誘惑されて棄てられて」「イタリア式離婚狂想曲」の路線のピエトロ・ジェルミとか、日本の山本薩夫のような人が撮るべき題材なのではないか、という思いが拭えませんでした。

コメント(6)

トキさん、ようこそいらっしゃいました。

クレールの「幕間」、大昔にフィルムセンターで観たことがありますが、中身を忘れてしまったので、今度の特集で観直す予定です。

クレールがパリの小市民劇を作るようになる前の、シュルレアリスム実験映画でした。
「たそがれの女心」、観たい!!!

侘助兄弟の文面からは、オフュルスのフランス四部作の最高傑作のようにも読むことができますし、少なくとも俳優としてのデ・シーカの最高傑作の決定版であることにまちがいないとお見受けいたしました。

ヴィットリオ・デ・シーカは、映画監督としてよりも、絶対に俳優として再評価すべきです。もし僕に映画出演の依頼がきたら(笑)、お手本とすべき役者は彼です。
「たそがれの女心」見逃してしまって残念です。
侘助さんの文章を読んでると目に浮かぶようです。ストーリーを書き流すことが批評だと思い込んでるような評論家に「これが本来の映画批評だ」と読ませてやりたい気持ちです。
Qfwfq兄弟、

フランス時代のオフュルスでは「輪舞」も大好きなので、「たそがれの女心」との優劣比較などできそうもありません。

ただし、おっしゃる通り役者デ・シーカの貫禄と凄味は素晴らしく、監督としてのキャリアを優先したがゆえに役者出演本数が少なかったことが悔やまれてなりません。

なんきんさん、

過分なお言葉、痛み入ります。

わたくしは批評などとおこがましいものを書いているつもりはなく、批評的意識を持った感想メモ、というくらいの位置づけなのですが、のちにその映画のことを思い出すための手がかりとしての文章なので、場面の流れはなるべく再現しようと努めています。

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