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200×年映画の旅コミュの3月下旬号

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侘助が3月16日〜31日に観た映画たちです。

「パンドラの箱」(3月17日 フィルムセンター)
1929年/監督:ゲオルグ・ヴィルヘルム・パプスト

【★★★★ 伝説のファム・ファタールは、やはり魅惑的。話はともかく、L・ブルックスを観る映画】

 ルイーズ・ブルックスについては、作家・大岡昇平が熱い讃歌を書いたことは知っていますが、読んだことはありません。しかし、この映画でブルックスは永遠の“ファム・ファタール”として語り継がれる存在となったことはあまりにも有名です。わたくし自身は、彼女が動くのを観るのはこれが初めてでしたが、やはり噂通りに、いや噂以上に、その姿態や存在感は魅惑的だったのであり、ブルックスを観ているだけで心ときめく映画体験を味わうことができたのでした。
 冒頭、マンションに一人暮らししている主人公ルルのところに初老の男が訪ねてきます。この男、ルルに馴れ馴れしい態度を示し、一体何者なのだろうと訝しく思うのですが、話を追ううちに、ルルの養父であることがわかるようになります。
 この初老の男、現在のルルにとってパトロンとなっている新聞社の社主、その社主の秘書たる若者など、新しい登場人物が出てくるたびに、その人物像や人間関係が丁寧に説明されないため、観ていてやや混乱することは否めません。
 とはいえ、ルルが養父の前でボブカットを揺らしながら踊る冒頭近くの場面だけで、ブルックスの天真爛漫さとセクシーさを併せ持った魅力に観客は虜になってしまうのであり、劇中の男性たちや、時には女性たちもルルに夢中になってしまう気持ちが理解できてしまいます。
 ルルは男を誑かす悪女ということになっていますし、じじつ、劇中でもパトロンが別の婚約者を連れて自分のレヴューを観に来た際には、ダダをこねるようにパトロンを別室に連れ込み、結局は篭絡して自分との結婚に踏み切らせるなど、強引なところも見せます。しかし一方、養父の前で天真爛漫に踊る場面が象徴的なように、まるで少女のような無垢さも持っているのであり、そこが単なる“悪女”とは一線を画する女性像として提示されているのです。
 そうしたルルの両面性は周囲の者を混乱に陥れ、パトロンは自滅するようにピストルの誤射で死んでゆきますし、その若い秘書も、その秘書の恋人と思われた女性さえも、ルルの魅力に取り憑かれて犯罪(脱獄幇助や闇賭博への耽溺)に手を染め、堕落した生活へと自らを向けていってしまうのです。
 ルル本人にしても、養父やその仲間に唆されながら、結局はロンドンの場末で客をみすぼらしい自宅に招き入れるという娼婦に身を落とすことになった上、ちょうどその頃ロンドンに出没していた切り裂きジャックの毒牙にかかってしまうという結末を迎えます。
 G.W.パプストは、先日観た「三文オペラ」では、キャメラをよく動かしてダイナミックな絵を作る人という印象を持ったのですが、この映画では、アップやロングを多彩に組み合わせたフレーミングによって切り取ったカットを、的確な編集で繋いでリズムを形作り、いささか取り散らかっているかにも思えるお話を強引にまとめ上げてしまう腕力を示しており、サイレント末期の映画としては技術的に最高峰の水準を見せていると思いました。
 まあこの映画の場合は、監督の技術力などどうでもよく、ひたすらルイーズ・ブルックスの姿態に魅了されていればいいのであり、その伝説的なボブカットを観るだけで(映画の後半、賭博船の場面では、髪をアップで固めたりもするのですが…)、映画的魅惑に溺れることができましょう。


「うつせみ」(3月18日 恵比寿ガーデンシネマ2)
2004年/監督・製作・脚本:キム・ギドク

【★★★★ キム・ギドクらしいお伽話。相変わらず無言だが、意味を問うより、ただ美しいと呟く映画】

 昨年公開された「サマリア」に次ぐキム・ギドク作品。2004年のヴェネツィア映画祭監督賞受賞作です。
 自ら宅配料理のチラシを玄関の鍵穴に貼って回っては、そのチラシが剥がされていない家の主が留守だと見抜く方法で、空き家を探して住む青年が、ある一軒の高級住宅で、夫からドメスティック・ヴァイオレンスを受けている女性と出逢います。 青年が、空き家を移り住んでは荒らし回るような粗暴犯ではなく、洗濯物は洗ってやり、時計や体重計が壊れていれば丁寧に修理してやるような、いわば“律儀な一時的借家人”とも呼ぶべき純朴さを持っていることに気付いた女性は、自分に対して偏執的な愛情しか向けない夫から逃れて、この青年の空き家暮らし人生に加わることにします。
 二人か終始無言を貫く点では、「魚と寝る女」の釣り堀管理人女性や「悪い男」の売春宿用心棒ヤクザと同じく、二人が紛れもないキム・ギドク・ワールドの住人であることを告げていますが、これまでのギドク映画では、黙りこくっている人物の傍らには饒舌にまくし立てる人間が配置されていることが多かったことを思うと、お互いに一言も発しないまま、視線と仕草のやりとりだけで意志を疎通させる今回の主人公二人は、より抽象性と純粋性を高められたとも言えましょう。
 この抽象的な純粋さを、言葉という形あるものに置き換えることの難しさに、またしてもわたくしたちは直面することになるのですが、孤独を抱えた二つの魂がふと寄り添い、静かに発光し始める瞬間を、ギドクが透徹した視線で見事にフィルムに写し撮ってみせるのをわたくしたちは瞳に焼き付けながら、ただひたすら美しいとのみ呟いていればそれでいいのかも知れません。
 まるでつがいの蛍が体内から淡い光を発散しながら、お互いに相手の体温を全身で受け止めるといわんばかりに、寄り添いながらつましく空き家生活を続ける二人。
 しかしそんな小さな幸福も長くは続きません。ある家で既に死んでいる老人を発見し、遺体を肉親以上の丁重さを込めて埋葬したのち、警察に捕まってしまうのです。それも、老人が死んだあと文字通りの空き家となった狭い家に老人の息子からかかってきた電話に、青年がわざと出るという、遺族に老人の死を知らせようとするかのような確信犯的な行為から逮捕につながったのですから、二人の主人公には自分たちだけが幸福を貪ることは許されないのだ、とでもいわんばかりの覚悟が感じられます。キリスト教徒ギドクの世界観を覗いたような気がします。
 このあと、不法侵入などの罪で留置場に入れられた青年がとる不可思議な行動と、それがもたらす結果については、実はわたくし自身、どのように考え、どのように言葉にすればいいか、全く途方に暮れてしまうほかなく、ギドク映画を前にした言葉の無力を改めて噛み締めるほかないのですが、青年が己の存在感を消し去ることで小さな幸福の続きを完成させる奇妙な静寂の美しさを眼にすると、これはお伽話なのだということに気づくのであり、そう言えば、映画は冒頭から「昔々あるところに、美しい青年と寂しい人妻がおりました」といった具合に寓話として語り起こされていたことを思い出し、お伽話に向かってその意味や主張を問い質すことの野暮にも気づくことになるのであって、ここはただ「美しい」という一語だけを呟き、あとは失語症を装うしかないのだと思い当たります。


「ウォ・アイ・ニー」(3月18日 東京都写真美術館ホール)
2003年/監督・製作:張元(チャン・ユアン)

【★★★★ 若い男女が繰り返す夫婦喧嘩から、中国の“今ここ”とお互いの孤独が浮き上がる。女優が魅力的】

 中国第六世代の代表選手の一人と目されるチャン・ユアンの新作は、密かに待ち続けてきました。00年に「クレイジー・イングリッシュ」という、中国大陸に英語を蔓延させようとする精力的な男を追うドキュメンタリーを観て、日本ではあり得ないような国家的レヴェルでの欧米願望の一体感に圧倒されたあと、「ただいま」という劇映画では、一時帰郷する犯罪者を自宅に送り届ける女性刑務官に託して、急速に近代化を進める北京における世代間ギャップをさりげなく提示する作劇に酔い、この監督は只者ではないと思ったからであり、チェン・カイコーやらチャン・イーモウやらに大作を任せるに至った日米映画資本の誇大妄想とは無縁に、「世界」のジャ・ジャンクーなどとともに中国の“今ここ”と格闘しようとしているチャン・ユアンには密かな期待を寄せ続けてきたのです。
 今回「愛してる」という直截的かつ本質的な言葉をタイトルに選択したチャン氏の姿勢には、相当の覚悟が漲っているわけで、否が応もなく内なる期待は高まっていました。
 冒頭、男と女が愛を囁き合い、女がイニシアティヴを握る形で結婚が約束される様子を長回しの逆光場面で観せられ、その後、婚約者の男が不慮の死を迎えるのを経て、映画は時間を飛ばして数年後の話となります。
 婚約者に死なれた女性シャオジューは、死んだ彼氏の友人だったワン・イーと再会し、あっさり結婚して、二人は新婚生活を始めますが、次第に二人の心に溝が刻まれるようになります。物語は殆どこの二人の家庭生活に絞り込まれており、それも、小さな感情の行き違いや日常生活上の不満のぶつけ合いからくる夫婦喧嘩の場面の連続となるのです。
 自分が愛されているという実感がほしいために、毎日のように夫から愛の言葉を要求する妻。今さらそんな言葉を口にすることに躊躇する夫。……世界中どこでも若いカップルの間で繰り広げられているであろう痴話喧嘩の類であり、誰もが身につまされるところもありましょう。
 顔を合わせるたびに、こうした喧嘩を繰り返す二人を観るうち、次第に疲れるというか、やりきれない思いを抱いてしまいますし、「クレイジー・イングリッシュ」や「ただいま」の作家にしては、四畳半的な狭い世界に拘泥しているのではないかとも思うのですが、世界で最小単位の共同体たるこの夫婦関係には、実は二人を取り巻く中国の現実が反映しているに違いないことにも思い当たり、ことに、家庭外では看護婦という仕事を持ち、夫が会社の方針に反発して退社してからは、彼の生活の面倒もみることになった妻の立場から考えると、急速に近代化を進める北京の中で己を鼓舞して生活と格闘する彼女の孤独がジンワリと浮かび上がってくるのです。
 最初のうちは律儀に人物の切り返しショットを多用していたチャン氏も、次第に長回しを使うようになり、お互いにまくし立て合う言葉の速射砲のような応酬によって互いの科白が邪魔し合うという、ホークス「ヒズ・ガール・フライデー」以来の作劇が展開します。
 そして、そのチャン氏の演出に応えて己を画面に晒け出してみせる主演女優シュー・ジンレイが、素晴らしく魅力的です。ジンレイ嬢は、チャン・ツィイー(SAYURI)、ヴィッキー・チャオ(少林サッカー)、ジョウ・シュン(中国の小さなお針子)と並ぶ“中国4大女優”の一人と数えられているそうですが(この映画の配給会社が勝手に名づけた眉唾ものの命名かも知れません)、わたくしは未見の「最後の恋、初めての恋」(03)で渡部篤郎と共演した予告編を観て、その知的な清楚さに眼を惹かれたことがあります。彼女は、演技もさることながら、2004年に監督・脚本・主演した「手紙」という映画でサンセバスチャン映画祭監督賞や中国国内の映画賞を受賞して、今や監督としての将来を嘱望されているらしい人です。
 そんな知的清楚さを持つジンレイ嬢が、「私を愛して」と男に迫り、ついには男を傷つけてまでして独占しようとする姿の凄まじさには、増村保造「妻は告白する」「夫は見た」などの若尾文子と重なってくる迫力が備わっており、表面上の激しさに隠れた可愛らしさや哀しみをも見事に表象していました。すっかりこの女優に惚れ込んでしまった次第です。


「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(3月18日 恵比寿ガーデンシネマ1)
2005年/監督:トミー・リー・ジョーンズ

【★★★ 前半はミステリー、後半ロードムーヴィー。男臭い、人間臭い映画だが、9.11後遺症を感じる】

 この日は、朝から恵比寿に出て「うつせみ」「ウォ・アイ・ニー」と続けて観たのですが、どうせ恵比寿に来たのだからついでにもう1本観てしまえ、と思い、この日に公開初日を迎えたトミー・リー・ジョーンズの初監督映画へ。ジョーンズはこの映画で05年カンヌの監督賞を受賞しています。
 冒頭、土埃の舞う山道をジープが走ってきて、乗っている男二人は、視線の先に1匹のコヨーテを見つけ、猟銃で仕留めます。そしてコヨーテの死骸に近づいてみると、コヨーテの横に人間の死体が横たわっています。コヨーテはこの死体に食らいついているところを猟銃で撃たれたのです。
 死んでいた男は、メルキアデス・エストラーダという名の不法入国メキシコ人カウボーイ、死因はライフル銃による射殺だとわかり、早速地元保安官による捜査が開始されるのですが、被害者が不法入国者だということで、保安官の捜査には今ひとつ力が入りません。一方、エストラーダの友人である初老のカウボーイ(トミー・リー・ジョーンズ)が、犯人探しに執念を燃やし始めます。
 場面が変わると、バリー・ペッパー扮する新任の国境警備隊員が、妻を伴ってこのメキシコ国境近くのテキサスの街に赴任してきて、妻との間に隙間風を吹かせながらトレーラーハウスに住み始め、国境警備員としてメキシコから密かに入国しようとする人々を厳しく取り締まる様子が描かれます。
 さらに場面が変わると、不法入国してきたメキシコ人カウボーイが、ジョーンズ扮する老カウボーイのもとで働き始め、次第に二人が心を通わせる様子が描かれます。ははーん、こいつがエストラーダに違いあるまいと観客を納得させつつ、同時に、この映画が過去と現在を並行させながら物語っていることをも納得させるのです。
 映画の前半は、エストラーダと友情を育んだジョーンズが、友人を射殺した犯人が新任国境警備員のペッパーである事実を掴むまでを、時制を前後させる話法を用いながらサスペンスフルに描いてゆきます。
 脚本が「アモーレス・ペロス」や「21グラム」を書いたギジャルモ・アリアガですから、時制を混乱させた話法はなるほど彼らしいと思わせる一方、ジョーンズがエストラーダに心底の友情を感じるあたりは、なんだか甘過ぎるような気もします。ともあれ、メキシコ人アリアガにしか書けないだろう不法入国者と国境警備員との確執あたりは、やはりリアリティを感じるものの、前半の出来はまずまずといった程度です。
 ところが、保安官がエストラーダを射殺した張本人はペッパーであると知りながら、ペッパーのことを立件しようとしないことに苛立ったジョーンズが、ペッパーを力ずくで拉致し、ペッパーにエストラーダの遺体を掘り起こさせた上、その遺体をエストラーダの故郷であるメキシコの村へ運ばせるに至る後半のロードムーヴィーが展開するようになってからが、この映画の真骨頂となります。
 エストラーダが生前、自分がもし死ぬようなことがあったら、妻と子供が待つメキシコの故郷ヒメネス村まで遺体を届けてほしいと言った約束を、律儀に守ろうとして、ジョーンズはエストラーダ殺しの犯人たるペッパーに遺体運びを強要する旅に出るのです。
 国境警備隊や保安官も出動し、誘拐を実行したジョーンズを捕まえようとしますが、警備隊は裏をかかれ、保安官はジョーンズを射殺するチャンスを掴みながら、結局は見逃す道を選択します。こうして国境を越え、厳しい砂漠の中をヒメネスに向かう男二人の旅が展開します。
 ペッパーの靴を奪い、首に縄を括りつけてそれを馬に結び、強引に国境近くの河を渡らせるジョーンズのやり口を観ながら、わたくしたち観客はペッパーのライフル誤射が故意によるものではないことを知っているだけに、ジョーンズの執念が異常に思えるようになると同時に、いわば独裁者として手下ペッパーを従えて異郷の地を侵略して進むジョーンズの姿が、迷走する合衆国そのもの、またはその指導者のジョージ某に重なって見えてきました。
 まあわたくしの過剰な裏目読みに過ぎないとは思いますが、ジョーンズが旅路の果てに見たものが、あるはずのものがなかったという徒労の虚しさであるところを見ると、中東に攻め込んだ末にそもそもの攻撃の主目的だった核施設を見つけられなかった某大国と重ねて見るのも、あながち誤りではないのかも知れないとも思いました。その意味では、「21グラム」と同様、アリエガ脚本はこの物語の中に、ポスト9.11の思いを塗り込めたとも考えられましょう。
 カンヌはこの映画のジョーンズ演出に賞を贈って顕彰しましたが、わたくしにはアリエガの脚本や、砂漠の苛酷さを見事に絵にしてみせたクリス・メンゲスのキャメラのほうを褒めるべきではないかと思えましたし、ジョーンズに対しては監督賞より、その人間臭い無邪気な暴君ぶりを体現した芝居のほうこそ受賞に値するものだったと思えました。


「僕らのバレエ教室」(3月19日 シネマート六本木・シアター2)
2004年/監督:ピョン・ヨンジュ

【★★★ 恋や受験の悩みを描くありふれた青春映画だが、家父長制への反抗が痛切に伝わり、並を超えた】

 前週から始まった“韓流シネマ・フェスティヴァル”、この日も六本木に出向いて、3本を観ました。まず1本目は、従軍慰安婦問題に斬り込んだドキュメンタリーとして知られる(未見です)「ナヌムの家」で有名な女流監督ピョン・ヨンジュが手がけた劇映画「僕らのバレエ教室」。
 冒頭、教室で居眠りをしながら夢を見ている高校生が出てきて、彼が受験や恋といった身近な悩みを抱えつつ、次第に市民講座に設けられたバレエ教室に打ち込むようになり、そこで育んだ友情によって人生を一回り大きくしてゆくという青春物語。
 主人公の夢から始まり、スポーツに打ち込む青春群像劇へと導かれるという作劇からは、昨年わたくしが“コリアン・シネマウィーク2005”で観た「台風太陽」とよく似た匂いを感じ取りました。思えば「台風太陽」も、「子猫をお願い」を作った女流監督チョン・ジェウンの作品であり、韓国映画界において代表格に数え上げてもよかろう女流監督二人が、奇しくも高校生がスポーツに夢中になる青春物語を編んでいることに、奇遇という以上の何かを感じました。その“何か”の実態は、まだわたくしには鮮明に語ることはできませんが……。
 それはともかく、「僕らのバレエ教室」。
 主人公の高3少年ミンジェは、旅客機パイロットで家を留守がちにしている父親から、大学の航空学科に行くことを期待されていますが、それに見合う成績を挙げているわけではなく、どのように受験を乗り切ればいいか煩悶しています。
 と同時に、同じアパートに住む娘に対して長らく片想いを抱いており、かと言って告白する勇気も持てず、やはり煩悶しています。結局は、仲のいい級友二人と
一緒に酒やタバコに興じて、日々の憂さを晴らすしかできないという、まあ典型的な中流高校生です。そんな彼がある夜、無免許飲酒運転をしているところをバレエ講師の女性に見つかり、半ば強制的にバレエ教室に通うようになるのです。
 教室には、彼が片想いを抱く女子高生も姿勢を正しくするためという目的で母親から強制的に通わされており、悪友二人も強引に誘って通い始め、ほかにも中華料理店の配達係の青年、レンタルヴィデオ店の中年店長、ダイエット目的の中年オバサンなど、多彩な人物が通っています。そうした人間たちに囲まれて、主人公もイヤイヤながらバレエを続けることになるのですが、正直なところ、こうした展開は1960年代半ばの東宝・松竹・日活あたりで盛んに作られた平均的青春ものから一歩も出るものがなく、まあ凡庸な映画に思えました。
 しかしながら、映画も後半に入り、主人公が知り合った身体障害児が差別的な仕打ちを受けていることを目撃し、主人公の親戚もその仕打ちに加担していることを知った旧正月の宴の席で、彼が突然親戚に対して非礼を働いたことを機に、父親が彼を殴打し、それに反発した主人公が父親に対して精一杯の抗議を涙ながらに訴える場面から、映画は一気に求心力を獲得します。
 それは、今なお韓国の中流家庭を統御しているらしい家父長制の重石に対して、ごくありふれた平均的な少年が異議を唱える瞬間だったのであり、その一瞬に監督ピョン・ヨンジュは劇構造の一切を賭けていたのを感じたのです。
 父に反発して家を出たミンジェはバレエ教室に泊り込みながらバイト生活を始め、父の言いつけである航空学科ではなく自分で選んだ園芸学科を受験します。そして、バレエ教室の面々が取り組んできた市民講座の発表会も近づきます。
 このあとは、まあお決まりと言ってよかろう発表会でのバレエ公演でメンバーの一体感が確認され、父親とも和解し、片想いの彼女ともいいムードが漂うに至るという生温い幸福感が映画を覆うことになるのですが、それは決して不快な生温さではなく、感動したとまでは申しませんが、思わず頬が緩んだことは事実です。


「君に捧げる初恋」(3月19日 シネマート六本木・シアター4)
2003年/監督・脚本:オ・ジョンノク

【★★★★ 幼馴染への恋を一途に貫く直情径行男の狂騒的コメディだが、後半はシンミリさせる韓流調。巧い】

「猟奇的な彼女」のチャ・テヒョンくんと「私の頭の中の消しゴム」のソン・イェジン嬢が共演し、タイトルが「君に捧げる初恋」とくれば、誰もがしっとりしたラヴストーリーを予想し期待するのでしょうし、わたくしもその一人だったわけですが、もう一人の共演者として「大変な結婚」で抜群の可笑しさを発揮した韓国の星野仙一ことユ・ドングンがいたことを思えば予想も可能だったように、実際の映画は、橋の上を自転車で通学するイェジン嬢に向かって、橋の下から小舟に乗ったテヒョンくんがプロポーズの言葉を叫ぶファーストシーンから(もっと言えば、イェジン嬢の母親が早死にしたため、幼いイェジン嬢はテヒョンくんの母親からお乳を分けてもらって育ったことを説明するディズニー調のタイトルバック・アニメーションから)、派手なコミカルさを強調されて作られており、まずは呆気にとられました。
 喧嘩早くてオッチョコチョイだが学業はからしきダメというテヒョンくんに対して、イェジン嬢の父親でありテヒョンくんの学校の理科教師でもある星野ドングン氏は、全国模試で3千位に入るイェジン嬢の成績を凌駕することができれば娘との結婚を認めてやろうという条件をテヒョンくんに提示します。
 素直さだけを取柄とするテヒョンくんは、毎晩の睡眠を削り、鼻血が出るほどの猛勉強を己に課し、見事ソウル大学法学部に合格を果たします。
 さあいよいよイェジン嬢との婚姻届を役所に提出しようとすると、ドングン氏から待ったがかかります。大学合格だけでなく、司法試験に受かって将来が約束されてこそ、早死にしたイェジン嬢の母親を安心させることができるのだ、と力説するドングン氏。単純極まりない性格の持ち主であるテヒョンくんは、涙ながらに、司法試験合格まではイェジン嬢の体に指一本触れないと固く約束してしまうのです。
 ばかばかしい狂騒的コメディには違いないですし、派手なオーヴァーアクトの連続には辟易するほどなのですが、赤ん坊のように素直で己の初恋に殉じる道を貫くテヒョンくんのキャラクターを憎むことなどできるわけもなく、しつこさが逆に説得力となって、ただただ圧倒されるに至るのです。イェジン嬢の母親の墓を前にして、自らの童貞継続を高らかに宣言するテヒョンくんと、彼をひっしと抱き留めるドングン氏の父子愛(義理の関係ですが…)には、正直なところ感動を覚えたことを告白しておきます。
 学生時代にせめて恋愛体験を味わいたいとイェジン嬢が合宿先で水着姿になってテヒョンくんを誘惑しようとして、テヒョンくんのほうは堅くなった股間を捩りながら誘惑に耐える場面では、下品だと思いつつも(と同時にイェジン嬢の水着姿にドギマギしつつも)、つい笑ってしまいました。
 そして、ついにテヒョンくんが司法試験をも突破し、ドングン氏の許しも得て友人たちの前で結婚を発表しようという段になって、それまで実は見せ場が少なかったイェジン嬢が物語の前面にせり出してきて、自分の結婚相手は別にいると宣言するのです。
 それでもメゲずに初恋の成就に向かおうとするテヒョンくんの健気さには観ているほうも同情を禁じ得ないのですが、イェジン嬢が、就職先のIT企業社長が女誑しだと知りながら、敢えて結婚相手として指名するに至った理由が明かされるにつれ、泣き芝居を得意とするイェジン嬢がこの映画にキャスティングされた意味も了解できるようになるのです。いかにも韓流らしいこのへんの詳細についてはここでは口を噤んでおきますが、この映画における泣き芝居が「消しゴム」のイェジン嬢に繋がったことは間違いないでしょう。
 終始ハイテンションが維持されて大声を張り上げた科白が応酬される展開は、決して個人的な嗜好に適うものではありませんし、くだらない、の一言をぶつけてしまえばいいだけの映画と言ってしまえばそれまでですが、くだらないけど面白い! これはわたくしとしては最大級の賛辞のつもりです。


「風の伝説」(3月19日 シネマート六本木・シアター4)
2004年/監督・脚本:パク・チョンウ

【★★★★ ダンスに命を賭けた男のジゴロ人生。変な映画なのだが、次第にのめり込み、最後は説得される】

 韓流フェスこの日の3本目。
 日本映画に対して韓国映画のほうに嫉妬に近い豊かさを感じる点に、中堅の男性俳優(もっと言えば中年役者)が主役を張れる映画が多いという点にあると思われます。中年に差し掛かった時期の役者は当然芝居に脂が乗っていますし、まだアクション場面に耐える体力もある。男の色気という面でも青臭い若造より遥かに秀でているでしょう。
 かつての日本映画は中年役者によって支えられていました。三船、裕次郎、錦之助、勝新はもちろん、雷蔵、鶴田や森繁、小林桂樹などなど、30代後半〜40代、ことによると50代に達した役者が綺羅星のごとく揃っており、若さだけを武器にしていた役者たち(加山、渡、森田健作ら)はどうしても見劣りしたものです。
 しかし、スタジオシステムが崩壊して、邦画各社が年に数本の大作で勝負するようになった80年代以降、主役を張る中年役者は約1名に一本かぶりする傾向が強まったと思います。高倉健や緒形拳がその典型でしょう。
 そうした傾向は21世紀の今も改善されておらず、コメディもシリアスもホラーも、何から何まで役所広司にオファーが集中しています。このところようやく渡辺謙という対抗馬が急浮上していますが…。
 一方、海峡を挟んだ隣国では、決して若いとは呼べぬ中年役者が次々と主役を張っています。アン・ソンギ、チェ・ミンシク、ハン・ソッキュ、ソン・ガンホ、ソル・ギョング、そしてイ・ソンジェ。中には中年と呼んでしまっては可哀想な気もする人もいますが、例えば日本の浅野忠信や永瀬正敏と比べるとやはりヴェテランの貫禄があります。彼ら中年役者を堂々の主役として起用する映画の豊富さが、そのまま韓国映画の豊かさに繋がっていることは疑いありません。
 前置きが長くなりましたが、この「風の伝説」は、わたくしが命名するところの“中年役者”イ・ソンジェの演技力と運動神経に寄り掛かった企画であり、ソンジェ氏も製作者サイドの期待に見事に応えてみせています。ソンジェ氏が社交ダンスのカリスマに扮するというお話が、果たして成立するのだろうかと、観る前は訝しく思っていたのですが、とんでもない、実に見事なダンスを披露し、笑いあり、サスペンスあり、感動あり、恋愛ありという、韓流らしいエピソードテンコ盛りの映画をソンジェ氏一人で支えてみせているのです。
 映画はまず、手持ちキャメラが繁華街のナイトクラブに入ってゆき、ダンスフロアに立ち尽くす一人の男の足元に女性の死体が横たわっている映像を映し出します。
 場面が変わると、若い女性警察官パク・ソルミ嬢が上司の班長から、署長の夫人を誑し込んだジゴロの罪状を掴むため、今は入院しているジゴロに接近すべく、怪我人のふりをして潜入捜査せよとの命令を受けています。
 早速ムチウチ症を装って病院に潜入した彼女は、伝説的な社交ダンス家でありジゴロの帝王と呼ばれるソンジェ氏と知り合いになり、彼が如何にしてダンスを習熟するに至ったのかを聞き出すことになるのです。
 しがない事務員をしていたソンジェ氏が、場末の酒場で再会した高校時代の級友に誘われてダンス教室のパートナーになり、ダンスの魅力に電撃的にとり憑かれたソンジェ氏が韓国中に散在するダンスの天才を訪ね歩いて、その腕前(脚前と言うべきでしょうか)を上げてゆく過程を回想場面として描くあたりは、腰の曲がった老大家が音楽が鳴り始めた途端シャキッとしてしまったり、海に突き出た岸壁で酒に溺れているホームレスが実はタンゴの天才だったりと、大袈裟な法螺話を見ているような楽しさがあり、つい頬が緩みます。
 ソウルに戻ったソンジェ氏が、ただ踊りたい一心でナイトクラブに通うようになり、ある人妻から懸想されて、自分には妻子がいることから身を引こうと、事業に失敗したのでもう会えないと軽い嘘をついたところ、意外にも人妻から資金提供を受けるに至ったという話も、出来すぎた法螺話の可笑しさで微苦笑を誘います。
 ソンジェ氏から話を聞き出しているソルミ嬢は、自分もダンスの魅力を電撃的に味わってみたいと考え、ソンジェ氏から手ほどきを受け、案の定ダンスにハマってゆきます。そして、ソンジェ氏がジゴロとして有閑マダムから金をせしめているのは、あくまでも結果論としてであって、この男を突き動かしているのは金ではなくダンスでしかないことを突き止めてゆくのです。
 そんなソンジェ氏が、あるナイトクラブで一見地味な格好をした女性と出逢い、彼女がひとたび踊り始めると情熱的なダンサーに変身する姿に圧倒され、その女性にすっかり入れ揚げてしまいます。しかし、その女性には実は裏の顔があり、ソンジェ氏の人生を大きく狂わせることになるのです。この女性との関係を描くあたりは、なかなかサスペンスフルです。
 ソンジェ氏もソルミ嬢も、所詮はダンスの素人には違いないので、彼らが踊る場面は細かくカットを割って誤魔化すのだろうと高を括っていたのですが、確かにカットを割るところも散見するものの、どうしてどうして、頭のてっぺんから爪先までフルショットで彼らのダンスを追う長回しの場面もいくつかあり、観ているほうのリズムを崩されることなく、ダンスの昂揚感に浸ることができます。それもそのはず、ラストのクレジット・バックには、ソンジェ氏らがダンスの特訓を受けるメイキング映像が流れ、相当に鍛えられたことが窺えたのであり、まあプロの役者なら当たり前のことではありますが、スタンドインに頼ることなく、このダンス映画に臨んだソンジェ氏の覚悟には、感心させられました。
 観ている途中は、★3つくらいの映画かな、と思っていたのですが、観終わった時にはすっかり充実感を味わい、★4つに格上げされていました。


「母の旅路」(3月23日 ラピュタ阿佐ヶ谷)
1958年/監督:清水宏

【★★★ 通俗的な母ものメロドラマだし、清水にしては出来が悪いことは事実だが、直球演出に好感を抱く】

 この日は仕事で新宿に出る用事があったため、そのまま会社には戻らずに阿佐ヶ谷に足を延ばし、未見の清水宏作品を鑑賞。清水にとっては遺作「母のおもかげ」(59)の1作前に当たる映画です。と同時に、1948年「山猫令嬢」(森一生)以来大映のヒット・シリーズとなり20本以上が作られてきた三益愛子主演の“母もの”の最終作となるのがこの映画のようです。わたくしにとって、初めて観る三益“母もの”ということになります。
 主人公の三益はサーカス団の花形・空中ブランコ乗りで、夫の佐野周二が団長を務めていますが、佐野が東京で実業家に転進することになり、三益もまたサーカス生活から一転して、山の手住まいの実業家夫人としての生活を始めることになるというお話。
 サーカス団一筋で育った三益は、お洒落やマナーとは縁がなく、夫が連れてくる仕事仲間の前でも行儀の悪いところを見せてしまい、戦時中に自分を拾ってくれた恩義を深く感じ、妻の性格も知り尽くしている佐野は、ただ苦笑を浮かべるだけですが、年頃の娘・仁木多鶴子のほうは、母親のマナー欠如を転校先の学校で披露されてしまうと、いたたまれなくなってしまいます。
 三益自身は、よかれと思ってやったことや、無意識のうちに出た行動が、お高くとまった山の手夫人たちの顰蹙を買うことになるとは思ってもいないのですが、佐野が事業仲間の藤間紫から社長の座を譲り受けることとなり、その就任披露パーティが開かれた際、招待客たちのヒソヒソ話を立ち聞きした三益は、自分のとった行動が夫や娘に恥をかかせていた事実を知ります。こっそり家を出て、サーカス団に舞い戻る三益。母に去られて、その不在に心を痛める仁木。
 サーカスから実業家令夫人へという転進は、いくらなんでも現実味に欠けると思ってしまいますし、三益が授業参観時に娘の仁木が見事な英語を披露したことに対して拍手を送ったことが、周囲の山の手夫人たちから顰蹙の対象となるあたりも、大袈裟に話を作りすぎている気がしました。
 母ものメロドラマというのは、こういうふうにして話を組み立てるものなんだ、と半ば呆れ、半ば納得しながら画面の推移を追っていたのですが、わたくしが清水宏の美徳と考えているロケーション場面での即興的な演出における大らかな開放感が少なく室内の場面が多くを占める映画ながら、画面のコンポジションや役者の動かし方、カットを割るタイミングなど、清水の的確な職人芸には感心せざるを得なかったのであり、さすがにこの映画で165本目という演出経験を持つ清水は、どこにキャメラを置きどう繋げば映画になるかを知り尽くしている人だと再認識した次第です。


「映画監督って何だ!」(3月24日 新文芸坐)
2006年/監督・脚本:伊藤俊也

【★★★ 映画の著作権を監督に帰属させろというプロパガンダ映画。主張の是非はともかく、見応えあり】

 新文芸坐で上映が続けられてきた“日本映画監督協会創立70周年記念 映画監督が愛した監督”と銘打った特集の最終日に上映されたのは、周年記念として企画されたこのヴィデオ作品です。
 現行の著作権法では、映画のように、脚本、キャメラ、演技、美術、音楽など、複数の“作者”たちの共同作業によって成立する“著作物”の著作権者は、製作者(映画会社)と規定されています。
 著作権法第16条「映画の著作物の著作者は、その映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物の著作者を除き、制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の全体的形成に創作的に寄与した者とする。」
 これに対して日本映画監督協会は、監督こそ表現物としての作品を実質的に統御しているのであり、映画の著作権者であって、現行法16条は削除すべきだと主張しており、その主張を広く観客に訴えるため、高橋伴明が中心となって企画を進め、伊藤俊也が脚本・監督して作られたのが、このプロパガンダ映画なのです。
 映画はまず、大島渚、深作欣二、出目昌伸ら数多くの監督たちが撮影現場で「ヨーイ、スタート」の掛け声を発している瞬間をフラッシュしてゆきます。現場を統括しているのがほかならぬ監督であることを印象づけるのです。
 続いて、あるスタジオに神田駿河台の旅館のセットが組み立てられ、そこに1936年2月26日、即ちかの226事件が発生した当日の日付がクレジットされます。日本を軍国化への道に導くことになった事件が起きたのと同じ日に、神田の旅館では、伊藤大輔、伊丹万作、牛原虚彦、村田実ら東西の監督が集まり、日本映画監督協会が結成されたことを、現存の監督が伊藤や伊丹らに扮して、描き出します。
 さらに続いて、今度は時代劇仕立ての展開となり、“菅徳兵衛”略して“菅徳=カントク”という名の傘貼り浪人に扮した小栗康平と、“脚本太夫”という名の吉原花魁に扮した阪本順治が、せっかく子供をもうけたのに、悪徳大家に扮した若松孝二に子供の親権を奪われるという劇に託して、“作品の著作権”が会社に奪われることの理不尽さを訴えます。
 このあたりになると、小栗や阪本はマジメに演じていることは理解できるものの、まあ監督たちの学芸会映画に過ぎぬではないか、という苦笑が漏れるばかりではありました。
 しかしこのあと、成田裕介(「ビーバップ・ハイスクール」など、専らVシネばかり作っている監督のようです)と小泉今日子が活弁に扮して、なぜ現行の著作権法の規定が出来上がるに至ったのかを検証する展開となり、戦前の旧法時代には盛り込まれていなかった前記16条が、戦後の法改正時に規定された経過を、山本晋也扮する旧法立案者へのインタヴューや戦後の国会審議の再現などによって描かれるくだりは、なかなかの見応えを示すに至ります。特に、戦後の文部官僚として16条
制定の推進者だった男に扮した小水一男は、長科白をリアリティ溢れる口調で見事に喋ってみせ、驚くべき演技力を披露しましたし、「戦犯として罰せられた映画人は皆、製作会社の幹部たちであって、監督は一人もいなかったのだから、映画の責任者は製作者なのだ」という強引な論理を国会で証言した藤本眞澄に扮した緒方明なども、なかなかの芝居上手でした。
 さらに映画は、監督の力によって如何に作品が統御されるかの実証例として、「煙突の見える場所」の中の1シーンを、本木克英、鈴木清順、林海象の3人がそれぞれのアイディアで再現してみせます。本木はエピソードのオチで笑わせる手法をとり、清順師はいつもの人を食った演出で五所版オリジナルから大きく脱線してみせます。林のパートは、特に面白味なし。
 わたくしが面白かったのは、このあと、熊井啓が田坂具隆の「陽のあたる坂道」に助監督としてついた際に見聞した、日活側と田坂の総尺を巡る攻防について語るインタヴューで、辞表を出してまでして作品を守ろうとした監督の矜持と、これを受けて日活幹部もまた辞表を提出したという、双方の矜持のぶつかり合いに、日本映画全盛時代のカツドウ屋たちの意気込みを感じたのでした。
 映画のラスト、脳障害を患って以来右半身の運動機能が劣化しているらしい大島渚が登場し、左手で筆を持ち、「監督は映画の著作権者である」という文字を書いてみせます。
 映画の著作権が製作者に一元的に委ねられている現行法には個人的に違和感を持ちつつも、監督が製作者にとって代わればいいのか、ということには異論がないわけではありません。TV局に身を置く立場からすると、劇場用映画を放送に乗せる際
、うるさい監督によって放送に遅滞が生ずるようになりはしないか、などと余計なことも考えてしまいますし、キャメラマンや俳優、装置家などの著作権はどうなるのだ、という思いも拭えないからです。
 しかし、伊藤俊也の作劇は、現行著作権法に対して疑問を抱くよう巧みに観客を誘導してみせるのであり、俳優として画面に現れた数多くの監督たちの熱意もまた、その誘導に一役買っていたのでした。


「愛しのサガジ」(3月25日 シネマート六本木・シアター1)
2004年/監督・脚本:シン・ドンヨプ

【★ 人物像に魅力なく、狂騒を繰り返す脚本に芸がなく、演出も凡庸。久々に観たダメ韓国映画】

 この日は六本木で韓流フェスを4本ハシゴ。朝から夜まで4本も立て続けに観るのは体力的に辛い年齢になっていますが、あれもこれも観たいという映画ファン特有の欲望ばかりが先走って前売り券をまとめ買いしてしまったため、券を無駄にすることができず、4本ハシゴという苦業を己に課すことになったわけです。
 まず1本目は、「愛しのサガジ」。サガジとは、“行儀の悪い人”という意味のようです。
 主演のハ・ジウォンは、昨年の韓流フェスでキム・スンウと共演した「人生の逆転」を観て、松たか子とクリソツな容貌に驚きつつ、表情の変化がチャーミングなので密かなエールを送った女優さんであり、その後「チェオクの剣」というTVドラマで日本でもメジャーになりつつあることも内心喜ばしく思っておりました。
 相手役のキム・レウォンは、仲間内では評判が高かったTVドラマ「ロマンス」に出ていた人ですから、この「愛しのサガジ」ではジウォン嬢とどのようなラヴロマンスを繰り広げてくれるのか期待していました。
 しかしながら、ジウォン嬢はただうるさくはしゃぎ回るだけの高校生の役でしかなく、レウォンくんのほうも自分の色男ぶりを鼻にかけて、自慢のスポーツカーにちょっと傷をつけられたくらいでジウォン嬢に「100日間自分の奴隷になれ」などと強要するという、唾棄すべき破廉恥漢の役なのですから、魅力のかけらも感じません。レウォンくんの登場場面は、プールから彼が出てくると、そのハンサムぶりに女性たちが次々と倒れてゆくという大袈裟なものだったのですが、決して筋肉質ではなく、ムチムチして生っちろい上半身が醜いとすら思えたほどです。
 と役者にばかり悪口を投げかけては可哀想と言うべきで、何といっても非難されるべきは、男女同権が当たり前な時代の中で、男が女性を奴隷としてコキ使うなどという時代錯誤を涼しい顔でやってしまう作者の側であり、わたくしには度し難い神経に思えました。
 キャメラワーク、カット割り、場面転換、どれをとっても凡庸の極みに見え、正直なところこれほどひどい韓国映画は初めての体験でした。


「ラブリー・ライバル」(3月25日 シネマート六本木・シアター2)
2004年/監督:チャン・ギュソン

【★★★★ オールドミス教師に実感があり、5年生の教え子とライヴァル関係になる展開も面白い。これは○】

 この日の2本目は、「ビッグ・スウィンドル!」でセクシーな魅力を発散したヨム・ジョンアが、今度は対照的にセコくて小心者のオールドミス小学校教師に扮し、新たに赴任してきたイケメン美術教師に入れ揚げた挙げ句、こともあろうに自分の教え子イ・セヨン(つい最近観た「僕が9歳だったころ」で主人公の少年が憧れる転校生に扮していた美少女)にライヴァル意識を燃やすというコメディです。
 舞台となる坂の多い海辺の街が韓国のどこに位置するところなのか知りませんが、父親を早くに亡くして母と二人で暮らしながら、田舎町で婚期を逸しそうになっている女性の生活感を、ジョンア女史が実にリアルに体現してみせ、首都ソウルに憧れる気持ちや、早く理想の男性を見つけて突破口を開きたいという焦りに説得力を与えます。自宅ではセクシーという形容詞とは縁遠いジャージー姿でダラけているあたりが、実際はモデルのように美しいジョンア女史とのギャップで笑わせます。
 彼女とライヴァル関係となるセヨン嬢のほうは、「僕が9歳だったころ」の役柄と同様に、可愛い顔立ちとは対照的な気の強さを見せ、クラスで女子のリーダー格の少女(演じているイ・ジヨンの巧さに舌を巻きます。「僕が9歳〜」の時
もそうでしたが、韓国は子役の層も厚いです)を腕力で屈伏させる一方、常に孤独を噛み締めているようなクールさも見事に体現してみせます。
 そしてセヨン嬢の父親も早く亡くなっていることが明らかになる段になって、セヨン嬢とジョンア女史が共に父親不在という相似形の人生を生きていたことを観客に気付かせ、この映画の陰の主題たる父性愛をじんわりと浮かび上がらせるあたりの作劇の巧さに唸らされます。
 映画の前半は、イ・ジフンという歌手上がりの青年が扮するイケメン美術教師を挟んでオールドミスと教え子が鎬を削る展開で笑わせておいて、あまりにも反抗的な態度をとるセヨン嬢に対してジョンア女史が手を上げてしまう事件を機に、ジョンア女史の中に教師としての自覚が呼び覚まされる展開となってからは、イケメンを巡るラヴラヴ話は後景に退き、王道の先生ものとして物語が引き絞られてゆくという作劇にも感心しました。
 そして、一度は教師の道を棄てようと決意したジョンア女史に対してセヨン嬢を始めとした生徒たちが救いの手を差し伸べる形で大団円を迎える中で、ジョンア女史の恋は宙吊りにされてしまうのかと思いきや、エピローグにカメオ出演した人物によって恋の側面での救いも用意されるという幸福なる結末。実に後味の爽やかな物語にまとめ上げてくれたのでした。
 監督のチャン・ギュソンはテクニックをひけらかすようなことはせず、物語に寄り添う形で的確かつ着実なキャメラワークと編集を選択してゆくのですが、例えば教室の窓から山や海が望めることをさりげなく示しながら、登場人物を取り巻く空気感を画面に定着させてしまうあたり、巧いと思います。
 全編にわたるコメディリリーフ的な役割を委ねられたダミ声の校長の使い方にも感心しました。


「公共の敵」(3月25日 シネマート六本木・シアター3)
2002年/監督:カン・ウソク

【★★★★ 名優の共演で、スピーディーに展開する警察アクション。ギョング氏の人間臭い悪徳ぶりが見もの】

 この日の3本目は「公共の敵」。2002年に製作されて以来、本国では続編も作られるほどの人気を博した映画ですが、これまで日本には輸入されませんでした。ラヴストーリーの要素が皆無の男臭い題材が日本の配給業者に忌避されたのかも知れませんが、これが実によく出来た面白い映画でした。
 冒頭のクレジットバックには、韓国の警察官たちの訓練風景の実写に加え、ヤクザ集団の逮捕に向かった刑事が相手に刺されて殉職してしまい、仲間の警察官たちから手厚く葬られる儀式などか映されるバックに、警察の仕事が死と隣り合わせであることを語るナレーションがかぶります。
 警察官の正義感を前面に押し立てた映画なのかな、と思っていると、続く場面ではそうした予測をあっさりと覆してみせます。
 主人公の刑事ソル・ギョングは、相棒のキ・ジュボン(「地球を守れ!」でシン・ハギュンを追う刑事、「どこかで誰かに何かが起こると必ず現れるホン班長」ではヒロイン・オム・ジョンファの父親などを演じていた脇役俳優)と共にヤクザ事務所から大量の麻薬を応酬しながら、それをこっそり私物化し、横流しして私腹を肥やそうとしている悪徳刑事であり、相棒刑事はそのことが警察の内部監査班にバレたことを悔やんでいきなりピストル自殺してしまいます。
 それ以来、ギョング刑事のほうも、内部監査班に素行を観察されるという、まさにダーティハリーも真っ青のはみ出しぶりなのです。
 犯罪捜査に当たっても、元ボクサーという腕力に物を言わせて強引ぶりを発揮し、ナイトクラブに酒を流してマージンを稼いでいるヤクザ(韓流脇役俳優の中でも飛び切りの芸達者イ・ムンシクが演じ、またしても忘れ難い印象を残します)を空き巣の犯人に仕立て上げて自分の手柄にし、内部監査班からの眼を巧みに逸らしたりします。
 このギョング刑事のエピソードと並行して描かれるのが、株式投資顧問をしているエリート、イ・ソンジェです。億という金を瞬時に操る辣腕ぶりを見せる一方、ちょっとした追突事故でトラブルとなったタクシー運転手のことをいともあっさりと殺害する冷酷かつ狂暴な側面を現わすソンジェ氏。
 そのソンジェ氏が、実の父親と金銭上のことで対立し、ある雨の夜、両親を刃物で惨殺します。別の事件で近所に張り込みしていたギョング刑事が、犯行後に雨避けフードで顔を隠したソンジェ氏とすれ違い、頬を斬られる事態となります。
 それから数日後、殺されたソンジェ氏の両親の遺体が発見され、事件の捜査をギョング刑事の班が担当することになります。
 そして、悲しみに暮れる遺族を演じていたソンジェ氏と対面したギョング刑事は、動物的な直感によってソンジェ氏が犯人だという匂いを嗅ぎつけます。やることは悪徳でも実の親を殺すような非道は我慢ならないギョング刑事の中の正義感がムクムクと頭をもたげ、ソンジェ氏が犯人だという物的証拠は何一つないのに、執拗な追及が始まるのです。
 韓国映画界を引っ張る“中堅=中年役者”の代表格たるギョング氏とソンジェ氏の共演ですから、共に圧倒的なまでの存在感をフィルムに刻み込み、このあと「シルミド」を撮ることになる監督のカン・ウソクは、役者たちの跳梁を深作欣二のようなダイナミックなキャメラの動きでシネスコ画面に定着させつつ、スピーディーな場面転換で映画を走らせてゆき、観客を飽きさせることがありません。
 ソンジェ氏は冷酷な狂暴さで警察を煙に巻こうとし、ギョング刑事のほうは、一度は刑事課から外されて交通課に回されるという左遷を経験しながらも、徹底した執拗さでソンジェ氏を追い込んでゆく、という展開から眼が離せなくなるのです。
 刃物の使い手ヤクザとして参考人聴取を受けるユ・ヘジン(「ジェイル・ブレーカー」では脱獄犯を追う警官、「コースト・ガード」では狂った妹を持つ暗い兄、「達磨よ、ソウルへ行こう」ではヤクザの幹部を演じていた出っ歯が印象的な脇役専門役者)や、ギョング刑事がネコババした麻薬の横流しに手を貸そうとする売人ソン・ジル(「大変な結婚」ではユ・ドングンの弟、「君に捧げる初恋」ではユン・ドングンの教え子ヤクザと、星野ドングンと組んでコミカルな味を発揮している人です)、それにギョング氏が立ち回る様々な局面で顔を出す悪徳金融取り立て屋3人組など、脇役も物語を豊かに彩っています。
 なるほど続編が直ちに作られた事情もよくわかる面白さ。日本でも早く続編が観たいです。


「吹けよ春風」(3月25日 シネマート六本木・シアター4)
2003年/監督・脚本:チャン・ハンジュン

【★ 話の枝葉ばかりで幹がない。姑息な主人公像に感情移入できず、長く感じる映画だった】

 韓流フェスこの日の4本目。昨年の韓流フェスで感心した「ライターをつけろ」の監督チャン・ハンジュンと主演キム・スンウの組み合わせですし、女優は「大変な結婚」のキム・ジョンウンですから、まず一定以上の出来は保証されているだろうと期待していたのですが、これが全く弾まない映画で、がっかりしました。
 冒頭は、スンウ氏がジョギングの途中でキリスト教会の敷地内に家庭ゴミを不法投棄するエピソード。のちにも同様の行為が繰り返されるのですが、これによってスンウ氏の姑息さを表象しようとしているのだとは思うものの、物語全体の流れからすれば本流とは何の関係もない迂回に過ぎません。
 この冒頭場面が象徴するように、この映画では本流を妨げる迂回や停滞が多過ぎて、なかなか物語を前に進めてくれず、観客を苛々させます。
 監督がこの映画の次に撮る「ライターをつけろ」では、1本の百円ライターをヤクザから奪い返すという単純極まりない動機が、ソウル〜プサン間を走る列車の大がかりなジャック事件というマクロ的な状況を突破するに至る、いわばワン・アイディア映画だったのであり、余計な枝葉を省いた単純かつ強引な直線性が、逆に物語の幹を太くする結果を生み、映画全体にスピード感を与え、観客を有無を言わせずに納得させる力の素となっていました。
 今回の「吹けよ春風」に対してもわたくしは密かにそうした直線的なパワーを期待していたのでしょう。ですから、余計な枝葉にばかり迂回して肝心の幹が脆弱という展開には、期待を裏切られた苛々がより一層強く感じられてしまったのだろうと思います。
 「吹けよ春風」の物語は、セコくて小心者のくせにプライドだけは高く、新作の執筆が進まなくて焦っている作家スンウ氏の家の2階に、能天気な喫茶店ウェイトレス・ジョンウン嬢が引っ越してくることになり、スンウ氏はますます執筆の邪魔が入ったと迷惑がっていたところ、ジョンウン嬢が暖めていた小説の題材が実に優れたものであることに気付いたスンウ氏が、ジョンウン嬢を騙し騙ししながら小説のネタを聞き出してゆく、というものです。
 こうした本流の傍らに、スンウ氏の親友であるチャン・ヒョンソン(「スパイダー・フォレスト」で主人公に救いの手を差し伸べる刑事役を演じた人)が次々と女性を好きになってしまう話やら、スンウ氏の弟子が実は同性愛者だったという話やら、スンウ氏の作家仲間であるビョン・ヒボン(「ラブリー・ライバル」でダミ声の校長に扮していた役者)がジョンウン嬢の勤める喫茶店ママに懸想する話やらが絡み、作家仲間が喫茶店のウェイトレスらと車でピクニックに行くくだりでは、途中で車を盗まれたり、泊めてもらった民家で老夫婦の喧嘩に巻き込まれたりするというまたしても迂回としか思えないエピソードが配置されるのです。
 こうした回り道は、本流の話に芯が通ってさえいれば、豊かな彩りに見えることもあるのですが、肝心の主人公像が煮え切らない姑息な男と設定されているだけに、感情移入することができず、観客の苛々を募らせる結果をもたらすのです。なぜスンウ氏扮する作家が、ジョンウン嬢に対して素直に小説アイディアを教えてほしいと言えないのか、わたくしには理解できませんでしたし、二人が共同で恋愛小説を作り上げてゆくドラマのほうが、主演の二人を遥かに魅力的に輝かせることができただろうと思います。
 しかしながら、監督のチャン・ハンジュンがこの映画の反省をきっかけに、次回作「ライターをつけろ」でのストレートな話法を生んだのだとしたら、ここでの失敗も無駄ではなかったと言えましょうか。


「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(3月26日 東劇)
2005年/監督:デイヴィッド・クローネンバーグ

【★★★ クローネンバーグにしてはヒネリやクセがなさすぎたとも思ったが、実に奥の深い話にも思えてくる】

 デイヴィッド・クローネンバーグというカナダ出身監督の映画は、偉そうなことを言えるほど観ているわけではありませんが、今度の新作には「暴力の歴史」などという大袈裟なタイトルをつけているだけに、相当の意気込みが漲っていることが感じられ、観たいと思いました。
 しかし実際に映画を観ると、ここでの“ヒストリー”という言葉は、“歴史”と言うより“一人の人物の中に残された痕跡”という意味合いなのだろうと理解できます。
 この物語は、今は田舎町にあるカフェのウェイターとして働いている平凡な男の内部に痕跡をとどめていた暴力が、ある事件をきっかけに次第に露呈してゆくというものなのです。
 冒頭のクレジット・バック、アメリカ田舎町のモーテルを二人の男が出発しようとしている長回しで、一人が水を補給しようとモーテルの事務所に立ち寄ると、中では従業員が既にこの二人の男によって惨殺されている様子が映し出されます。奥のドアからは生き残った幼い娘が出てくるのですが、水を補給中の男はあっさりと少女も射殺します。いきなり静かながらハードな残虐場面によって観客の注意を引き付け、物語の流れに乗せてしまう手際が鮮やかです。
 このあと場面が変わり、別の田舎町で主人公のヴィゴ・モーテンゼンがウェイターとして働き、妻のマリア・ベロとも仲睦まじく暮らしている平凡な生活ぶりを点描しつつ、高校生の長男がワルの同級生から眼をつけられてイジメの対象になっているという、いわば暴力の兆しが主人公の家庭に押し寄せつつあることを静かに描いてゆきます。
 淡々とした映画のリズムが逆にサスペンスフルに感じられ、観客の集中力を高めることに貢献しています。
 そしてある夜、モーテンゼンが働くカフェに、冒頭で登場した二人の殺し屋がやってくるのです。二人は早速現金強盗を働こうとして拳銃を取り出し、これを行使しようとした矢先、モーテンゼンの隠れた運動神経が炸裂し、あっという間に二人を倒してしまいます。
 悪漢から店を救った街のヒーローと持て囃され、TVのニュースに取り上げられるモーテンゼン。しかしこれを機に、彼の勤めるカフェには、遠い都会フィラデルフィアからやってきたというエド・ハリス扮する左目が潰された男に率いられたギャング風の男たちがやってくるようになり、モーテンゼンのことを別の名前で呼び始めるのです。
 最初は単なる人違いだとして、ハリスの言うことを聞き流すモーテンゼンや妻たちですが、確信を持って執拗に訪ねてくるハリスの不気味さに、妻のベロは次第に夫の正体への疑念が湧いてきます。夫はもしかしたら自分と知り合う前、このギャングたちと関わりを持っていたのではないのか?だからこそ夫は、カフェに殺し屋が来た時も、驚くべき俊敏さを発揮できたのだろうし、ことによると過去に数多くの殺人を経験しているのかも知れない。……そんなベロの疑念は長男にも伝染するようになり、彼はある時ついに、自分をイジメていたワルを逆にこっぴどく殴り倒す事件を起こしてしまいます。
 このあとの展開を具体的に詳述するのは控えておきますが、モーテンゼンの内部にとどまっていた暴力の痕跡が家族にも伝播してゆくあたりが、この映画のスリリングなところです。
 平和な空気などというものは呆気なく瓦解し、護身用とはいえひとたび銃を手にしてしまうと、人間の中に潜在する暴力衝動が表面化してゆくという描写は、またしてもポスト9.11における合衆国が抱えた病理を浮き彫りにしているとも考えられましょう。夫の正体に失望し、裏切られたという怒りを抱えた妻のベロが、自らの内から沸き起こる衝動をぶつけるように、階段の途中で夫の体を求め始める激しいセックスシーンに、こうした病理がはっきりと刻印されているように思えました。
 モーテンゼンが過去にオトシマエをつけに行くあたりは、まあこうするほかに物語を閉じる方法はあるまいと納得したものの、観終わった直後には、クセもヒネリも欠いた、なんだかクローネンバーグらしからぬ直球勝負に思えて、呆気ないような物足りないような思いを抱きました。
 しかしあとで考えてみると、ここでの主人公のオトシマエは、東映任侠映画のように主人公の逮捕劇へと収斂するのではなく、なしくずしの家庭的な輪に納まってゆくのであり、一見すると生温いハッピーエンドに思える事態が、実はその先に深い暗闇と暴力の連鎖を秘めていることを感じ、戦慄を覚えるようになりました。
 クローネンバーグの映画は、やはり一筋縄では捕らえられません。


「マンダレイ」(3月26日 シャンテ・シネ2)
2005年/監督・脚本:ラース・フォン・トリアー

【★★ 方法論にはもはや新鮮さがないし、冷笑的で嫌な話だが、激烈な米国批判には説得力を感じてしまう】

 前記クローネンバーグ映画を観た東銀座から日比谷に移動し、2本目の「マンダレイ」へ。
 ラース・フォン・トリアー“アメリカ3部作”の「ドッグヴィル」に続く第2弾です。アメリカ大陸には一度も足を踏み入れたことがないというトリアーが、米国俳優を欧州に呼び寄せて撮った合衆国批判というわけです。
 前作では、白人同士で作り上げようとした理想の共同体幻想が、結局は性を巡る私利私欲によって自滅してゆく経過を、ニコール・キッドマンを始めとした役者たちの体当たりの芝居に助けられながら苛烈に描き出したトリアーでしたが、今回は、ドッグヴィルをギャングの父に連れられて出てきた主人公グレースが、東部へ向かうところから映画が始まります。
 キッドマンには降りられてしまったので、今回のグレース役には「ヴィレッジ」でデビューしたばかりのブライス・ダラス・ハワードが起用されていますが、スタジオに建物の外観セットは建てられず、床に書かれた目印が建物を表象するという前作の方法論は今回も踏襲されています。
 そして今回トリアーが取り上げた主題は、ずばり黒人差別。グレースがたまたま立ち寄ったマンダレイという街で、奴隷解放から70年も経っているにもかかわらず、白人による黒人の公開鞭打ちが行なわれているのを目撃し、義憤に駆られたグレースはこの街にしばらく身を置きながら、黒人差別の撤廃と街の民主化を促すという善意を施そうとします。
 そして前作と同様、グレースの善意がズタズタに引き裂かれると同時に、彼女を衝き動かしていたのも純粋な善意などではなく、黒人を見下す蔑視と淫らな性欲という偽善でしかなかったことを暴き立て、一方の黒人たちも、弱者のふりをすることが己たちを有利に導くことを知り尽くした狡猾な連中ばかりであり、誇りをもって己の“ブラック・ビューティ”をアピールする気概など持ち合わせていないのだ、とでもいわんばかりの激烈な批判が込められてゆきます。
 しかしながら、あまりにも無邪気に民主主義原則を信奉し、それを黒人社会に適用しようと奔走する主人公像は、明らかに前作より愚劣になっているだけに、ロン・ハワードの娘が可哀想に思えてしまいますし、セットを床に描いた目印で表象するのも2回目となると新鮮味がなく、物語の進行において前作以上にナレーションを多用する作劇法には疑問も抱きました。
 そもそも、登場人物に次から次へと苛酷な運命を課して悦に入ってみたり、人間性悪説に依拠しているのか、登場人物の邪悪な側面を暴き立ててばかりいる底意地の悪さを発揮したりするトリアーには“嫌な野郎”という称号を叩きつけてやりたくなり、こんな奴の映画なんぞ好きになってやるもんか、とすら思います。
 しかし一方で、マンダレイの街から逃げ出してゆく主人公の背中に向かって黒人が叫ぶ「こんな黒人を作ったのは、あなたたち白人なんですよ」という言葉は決定的に正しいとしか言いようがなく、デイヴィッド・ボウイが歌うエンディング曲に合わせて映し出される、黒人差別史を証明する膨大なスティール写真には憤りを抑えられず、スティール写真の最後に、奴隷解放を宣言したエイブラハム・リンカーンの彫像が置かれるという構成には説得力を感じてしまったことも事実です。トリアーのことを嫌な奴と思いながらも、彼のアジテーションの激烈さ
に、つい説得されてしまうのです。
 とはいえ、トリアーの批判の刃は、己はデンマークくんだりに安住したまま、遠くからアメリカ合衆国に向けられるばかりで、自己批判の視点を欠いた無責任な遠吠えに過ぎないとも思え、そんな野郎の言うことに説得されちまうんじゃ情けない、というわたくし自身の内なる声が聞こえることも事実です。


「かもめ食堂」(3月31日 シネスイッチ銀座1)
2005年/監督・脚本:荻上直子

【★★★★ いかにもカウリスマキ愛!という企画だが、剽窃では終わらず、後味のいい映画に仕上げた】

 「バーバー吉野」から「恋は五・七・五!」へと着実に映画表現を彫琢させてきた荻上直子の新作が、全編フィンランドでロケーションされ、鄙びた食堂を再建する話だと知った時は、荻上もアキ・カウリスマキに相当影響されたクチだったのか、と諒解すると同時に、それじゃあまりにも露骨な「浮き雲」のパクリじゃないか、ちょっとはヒネリを入れないと恥ずかしいぞ、と忠告したい気持ちを抱いたほどです。
 事実、ゲストスター扱いで「過去のない男」の主演者マルック・ペルトラが招かれているのですから、それだけでも充分露骨なアキに対するオマージュの表明でしょう。
 実際に映画を観て、これまでの2作の荻上ならどうしても紛れ込んでしまうはしゃいだ表現は影を潜め、放っておけばついついやり過ぎ芝居に走りがちの小林聡美、片桐はいり、もたいまさこといった曲者をよく統御して、彼女たちには声を張らせず、オーヴァーアクトを禁じ、いわば能面に近い自然体を引き出しているのであり、そこにカウリスマキの好影響を見出すことができると思いました。アキ映画におけるカティ・オウティネンの仏頂面を思い起こせば、今回の3女優の抑えた芝居の根拠がわかりましょう。
 しかし一方、この映画における荻上には、カウリスマキ愛!などとはしゃぐ様子も窺えず、いつになく冷静な視線が全編に貫かれている印象をもたらします。
 これは映画のエンディング・クレジットを観て初めて知ったことですが、異邦人がヘルシンキの街で地元料理に迎合することなく日本特有の味を供するというこの題材が、荻上のオリジナルではなく群ようこの原作を戴いたものだったことが、カウリスマキのお膝元で映画を撮ることに荻上がはしゃぐことなく、北欧の地に立つ異邦人としての自分を相対化する心理的余裕を与えたようにも思えます。
 こうした相対化が、この映画を「浮き雲」の剽窃に走らせず、独自の“おにぎりの味”映画に導く結果をもたらしたのだと思うのです。
 そしてさらには、白夜を持つフィンランドの自然や風土が、人の意識を明晰にするのかも知れないとも思いました。映画の中でもたいが、フィンランド人のゆったりした生活リズムの秘密を森の神秘に探り当てようとしたのも、わかる気がします。
 映画の冒頭、フィンランドのかもめは丸々と肥えている、などという小林のモノローグとともに、港町ヘルシンキの埠頭周辺をうろつくかもめや町並を点描し、小林の両親が死んだのを機にヘルシンキで食堂を開こうと思い立った事情が語られます。
 ところが小林が開いた“かもめ食堂”には一向に客は来ず、ようやく訪れた日本アニメ・ヲタクの青年には「ガッチャマン」の主題歌全文を尋ねられ、小林は返答に窮してしまいます。
 客が来ないからといって小林には焦りの様子は見えず、時折インサートされるプールでの平泳ぎや自宅での合気道稽古のように、スローペースの人生を己に課しています。この描写が、先述した荻上の自己相対化の現われに思えたのです。
 ある日小林はヘルシンキ市内の書店でムーミンの日本語本を読んでいる片桐と遭遇し、彼女が「ガッチャマン」の歌詞全文をスラスラと書いてみせたことから親しくなり、片桐の求めに応じてかもめ食堂を手伝ってもらうことにします。
 このあと、小林が信条とする“スローライフ、スローフード”の思想に惹き付けられるように、3人組の太ったオバサンやら、夫に失踪されて茫然としている中年女性やら、航空貨物が見つからずにオスロで足止めを食らったもたいまさこやら、小林に美味しいコーヒーを煎れるためのおまじないを伝授する謎の男マルック・ペルトラやらがかもめ食堂に足を運ぶようになります。
 しかも、最初に地元住民を呼び寄せるきっかけはシナモンロールとコーヒーという西欧風の匂いだったのですが、次第に、とんかつ、味噌汁、そしておにぎりという、劇中で小林が“日本のソウルフード”と呼ぶ味覚によって人々を惹き付けるようになるのです。
 映画のラスト、小林が放つ「いらっしゃい!」という日本語の挨拶がごくごく自然に発せられるのを耳にして、わたくしたちは実に爽やかな後味を抱きながら劇場をあとにし、猛烈におにぎりが食べたいという衝動を覚えるのですが、その時点では既に、カウリスマキの影響がどうだ、などということはどうでもよくなっているのであり、ただただ荻上の成長に眼を細めている自分に気付くことになります。
 肩の力を抜いて話を自然体で組み立て、役者からは自然体の演技を引き出し、自然体のアングル選択と編集に徹することが成功への近道なんだと荻上も気付いたのでしょうか。
 この映画について、友人の医師・北京波さんは、仲間内に送ったメールで見事な分析をしてくださったので、無断で引用させていただきます。
 「あの映画の身上はまさに日本人としてのシガラミを棄てた第二の人生というメルヘンなんでしょう。日本国内では成立しない…、ボランティアをするのにアフガニスタンにわざわざ行かないとできない人たちと同じくで、それまでの出自に全く触れられずに素の自分だけで立ち向かえる人生。そういう夢を描くのだから生臭いこと一切なし。日本人として厄介な要素はさらりと棄てて、美徳だけは行使する。日本人による日本排棄作品の皮切りではないのかな?」
 ちなみにこの日は、赤坂での会議が終わってから会社に戻らず、夕方17時過ぎの回に飛び込んだのですが、レディスデーだったとはいえ場内は立ち見も出る盛況。単館とはいえ荻上がついにヒット作をものにしたことはご同慶の至りですが、この出来なら口コミで客が集まるのもよくわかります。そしてこの週末からは、客足が今いち伸びないキム・ギドク「うつせみ」を追いやって、恵比寿でも拡大公開されることになりました。
 いよいよメジャー感を醸し始めた荻上が、次回はどんな飛躍を見せてくれるのか、期して待つことにしましょう。

コメント(2)

こんにちは。
「かもめ食堂」は観終わったあとに幸せな気持ちになり、おにぎりが食べたくなりました。
北京波さんの「あの映画の身上はまさに日本人としてのシガラミを棄てた第二の人生というメルヘンなんでしょう。日本国内では成立しない・・・」に納得です。
わたしは小林聡美に魅せられ感情移入していました。
彼女たちの抑えた表情はアキ・カウリスマキを意識していたのですね。大阪も立ち見が出る大盛況!どの回も満席状態です。

侘助さんは毎回たくさんの韓国映画をご覧になられてますね。
知らない作品が多く大阪でみかけるのも少ないです。
東京は本当にたくさんの映画が公開されてるのですね。
いつも参考にさせていただいてます。
パンダさん、

いつも書き込みありがとうございます。

韓流フィルム・フェスティヴァルは、たぶん大阪でも開かれると思います。

その節にはぜひご覧ください。

かもめ食堂、当たってるんですね。

荻上直子は親戚でも何でもありませんが、長編デビュー作から追い掛けている人なので、なんだか嬉しいです。

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