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200×年映画の旅コミュの2007年7月下旬号(清水宏・1)

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「信子」(7月17日 シネマヴェーラ渋谷)
1940年/監督:清水宏

【★★★ 室内の場面が多く、清水の美徳が多くは発揮されていないが、ロケ場面の過剰な細部が光り輝く】
 シネマヴェーラ渋谷で行われている清水宏の特集上映。この「信子」は、一昨年11月、“松竹110年祭”と題した松竹映画特集で観たことがあります。
 田舎から出てきてズーズー弁が治らぬ高峰三枝子が女学校の教師になり、早速女生徒たちからは人気者になるものの、学園の実力者の娘でひねくれ者の三浦光子からは何かと意地悪を働かれ、傷つきながらも次第に教師として成長してゆくという物語。
 2年前、「2005年映画の旅」11月下旬号に書いた感想が、今も通用すると思いますので、引用します。
 “殆どが学園の室内を舞台に展開してゆくお話なので、清水映画の最大の魅力であるロケーション場面の開放感や瑞々しい自然の匂いが希薄なのが残念なのですが、体育教師という設定の高峰が、校庭で整列した生徒の前で手足に振りをつけた体操を披露する場面などには、妙なエロティチズムが発散されていて、戸外の場面だと清水の映画が輝くという、奇跡としか思えぬ現象を前に唖然とするほどです。
 映画が後半に入ると、生徒寮の寮監となっている高峰が、寮生を連れてハイキングに行く場面が用意されます。寮に侵入したコソ泥を退治したことから、生徒の圧倒的な人気を得るようになっている高峰のことを快く思わない三浦が、ちょっとした悪戯心で、休憩中の高峰らを置き去りにしてバスに乗って相当前方に行ってしまいます。そうとも知らず三浦が行方不明になったと思った高峰は、生徒たちと一緒に森や川をこまめに歩いて、三浦のことを探すのですが、木々に向かって女性たちが声を合わせて三浦の名前を呼ぶ姿が何回も何回も繰り返されるのを観るうちに、それが三浦探しの場面であることの意味を逸脱し、女性たちが力を合わせて森の精霊を呼び出している姿のように見えてしまい、何やら奇妙なオーラが場面を包むのを感じたのでした。屋外場面にこのようなオーラを立ち昇らせてしまう点に、やはり清水の天才が表れていると思います。”
 ……傑作と呼ぶのは躊躇われますが、観ていてついつい頬が緩んでしまう細部が相次ぐ映画ではあり、清水宏の幸福なる映画的感性が発揮された佳篇だと思います。


「次郎物語」(7月17日 シネマヴェーラ渋谷)
1955年/監督・脚本:清水宏

【★★★ 物語としては、原作が用意する起伏を充分に描いたとはいえない平板さを感じるが、自然描写が幸福】
 児童文学の名作として知られる下村湖人原作は戦前戦後を通じて何度か映画化されており、わたくしも、1941年・島耕二監督版、60年・野崎正郎監督版などを観ていますが、清水宏版は初めてです。
 本家から離れて、学校の用務員をしている望月優子・永井柳太郎夫妻のもとに預けられて育った次郎・大沢幸浩(のちの健三郎)のもとに、本家から連れ戻したいという報せがくるところから映画は始まります。田舎の学校の広い校庭で、乳母の家の子供と一緒にきょうだい同然に育ち遊ぶ次郎を捉えたロングショットには、戦前の清水宏映画のように奇跡的なまでの開放感と自由が、画面から立ち昇るには至っていませんが、学校脇に建てられた用務員の家のロケセットのどっしりした貫禄も、田舎の学校らしい雰囲気が匂い立つキャメラワークも、日本映画が世界に冠たる実力を発揮していた黄金時代の底力を見せ付けています。
 本家に返された次郎が、産みの母・花井蘭子とは折合いが悪く、乳母の望月のことばかりを慕い、それが実母の花井にとっては屈辱に思え、といった悪循環が続くさまは、誰が悪いわけでもなく、ただ身体が弱いがゆえに乳母のもとに出されざるを得なかった次郎の境遇の不幸が、観る者をやるせなくさせますが、旧家のどっしりとした安定感と威厳をセットの隅々にまで再現してしまう技術力の高さに唸らされます。新東宝といえば、55年当時でも最も貧乏な撮影所だったと思いますが、その新東宝にして、これだけの装置を実現してしまう日本映画界の底力は、やはり黄金時代と呼ばれるに相応しい域に達していると思います。
 全体の4分の3は幼少期の話に絞り、育ての親たる乳母との別れ、厳格な実母との折り合いの悪さ、旧家の没落と母方実家への引き取られ、実母の病気に伴う融和と実母の死などを経験する中で成長する次郎を描きます。
 クレジット上ではトップに掲げられた木暮実千代が登場するのは、次郎役者も大沢から市毛勝之(大沢に比べると、芝居の技巧が一段階落ちます)に代わった中学時代からで、実父・竜崎一郎の後妻として酒屋の女将になった木暮のことをなかなか「お母さん」と呼ぶことができなかった次郎が、修学旅行の際に木暮が小遣い銭をこっそりと持たせてくれた優しさにほだされて、帰宅後初めて「お母さん」と呼ぶ場面で映画を終えています。
 子供たちが田園を歩いたり、川で喧嘩したり、家の中で鬼ごっこしたり、といった無償の行為に興じるだけで、魅力的な絵を作ってしまう清水ですから、そうした場面に多くの時間を割いており、物語を進めることは二の次に置いたのではないかと思え、物語の濃度としては、波乱万丈という言葉とは程遠く、次郎の成長物語としての起伏も平板とすら思えるほどです。しかし、清水映画の幸福感とは、説話機能とは一線を画した子供たちの無償の行為描写にこそあると思っている者からすれば、これはこれで実に清水らしい映画なのだと思い、満足感に浸って劇場をあとにしたのでした。


「銀河」(7月21日 シネマヴェーラ渋谷)
1931年/監督:清水宏

【★ 話が取り散らかって方向が定まらず、労働運動を扱ったテーマも清水宏には相応しいと思えず、退屈】
 冒頭は雪山で若者たちがスキーに興じ、主人公・八雲恵美子が仲間たちとにこやかに滑り降りる一方、奈良真養が珍しくコミカルな役どころで、板がうまく履けず滑りも下手糞という芝居を見せているので、小津安二郎初期の「若き日」みたいな青春コメディなのかと思ったら、さにあらず。
 舞台が東京に戻ると、奈良は八雲との政略結婚を企んでいるらしいことが描かれる一方、八雲には日守新一扮する恋人がいるという設定で、そんな中、八雲自身は、家から姉妹同然に育ってきた召使の川崎弘子が姿を消したことを気遣っており、その川崎を探すという名目で出掛けると、街なかで頭に包帯を巻いた知人・斎藤達雄と遭遇したため、斎藤の家に遊びに行って頭の包帯のわけ(酒場で若い女を不良から守ろうとした、云々)を聞くといった展開。話がどこへ向かうのかさっぱり見当がつかず、脚本が取り散らかっていると思いました。
 このあとようやく八雲は街で川崎弘子と遭遇し、そのまま川崎が住む下宿に行くと、川崎の兄であり八雲の幼馴染みでもある高田稔が登場し、ここでようやく主演の男女優が揃うのです。
 ところがこのあとも、話はあっち行ったりこっち行ったりと方向が定まらず、八雲の兄・毛利輝夫や斎藤達雄のエピソードに必要以上の尺を割いて観る者を戸惑わせるばかりで、ついつい眠気に負けてしまったのでした。
 八雲の恋人だった日守は、川崎が屋敷を出るきっかけとなるレイプ事件の張本人であることが明らかとなり、八雲の前から姿を消し、八雲は奈良(八雲の父親である実業家・藤野秀夫の片腕という役柄です)と結婚します。その奈良が経営にあたることになった会社で、組合活動をしているという設定なのが高田稔で、高田は奈良の経営方針と鋭く対立するという展開なのですが、どうもそうした労働運動などという主題が清水宏に相応しいとは到底思えず、話も弾みません。
 清水宏の美点であるロケーションの開放性も、自由で大らかなユーモアも、洒落たモダニズムもなく、わたくしがこれまでに観た清水映画の中では最も退屈な1本でした。


「花形選手」(7月21日 シネマヴェーラ渋谷)
1937年/監督:清水宏

【★★★★★ 学生たちがダラダラと軍歌を歌い田舎道を歩くだけの場面が、なぜかくも無上に愉しいのか!?】
 この映画は、2002年のゴールデンウィークに三百人劇場で清水宏のミニ特集上映が行われた時に観たのですが、その時のチラシに書かれていた「奇跡のような“脱力系映画”の傑作」という言葉がまさしくお似合いの、素晴らしい映画に思えました。
 冒頭、どこかの大学のグラウンド。笠智衆扮する学生が、陸上競技(中距離走)の練習に向かおうとしています。一方、グラウンドの脇の草っ原に、3人の男が寝転んで昼寝している様子が、ロングで捉えられます。これに気づいた笠が近づいて、寝ている佐野周二を起こします。佐野は「俺は昼寝をしないと早く走れないんだ」などと言って、練習をサボろうとしますが、笠にせかされて、一緒に走ることになります。ところが、意欲満々の笠より佐野のほうが早くゴールイン。佐野は「とにかく勝ちゃあいいんだろ、勝ちゃあ」などと言って、再び昼寝。佐野と一緒に“昼寝仲間”になっている二人の男、日守新一と近衛敏明が、コメディリリーフとして映画の随所で笑いを誘います。
学生たちは、隊長・大山健二の号令で軍事演習に出かけます。♪敵は幾万ありとても〜、と大山が歌えば、後ろに続く学生たちが、♪敵は幾万ありとても〜、と応える。♪天に代わりて不義を討つ〜、と大山が歌えば、学生たちは、♪天に代わりて不義を討つ〜、と応える。……こうして学生たちが田舎道を走ってゆく姿を、延々と後退移動で追いかけてゆきます。ある時はハイキングしている女学生を追い越し、ある時は田舎の子供たちを追い抜き、肥溜めの桶を載せた大八車とすれ違うと、大山以下全員が鼻をつまんで、歌が鼻声になるといった具合です。男たちの一団がただ走っているだけの絵が、なぜこんなに愉しいのか!?
 渡河訓練では、またしても佐野と笠がトップ争いの競走を始め、今度は笠が勝ちます。すると、冒頭の佐野による「勝ちゃあいいんだろ、勝ちゃあ」に呼応するように、笠が子供たちを集めて「勝ったほうがいい! 勝ったほうがいい!」などと拍子をつけて連呼し、佐野を辟易させます。
学生たちは、何キロも走り続けた末、ある村に辿り着き、ここの民家にいくつかのグループに分かれて泊めてもらうことになります。この民家では、笠ではなく、日守が同僚たちの集まる広間で、「勝ったほうがいい! 勝ったほうがいい!」の連呼をして、佐野を怒らせます。というのも、佐野は、道中で知り合った芸者・坪内美子とその子供・爆弾小僧らに関わり、佐野が恵んであげた柿が爆弾小僧の腹をこわしてしまい、佐野が必死に看病している最中だったからです。坪内は、治療代を稼ぐため、どこかのお座敷に行って、おそらく売春をしようとするのですが、それを見て佐野はやりきれない思いを抱きます。ムシャクシャした佐野は、坪内と同宿の旅人(薬売りや傘直し職人ら)と喧嘩になります。
翌朝、雨の中を学生たちは、来た道を戻ってゆきます。雨の中で佇む坪内のわびしい姿が、ワンカット挿入されるのが印象的です。
映画は、このあと再び冒頭と同じグラウンドの場面になり、佐野が笠と一緒に走って笠をやぶり、「勝ちゃあいいんだろ、勝ちゃあ」などと呟いて、また昼寝するところで幕を閉じます。
 肩の力が抜けて、伸び伸びと動く役者たちを、清水もまた自然体で受け入れてキャメラに収め、手持ちキャメラの移動撮影をふんだんに使ったロケーション場面の豊かさといったら、なぜ清水の手にかかると、風景がかくも匂い立つように見えてしまうのか、不思議でなりません。学生たちが、ダラダラと田舎道を走り、揃って軍歌を歌う様子を、これもダラダラと追いかけているだけの移動撮影が、なぜかくも愉しくて、このまま永遠に続いてほしいと思えてしまうのか!? やはり清水宏の映画は、時に奇跡のような輝きを発するのです。

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