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200×年映画の旅コミュの2007年7月下旬号(アルトマン・2)

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「BIRD★SHT」(7月16日 渋谷東急)
1970年/監督:ロバート・アルトマン

【★★★★★ 図式的な観方を安直に成立させてしまう物語だとは思いつつも、70年代の記憶が鮮やかに蘇る】
 アルトマン特集、一挙に4本上映されたこの日の締めは、わたくしが再会を最も楽しみにしていた「BIRD★SHT」です。
 わたくしが初めてアルトマンの映画を観たのは、ご他聞に漏れず、70年公開の「M★A★S★H」で、朝鮮戦争を舞台に、はみ出し軍医たちが繰り広げる軍規違反に込めた痛烈なブラックジョークに腹を抱えながらも、まあウェルメイドなコメディだという認識を超えるものは感じませんでした。
 ところが、それから約1年半後に観た「BIRD★SHT」で、飛翔することにとり憑かれた少年を中心に、何やら殺人事件が絡みつつ、飛翔の快楽とそれに伴う墜落の必然という主題を体現するイカロスの物語がロマンの高みに達していると思い、アルトマンという名がわたくしの中で絶対化したのでした。
 あれから長い間、いつか観直したいと思いつつ、12チャンネルのズタズタのカット版で観たことはあるものの、まともな形での再会チャンスは生まれないまま、ついにはアルトマンも死んでしまうという事態の中で、PFFの努力によって今回こうした上映機会が作られたことには、最大級の謝辞を捧げたいと思います。
 この日35年ぶりに再会した「BIRD★SHT」は、いい意味でも、悪い意味でも、70年代という時代を背負った映画だったことが鮮明に思い出され、21世紀の今、この映画を初めて観る人々は恐らく困惑するかも知れないと思いつつ、わたくしはといえば、72年という“政治の季節”の終焉に立ち会った者としてこの映画に寄せた感慨が再びハートに蘇ってきて、最初に観た時の感動を追体験したのでした。
 キャメラ目線で観客に向かって鳥の飛行機能について講義する鳥類学者ルネ・オーベルジョノワ。テキサス州ヒューストンにある巨大なアストロドーム(確か、全米でも初めて出来た屋根付きのドーム球場でした)で、野球の試合前に合衆国国歌を音程外れに歌う老婦人マーガレット・ハミルトン。そのハミルトンが自宅の鳥籠前で何者かによって殺され、その死体には鳥の糞が落ちています。一方、ドームの中の一室で鳥の飛行メカニズムを研究し、人工の羽根を作りつつあり、しかも、その羽根で空を飛ぶために筋力アップの訓練に余念のない青年バッド・コートがおり、彼の傍らには常に見守る謎の女サリー・ケラーマンがいます。さらに、コートが、吝嗇な富豪老人ステイシー・キーチ(老人メイクで老けさせています)のもとで運転手のアルバイトを始め、このキーチがあくどい借金取立てを老人ホームなどで行うことによって周囲から殺意を向けられると、それを見越したかのように、キーチは車椅子に細工を施されて何者かに殺され、その死体には再び鳥の糞がかけられます。
こうした一連の殺人事件に対しては地元警察も捜査を始めますが、地元の政治家ウィリアム・ウィンダムが人気取りのためにポケットマネーで敏腕刑事マイケル・マーフィーを州外から招きます。
 その後も、コートが持っている日本製高級キャメラに眼をつけた麻薬捜査官バート・レムゼンが、コートを脅そうとしたところで何者かに殺されるなど、青年の周囲では次々と殺人事件が発生し、その近くにはいつも謎の女ケラーマンの姿が見え隠れします。また、コートが若い女性に言い寄られそうになる時も、ケラーマンが姿を現わし、若い女性のセックス攻勢からコートを守ります。つまり、ケラーマンによって邪魔者が排除され、純粋培養されたコートが、ひたすら飛ぶことだけに集中させられるのです。
 ところが、アストロドームで観光客の案内係をやっているトッポいねえちゃんシェリー・デュヴァルが、コートと自然に接近することから、事態はケラーマンの想定外に動き始めます。
 事件捜査にあたっていたマーフィーも、次第に青年コートに捜査の焦点をあてるようになり、助手のジョン・シャックとともにコートを追い詰めようとしますが、ケラーマンの巧妙な妨害にあってコートを捕まえることができず、珍妙なるカーチェイス(線路の上をゴトゴトと自動車が連なって走るという、漫画のような追いかけっこ)の末、コートはデュヴァルの運転する車で逃げ延びてしまうのです。
 そして、逃げ延びてデュヴァルの部屋に辿り着いたコートは、ついにデュヴァルと肉体関係を結ぶに至ります。セックスによって“自由なる飛翔”の代替たる快感を得たコートは、ケラーマンによって純粋培養されてきた己に疑問を感じ始めるとともに、最近起きている連続殺人事件に自分が深く関わっていることをデュヴァルに告白します。デュヴァルは、コートこそが殺人犯だと早とちりして、元彼が政治家ウィンダムの秘書をやっていることから、その元彼に連絡します。
 こうして、政治家ウィンダムがコートのいるドームに押しかけ、ケラーマンにあっさり殺害される一方、ケラーマンのほうは、デュヴァルとのセックスによって純粋性が汚されたコートには興味を失って、彼のもとを立ち去るという状況の中で、いよいよ人工の羽根をつけたコートの試験飛行が行われるのです。
 飛翔の快感と、それに伴う墜落の必然。
 数分間の快感に続いて、コートがあっさりとドームのグラウンドに叩き付けられて死亡した直後、ドームのスコアボード下からは映画の出演者たちが派手なサーカス衣裳に身を包んで登場し、コートの墜落死体の周りでカーニヴァルのようなお祭りを始めます。フェデリコ・フェッリーニ「8 1/2」とそっくりな祝祭空間が繰り広げられる中、バックから流れる声によって出演者が紹介されてゆき、最後に墜落死したままのバッド・コートに照明が絞られて彼の名が告げられ、映画は幕を閉じます。
 “飛翔=自由への希求、ドーム=籠の中、墜落=体制への敗北”といった図式が安直に成立してしまう薄っぺらい物語構造に過ぎぬとも言えるものの、わたくしが最初にこの映画を観た1972年という時代相、即ち、あさま山荘事件が起き、60年代末から続いた若者たちの異議申し立ての時代が若者たちの決定的な敗北によって終焉したという状況が、この映画の寓話的世界と見事にダブって、わたくしたちの魂を揺さぶった記憶が今も鮮明に蘇ったのであり、誰が何と言おうと、この映画が好きだ!という思いを強くしたのでした。


「わが心のジミー・ディーン」(7月21日 ユーロスペース2)
1982年/監督:ロバート・アルトマン

【★★★★ アルトマンらしいドス黒い皮肉が利き、米国中西部のうらびれた街の哀愁が心に残る傑作】
 ロバート・アルトマンのレイトショー、この日の上映は「わが心のジミー・ディーン」。
 日本では一般公開されていない映画ですが、文句なしの傑作でした。
 ジェイムズ・ディーンが「ジャイアンツ」の撮影のために隣町に来た時、エキストラに応募して合格し、さらにはディーンと一夜を過ごし、彼が事故死したあと、彼の遺児を産んだという伝説の女性サンディ・デニスを中心に、かつての“ジェイムズ・ディーン・ファンクラブ”の仲間、シェールやキャシー・ベイツ、マータ・ヘフリンら4人の女性が、ディーンの死後20年を記念して、スーディー・ボンドが女主人を務める雑貨屋に集まるのです。
 雑貨屋の鏡に映る光景が20年前の1955年の出来事を表わし、鏡に当たっていた照明が落ちると、75年の現在形へと移行するといった、時間軸の往来が頻繁に行われながら(ただし、20年前の女性たちに若作りのメイクを施したりせず、現在形と同じように顔に皺が刻まれているところに、アルトマンの皮肉で残酷な視点が表われています)、古き良き時代が回顧されます。マグワイア・シスターズが歌った50年代のヒットソングを、デニス、シェールと、雑貨屋で55年に働いていた唯一の男性であるマーク・パットンが、振りを真似しながら店先で歌い、ジミー・ディーンが「ジャイアンツ」撮影のために隣町にやってきた時の昂奮が語られます。
 ところが映画の中盤、黄色いポルシェに乗ってきたという設定のカレン・ブラック(ポルシェ自体は画面に出ません)が登場してから、物語は大きく方向転換します。
 デニスが産んだというジェイムズ・ディーンの落とし子(その名も“ジミー・ディーン”と呼ばれる知的障害児らしいですが、結局彼は一度も画面に現れません)の存在が隠し味として、その場にいる人々の心に影を落とし、55年の時点では店で働いていたマーク・パットンが、その年のプロム(卒業パーティー)の夜、男子学生に強姦まがいのことをされるという“お稚児事件”を起こして店を去ったという事実が、意外な形で現在と結びつくのです。そして、4人の女性にブラックを加えた5人の中で、お互いが長い間に隠し続けてきた秘密が次第に明らかになる、という劇構造です。
 カレン・ブラックの正体、“テキサス一の巨乳”と自ら豪語していたシェールの胸に関する新たな事実、そして、誰もが胡散臭いと思いながらも触れずにいた、ジミー・ディーンの落とし子の真実……映画は、アルトマンらしいドス黒い皮肉と、アメリカ中西部のうらびれた街に漂う哀愁などを観客の心に残して、幕を閉じます。
 ミクシィの友人タラガさんがこの映画について書かれたレヴューが、非常に素晴らしくこの映画を分析しておられるので、長くなりますが、無断で引用させていただきます。
 “この作品、まず戯曲のブロードウェイ上演時の演出をアルトマンが手がけ、そのまま映画になりそうだというので、終演後に映画用のセット(雑貨店の室内のみ)を組んで、わずか17日ほどで撮影してしまったというもの。店内の壁面一杯に張られた鏡の中に、回想シーンが表れて、登場人物の意識が現在と過去を往復するというのが、演出上の最大のアイディアなんですが、これも舞台版からすでに使われていたんだそうです(ただし、舞台では、過去の彼女らを演じる役者たちが、鏡の向こうで回想シーンを演じたのだが、映画版では老いの迫る現在の女優たちが、少女時代の彼女ら自身を演じるという、非常に気味の悪い演出が施されています)。
 多少やりすぎの気がしないでもない、ロマンチシズムやノスタルジーの徹底破壊は戯曲の手柄だとして、映画としての見どころは、女優たちのクロース・アップに尽きる。舞台で練り上げられた見事な演技をみせる女優たちのなかでも(注:映画版は舞台と同じキャスティングです)、ことにサンディ・デニスとカレン・ブラックの鬼気迫る顔面芝居には、寒気が走りました。
 それにしても、舞台劇をショットで切り取ってみせたアルトマンの仕事を改めて目にしてみると、この監督の演出でもっとも欠かせないのは、傍観者の視線なんですね。ある人物の意識が高揚するとき、それを冷ややかな目で見つめる傍観者が必ず配され、観客の感情移入をシャットアウトしてしまう。多くのアルトマン作品でその任を負う白痴的な存在が、本作ではマータ・ヘフリンが演じる、ちょっとうすのろな女性で、いちばんセリフの少ない地味な存在だった彼女こそが、じつは「平凡」という最凶の毒を秘めていたのではないかと感じてしまいます。”
 タラガさんがご指摘の通り、さまざまな過去が暴かれる登場人物にあって、ヘフリンだけが20年間を平凡な主婦として過ごし、今も7人目の子供を妊娠中という身体で田舎町に帰ってきたのですが、その平凡な傍観者こそが、サイレント・マジョリティーたる米国のエスタブリッシュメントとして、登場人物全員の20年間に重くのしかかる存在だったのかも知れないと思わせます。
 何せサンディ・デニスが主役の映画ですから、“地味ー・ディーン”なキャスティングで、日本の配給会社が劇場公開に踏み切れなかったのもわからないじゃありませんが、日本にもディーンのファンは多いのですから、きちんと公開すれば、それなりの話題になったと思われ、このような傑作が日本で正式公開されていないのは、恥ずべき事態だと思います。

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