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200×年映画の旅コミュの2007年4月下旬号(新作)

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2007年4月下旬に侘助が観た新作映画


「映画館の恋」(4月16日 シアターイメージフォーラム・BF)
2005年/監督・脚本:ホン・サンス

【★★★ 身勝手でスケベな主人公像に嫌悪感を覚えると同時に、自分との同質性を感じ、心底嫌いになれない】

 ホン・サンスの映画は、幸か不幸か「豚が井戸に落ちた日」「江原道の力」「オー!スジョン」「気まぐれな唇」「女は男の未来だ」と、最新作を除いてほぼ全作を観ていますが、今回も「映画館の恋」などというロマンティックな邦題とは裏腹に、身勝手でスケベという嫌な野郎が出てきて、観る者の気持ちを逆撫でした上、なぜか美人女優がその嫌な野郎に身体を開いてしまうというサンス節は健在でした。
 今回ホン・サンスの毒牙にかかったのはオム・ジウォン嬢。ハン・ソッキュと共演した「スカーレット・レター」やクォン・サンウと共演した「美しき野獣」では、エロティックさよりむしろ凛とした美しさを見せていた彼女が、ホン・サンスの手にかかると、平気な顔で全裸のベッドシーンを演じてしまうのですから、ホン・サンスには何か特殊な才能が宿されているのでしょうか。
 彼の映画にはこのほか、ひとつの物語を紡いだのちに、もう一度同じ話を語りながら、虚と実の薄皮がぺろりと剥がされて、微妙にズレを生じた話へと変容してゆく“繰り返しとズレ”という独特の語り口があるのですが、今回の映画でもそれは継承されています。
 映画ではまず、イ・ギウ扮する大学入試を終えたばかりの誠実そうな優男が、オム・ジウォン嬢扮する中学時代の初恋の君と街角で遭遇し、実はちゃっかり肉体関係を結んでしまうスケベ野郎だとして描かれます。
 すると、そのギウ氏とジウォン嬢のお話は、実は映画の中の映画だったことが明らかとなります。
 この映画を観ていたのが、映画内映画の監督の後輩であるキム・サンギョン。さらには、主演女優のオム・ジウォンもたまたま劇場に来ており、彼女のことをチラッと目撃したサンギョン氏が、今度はジウォン嬢を狙う形になります。サンギョン氏が映画内映画のロケ地をブラブラするうち、行く先々でジウォン嬢に遭います。また、サンギョン氏の映画研究部の先輩であり、ジウォン嬢にとっては恩師にあたる監督が今は入院中であり、その監督を励ますための資金集めの飲み会が開かれるといった形で、サンギョン氏とジウォン嬢がさらに顔を合わせるチャンスがお膳立てされてゆきます。その結果の行き先はお定まりのベッドの中であり、しかもサンギョン氏の目当ては、映画研究部仲間から聞いた彼女の噂(上記の映画に出演したあと、身体に痣ができたため、売れなくなったという噂)を確かめることだというのですから、この嫌味なスケベ野郎のことを許し難く思えるほどです。
 こうしたエゴイストの主人公野郎に嫌悪感を覚えつつも、“あんただって同じでしょ? 同じように覗き見趣味のスケベだからこそ、こんな映画を観に来ているじゃないの?”という囁きが画面向こうから聞こえてくる気はします。そして、この主人公像の中に自分と似た部分があることは、認めざるを得ないと思うに至るのです。
 このように突きつけてくる刃こそ、ホン・サンス映画の醍醐味と言うべきかも知れず、わたくしのようにサンス印の語り口に惹かれてしまった者は、とりもなおさず、映画の登場人物と同類項(あんなに美女にモテることは、わたくしにはあり得ない体験ですが…)ということなのであり、その下世話で下品な貪欲さを共有しているということなのだろうと思います。そして、誰もが自分のことを本当には嫌いになれないように、わたくしはホン・サンスの映画を嫌いになることができないのです。


「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」(4月18日 シネマメディアージュ・シアター1)
2007年/監督:松岡錠司

【★★ 身近な者を失うという主題は永遠のものだし、この映画の出来も認めつつ、主人公が立派すぎて泣けず】

 勤務先の関連会社が出している原作も読まず、久世光彦さんの遺作になり損ねた単発ドラマも、もこみちくんの連ドラも観たことがないため、初めて接したお話でしたが、大体は想像した通りの輪郭に納まっており、それ以上でも、それ以下でもありませんでした。
 東京タワーを仰ぎ見ることのできる病院で、最期を迎えようとしている母親・樹木希林。映画は、彼女のことを見守っている息子のオダギリジョーが、自分の過去の記憶を遡って、母に様々な苦労をかけた思い出話として綴られます。
 母が、放蕩な画家である父・小林薫の家を出て、自分を連れて筑豊の実家に帰ったのが、1960年代。母が小料理屋をやって貯めた金で大分の美術学校に進学し、下宿生活を始めたことから、次第に自分が怠惰になっていったのが70年代。そして、東京に出て、美術大学に入学したものの、母の仕送りを遊びや賭け事に使い果たし、学校にはロクに行かずに遊び呆けた80年代。
 こうした放蕩癖は父親譲りなのかと想像しますが、映画はそうしたことには一切言及せず、ただ自堕落な生活を続けるオダギリを面白おかしく描きます。わたくしには、その自堕落さの無前提的な肯定ぶりが、どうも気に入りませんでした。というのも、あとでオダギリは母の病気を知ってから聖人のごとく献身的に母に尽くすのですが、だったら、自堕落さへの身を切るような反省が、映画から感じられて然るべきだと思えるのに、それを避けて通っているからです。もしかすると、こうした自己肯定的な表現こそが、原作が売れた要因なのかも知れないのですが、主人公と同様に自堕落な学生時代を送ってしまったわたくしの眼から見ると、この学生時代の無邪気な肯定ぶりは、醜い自己保身やナルシシズムのなせる業に思えました。
 その一方、すでに書いた通り、癌を患った母親を引き取ることにした主人公が、がむしゃらに仕事をして金を稼ごうとしている姿、母を献身的に見舞う姿、その母に去ってほしくないという心情などは、絵に描いたような優等生ぶりで、生前の母に不義理を働き続けたわたくし自身とすれば、劇中のオダギリくんの立派さに頭が下がり、それに引き替え自分がいかに冷血人間だったかと反省することばかりでした。その意味で、自分の冷血さと向き合っていたわたくしは、映画に感情移入して泣いている余裕はありませんでしたが、と同時に、あまりにも収まりのいい“母恋しもの”に、どうも違和感と居心地の悪さを覚えてもいたのでした。学生時代のC調ぶりとの比較が、鮮明すぎるように思えたのです。
 身近な者を失うという主題は永遠に不滅であることを認め、それを一定程度以上のドラマに仕上げてみせた松尾スズキ脚本・松岡錠司演出の功績も認めることに吝かではありませんが、泣きたくて観に行った映画で、一滴たりとも涙が流せなかったということは告白しておかなければならないでしょう。
 あと、東京生まれの東京育ちのわたくしからすると、母を地元から呼び寄せて、異邦の地たる東京で死なせてしまう悲痛さも今いち理解が足りず、むしろ帰るべき故郷があることの羨望を覚えていました。


「眉山 びざん」(4月19日 フジテレビ・マルチシアター)
2007年/監督:犬童一心

【★ 宮本信子の芝居が臭く、阿波踊りも観光的価値しか認められず、細部のサスペンスも盛り上がらない】

 3年前の2004年に公開された「解夏」がそこそこのヒットになったため、同じさだまさしの原作の映画化が実現しました。前回は、ベーチェット病という難病に罹り、いつかは失明することが運命づけられた青年と、彼を支える恋人や母親の物語でしたが、今回も難病ものと言える題材で、死にに行く母を看病しながら、母の昔の恋、すなわち実父との忍ぶ恋の物語を知った娘が、母と実父の再会に向けて仲介者の役割を果たすという話。
 タイトルの“眉山びざん”とは、徳島市に実際にある山のことで、徳島で夏に開かれる阿波踊り大会がクライマックスを形成します。しかし、この阿波踊り大会には、物語的な役割があまり感じられず、ただ観光客を寄せ集めるための口実にしか思えません。
 末期癌に苦しみながらも表面上は気丈に振舞うという設定の宮本信子は、夫だった伊丹十三が死んでから初となる10年ぶりの映画出演らしく、偉く気合の入った芝居を見せてくれますが、周囲から浮き上がったわざとらしさをプンプンと振り撒き、違和感を覚えさせます。
 闘病している母が娘や世間のために残す意志というのが、献体、すなわち恋人の職業でもあった医師たちの実験や研修のために己の肉体を捧げることだという点についても、映画は感動を押し付けるように描いていますが、献体など、わたくしの母も死んだ時にやったことであり、そんなに奇麗事として感動を強いるような題材とは思えません。
 娘が実父と再会を果たす場面のサスペンスも、正直なところ盛り上がらず、これが「金髪の草原」や「ジョゼと虎と魚たち」「タッチ」などでわたくしたちを唸らせた犬童一心と同一人物の作品なのだろうかと訝しく思ったほどです。
 犬童には、このような凡庸な題材ではなく、もっと演出的な工夫を熟考させるような題材をあてがうべきだろうと思いますし、犬童自身も、もっと題材を厳選してほしいものです。


「黄色い涙」(4月20日 恵比寿ガーデンシネマ2)
2007年/監督:犬童一心

【★★ 74年のTV版とは比ぶべくもなく、安易に60年代風俗の再現にばかり力が費やされた。二宮のみ可】

 昨年「硫黄島からの手紙」と「鉄コン筋クリート」で瞠目させられ、今年もTVドラマ「拝啓、父上様」で力のあるところを示した二宮和也くんが、ジャニーズ事務所のユニット“嵐”のメンバーと一緒に出演していること。題材は、わたくしが大学生の頃にNHK“銀河テレビ小説”シリーズの1篇として放送され、毎晩食い入るように観た市川森一脚本のドラマのリメイクであること。さらには、監督はここ数年でメキメキと力をつけていると思われる犬童一心であること。……この映画には、これだけ食指を動かす要素があったのですから、期待を込めて前売り券を入手し、公開を楽しみにしていました。
 TVドラマ版「黄色い涙」は、森本レオ、下条アトム、岸部シローといった、今では脇役専門になった人々が主演した群像劇で、“テレビドラマデータベース”では、“息子は病気の母をどうにかして上京させようと、ニセ医者を仕立てて、母に付き添わせようとする。市川森一のNHK初執筆作品で代表作のひとつ。60年代青春群像を描く。放送局に現存するテープはない。喫茶店「シップ」の千恵子を演じた保倉幸恵は本作出演を最後に1975年7月8日、22歳で自殺、帰らぬ人となった。”という魅惑的な解説文でこのドラマを紹介しています。
 東京オリンピックを目前に控えた東京に出てきた地方青年たちが、貧しさと闘いながら、一人は漫画家として夢を追い、一人は歌手を目指し、一人は画家になることを目標にし、一人は小説家を夢見るといった具合に、己の力量を磨こうとしつつ、友情と挫折の日々を共有する青春群像劇は、60年代末〜70年代初頭における“政治の季節”のなしくずし的な挫折感に打ちひしがれたわたくしのような世代にとっては、心の中に広がる砂漠に水が沁み込むように、胸の奥深くに浸透したものです。
 そうした時代背景を持った設定が、果たして21世紀初頭の今、リアリティをもって観客の心を捕らえるのだろうかという疑問は、映画を観る前からあったのですが、実際の映画は、「ALWAYS 三丁目の夕日」が当たった事態を受けて、どうやら柳の下のドジョウを安易に狙ったとしか思えぬ、60年代風俗や風景の再現ばかりに熱心なだけの代物でしかなく、器の格好ばかりを気にして中身のハートが置き去りにされた映画でしかありませんでした。もっとじっくり青春の格闘を見せたほうがいいと思われる箇所も、安易なギャグに逃げるばかりで、そのギャグも決して笑える代物ではないだけに、気の抜けた溜息が己から漏れるのを虚しく耳にするしかありませんでした。
 二宮くんだけは孤軍奮闘といった感じで、映画を支えようとしていましたが、あとの“嵐”のメンバーは、TV的なコントの域を出ていません。前日に観た「眉山」に続いて2日連続の鑑賞となった犬童一心の演出も、前日と同様に冴えのない凡庸な出来でしかなく、題材との格闘が甘いとしか思えませんでした。二宮くんの頑張りに★1つオマケしておきます。

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