ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

200×年映画の旅コミュの2007年3月下旬号(新作)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
2007年3月下旬に侘助が観た新作映画です。


「龍が如く 劇場版」(3月16日 銀座シネパトス3)
2007年/監督:三池崇史

【★★★ 三池らしい“そこそこの水準作”でありながら、時代意識も覗かせ、なかなかの見応え】

 三池崇史の映画は、2000年の「オーディション」や「DEAD OR ALIVE」以来、大胆な画面構成や鮮烈な暴力表現、巧みな省略法などに魅せられ、追いかけ続けてきましたが、ダボハゼのようにどんな題材でも食らい付く節操のない貪欲さに呆れ、確かにどれもこれもそこそこの水準作に仕上げてみせる職人芸は認めるものの、結局は“そこそこ”止まりでしかないことに辟易したことは否定できません。したがって、2004年に公開された「ゼブラーマン」を観て(宮藤官九郎脚本に惹かれて観たのです)以来、三池の映画からは遠ざかっていました。
 今回の新作は、わたくしの周辺からまずまずの評判が聞こえてきたので、ちょっとは食指が動いていたのですが、所詮はいつもの三池の小手先芸を観せられるに過ぎぬだろうと高を括っていました。そして実際に映画を観ても、案の定、魂を揺さぶられる瞬間はついぞ訪れなかったのですが、“そこそこの水準作”をここまで確かに作れることもまた立派な才能だと思えてしまったのでした。そして、さらに深く考えると、この“そこそこの水準作”には、格差社会と呼ばれるようになった21世紀の日本の戯画的な縮図が表われているのかも知れないとすら思え、結局は三池のペースに巧く乗せられてしまっている自分を発見するのでした。
 セガの同名ゲームを原作にして、十川誠志が脚本を書いているお話ですが、一体こんな話がゲームになるのだろうかと思えるような話で、要するに映画化にあたって相当脚色していると想像できます。
 新宿歌舞伎町(劇中では“神室町”と名前を変えています)を舞台に、ある暑い一夜、何組かの登場人物たちが交差して紡がれる群像劇です。
 刑務所から出てきたばかりの伝説のヤクザ・北村一輝が主人公で、彼を倒そうと付け狙う宿敵が岸谷五朗。北村は行方不明の親分を探す過程で、何億もの巨額な組の金が消失していることを知り、さらには、母親を探し歩く少女とも遭遇し、親分探しと少女の母探しをしながら、夜の歌舞伎町を徘徊するのです。そして、その北村のことを岸谷とその子分たちが追いかけ、さらには、暴力団対策刑事の松重豊が彼らを監視しています。
 一方、組の金が引き出されたあとの銀行に強盗に入った間抜けな男2人(遠藤憲一ともう一人)がいて、彼らは銀行員や客を人質にして銀行に立て篭もり、これを哀川翔扮する刑事が見張るというドラマが並行して描かれます。銀行立て篭もり犯を見張る哀川は、銀行の向かいにある理髪店を拠点にするのですが、その店主・田口トモロヲは、謎の韓国人・コン・ユと通じ合い、何やら裏の顔を持っています。田口やコン・ユは、武器屋の荒川良々ともつながりを持っています。
 さらに、コンビニ店員だった塩谷瞬が、彼女のサエコにそそのかされるまま強盗を始める決意をして、荒川扮する武器屋でピストルを入手するといったドラマも展開します。
 こうした雑多な人物像が入り乱れ、次第に絡み合いながら、最後は巨額な組資金が集められたタワービル(歌舞伎町の中心に聳え立つという架空の設定のノッポビルです)の最上階におけるクライマックスへと雪崩れ込んでゆくことになります。
 観終わった時に「あー、面白かった」とは思うものの、何ら感銘を残す話ではありませんが、実に巧く組み立てられていて感心しました。中身はないけど面白いものを作る、という三池の巧さを再認識しました。さらには、中身はないようでいて、北村vs岸谷という典型的なアクションものの構図を中心に置きながら、塩谷・サエコという、目標を持てずに足掻く青年たちを影の主人公に置くような作劇の中に、実はもしかすると2007年という時代を色濃く塗り込めようとする作者側の痛いほどの思いも感じられなくはないのであり、これはこれで雄弁に時代を物語っている映画なのかも知れないと思わせるのでした。
 アイパッチに金属バットという格好で、先日観た「バッテリー」での運動オンチのお人好しパパという役柄とは180度転換させて、怪演を披露している岸谷が笑いを誘い、田口とコン・ユの間に交わされる「キム・ギドク」「受取人不明」という合言葉に爆笑しました。


「さくらん」(3月24日 シネクイント)
2007年/監督:蜷川実花

【★★ 静物としての人物や事物を捉える絵はいいが、動きも繋ぎも弱く、話は予定調和で保守的。裸は可】

 ずいぶん前に前売りを買って楽しみにしていた映画なのですが、観た人たちの評判があまりよくないので二の足を踏んでいたものの、チケットを無駄にはできないので、この日、足を運びました。
 江戸・吉原遊郭の夜、空中に金魚が舞っているように見える映像が時折挟まれる中で、遊郭の顔見世に並んだ遊女たちの中に、ひときわ艶やかな表情の土屋アンナを示してゆくオープニング。予告編を観て期待した映像美は、原色を強調した画面構成の中で見事に果たされている一方、このあと、土屋アンナが美波という女優さんが扮している遊女と取っ組み合いの喧嘩を始める場面になると、身振りは大きいようでいて、実は段取り芝居のチマチマした動きを処理するカット割りに迫力を感じず、この監督、人物や事物を静物として捉えた絵は見事に作れるものの、動きを活き活きと捉える“ムーヴィング・ピクチャー”としての“映画性”には乏しいことを露呈しているように思えました。聞くところによると、この蜷川実花という監督は、舞台演出家・蜷川幸雄の娘ながら、本業は写真家として活躍する人だそうで、動きに弱いことも、むべなるかな、と思いました。
 このあと、物語の時代を遡り、土屋アンナ扮する遊女“きよ葉”が少女時代に吉原に売られてきて、遊女になることを嫌って脱走を企てても、安藤政信扮する遊郭の店番にすぐ連れ戻された上、枯れたような桜の木の前に連れてこられ、安藤から「もしこの桜が咲いた時には、お前をこの吉原から外に出してやる」という言葉を聞かされる場面をはじめ、幼い少女“きよ葉”が、菅野美穂扮する花魁の付き人として反抗的に生きながらも、菅野から「お前には花魁になる才能などない」と決め付けられると、反抗心の強さから、立派な花魁になってみせると自ら啖呵を切ってしまうという様子が描かれます。そそて幼い“きよ葉”は、大きな店の旦那に身請けしてもらって堂々と吉原から出てゆく先輩・菅野のことを、凛とした視線を浴びせながら見送るのです。
 こうした主人公像を見せられるうち、いわば“理由なき反抗”にとり憑かれ、旧来の吉原の風習を次々と打ち破りながらも、ついには己の力で吉原からの脱出を実現しようとする革命児としての遊女像を描くことが、この映画の作者たちの狙いなのだろうと見当をつけるのですが、実際の映画はそうした方向には進まず、実に古風で、古典的で、つまりはありふれたステレオタイプのメロドラマを紡いでゆくばかりです。
 老いたご隠居によって性の手ほどきを受ける主人公。自分が気に入った若旦那には入れ揚げるものの、気に入らない客は徹底して忌避しようとする我儘さ。そんな我儘ぶりを改めろと折檻されると、意外なまでにおとなしくなり、富豪の侍に身請けの話を持ちかけられると、あっさりこれを承諾する主人公。しかし、幼い頃から胸の奥で育んできた“純愛”がついには表面に噴出し、その純愛に殉じる道を選ぶという決断。
 うーん、こんな腰の弱い話のどこが面白いというのでしょう。こんな予定調和で古風な話でなく、若い監督にはもっと冒険してほしいと思いましたが、近ごろの若い人はわたくしが想像する以上にコンサヴァティヴなのかも知れません。若者の冒険を期待したわたくしのほうが、ロマンティスト過ぎたのでしょうか。
 装置、照明、音響などは悪くありませんし、絵を眺めている限りは、非凡な才能を感じさせます。しかし、編集が凡庸で、椎名林檎の曲で誤魔化しているものの、繋ぎにはテンポがありません。やはり、写真家なのです。
 とはいえ、女性写真家として女優たちを口説くことには長けているらしく、菅野美穂、木村佳乃、土屋アンナらが次々と大胆な濡れ場を演じてみせるのは、とりあえずの眼の保養にはなり、それだけでも木戸銭に見合う満足感は与えてくれます。内容には満足感はありませんがね。


「秒速5センチメートル」(3月24日 シネマライズBF)
2007年/監督・原案・脚本・美術監督・編集:新海誠

【★★★★★ 装飾過剰なブンガク趣味は鼻につき、脚本の不備は残念だが、画面細部は文句なしに素晴らしい】

 前記「さくらん」に続いて、すぐ隣の小屋にかかっているアニメーション「秒速5センチメートル」を鑑賞。「雲のむこう、約束の場所」以来3年ぶりの新海誠の新作です。
 前作「雲のむこう〜」は、さりげない日常の1コマを切り取るアングル・センスや細部のリアリズム、風景の捉え方、光と影の戯れなどに、「ほしのこえ」以来変わらぬ新海の非凡な才能を実証していたものの、北海道がロシア領になっているという設定から紡がれたSF物語にはわたくしたちを説得できる要素はなく、絵はいいけど話がダメという、アニメヲタクにありがちなパターンに陥っていました。
 しかし今回は、SF的要素をほぼ排除し、男女の心理的距離の揺れを丹念に描いた切ないラヴストーリーを3話連作にした60分の中編に仕上げており、少年が栃木に転校した女の子に会いに行くだけの話をサスペンスフルに組み立てた第1話など、文句なしの巧さでした。
 小学校の卒業以来、東京に残った少年と栃木に引っ越した少女。中学1年生も終わりに近づいた3月、今度は少年のほうが鹿児島に引っ越すことになります。遠く離れて二度と会えなくなるかもしれない二人。……少女がくれる手紙に促されるように、3月初旬のある日、少年は栃木にいる少女に会いに行く決心をします。そして、13年の人生の中で初めての体験となるたった一人での遠出に向かうのですが、その日は折り悪く、関東地方は大雪に見舞われることになり、栃木に向かう列車は大雪によって大幅な運行遅れが発生してしまうのです。
 列車の車内の細部、車窓から見える雪景色、走る列車のロングショット、揺れる連結部分などといったリアルなディテールが少年の孤独と不安を浮き彫りにし、果たして少年は少女のいる栃木に辿り着くことができるのだろうかというサスペンスが、観る者の心を震わせます。
 そして、ようやく深夜になって列車は栃木の片田舎に到着するのですが、とうに自宅に帰っていてほしいと少年が願っていた少女は、観客の誰もが予想した通り、駅の待合室に寂しく座っていたのであり、約1年ぶりとなる二人の再会が、小さな恋の誕生劇として機能するさまを、わたくしたちは甘酸っぱい思いで胸を満たしながら見届けることになるのです。
 主題歌は山崎まさよしが担当しているのですが、わたくしが大好きな映画「月とキャベツ」(96年、篠原哲雄監督)の主題歌「One more time,One more chance」をリミックスしており、そのメロディを聞いているだけで、何やらノスタルジックな胸の痛みが広がって、柄にもなくセンティメンタルな気分になってしまったのでした。
 しかしその一方で、いちばんいい場面に「ぼくたちの前には、いまだ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、どうしようもなく横たわっていた」などという、三文小説家しか使わないような装飾過多で饒舌なセリフを使ってしまうあたりに、新海という男の鼻持ちならないブンガク趣味が露呈してしまい、大きな失望を味わうことも事実です。
 その後、鹿児島に引っ越したあとの少年のことを、鹿児島の女子高生が片想いの眼で見つめる形の第2話は、第1話ほどの完成度ではないものの、やはり青春期の恋の痛みを伝える力は持っており、種子島から打上げられるロケットにロマンティックな想いを馳せる少年少女にも深い共感を覚えます。
 しかし、少年が東京に戻って社会人となり、栃木にいた少女も今は誰かと婚約しているといった現在の断片を切り取りながら、山崎まさよしの「One more time,One more chance」がヴォーカル入りで流れる第3部は、“人は大切なものも忘れてしまう動物なのだ”という哀しい真実を感じはするものの、結局は話の骨格を欠いた雰囲気だけのミュージック・クリップとしての機能しか持っておらず、第1部が示していた物語世界の可能性を全面開示できないまま、映画を終えてしまいました。
 惜しい。あまりにも惜しい。
 映像センスとその組み立ては、今の日本映画の中でも特筆すべきレヴェルに達しているだけに、脚本の不備が残念でならないのです。新海は脚本を自分で書かず、プロの脚本家に任せてそれを絵にしてゆくべきだと痛感します。こうした脚本の不備から言えば、全体評価は★3つ程度に落ち着いて然るべきなのかも知れませんが、新海の作る絵の細部には確かに心揺さぶられることも事実で、ここでは迷わず★5つを進呈しておきましょう。


「キトキト!」(3月29日 シネカノン有楽町)
2007年/監督:吉田康弘

【★ 行き当たりばったりの展開、稚拙なキャメラワークと演出。大竹しのぶの熱演だけが救い。期待ハズレ】

 このところ「パッチギ!」「フラガール」「魂萌え!」などスマッシュヒットを連発しているシネカノンの新作で、それなりに力を入れて宣伝しているところを見ると、結構期待できるのではないかと足を運んだ映画「キトキト!」。しかしハズレでした。
 騒々しいだけの前半、ただのホストくん哀歌というだけの中盤、家族愛をうたい上げたいために無理矢理こじつけたような後半。……どうも展開が行き当たりばったりにしか見えず、熟考によって組み立てられた話というより思い付きの話を漠然とつなげただけだと思いました。
 主人公はつい最近の「夜のピクニック」にも出演していた青年・石田卓也。彼は父親に幼い頃病死され、姉の平山あやとともに、母・大竹しのぶの女手ひとつで育てられたという設定です(このほか亡父の父、すなわち祖父の井川比佐志が近所に住んでいます)。
 映画は、石田が富山県高岡市の中学生だった頃から始まり、姉・平山が男と駈け落ちしたため、母は石田だけが頼りだと高校に進学させるものの、出来の悪い石田は落ちこぼれて暴走族紛いの仲間と悪ふざけの日々を過ごし、結局は高校退学に至る様子をポンポンとテンポよく積み重ねてゆきます。しかし、悪さが高岡大仏にイタズラ描きすることだったり、暴走族ごっこといっても原付バイクだったりするセコさで笑いをとろうとする姿勢の姑息さが、逆にクスリとも笑いを呼ばず、退学を勧告する教師たちに向かって「うちの息子がクズなら、あんたたちはカス!」と詰りながら消火器の噴射を浴びせる母・大竹の熱演だけが哀れに浮き上がってしまう結果を招いているのです。
 吉田康弘という、初めて耳にする名の監督は、どうやら井筒和幸の「ゲロッパ」や「パッチギ!」の助監督出身の人らしいですが、大竹や井川、それに大竹に想いを寄せてスナックのママに誘う光石研といった芸達者の芝居を長回しで眺めたいという欲求は理解できるものの、構図意識を欠いた漠然としたキャメラポジションも、中途半端に役者間に回り込む移動のキャメラワークも、稚拙の謗りを免れるものではなく、カットの割り方もキャメラの置き場所もわからぬ素人同然の監督さんだと思うしかありませんでした。
 主人公が親友の尾上寛之とともに高岡から東京新宿に出て、フラリと入ったホストクラブで働き始めたあとの展開は、青春と格闘する清々しさは皆無で、ただ金と指名のために身体を切り売りしてゆくホストの生活実態を描くに過ぎず、一体この映画は何を描こうとしているのか、作り手の狙いがわからず茫然とするだけでした。
 こんな映画でも何とか最後まで席を立たずに我慢できたのは、ひとえに大竹の熱演の賜物であり、現在と格闘する者が発する美しさを画面から見せていたのは彼女だけでした。そんな大竹を殺すことによって家族愛を強調しようとする作劇のあり方は、大竹の死に必然性も説得力もなかっただけに、許せないとも思えたのでした。
 タイトルになっている「キトキト」という言葉は、富山弁で「生きがい」を意味するのだとHPには書いてありましたが、映画の中では一切説明されることがなく、そのへんのいい加減さにも、許し難い思いを抱きます。

コメント(2)

実は私の母が富山県高岡市の出身で私もそこで出生しているんです。

「キトキト」は魚が新鮮だ、生きがいいという意味で
「この魚キトキトやちゃ」という感じで使います。

見に行けたらいいなと思っていましたが、なるほど時間に余裕があれば見てみることにします。
しげ、さん
高岡ご出身の方がご覧になれば、わたくしのように冷たく斬り捨てることはないのかも知れません。機会があれば観てあげてほしいと思います。恐らく監督や脚本家は高岡の出身なのだろうと推察できましたから、もしかするとご存知の場所がロケに使われているかも知れません。
「キトキト」という言葉、HPには「生きがい」と書いてありましたが、「活きがいい」の誤植みたいですね。
その意味ならば、映画の中で「キトキト」という単語が使われていたのかも知れません。とはいえ、使われていたとしても、その意味を富山県人以外の人々に知らせる工夫は残念ながらなされていませんでした。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

200×年映画の旅 更新情報

200×年映画の旅のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング