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200×年映画の旅コミュの2006年12月下旬号(溝口健二)

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2006年12月下旬に侘助が観た溝口健二映画。

「歌麿をめぐる五人の女」(12月24日 フィルムセンター)
1946年/監督:溝口健二

【★★ 愛のために体を張る女、受け身で主体性のない男。溝口得意の人物像ながら、型通りすぎて迫力なし】

 フィルムセンターの溝口健二特集も最終コーナーに近づいてきました。この日は、3本まとめて観たのですが、まずは、初めて観る「歌麿をめぐる五人の女」。戦後の溝口が「女性の勝利」に続いて作った映画です。
 戦後しばらく溝口はスランプに陥っていて、「西鶴一代女」(52)あたりから長いスランプを脱したというのが映画史的な“定説”になっていますが、「夜の女たち」(48)、「雪夫人絵図」(50)など、なかなかの力作を見せている映画もあるだけに、わたくしは自分の眼で観ない限り“定説”も信用しないという立場をとっています。しかし、この映画はどうも中途半端な印象は拭えず、やはりスランプなのかな、と思います。
 浮世絵師の歌麿が主人公ではありますが、タイトルが示す通り歌麿はいわば狂言回しであり、五人の女(というより、田中絹代と大原英子という“二人の女”)が主役の映画です。
 五人をとりあえず列挙しておくと、歌麿をライヴァル視するものの、結局は歌麿の実力にひれ伏して弟子入りする狩野流門下の小出勢之助の許婚で、狩野の娘なのが、大原英子扮する雪江。
 歌麿が絵に描いたことから人気芸者になった田中絹代扮する“おきた”。彼女は、紙問屋の御曹司と懇ろの仲になるものの、この御曹司、気が多くて、飯塚敏子扮する花魁に駆け落ちを持ちかけられると、ホイホイと応じて田舎に引きこもってしまい、負けず嫌いで気の強い田中は、御曹司を取り返すため、田舎に乗り込んだ上、命を張って御曹司を奪おうとして刃物を振るい刃傷沙汰を引き起こしてしまうのです。
 三人目は、すでに触れた飯塚敏子扮する花魁。彼女の背中に彫られた刺青を歌麿が浮世絵にしたことから、彼女も注目されるようになり、それがひいては刃傷沙汰につながったわけです。
 四人目は、ある大名が腰元を集めて庭に集め、半裸にして鯉のつかみ捕りをさせていたのを盗み見た歌麿が、その肌の美しさに注目した女で、川崎弘子扮する“お蘭”。歌麿は彼女を自室に招いて浮世絵を描きまくるのですが、性的対象として惚れることはなく、むしろ彼女にのめり込んでしまうのは、歌麿の弟子である小出勢之助のほうです。そして、小出がお蘭に夢中になっているのを知った狩野の娘・雪江は、失意のまま実家に帰ります。
 五人目の女性は、歌麿の内弟子であり片腕として雑事を引き受けている竹麿が許婚としている芸者の“おしん”で、彼女はそれほどお話に絡むことはありません。
 総じて、女たちは愛のために体を張り、気性も激しく生きていますが、男たちはといえば、歌麿も含めて受け身であり、主体性を欠いています。こうした人物像は、確かに溝口的と呼べそうな存在であり、彼らが惚れた腫れたの痴話を展開するという、いわば紋切り型のお話ですから、溝口の得意なパターンなはずなのですが、どうも退屈なのです。もしかしたらわたくし個人の体調が優れなかったのかも知れないとも思いましたが、紋切り型に収まりかえるばかりで、その型を突き破るエネルギーが足りないようにも思えました。
 中では、田中絹代が演じる女性像が一番迫力あったのですが、ほかの人物たちが物足りなく思えたのは、あまり馴染みの役者ではなかったせいかも知れません。
 ところで、この日のフィルムセンターには、わたくしが贔屓にしている俳優である西島秀俊くんも来ていました。彼をフィルムセンターで見かけるのは、成瀬特集、中川信夫特集、ドイツ映画特集に続いて4回目だと思いますが、若いのになかなかの勉強家で感心します。


「山椒大夫」(12月24日 フィルムセンター)
1954年/監督:溝口健二

【★★★ 平等主義を謳い上げた立派な映画には違いないが、溝口らしからぬ理屈っぽさが前面に出た】

 この日の溝口2本目は、約35年ぶりに観る「山椒大夫」。小学校低学年の頃、東映のアニメで「安寿と逗子王」は何度も観て、子供心にも泣けたものですが、溝口版はメロドラマ性より主義性のほうを強く感じて泣けなかった記憶が残っています。
 別に泣けなかったからダメというわけじゃありませんが、今回も主義性の強さの前で涙腺は刺激されず、立派な映画だとは思いながらも感銘は受けず仕舞いでした。人は平等であるべきだ、という主張は立派なものに違いありませんが、きわめて男性的かつ理屈っぽい観念であり、溝口的ではないのです。
 田中絹代の夫であり、二児の父親である清水将夫は、自他ともに認める人格者で、貴族として荘園経営を任されながら、荘園の使用人であるはずの百姓たちにも平等に接しています。そして百姓を困窮から救うために時の将軍に楯突き、左遷されてしまうほどですが、息子(演じているのは、津川雅彦の少年時代、加藤雅彦と名乗っていた頃です)には「男は常に平等を旨としなければならない」と教えている人物です。
 この教えを胸に刻み込んだ厨子王が、母である田中絹代、妹・安寿、そして乳母の浪花千栄子とともに北陸路を旅している途中、人買い巫女の巧みな言葉に騙されて、母や乳母と引き離され、妹とともに山椒大夫(進藤英太郎)が経営する土地に奴隷として売られてしまうのです。
 強欲にして強権的な独裁者たる山椒大夫のもとで、兄妹が虐待に耐え、別れ別れになった母との再会を夢見てゆくさまは、いわば“泣かせどころ”のはずですが、溝口の作劇は、母恋しのセンティメンタリズムには訴えず、厨子王が父から教えられた“平等主義”を心の楯として生きようとする主義性のほうを強調します。すでに「西鶴一代女」や「雨月物語」で世界から認められた“ミゾグチ”となっていた男にとって、今さら大映得意の母ものを作るつもりはなく、格調高く平等主義を謳い上げる道を選びたいというメンツもあったのでしょう。
 厨子王は安寿の力を得て山椒大夫のもとからの脱出に成功し、都に出たのちは時の大臣に認められてトントン拍子に出世して、越前の国の行政府の長として山椒大夫のもとを訪れて奴隷たちを解放するものの、妹の安寿は兄たる自分を逃がす代償として自死を選択していた事実を知ることになります。
 ここも、前述した“格調高い平等主義”のほうが強調されるため、兄妹の悲劇というセンティメンタリズムは後景に退いているように感じられます。
 しかし、このあと母の行方を追った厨子王が、娼婦たちが集まり住む村を訪れて母の消息を尋ね、海辺の寒村で盲目となった母に再会するラストシーンは、宮川一夫の移動車とクレーンを駆使した見事なキャメラワークによって奥行きの深い映像を作り上げ、人生の無常観を浮き彫りにしてみせるのであり、ただならぬ迫力を生み出しています。
 そうは言うものの、平等主義を謳い上げる溝口には、いつもの俗っぽさを極めることによってリアルに達するという得意の作劇とは異質な、男性的で理屈っぽい側面が強調されており、らしくない、という印象でした。


「雨月物語」(12月24日 フィルムセンター)
1953年/監督:溝口健二

【★★★★ 溝口の得意なリアルな人間臭さに、幽玄という要素が加わり奥行が出た。技術陣の水準も高い】

 この日3本目の溝口映画は、約35年ぶりの再会となる「雨月物語」。美しいお化け映画だったことは覚えていますが、細部の多くは忘れています。ただし、TV等で部分的には何度か観た場面はあり、森雅之が京マチ子に誘惑されて露天風呂に入ると、キャメラが水の流れに沿って移動してゆき、場面がオーヴァーラップすると広い草原に一本の木が立っている場所の脇で、森が京とともに昼から酒を飲んでいるという場面など、強い印象とともに覚えていますし、京が“お化け”であることを知った森が館の中を逃げ惑う場面、ようやく故郷の家に森が戻ると、死んでいるはずの妻・田中絹代が囲炉裏の横にボーッと現れて夕餉をふるまう場面なども、この映画を象徴する場面としてTVで紹介され、覚えていました。
 ただ、昔の印象だと、殆どの場面がワンカット・ワンシーンによって撮られているような気がしたのですが、今回久しぶりに観直すと、確かに印象的な部分はワンカットで押しているものの、実は結構カットが割られているという事実に気づかされ、頭の中でワンカット・ワンシーンとして覚えてしまうなど人間の記憶は宛てにならない、ということを思い知りました。もっとも、ワンカット長回しではなくカットを割る演出は、この「雨月物語」に限らず戦後の溝口映画全体に見られる現象であり、溝口=ワンカットという“伝説”は、実はそれほど正確なものではないことを、今回の特集は教えてくれています。
 さて、この「雨月物語」ですが、戦乱の世に乗じて陶器を売って儲けようと企む森扮する焼物師と、大きな儲けは望まず、息子と3人でつつましく暮したいと考える妻の田中絹代を軸に、侍としての立身出世を夢見る森の義弟・小沢栄、そんな夫の欲望に振り回されて娼婦にまで身を落とす妻の水戸光子、森の実直さに眼をつけて自宅に招く“亡霊”の京などを絡めて物語が展開するわけですが、男の愚かな欲望の陰で受難を蒙る女性たち、という溝口的な主題が前面に出され、前述した「山椒大夫」のような主義主張のきれいごとが用意されない分、やはり面白かったです。
 森や小沢ら男たちのギラギラした人間臭さ、田中や水戸の健気さなどは、溝口らしい紋切り型の人物像であり、そうした紋切り型を徹底して突き詰めた先にリアルな人間存在が浮き彫りになるという作劇は、ここでも貫かれています。さらに、この映画の場合、京マチ子扮するこの世ならぬ幽霊を登場させて夢幻的エロティシズムが加わることによって、物語に奥行を与え、溝口的な世界にプラスαの魅力を付与したのです。それは、一般的には“幽玄の美”といった言葉で形容され、それがあたかも溝口の得意な表現領域のようにも語られますが、幽玄などという要素は他の溝口映画には見られないものであって、この「雨月物語」に独特の要素に過ぎません。
 むしろ溝口が得意なのは、前述したように、男の愚かな欲望のために受難を蒙る女性たちの悲劇のほうであり、その悲劇性を強調するための説話素材として幽霊が巧みに使われている点に、この映画における溝口の“発明”があったのです。
 ワンカット・ワンシーンが徹底されているわけではありませんが、宮川一夫のキャメラワークのスムーズさは凄いという表現に相応しい域に達しており、このキャメラワークによって、カットの切れ目が意識されることなく、ワンカット繋がりに思えてしまうのかも知れません。
 宮川キャメラだけでなく、伊藤憙朔の美術装置、早坂文雄の音楽なども素晴らしい水準に達しており、50年代の日本は世界に冠たる映画王国だったことを見事に証明しています。


「近松物語」(12月26日 フィルムセンター)
1954年/監督:溝口健二

【★★★★★ 長谷川一夫の人物像は溝口らしからぬ人格者ぶりだが、やはり全篇に美しさが張り詰めた傑作】

 「近松物語」は過去に2回観た映画ですが、2回目が30年くらい前ですから、お話の細部は忘れていました。
 個人的には、この映画が溝口健二の最高傑作だと思ってきましたし、じじつ、今回も映画の素晴らしさに圧倒されました。長谷川一夫の全身の芝居も、香川京子の官能的な初々しさも、宮川一夫の神がかったキャメラワークも、全てを冷徹に見つめる溝口の演出も、神々しいまでに美しいのです。
 冒頭から数分間、京都の大経師の店先や店内のエピソードを積み重ねながら、手代でありながら店のことはまるで理解していない小沢栄、そんな小沢とは対照的に、店の細々したことまで熟知し、実質的に店を切り盛りしているもう一人の手代である長谷川一夫(風邪で伏せていたのに、仕事とあれば起き出してゆくけなげさ)、その長谷川に想いを寄せる女中の南田洋子、南田に手を出そうとしている好色な主人・進藤英太郎、夫の好色な側面も知らず、従順に務めながらも、実兄の田中春男の無心に応えるため、夫に借金話を持ちかけなければならず憂鬱そうな内儀・香川京子といった人物像を、畳み掛けるように紹介してゆく作劇が見事です。こうした作劇の手際よさは、もしかしたら原作の近松門左衛門の特質かも知れず、それは、不倫を断罪された男女が店の前で引き回しにされている姿を出して、長谷川・香川の二人の未来を“予告”するという、近松的な場面が描かれることによっても明らかなのですが、こうした近松という好材料を得て、人物の出し入れなど溝口の職人的話術の巧さが発揮され、映画は快調なリズムを刻みます。
 そして、夫に借金話を持ち出せずにいる香川が、長谷川の仕事部屋に訪れて相談を持ちかけることから、映画はますます物語的なギアチェンジを実施して、その説話スピードを加速させてゆきます。内儀のためならと、長谷川はこっそり白紙の領収書に主人の判を押すのですが、それを小沢に見つかってしまいます。ヘタな言い訳をせず、きちんと自分の責任において主人に借金を申し込もうと思い直す長谷川の潔さは、狡猾さからも、吝嗇からも、貪欲さからも無縁な高潔さであって、溝口映画の男たちの中ではあくまでも例外的な“人格者”ぶりなのですから、実はこの「近松物語」とは溝口らしからぬ映画なのだとも思えますが、ともあれ、長谷川が申し込んだ借金を、進藤が案の定言下に拒否するばかりか、白紙の領収書作成を背任行為と断じたことによって、長谷川と香川の距離を一挙に縮める結果をもたらします。
 このあと、納屋の天井裏に幽閉された長谷川が、こっそり抜け出して使用人部屋に潜り込んだところ、たまたま主人の浮気現場を押さえようと使用人部屋にいた香川と鉢合わせし、その長谷川と香川が同じ部屋にいるところを、逃げ出した長谷川を探しにきた手代の小沢が発見して、そこに小沢が不倫の匂いを嗅ぎ取ってしまうことから、長谷川と香川には本物の不倫への道筋が結果的に開かれることになります。このように、男女が、何者かが仕掛けたとしか思えぬ路線を不可逆的に歩み出してしまうという“運命の皮肉”もまた、実に近松的な主題であり、溝口演出は、近松が用意したこのような作劇を己のリズムの中で咀嚼しながら、画面の中に人物を的確に出し入れしてゆくのです。
 こうして不倫のレッテルを貼られた二人が、逃亡生活に疲れた末に、香川の「もう生きていられない」という宣言とともに、心中へと傾斜してゆく中で、あの忘れ難い川下りの小舟の場面が登場し、心中の寸前に長谷川が「今わの際だから告白するが、貴女さまのことが好きだった」と告白したことから、今度は香川が「その告白を聞いて、死にたくなくなった。お前と一緒に生きたい」と叫び抱き合うという、映画史に残る名場面が展開します。ただし、約30年ぶりの再会で判明したことは、この場面が、舟を川から漕ぎ出したところからワンカットで撮影されたものではなく、3つのカットに割られた場面だったことです(ただし、長谷川と香川が科白を交わす船上場面はワンカットです)。
 この映画は長谷川一夫のような人格者が登場しているがゆえに、溝口らしからぬ例外的な作品なのではないかと前述しましたが、その一方で溝口的な男性像が凝縮したような典型も登場するのであり、それは進藤英太郎のキャラクターの中に結実しており、さらには、小沢や、進藤の商売敵である石黒達也の狡猾さにも、人間の卑小さが厳しく暴き立てられています。たとえば、妻の不倫が明らかになったのちに進藤が明らかにする姿勢は、妻を奪われた悔しさや情けなさではなく、ただ一つ、世間的な保身を図るということに尽きています。この何とも卑劣に思える人物像の細部のリアルさは、観ていて眼を背けたくなるほどですが、だからこそ、長谷川・香川の純愛が際立つという効果も導き出しているのであり、溝口らしからぬ映画だと思われたこの物語が、実は溝口的なリアルで泥臭い人間像を反射させた形で成り立っていることにも思い当たるのでした。
 脚を痛めて、山越えも難しくなった香川を見かねて、彼女一人を夫のもとに送り返すことが幸福の道ではないかと思った長谷川が、一人で山を降りようとしたものの、必死にあとを追ってきた香川の姿を見ていたたまれずに飛び出して抱き合う長回し。
 長谷川の実家に立ち寄ったところを進藤の差し向けた人々に見つかり、香川だけが拉致されて連れ帰らされたのち、長谷川が実父の慈悲によって縛られた綱を切ってもらい、香川の実家に乗り込んで「二度と離れない」ことを誓いながら抱き合う場面の長回し。
 この映画も、多くの場面はいくつかにカットが割られているものの、肝心の見せ場はやはり長回しによって撮られており、長谷川が全身に力を込めた芝居でこの演出に応えているのです。香川の初々しさの中に女の妖艶さを表わした現前ぶりにも圧倒されます。宮川一夫のキャメラワークも、照明設計も、文句なしの素晴らしさですし、水谷浩の装置も見事、早坂文雄の歌舞伎ふう旋律を駆使した楽曲も映画を引き立てます。やはり傑作。


「西鶴一代女」(12月27日 フィルムセンター)
1952年/監督・構成:溝口健二

【★★★★★ 溝口的な世界の集大成であり、娼婦お春の全生涯を全身で体現した田中絹代の代表作でもある】

 フィルムセンターにおける溝口健二の特集も、この日が最終日。約30年ぶりに「西鶴一代女」と再会です。前述した「近松物語」と並んで、戦後の溝口にとって代表作に数え上げられるであろう傑作ですが、今回観直して、やはり田中絹代とのコンビでは、やはりこれが最高であることを確認できました。
 夜の街で田中絹代扮する年増の夜鷹が、何百もの羅漢が並んだお堂に入って羅漢の顔を眺めるうち、ある羅漢の顔が三船敏郎の顔にダブったことから、彼女の上を通り過ぎた男たちのことを思い出し始めるという冒頭から、結構流れを覚えていて、物語の細部は覚えていないところもあるものの、カット割りやキャメラの動き、人物の動きといった細部は結構覚えていることに自分でも驚きました。約30年ぶりだというのに、これだけ細部を覚えているということは、わたくしにとって忘れ難い映画体験として蓄積されていたということであり、それだけわたくしにとっては重要な映画だということでもありましょう。
 御所に勤めるという高貴な身分の持ち主であるお春(田中)が、公卿の若党に過ぎぬ三船に見初められ、強く結婚を求められるのですが、それが身分違いの恋として朝廷から咎められ、三船は死刑に処せられ、お春も蟄居を命じられます。
 続いて、松平の殿様(近衛敏明)の側室を探している小川虎之助のメガネに適って殿様のもとへ輿入れしたところ、めでたくお家の跡取りを産み落とすものの、殿様から過重なまでの寵愛を受けたことから藩の官僚によって追い出されてしまい、殿様の跡取りを産んだことで強気の借金を重ねていた父・菅井一郎は、借金を返すためにお春を島原の遊郭に売り飛ばすに至ります。
 遊郭では、田舎からやってきたお大尽に冷たい態度をとったことから、遊郭主人に手酷い態度を示されるものの、お大尽のほうは冷たい態度が気に入ったと身請けを申し込むと、遊郭主人は掌を返したようにお春に媚びる有り様。しかし、お大尽が持っていたのがニセ金であることが明らかになると、再び掌を返して、店から放逐。
 続いて、松平家に輿入れする際に仲介役となった商家の進藤英太郎のもとで働き始め、進藤の妻・沢村貞子の髪結いとして信頼されるものの、客人として訪れた加東大介によって島原勤めの過去が暴かれると、沢村は自分の亭主を寝取ろうとしているのだと決め付けて、お春を責め立てることになります。また、主人の進藤のほうも、お春が島原にいた事実を知ると、好色な興味を募らせて、お春に接近します。お春は、沢村の頭が病気によって禿げ上がっていることを暴露して店を飛び出し、再び実家へ。
 そんなお春にも心の休まる時期が訪れ、誠実で勤勉な扇商人の宇野重吉に求婚されて内儀の座に収まるものの、あっという間に亭主は物盗りによって殺されてしまいます。
 お春は尼僧院を頼って剃髪を申し入れるのですが、尼僧にそれを許される前に、進藤の店の手代である大泉滉から言い寄られ、それを咎めにきた番頭の志賀廼家弁慶によって「売女」と罵られながら陵辱されてしまい、さらにはそこを尼僧に見られて誤解を受けるといった具合に、悪いことが積み重なってしまうのです。
 その後、お春が寺の門前で三味線を弾いて物乞いする立場に落ちた際、かつて産み落とした松平家の跡取りが、晴れて殿様の地位に就いたことがわかります。そして、殿様の生母という立場で松平家に招かれるという栄誉をお春が受けるものの、娼婦としての過去が明らかにされて、あっさり追い出されてしまいます。そうした先に、夜鷹として身を売るに至るお春。
 男の肉欲を掻き立てずにおかない不幸な女・お春が、男たちを渡り歩いたのち、文字通り“春”を売って生きざるを得ないのは、まさに宿命だったのろうと思わせます。
 彼女を見ればただ肉欲の対象として、刹那的な欲望をぶつけるだけの下劣な男たち。そうした男の欲望によって受難を蒙るお春。…ここでお春を中心にして登場する人物像たちの恐るべき俗物性は、まさに溝口的人物の象徴と言えましょう。そして、その俗物性を徹底した紋切り型の展開の中に置くことによって、俗物の先にリアルな人間の実像を浮かび上がらせる点において、この映画は溝口的な世界の集大成にもなっているのです。
 寺で乞食をしている頃、産み落とした跡取りを遠巻きに眺めてわが子への情愛が胸に溢れてしまい、寺の門前に戻って体を捩りながら慟哭する場面など、田中絹代の肉体にお春の全生涯が見事に凝縮してみせるのであり、そのように田中を追い込むことに成功した溝口演出とともに、観る者を震撼させずにはおきません。

コメント(8)

2006年12月上旬号と下旬号の2回にわたって連載された“溝口健二”特集、心から酔いしれました。珠玉の論評群がひしめき合う「200×年映画の旅」の数々の論評のなかでも、今回の溝口特集はまぎれもなく最高傑作、侘助兄弟の文章は練達の極みに達しています。

戦前と戦後にまたがるそれぞれの作品を、ひとつひとつ懇切丁寧に解説されると同時に、それらの作品を通じて“溝口はいつ溝口になったのか”という、きわめて重要な映画史的主題を追求しておられるところに、深く深く感銘いたしました。

ただひとつだけ、意見を申しあげてもよろしいでしょうか?
『山椒太夫』へのご評価があまりにも厳しすぎます!

鋭くご指摘されているとおり、平等主義(社会主義と言い換えてもよいと思います)を謳いあげることに対する違和感は、僕にもよく理解できます。
しかしながら、この『山椒太夫』という映画は、あの溝口でさえ平等主義(社会主義)に巻き込まれてしまったという意味で、実に貴重な作品だと思われます。
うまく説明できず、もどかしいのですが、『山椒太夫』は、映画と社会、映画と国家といった、映画そのもの限界を語るうえで欠かせない主題を秘めた傑作であり、今一度、ご評価を再検討していただきたく存じます。
Qfwfq兄弟、いつも褒めすぎですって!
山椒大夫の評価については、溝口らしいか否かという狭〜い視野のみから導き出したものに過ぎず、兄弟がおっしゃる広い問題意識から観直せば、おのずと違った評価になるのだろうと思います。もう一度観直すチャンスを作りたいです。
近松物語の話は骨組みだけを、近松から持って来たので、殆どの部分は依田さんと企画の人(誰でしたっけ?名前を失念しました)があれこれ考えたそうです。先に引き回しを見るというのも、もちろん依田さん達のアイデアだとの事。

近松では二人は間違って(間違うか〜?って話ですけど)先に身体の関係が出来てしまうので、否応なしに二人で逃げなければならないという流れなんですが、それも、あぁいう風に変えたのだそうです。

溝口監督はスター役者に対する聴衆の夢を壊したくないというのがあったらしく、それで長谷川一夫の役をあんな風に改変したのかもしれません。
るき乃さん、近松物語に関する情報、ありがとうございます。
原作を相当改変していたんですね。
男女の引き回し場面を冒頭近くに置いたのもそうだったとは! わたくしは「心中天網島」や「曽根崎心中」の映画で、冒頭近くに心中男女の場面を置いていたことから、こういう作劇が近松のパターンなのだろうと勝手に想像して決め付けてしまったのです。
おさん・茂兵衛の関係も、先に肉体が結び付くなんて、いい加減な話じゃないですか。改変した映画版のほうが遥かに美しい話です。
依田義賢とプロデューサーの辻久一、素晴らしいアダプテーションです。感動しました。
るき乃様の実に映画的な鋭いご指摘、それ応答する侘助兄弟の的確なコメント… 「200×年映画の旅」を読む醍醐味をいま、深深と味わっております。

近松の作品なんて、しょせんはイエズス会殉教演劇のパクリです。文学に対する映画の絶対的優位が溝口の『近松物語』によって初めて証明されたと確信しております。ちょっと酔っ払っていて、辛辣になっておりますが、どうぞご容赦ください。

くどいようですが、ベルトルッチが語る『山椒太夫』に関するパゾリーニの逸話を紹介させてください。
高校生のときに読んだものなのですが、いまとなってはイタリア語で読んだのか日本語の翻訳で読んだのか定かでなく、家の本棚をあさってみたものの、その文献を見つけることができませんでした。現本か翻訳をお持ちの方がいらっしゃったら、どうか間違いをご指摘ください。

「私(ベルトルッチ)はパゾリーニと並んで『山椒太夫』を観た。映画の終盤に差し掛かって、パゾリーニはこれまで見たことのないような、そわそわと落ち着かない様子をはじめた。最後のシークエンス(“このあと母の行方を追った厨子王が、娼婦たちが集まり住む村を訪れて母の消息を尋ね、海辺の寒村で盲目となった母に再会するラストシーンは、宮川一夫の移動車とクレーンを駆使した見事なキャメラワークによって奥行きの深い映像を作り上げ、人生の無常観を浮き彫りにしてみせるのであり、ただならぬ迫力を生み出しています”と侘助兄弟が描写するシーン)を観ているパゾリーニの眼に涙が光っていた。彼が泣くところを見たのは、あれが最初で最後だった」
申し訳ない。今依田さんの本で確かめたら、間違って身体の関係が先に出来るのは西鶴の「好色五人女」でした。
「近松物語」は近松の「大経師昔暦」と西鶴の「好色五人女」の両方からヒントを得て、作られたんです。

最初の脚本は川口松太郎さんが近松を元にして作ったので、近松物語という名前になったんでしょうね。

でも溝口監督は西鶴の方で作りたかったという事で(それが依田さん達に分かるまで大変だったそうですけど、どうしたいと溝口はよう言わんのだそうですね)その線で脚本は作られたとの事です。


Qfwfqさん
山椒大夫の最後のシーンは私も悲しい位美しいなぁと感想を書きました。侘助さんも書かれてますが、何とも言えない無常観が表されてて、胸に迫って来ますよね。それと香川京子が入水自殺をするシーンの美しさは格別ですね。

それらのシーンを観るだけでも満足出来る作品ですね。

「西鶴一代女」辺りから、溝口監督は仏教に帰依されてたらしく、ヴェネチアにも仏像を持って行ったそうです。そういう背景があるので、人間としてどうあるべきか等というスパイスを振りかけたくなったんではないでしょうか?

でも原作にある仏像に寄る奇跡を行うシーンはリアリティがないからとカットしたとの事。その辺りはさすがと思います。
Qfwfq兄弟とるき乃さんのやりとりを拝読して、山椒大夫をますます観直したくなりました。
侘助兄弟

昨夜は、本来なら兄弟のお誕生日のお祝いを述べるべきところ、生意気なことを書き連ねてしまい、申しわけございませんでした。
一夜が明け、昨夜の芋焼酎の酔いもさめ、店の仕込みと息子を小学校に送り出した今になってようやく、『山椒太夫』に関する兄弟の論評の的確さを、しみじみと噛み締めているところでございます。

この度の書きこみは、軽率にも、年末から正月にかけて読み込んだ書物の影響が色濃く反映してしまいました。
それはジャン=ミシェル・フロドンの『映画と国民国家』(野崎歓訳 岩波書店 2002年)と、上島春彦の『レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝』(作品社 2006年)の2冊です。本来ならば政治学者が取り組まなければならないテーマを、どちらも見事に書き切っております。

映画を見つづけた人々というのは、どうしてこうも鋭く的確に政治的主題に切り込んでいけるのか、いまも不思議でなりません。


遅くなりましたが、お誕生日、おめでとうございます。
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