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200×年映画の旅コミュの2006年12月下旬号(新作)

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2006年12月下旬に侘助が観た新作たち。


「ありがとう」(12月20日 丸の内TOEI・1)
2006年/監督:万田邦敏

【★★★★ タイトル通り、感謝の気持ちに溢れたいい映画。阪神大震災の発生場面の特撮はよく出来ている】

 2002年に「UNloved」という印象的な映画を作った万田邦敏が、阪神大震災を題材にした映画、しかも「ありがとう」というベタなタイトルを持った映画を作ったというので、興味をそそられていました。
 主人公は、神戸市長田区でカメラ店を営む赤井英和。地区の消防団でも活発な活動をする一方、ゴルフが趣味という平凡な中年男です。映画は、彼のキャラクターをざっと説明したのち、早くも地震発生場面を描きます。
 赤井の家や商店街、高速道路、神戸駅前などが地震にさらされ、その後長田区では次々と火災が広がって被害を大きくしてゆくという特撮場面は、プロデューサーの仙頭武則みずからが特撮監督を務めて、気合の入った場面となっていますが、マイミクのなんきんさんが日記に書いていた通り、ミニチュアを多用したオーソドックスな特撮の合間に赤井や妻の田中好子が揺れの恐怖を体験したり、火災や余震の中で人々が自分たちの生活基盤たる地元が破壊されてゆく恐怖を味わったりするという“人間”がきちんと描けているため、迫力を生んでいるのです。この映画には、製作意図に賛同したという役者が特別出演している場面がいくつも出てくるのですが、豊川悦司が登場し、倒壊した自宅に取り残された妻を助け出そうとするものの、余震がきて妻を死なせてしまい、慟哭するという夫を演じた場面などは、観ていて震えがくるほど揺さぶられました。地震被害、特に火災発生による被害拡大の恐ろしさが身に沁みました。わたくしは今年話題になった「日本沈没」は観ていませんが、なんきんさんは「日本沈没の50倍くらいはよく出来ていた」と指摘されていました。
 被害が収まったあとは、長田区の街復興において、災害に強い街作りのために赤井や友人たちが尽力する場面が描かれてゆくのですが、そうした場面が一段落したあとの展開は、地震とはまったく関係ない方向に物語が逸れてしまったように思えます。地震と火災で赤井の家は丸焼けしてしまったのに、別の場所に駐車していた車は無事であることが判明し、そのトランクにゴルフバッグが入っていたのを見つけた赤井は、無事に返ってきたゴルフクラブに運命を感じ、40歳を過ぎた身でプロゴルファー・テストを受けようと言い始めるのです。
 そして、映画の残り1時間は、赤井がプロテストのために練習を重ね、5日間に及ぶテストを受けて合格するまでを描いてゆくのであり、おいおい、地震の話はどこへ行っちゃったのかよ、と突っ込みを入れたくなったほどですが、ところがどっこい、きちんと地震とつながるエピソードをクライマックスには用意してあり、観客を納得させてしまうのでした。
 映画が終わってみれば、タイトルに謳われている通りの「ありがとう」という感謝の気持ちが、震災以来主人公を支えていたという事実に観客も素直に打たれてしまうのであり、いい映画をみせてもらったという感謝の気持ちが沸き起こってくるのでした。


「王の男」(12月20日 シネスイッチ銀座1)
2005年/監督:イ・ジュンイク

【★★ なかなか面白い設定だが、それを充分に活かしたとは思えぬ作劇で、期待外れ。役者は魅力的だが】

 田舎町で芸人排斥の圧力を受けたため、首都に出てきた大道芸人二人が、時の王様をからかった題材の芸をやっていたところを捕まり、王宮に連れられてしまいます。処刑寸前で王様から笑いをとって命拾いした二人ですが、このうち女形芸人が王様から寵愛を受けるようになり、側室からの嫉妬を浴びるようになります。こうして王様の庇護を受ける女形に対して、同僚だった芸人は批判的な視線を投げるようになります。一方、下層階級の芸人を重用する王様に対しては宮廷内部からも批判が出るようになり、これを封じるため王様の専横が昂じてゆきます。
 事前に予備知識を持たずに映画に接したわたくしは、この映画がすべてフィクションだと思い込んでいたのですが、ここに出てくる王様のヨンサングンという人物は実在だった人で、韓国史上最も悪名高い暴君ということです。その暴君の背後に、大道芸人がいたという設定が、韓国内では大受けしたらしく、「グエムル」が抜くまでの韓国映画興行記録を作ったほどヒットした映画です。
 確かに、王宮の中に芸人、特に男も魅了するほどの美貌を持った女形が入ることから生じる人間模様という題材は、実に魅力的です。女形に扮したイ・ジュンギくんの貫禄すら感じさせる妖艶さは、それだけで説得力を持ち、物語への期待を掻き立ててくれます。
 しかし、そもそも大道芸人二人が演じる芸が、笑いも感銘ももたらしてくれるものではなく、物語を進めるためのきっかけ作りといった程度の役割しか与えられておらず、退屈に感じましたし、ジュンギくんに単純にのめり込んでゆく王様のキャラクターも一面的で薄っぺらいものにしか思えませんでした。
 マイミクのなんきんさんは、この映画について次のように書いておられます。長くなりますが、無断引用させていただきます(なんきんさん、無断引用、ごめんなさい)。
 「これはちょっと演出とシナリオがぐだぐだすぎる。お話の面白さを作り手が理解できてないのではないか?いくらでも重層的な心理劇を作れるのに、興味が場当たり的に移動している昨今のダメな韓国映画の典型になってしまっている。『権力者の孤独』がやりたいのか、男同士の『三角関係の愛憎』がやりたいのか、いずれも中途半端。せっかく男でも萌える美少年を用意したんだからもっと大胆な性描写があってもいいんじゃないか。それがないからすべて説得力がない。なければないでシナリオをもう少し練り直さないと、これじゃ何も伝わりません。力の入れる箇所が全部間違っているのだ。画でわかりやすいところだけ押してる。画で伝わりづらいものを最初から放棄して繋げている。なんでもかんでも役者に喋らせるな。喋らずに語るのが映画の基本じゃないのか。
 ヒロイン(て、いっても男なんだけど)の造詣が弱すぎる。これじゃまるでヤクザ映画の道具と同じだ。何も『ブロークバック・マウンテン』をやれとはいわないが、そこから派生する心理や背徳に演出家やライターの興味が一向に向かわないのは何故?シナリオ=オハナシだと思い込んでるのだろうか? 絶対権力を持つ王がいる宮廷の中に魅力的なオカマちゃんが入ってくるだけで描けるものは無数にあるはず。国家と個人、価値観の逆転、アイデンティティの危機、権力と芸術、愛情と打算、政治、宗教、権謀術数…etc、にもかかわらず映画はその十分の一も描かない。描かないほうが効率よくオハナシを語れると思っているフシもある。こんなものが大ヒットしてしまう韓国の民度って日本と同じレベルかそれ以下だ。」
 なかなか手厳しい意見ではありますが、基本的にまったく同感です。


「パプリカ」(12月23日 テアトル新宿)
2006年/監督:今敏

【★★ 色彩の奔流、イメージの跳梁、映画愛…今敏ワールド炸裂だが、知的なお遊びが過ぎて、実感なし】

 「千年女優」「東京ゴッドファーザーズ」で魅了された今敏の期待の新作。他人の夢に入り込むことのできる機器を悪用し、次々と他人の精神を破壊する正体不明の“テロリスト”に立ち向かうため、“夢探偵”として他人の夢の中で軌道修正を図ろうとする“パプリカ”という女性を描いたお話。まあ現実にはあり得ない荒唐無稽な設定を夢想するSF作家としての筒井康隆らしい題材ではあり、文字によるイメージ操作という小説世界でなら荒唐無稽な絵空事が絵空事として成立するのでしょうが、それをスクリーン上の絵としてリアルに結実しなければならない映画という媒体には、容易に置換できぬ題材でもあったでしょう。その意味では、この題材に挑むこと自体、相当に冒険的な振る舞いだったはずで、今敏の意欲を買うこともできるでしょう。
 そして、あるサーカスの公演中に潜り込んだ刑事が、なぜか次の瞬間には舞台上の檻に閉じ込められており、そこに刑事と同じ顔をした多くの人々が押し寄せる中で、美しい女性が助けに入り、次の瞬間には刑事はターザンの格好で女性を腕に抱えてジャングルの中におり、さらに次の瞬間には列車内で格闘しており、またまた次の瞬間には「ローマの休日」を思わせるドタバタ・アクション場面の中にいて、さらにはホテルかどこかの廊下で男が射殺されて倒れる瞬間に遭遇するといった具合に、鮮やかな色彩が画面を圧し、めまぐるしいイメージの奔流の中に観客を連れ出す冒頭の場面から、実に快調なリズムを刻んでおり、いくつか垣間見える過去の映画へのオマージュも含めて、いかにも今敏らしい切れ味に酔うこともできるという意味で、彼の意欲は実を結んでいるとも思えました。
 しかし、前作や前々作がわたくしたちを魅了したのは、そのイメージの奔流ぶりだけが要因だったのではなく、登場人物の背景にある生活感や行動心理のリアリズムがあったからこそだったのであり、今回の新作には、いくら待ってもそうした生活感を描く部分が現れることがなかったため、テーマ性にばかり頭でっかちに突き進んでいる印象を強く受けました。
 それはそれで刺激的ではあるものの、どうも知的スノッブによるお遊びという気がしてならなかったのです。


「無花果の顔」(12月23日 シネマスクエアとうきゅう)
2006年/監督・原案・脚本:桃井かおり

【★★★ ヘンテコなお話、ヘンテコな演出だが、こういう映画があってもいいと思い、あまりの閑古鳥に憤慨】

 前記「パプリカ」に続くこの日2本目の映画は、公開初日を迎えた桃井かおりの初監督作。劇場に着いたら、ちょうど桃井と、共演の石倉三郎、高橋克実が舞台挨拶をしている最中でしたが、それでも空席が目立ち、舞台挨拶が終われば客席は閑古鳥が鳴いていました。
 そりゃ確かに、話らしい話があるわけではなく、桃井、石倉、それに娘の山田花子、息子のHIROYUKIという4人家族が食卓を囲んで無意味な会話を繰り広げる冒頭から、桃井のひらめきとアドリブで作ったミニコント集みたいな映画ですから、集客力のある映画じゃないでしょうが、妙な可笑しさがあって声に出して笑っちゃいましたし、ヘタクソと斬り捨てることのできない持ち味があって、結構魅力的な映画でしたから、もう少し客足が伸びてもいいと思いました。
 石倉は工務店か何かに勤めている職人ですが、工事中のビルに夜中に忍び込んでなぜか水道管か何かの工事を秘かにやっていたり、ふいと自宅を出てワンルーム・マンションに住み始め、隣りのアパート住人女性が下着1枚で窓辺に佇んでいるのを見て慌てたり、意味不明な行動を繰り返します。
 その石倉が、なぜかポックリと死んでしまい、しかもそのことを映画は、桃井が仕出しの寿司屋に電話する場面によって観客に知らせるというヘンテコな作劇が続き、まあ死語ではありますが“オフビート”な笑いを狙った映画ではあります。キャメラアングルも、色彩も、演技指導もヘンテコで、劇伴の現代音楽ふうの妙な旋律がやや饒舌に過ぎるという不満はあるものの、70〜80年代のATG映画を観ているような、ちょっとした懐かしさがあったことも否定できません。
 石倉に死なれた桃井はパートで働きに行っていた居酒屋の亭主である高橋とあっさり再婚し、娘の山田は東京タワーの見える部屋に引っ越したと思いきや、なぜか妊娠してシングルマザーになり、桃井が高橋と住むようになった家には、石倉と住んでいた家の庭から無花果の木を移し植えていて、その木が月夜にボーッと明るく浮かび上がるといった具合に映画は進行します。
 たいした映画ではありませんが、こういう映画があってもいいと思うし、まがりなりにも神代辰巳や藤田敏八らの映画で活躍し、最近は「SAYURI」で貫禄あるところを見せた女優・桃井かおりが初めて監督した映画なのですから、もう少しは注目されてもいいと思うのに、初日からあのような閑古鳥ぶりでは失礼だと思います。


「市川崑物語」(12月23日 新宿ガーデンシネマ2)
2006年/監督・脚本・音楽・編集:岩井俊二

【★★★★★ 岩井俊二の市川崑へのオマージュに溢れ、市川と和田夏十の夫婦愛に泣かされる佳作】

 この日3本目の映画。予告編を観て食指が動いた映画ですが、この号で再三登場するマイミクのなんきんさんが日記で絶賛しておられ、早く観たくなりました。
 岩井俊二が市川崑のファンであることは知りませんでしたが、岩井の世代にとっては76年「犬神家の一族」で見せたスタイリッシュな演出は、洋画に慣れた眼を刺激するに充分だったようで、市川を心の師と仰ぐ映画作家が結構いるようなのでした。
 この映画は、そうした岩井の市川への憧れ、敬愛が素直に吐露されつつ、市川の半生が綴られてゆきます。ナレーションは一切使わず、黒味に白地のタイトル字幕によって、市川自身の告白や客観的な出来事が綴られるのですが、基本は縦書きで示される字幕が、時折絶妙のタイミングで横書きに変化したりして、映画に独特のリズムを導入します。映像は、市川から入手したと思しきスティール写真が使われるのですが、これが人物と背景をコンピュータ処理して奥行きを持たせてあり、これまた絶妙な効果を上げています。これにひきかえ、市川の幼少時のエピソードは、役者を起用した再現ドラマふう演出が施されているのですが、こちらは妙に芝居掛かって鼻につきます。
 市川は、三重県の呉服屋で姉3人に囲まれて生まれてから、初恋を経て、ディズニー映画に夢中になり、京都JOスタジオにアニメーターとして入社、JOがPCLと合併して東宝になったことで上京して、戦争中は二度にわたる徴兵検査を、幼い頃に患った肺病のおかげで不合格になり、アニメーションより実写映画に惹かれるようになり、助監督としてスタジオを走り回る中で愛妻となる和田夏十と知り合い結婚、監督としてデビューしたのちは和田を脚本家という形で起用して公私ともにするパートナーとなってゆきます。
 わたくしたちの胸に迫ってくるのは、なんと言っても和田と市川との愛情物語のくだりで、岩井は、和田が脚本を担当した映画の断片を巧く構成しながら、市川にとって和田が如何になくてはならぬ存在であったかを見事に解き明かしてゆきます。と同時に、脚本家としての和田だけでなく、妻として、私人としての和田が、それこそ台所で家事をこなしながら脚本を書いていたことをさらりと示してみせるのであり、その和田が乳癌を患って市川より早くこの世を去っていったことを淡々と描くのを見ながら、ついつい涙してしまう自分がいたのでした。
 和田に関するエピソードに続いては、岩井が「犬神家」を観て市川のファンになり、「悪魔の手毬唄」「獄門島」「女王蜂」と続く金田一シリーズを分析的に観ていた頃のことを描いたエピソードが忘れ難く、その岩井がこのドキュメンタリーを作るにあたって憧れの市川と初めて会い、市川から「きみの映画は逆光だね」と指摘された岩井が技術的な話を持ちかけて二人は意気投合し、岩井が“ぼくは世界で一番話の合う友人を見つけてしまった”と嬉しそうに告白するくだりでは思わず頬から微笑みが漏れてしまいました。
 そう、この映画は、岩井俊二が臆面もなく吐露した市川へのファンレターであり、和田夏十へのラヴレターの映画なのです。ここには岩井の真情が溢れ出て、観る者を説得してしまうのであり、こんなに素直極まりない岩井映画を観るのは初めてのような気がします。わたくしは映画を観た直後、「岩井俊二の最高傑作の誕生です」と友人たちにメールを送ってしまったほどです。
 ところで市川って、前述したように、三重県宇治山田の呉服問屋で姉3人に囲まれて育った“ぼんち”だったことがわかりました。 宇治山田といえば、小津が中学の代用教員をしていた街ですから、市川が「晩春」をTV用にリメイクしたり、「あなたと私の合言葉 さよなら、今日は」といった小津パロディのような映画を作ったりと、小津に対して拘りを持っている理由がはっきりしました。


「イカとクジラ」(12月23日 新宿武蔵野館2)
2005年/監督・脚本:ノア・バームバック

【★★★ 自伝的な題材を誠実に綴るバーンバウムの姿勢には好感を持つが、スケールの小ささは不満】

 この日4本目の映画。脚本・監督のノア・バーンバウムは「ライフ・アクアティック」の脚本家で、女優ジェニファー・ジェイソン・リーの亭主だそうです。ハリウッドのメジャーではなく、インディーズっぽい作り。
 1986年のニューヨーク・ブルックリンを舞台にして、作家の両親が離婚するという事態の中で、父と母の間を往復させられる二人の息子を(特に16歳になる兄を主人公として)描くお話ですから、恐らく、バーンバウム自身の自伝的な要素の強いお話だと思われます。
 文学的趣味や映画・音楽的な趣味を前面に押し出すなどスノッブぶりを丸出しにしながら、テニスなど運動では必死に負けまいとする父親の、なんとも俗物的な醜態。しかし16歳の主人公には、父親の博識のほうが、母の書く三文小説より誇らしく思えるらしく、浮気性の母を糾弾する一方で、離婚後さっそく若い女性をアパートに引き込む父親には寛容です(それどころか、主人公は父がアパートに引き込んだ20歳の女性に憧れすら抱き、せっかく付き合っていた彼女を棄てる結果をもたらします)。そんな主人公にとって、トラウマとなっているのが、セントラルパークにあるアメリカ自然史博物館に展示されている“イカとクジラの格闘模型”で、主人公はついに父親の俗物性と向き合う覚悟を決めた時、トラウマ退治のために“イカとクジラ”とも対面する決意をするに至るのです。
 器ばかりは大きくとも中身は空疎な大作ばかりを量産して飽きることのないハリウッドの能天気ぶりに比べれば、こうして自分の身の丈に合った世界を確実に、誠実に綴ることを目指した映画のほうが好ましいのは言うまでもなく、バーンバウムの誠実さには好感を抱きます。
 しかしその一方で、予告編を観た印象から一歩も出ないような小さな世界に収まりかえっているスケールの小ささは、やや物足りなく思えることも否定できません。70年代にあまた作られた“自分探し映画”のリメイクに過ぎないではないか。主人公が父親の醜さと向き合うことで映画の幕を下ろすのではなく、そこからもう一歩踏み出した“父殺し”までをきっちり描かなければ、観る者を説得することはできないのではないか。…そんなことも思いました。
 しかし、まずは自分の足元をきちんと見つめることのできるバーンバウムが次に何を作るかということには、期待を寄せたくなってしまうのですから、彼の今後には注目したいと思います。


「大奥」(12/26 丸の内TOEI・1)
2006年/監督:林徹

【★ TVサイズの小手先演出によるスケールの小さな時代劇。観易く作っているが、観客をバカにしている】

 年末、某シンポジウムを観覧するために有楽町に出たので、シンポジウム終了後も会社には戻らず、ちょうど時間の都合がよかった「大奥」を鑑賞しました。
 有名な絵島生島事件を題材にしたお話ですが、江戸城内の錯綜した権謀術数をTVサイズに単純化したシナリオは、史実を正確に伝えているとは到底思えず、TV観客向けに観易く作っているとはいえ、説明過剰で、テラ銭を払った映画の観客をバカにしていると思います。
 演出も、アップの繋ぎ方などにTV演出の狭苦しさを感じますが、あまり多くは語りますまい。
 歌舞伎役者・生島新五郎に西島秀俊を配するというキャスティングは、どんな役を演じても役柄に自分を合わせるのではなく、西島秀俊というキャラクターに役柄を引き寄せてしまうという、“アンチ・メソッド芝居”の西島くんには一番相応しくないミスキャストだと思えますが、そもそも西島くんは適役というものが存在しないタイプの役者なのかも知れないと考えている身からすれば、この話題自体がナンセンスでしかありません。
 まあ個人的には、自分が勤務している会社が製作に携わった映画ですから、ここで褒めるも貶すも、居心地が悪いには違いありませんので、これ以上言及することは控えたいと思います。


「リトル・ミス・サンシャイン」(12月29日 シネクイント)
2006年/監督:ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス

【★★ 面白そうな題材だが、登場人物が抱えたトラブル描写が表層的で薄っぺらいため、話が作為的に思える】

 今年の東京国際映画祭コンペティション部門で上映されて好評を博していましたし、本国アメリカでもスマッシュ・ヒットを記録したとかいう話で、予告編を観ても、ひと癖ありそうな家族たちによるロード・ムーヴィーという題材からして、面白そうでした。
 確かに、評判通りいい話ではありましたが、随所にわざとらしい作為が散りばめられ、笑いを強要するために却ってまったく笑えず、せっかくいい題材を扱っているのに素直には感銘を覚えることができず、勿体ない結果をもたらしたと思います。
 独自の“成功論”を振りかざす経営コンサルタントとして“負け犬”たる現実から脱却しようとして、巧くいかずにいる家長のグレッグ・キニア。元戦争体験者としての誇りを吹聴しながら、実はコカイン中毒に侵されている祖父アラン・アーキン。家族がバラバラであることを自覚し、沈黙の行を続けるという形で抵抗を示す長男。そうした家族を束ねようとして必死の母トニ・コレット。同性愛の相手にフラれたことを苦に自殺未遂を図ったコレットの兄スティーヴ・カレル。
 こうした家族たちが、カリフォルニアで開かれる少女のミス・コンテストへの出場権を得た末娘を送り届けるため、1台のオンボロ・バスに同乗して繰り広げるロード・ムーヴィーです。
 題材としては、面白くなりそうな要素がいくつも盛り込まれているのですが、家族それぞれが抱えたトラブルの描写が表層的であり、その背後にあるはずの社会性にまで思考を推し進めようとしないため、薄っぺらいものにしか見えません。したがって、彼ら家族が必死に娘のために踊ってみせるというクライマックスも、わざとらしい作為にしか感じられなかったのです。


「ダーウィンの悪夢」(12月29日 シネマライズBF)
2004年/監督・脚本:フーベルト・ザウパー

【★★ 欧米のグローバリズムによってアフリカが蹂躙される現実には憤るものの、構成は拙劣で胸に迫らず】

 アフリカのタンザニアにあるヴィクトリア湖を舞台にしたドキュメンタリー映画。
 ヴィクトリア湖は、様々な生物が生息していたことから、“ダーウィンの箱庭”と呼ばれていたそうですが、約50年前に何者かがこの湖に肉食魚を放流したことから生態系が完全に崩壊してしまい、今は“ナイルパーチ”と呼ばれる魚が爆発的に増殖しています。ところが、このナイルパーチの白身は食用として欧州や日本で好まれ、それがタンザニアの経済を支えるという皮肉な現実をもたらします。しかし、その白身魚は高価ゆえ地元では誰も食することができず、地元タンザニアは餓えに苦しむという矛盾も生み出す上、ナイルパーチを輸出するために訪れる輸送機は、実は欧州からアフリカ大陸へ武器を運び込むために利用されているらしいほか、輸送機のパイロットたちを目当てとする売春が行われ、売春あるところに犯罪ありという法則の通り、ストリートチルドレンによる暴力や麻薬中毒などが蔓延してゆくという結果をもたらします。
 欧州はアフリカを食い物にする一方、アフリカの人々は病気と飢えにさらされるという、「ナイロビの蜂」にも描かれた矛盾を突いた映画ですが、このナイルパーチという魚は日本にも多く輸出されているようですから、わたくしたちも知らぬうちに、このタンザニアの荒廃に手を貸しているかと思うと、他人事ではありません。
 こうしたテーマは、重くてわたくし好みであり、欧米が作り上げた“グローバリズム”という名の悪しき資本主義がアフリカを蹂躙している現実には憤りを余儀なくされる一方、映画としての作りが一本調子で、暴き出そうとするものを映画の中に如何に散りばめて、より効果的に観客を説得するかという技術面において、拙劣さが目立ったのであり、構成のヘタクソさが残念でなりませんでした。


「みえない雲」(12月30日 シネカノン有楽町)
2006年/監督:グレゴール・シュニッツラー

【★ 原発事故に遭遇した若いカップルの悲劇を描くが、細部がいい加減で、所詮は甘ちゃん映画でしかない】

 2006年の映画納めのつもりで、カミさんと一緒に「あるいは裏切りという名の犬」に駆けつけたのですが、30分前に着いたらすでに満席札止めでした。 仕方なく、この日初日の「みえない雲」に針路変更。
 原発事故によって人生を狂わせられる若いカップルを描いたお話。女子高生の主人公が同級生の女の子と一緒に湖に泳ぎに行く場面から映画は始まり、ちょっとしたそよ風が印象的に描かれていたことから、風という自然現象に敏感な演出が楽しめるのではないかと期待しましたが、所詮は思い過ごしでしかなく、そうした繊細な演出が楽しめるような映画ではありませんでした。
 主人公が、ある転校生の男の子と知り合い、試験の真っ最中に彼から呼び出しを受けて、二人がくちづけを交わしている時に、原発事故の発生を知らせるサイレンが鳴り響く、というヘンテコな展開。なぜわざわざ試験の最中に呼び出さなければいけないのか。それより、そもそも、なぜこの高校生カップルの出逢いの場面から見させられなければならなくて、彼らが最初から恋人同士ではいけないのか、わたくしには回りくどい設定にしか思えませんでした。
 放射能を含んだ雲が街に接近する中で、主人公は恋人になったばかりの男子とははぐれてしまい、幼い弟とともに自転車で鉄道駅に向かうのですが、その途中で理不尽な事故が弟を襲うという展開も、あまり愉快なものではなく、このような話で観客を泣かせようという根性が許せないと思いました。
 主人公が被曝して発病する経過も、その後の彼氏との再会や彼氏の発病も、まあ予想通り、型通りの展開であり、心を動かされませんでしたし、ヒロシマとナガサキに被爆を体験した国の観客の眼からは、甘ちゃん映画に見えてしまいました。


「あるいは裏切りという名の犬」(12月31日 銀座テアトルシネマ)
2004年/監督・台詞:オリヴィエ・マルシャル

【★★★★ 一見すると刑事アクションドラマだが、男の生き方が強調された作りはフレンチ・ノワール】

 前日のリヴェンジで、大晦日の家事で忙しそうなカミさんを置いて、単独でこの映画に挑戦。これは文句なしに面白かった。
 刑務所の夜景に男の慟哭の声が響き、続いて独房のベッドで膝を抱える男が映し出されたあと、この男がなぜこのように慟哭するに至ったかが物語られます。
 原題の“36 quai des Orfevres”とは、日本で言えば“桜田門”のように、住所からパリ警視庁を意味する符牒のようですが、タイトルバックで、この住所の書かれたプレートが盗まれる場面が描かれ、何やら緊張が走ります。ところが、実は警視庁から別の所轄への異動が決まっているヴェテラン刑事の送別会の席で彼に贈られるプレゼントがこのプレートであることが判明して、観客の緊張を解きほぐします。その一方で、この送別会の描写と並行して、あるテロ集団による現金強奪事件の準備と実行が描かれ、送別会で緊張を解いていた刑事たちが、今度は事件解決に向けて緊張を高めるということになります。こうした緩急のリズム変化が物語に巧みな起伏を導入するのです。
 そして、現金強奪の際に警備員が数人惨殺されるという事件がこれで7回も繰り返されていることが示され、主人公で“探索出動班”のダニエル・オートゥイユと、彼とは同期のライヴァルである“強盗鎮圧班”のジェラール・ドパルデューが、お互いの捜査方法の違いを明らかにしながら、鎬を削った犯人捜査競争を繰り広げてゆき、ついにはそれが私怨のぶつかり合いへと発展する経過を描き出してゆくのです。
 題材は警察アクションものなのですが、二人の男の生き方の対比からは、自分を信じた相手を裏切ることはできないという、男の信義則を貫く者と、そうではない者、という側面が強調されます。それはまさに、ジャック・ベッケルやジャン=ピエール・メルヴィルに連なるミリュー(暗黒街)ものの世界であり、最近はすっかり香港にお株を奪われていたノワールものの誇りをフランス映画が少しは取り戻したことが嬉しくなってしまいました。なんといってもオートゥイユ、ドパルデューの二人の貫禄で魅せてくれるのです。
 懐かしやミレーヌ・ドモンジョもカッコいい婆さんとして登場しています。
 今年の観納めとして充分に満足しました。

コメント(2)

拙文を紹介していただき、どうもありがとうございました。
照れくさいですけど、とても嬉しいです。

今回の一連のレビューでは溝口特集が特に素晴らしかったです。うちにあるビデオを見直したくなりました。
こういうストーリー再現が苦手なもので侘助さんの文章にはいつも唸らせられます。

今年もよろしくお願いします。
こんにちは。
「あるいは裏切りという名の犬」はフランス映画にしては珍しいなと思ってましたが、
ノワールものも多いんですか、知りませんでした。
やっと公開されたので観るのが楽しみです。
「ダーウィンの悪夢」もかなりそそられます。
重たい!と聞いていたのでどうしよう?と迷ってましたが観たくなりました。
「大奥」の西島秀俊評は的を得てて唸りました。
観てませんが、二枚目歌舞伎役者役なんてミスキャストじゃん!って思ってましたモン(笑)

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