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200×年映画の旅コミュの2006年10月下旬(新作)

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2006年10月下旬に観た新作(映画祭参加作品含む)


「美式天然(うつくしきてんねん)」(10月23日 TOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン1)
2005年/監督・プロデューサー・脚本・編集:坪川拓史

【★ 映画を愛する気持ち、絵的なセンス、無声映画を再現する技術面など悪くないが、話は高校映研レヴェル】

 東京国際映画祭“日本映画・ある視点”部門に出品された映画です。チラシによれば、2005年トリノ映画祭グランプリ・観客賞をダブル受賞したとのことでしたから、ちょっと期待していました。
 冒頭、緑の草原を抜ける真直ぐな田舎道が映ったと思うと、スコップで丸く掘られた穴が映るなど、何やら思わせぶりなカットが続くのには閉口しますが、古ぼけた映画館が映し出されて、その中で小松政夫扮する弁士に導かれるようにして「美式天然」と題されたサイレント映画が上映され、その映画が劇中劇として再現されるのを観るうち、次第に映画に吸い込まれてゆきました。映写機のせいか、チラつくモノクロ画面。ややコマを落とした編集。動かないキャメラ。誇張された芝居。
 ……劇中劇の登場人物たちはお世辞にも巧いとは言えませんし、容貌もパッとしない連中ではありますが、サイレント映画を再現しようという野心は、技術的側面だけについては一定程度の成果を挙げていると思えました。
 しかし、カフェに花売りにきている娘をめぐって、楽隊のヴァイオリン弾きとカフェの支配人が恋の鞘当を演じ、娘が惹かれたヴァイオリン弾きとの間が偶然によって引き裂かれそうになるといった、劇中劇たるサイレント映画の筋立ての単調さとステレオタイプぶりには呆れるほかなく、絵はいいけれど話は弱いという欠点を露呈していました。
 劇中劇が連続活劇のように“後編に続く”といった形で一旦終了すると、場面は無声映画時代から現代へと舞台を移し、先ほどまでは劇中劇でカフェの花売りに扮していた娘が、今度はパブのような店でバイトしており、彼女が家に帰るとキャンパスに絵筆を走らせている母親の吉田日出子がいて、さらには、その家に、吉田の父親でパブ・バイト娘からすると祖父にあたる高木均がやってくるといったシチュエーションが描かれてゆきます。娘は祖父にあたる高木にはよそよそしい態度を示すのですが、その理由がよくわからず、娘が働くパブのマスターや常連客の常田富士男らが物語の上で果たそうとしている役割もまったく見当がつかず、それでも何とか物語についてゆこうとするものの、次第に、現代劇の部分には話の芯と呼ぶべきものがまったくない、薄っぺらい中身でしかないことが明らかとなります。唯一、作者が語ろうとしていることは、高木扮する老人が若い頃に、サイレント映画「美式天然」のフィルム運びをやっていた頃の回想が、劇中劇のサイレント部分とクロスするということのようですが、それとて、何やらこじつけたお話でしかなく、観る者を納得させることはできません。
 これでは高校の映研レヴェルだ、などという軽侮の言葉が脳裡をよぎり、実際のところ高校生だってもう少しマシなお話を考えることは、わたくしが中学生の時に3年先輩の原正孝が作った8ミリ・フィルムが実証していたのであり、こんな代物にグランプリと観客賞を授与してしまうとは、トリノのイタリア人たちは一体どこに眼をつけているんだ、と憤慨したくなりました。
 この日の劇場には映画記者たちが集まっていたようですが、映画の途中で10人近くが中座して帰っていったのであり、この映画に対しては彼ら記者の対応が正解なのかも知れないと思いもしました。
 しかし、映画を観た翌日、この映画の公式HPを覗いてみたら、この映画が作られた経緯が書かれており、その概要は上記の解説文にも書かれている通りなのですが、要するに、誰に頼まれたわけでもなく、解体寸前の映画館の姿をフィルムに焼き付けるため、あとさきも考えずにフィルムを回し始めた坪川拓史氏の意欲に賛同した吉田日出子らプロの役者たちが集って、この映画が出来上がったということであり、確かにそう言われてみれば、劇中に出てくる映画館の建物(松竹マークが正面上部につけられています)からは何やら妖気のようなオーラが発せられていたのであり、この劇場のオーラをフィルムに焼き付けただけで、坪川某の役割は充分に果たされていたと言うべきかも知れず、お話が陳腐だろうが、出ている素人役者たちの芝居が学芸会並みだろうが、そんなことはお構いなしに、この映画は祝福されるべきなのかも知れません。
 とはいえ、やはりお話のレヴェルの低さは如何ともし難く、結局の評価は★1つに落ち着いてしまいます。


「地下鉄(メトロ)に乗って」(10月24日 シネマメディアージュ・シアター2)
2006年/監督:篠原哲雄

【★ このところファンタジーでも高水準を維持してきた篠原だが、今回は×。話が支離滅裂のご都合主義】

 篠原哲雄のことは、2000年に初めて「はつ恋」を観て、そのナイーヴなデリカシーが細部にまで行き渡った作劇に感心して以来、追いかけてきたつもりです。「命」「オー・ド・ヴィ」など、繊細なリアリティが影を潜める場合もあったものの、このところ「深呼吸の必要」「天国の本屋 恋火」「欲望」など、高水準の出来をキープしていましたので、地下鉄を通じて現在と過去・大過去が繋がって、自分が生まれる前の父親の姿を知るに至るというタイム・トラヴェルもの「地下鉄に乗って」は、篠原らしい企画として安心して観られる“安全牌”だと決め付けていました。「月とキャベツ」「天国の本屋」など、“幽霊もの”で実力を思う存分発揮した篠原ですから、タイム・トラヴェルものなど自家薬籠中のものだろうと思ったのです。
 しかし、これが予想外の出来の悪さ。
 冒頭、男の子3人兄弟がキャッチボールしているところに暴君の父親が帰宅して母親を罵倒するあたりから、ステレオタイプの父親像に違和感を覚え、その父親から逃れようと3人兄弟が、東京オリンピック直前に開通したばかりの地下鉄丸ノ内線新中野駅を訪れるという展開も、タイトルに強引に結び付けようとするわざとらしさばかり感じました。少なくとも、篠原らしいナイーヴさは冒頭から欠如しており、先行きを不安に思いました。
 するとこのあとも、舞台を現代に移し、堤真一扮する3人兄弟の次男坊が地下鉄永田町駅で迷子になり、出口を上がるとそこは1964年の新中野駅だという場面なども、事態に気付く堤の反応が鈍すぎて観客を苛々させますし、堤がタイムスリップする際の約束事も定まらず(地下鉄の穴を高速で前進したり後退する映像がタイムスリップを表象するという約束事はあるものの、そこに至るきっかけが、何か乗り物に乗ることなのか、眠りに落ちることなのか、眼を閉じて念じることなのか、映画ははっきり描かず、観客は堤がいつどうやればタイムスリップできるのかという約束事を知ることができません)、ただ話の都合のいいように堤は時代を往還するばかりのように見えるのです。
 さらには、途中からは、現代における堤の愛人たる岡本綾(妻子もあり特段夫婦関係が険悪にも見えない堤がなぜ岡本と愛人関係を結んでいるのか、映画は説明してくれません)がなぜか一緒にタイムスリップするようになり、それまで堤がタイムスリップしている様子を見る限り“肉親への執着”が時間旅行の条件であろうことが察せられることから、恐らく岡本の“執着”の対象と堤のそれとが同じ人物であろうことは観客は勘付いているのに、堤も岡本もそうした根本的な問題意識を持つことなく、ただ作者の都合に踊らされて時間旅行を繰り返すばかりです。
 そう、この「地下鉄に乗って」というドラマは、わたくしがここで再三触れている通り、実にご都合主義の産物になってしまっているのです。篠原らしいナイーヴなデリカシーは、ここでは微塵も感じられません。
 浅田次郎の原作小説はかなり前に読んだことがあり、小説世界としてはそれなりに人を説得することができていたと思いますが、映画世界に置き換えるには無理がありすぎる題材だったのかも知れません。1本の映画の中に盛り込むには素材が多すぎたのかも知れません。いずれにせよ、脚本は未消化ですし、それを噛み砕くことなくそのまま撮り始めてしまった篠原の責任も重いと言わねばなりますまい。篠原には、脚本を吟味するという基本に帰った上で、捲土重来を期してほしいと思います。

「ファミリー」(10月25日 シアター・コクーン)
2004年/監督・脚本:イ・ジョンチョル

【★ 話は未消化、素材は詰め込みすぎ、展開はご都合主義。あまりいいところが見つかりにくい韓国映画】

 東京国際映画祭の関連イヴェント“コリアン・シネマウィーク”の出品作。韓国では2年前に公開されている映画ですが、こうして東京国際に出品された上、一般公開も控えているようなのは、今年日本公開された「奇跡の夏」で達者な演技を披露していた子役パク・チビンが出演していて、興業価値がそれなりに見込めるからでしょうか。
 映画はまず、初老の男が朝起きて顔を洗おうとして、その片目がケガによって失明していることを観客に示す場面から始まります。その老人は近くで寝ている10歳くらいの子どもを起こして朝の身支度をさせますので、祖父か何かだと思ったら、実子という設定のようです。この家には母親の姿がいませんので、この初老の父親が独りでこの少年を育てているようです。
 場面が変わると、刑務所から出所しようとしている若い娘。彼女は出所して保護司から美容院の仕事を世話されるのですが、その話の過程から彼女が窃盗や傷害の罪で服役していたことがわかります。しかし、美容院の店主と話す彼女からは、犯罪を重ねて刑務所に入っていた女性という実感は伝わらず、どこか無理があるようなキャスティングに思えます。
 この女性が実家に里帰りすると、父が方目を失明した老人であり、幼い弟もいることがわかるという仕組みで、彼女は父親には強く反発を覚えているようなのですが、この父娘の間にある確執が何なのか、映画はきちんと説明できないまま進行してゆくのでした。なぜ幼い弟が生まれ、その後母親は死に至ったのかということも、物語の上で有機的に機能する形では説明されず仕舞いでした。
 娘が刑務所入りする前、不良仲間(そのうちの一人は今や暗黒街のボスとして大きなキャバレーを経営しています)と銀行強盗して得た金を、仲間に黙って隠していたという設定。したがって、その金を取り返そうとしているボスから娘や家族が付け狙われるという設定。片目を失明した父が今は白血病を患っているという設定。そうした設定がいずれも未消化のまま物語の中に放り込まれ、ろくな説明もされぬままご都合主義によってそうした設定が強引に筋書きの中に利用されるという展開。
 子役のパク・チビンは相変わらず達者な芝居を披露しますし、主役の娘に扮したスエという女優もなかなか魅力的な容貌をしていますが、話がこれでは、厳しい点をつけざるを得ません。


「家族の誕生」(10月26日 TOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン6)
2006年/監督:キム・テヨン

【★★★ 3話のオムニバスのようでいて、関連が明かされる巧みな構成。ムン・ソリ出演映画にハズレなし】

 東京国際映画祭“アジアの風”部門の韓国映画。この映画祭関連で観た2本がいずれもハズレだったので、この映画についても心配しましたが、わたくしが勝手に言っている“ムン・ソリの出演映画にハズレなし”の法則は今回も活きており、なかなか観応えある映画でした。
 映画は3つのブロックからなるオムニバスとして構成されています。食堂の店主として生計を立てているソリ女史のところに、10数年も音沙汰がなかった弟が帰ってくるのですが、彼は相当年上の女性を妻として連れてきており、姉は嫉妬めいた感情に責め立てられながら、弟と年上女性とがイチャつく声を聞くというブロック。日本人観光客相手のガイドをしている娘コン・ヒョジンが、愛人生活を送る母親に愛想を尽かしながら、腹違いの弟への肉親愛を捨てきれないというブロック。若い娘チョン・ユミが誰にでも寛容な態度を示すため、ボーイフレンドは自分だけに愛情を向けてほしいと駄々をこねるものの、彼女は寛容さを貫くというブロック。
 3話が独立したオムニバスのように見えて、実は、ああそうだったのかと観客を納得させる工夫が施されています。そして、そうした工夫のタネが明かされて全篇を通してみれば、伏線が有機的に絡み合い、物語に登場する主要な4人の女性たちが、血縁という関係には結ばれていないものの、まさしくタイトルに謳われている通りの“家族の誕生”を実現している事態が見事に浮かび上がってくるのであり、その巧みな構成にも、役者たちを素直な芝居に導いた演出にも、すっかり感心してしまったのです。
 この日の上映後のティーチインに現れた監督がなかなか誠実そうな好青年であったことも印象のよさにつながり、いい映画だったと満足して劇場をあとにしました。


「父親たちの星条旗」(10月28日 丸の内ピカデリー1)
2006年/監督・音楽:クリント・イーストウッド

【★★★★★ イーストウッド期待の新作は、渾身のストレート勝負。まだまだ球速は衰えず、圧倒される】

 今や70代の中盤を迎えた老人が、年に1本ずつのペースをほぼ着実に守りながら映画を監督し続けていることは、かつて巨人と呼ばれたフォードが71歳で遺作「荒野の女たち」を撮り、ホークスは74歳で「リオ・ロボ」を撮ったことを思えば、それほど驚くには値しないのかも知れませんし、ヒッチコックは77歳の「ファミリー・プロット」まで現役の監督であり続け、ヒューストンなど81歳で亡くなる寸前まで「ザ・デッド 『ダブリン市民』より」を手がけていたことを思えば、平均寿命が着実に伸びている現状から勘案して、70代半ばはまだ若い部類だと断言することも可能なのかも知れません。
 しかし、今年で76歳を迎えた老人が手がけた題材が、太平洋戦争で最大の激戦と言われた硫黄島の攻防戦だということには、やはり驚きを禁じ得ず、相当に肉体を酷使すると思われる映画監督という商売の中でも、戦争ものというアクションの畳み掛けはより一層の酷使が想像できるだけに、そうした激務を自らに課すクリント・イーストウッドの覚悟は図り知ることができるでしょうが、しかも、あろうことか、彼は硫黄島の攻防戦を、アメリカ側の視点と日本側の視点それぞれから相互に見返すという前代未聞の試みを果たし、2本の映画をほぼ同時に作り上げるという離れ業に挑んだというのですから、その覚悟の大きさに圧倒されます。
 イーストウッド監督作を1972年のデビュー作「恐怖のメロディ」からリアルタイムで追い続けてきたファンとしては、今度の二部作にはこれまで以上の覚悟を感じ取っただけに、その覚悟にこちらも応えなければならないと思え、あえて公開初日に劇場に足を運んだ次第です。
 映画の冒頭、無人の戦場に立つ米兵士フィリップ・ライアンが、「衛生兵!」と呼ぶ声に振り向き、また別の場所からかかる声のほうに眼を向けますが、そこには誰もおらず、「どこにいるんだ」と焦る中でそれが老人の夢だと明かされる場面。老人は戦場の悪夢の中で心臓発作を起こし、「彼はどこにいるんだ」と何度も呟きながら倒れます。戦場で誰かを見つけられなかったことの悔恨が、今も老人の意識を苛んでいるという現実。
 その悔恨は、1945年の戦争末期、ライアンが戦時国債のキャンペーンに駆り出され、NYのヤンキー・スタディアムを訪れた時の記憶に結びつき、ここに、大過去としての硫黄島攻防戦、中過去としての戦時国債キャンペーン・ツアー、そして現在という3段階の時制が映画に組み込まれてゆきます。
 そしてイントロでは、誰かのインタヴューに老兵士が応えるという形で、硫黄島の擂鉢山に兵士6人が合衆国国旗を打ち立てる際に撮った1枚の写真が、戦争末期の米国民の士気を一挙に高めるプロパガンダ効果を発揮したという事実に観客を導いてゆくのです。
 複数の時制を導入するという込み入った構成をとりながら、モノローグによって背景を簡潔に説明し尽くして観客を正しく物語に導いてゆくという作劇は、脚本を担当したポール・ハギスの功績だろうとは思いますが、演出に自信を持ったイーストウッドの余裕も感じさせます。
 さて、こうして3つの時制を往還しながら綴られる映画を観ながら、このところのイーストウッドは途中で映画の針路を大きく変化させる舵取りが目立つことを思い出し、いわば変化球としてのシフトチェンジがやってくるという心の準備もしていました。前作「ミリオン・ダラー・ベイビー」で、ボクシング映画だとばかり思っていたわたくしたちの度肝を抜く形で物語に変調を導入するのが、イーストウッドのやり口だったからです。
 しかしながら、国債キャンペーンを成功させるためには誰が国旗を打ち立てたかという“真実”などどうでもよく、ただ国民の眼を惹きつける“物語”だけを求める為政者によってヒーローとして祭り上げられた青年たち3人が、戦場に残した“悔恨”と向き合ううちに浮かび上がってくる主題は、有能で将来性に溢れた若者たちを次々に死へと送り出してゆく戦争というシステムの愚かしさと恐ろしさという、実にストレート極まりないものなのであり、イーストウッドは、結局全篇を通じてこの主題だけを、律儀に、しつこいくらいに繰り返していたのでした。
 イーストウッド渾身のストレート勝負。球質は重く、球の伸びもスピードもまだまだ衰えていません。映画のエンディングには、この作品と対をなす「硫黄島からの手紙」の予告編がついていたのですが、こちらも重くズシリと応えそうな映画です。
 76歳の老人は、まだまだ現役最高峰の地位を譲ろうとしません。それはそれで、実に痛快ではありませんか。わたくしたちは、この老人があと数年、いや10年でもハリウッドの、いや、世界映画のトップランナーであり続けることを期待してしまいます。


「ブラック・ダリア」(10月30日 シネマメディアージュ・シアター10)
2006年/監督:ブライアン・デ・パルマ

【★ もともとデ・パルマ嫌いなのに観に行ってしまった自分がバカだった。一向に走らぬ映画に苛々が募った】

 実を言うとブライアン・デ・パルマの映画を小屋で観るのは「アンタッチャブル」(87)以来約20年ぶりで、初期の数作を除けばどいつもこいつもあざとい下品さが漂う映画に思えて、失望を連ねてきたものでした。
 「キャリー」や「愛のメモリー」の頃は、映画狂がついつい陥りがちなオマージュ・プレイ(古典の引用を試したくなってしまうヲタク的性向)が微笑ましいものに思えたものですが(「キャリー」も「愛のメモリー」も、ヒッチコックが発明した360度主人公の周りを回るキャメラワークが決め手として使われていました)、「殺しのドレス」や「ミッドナイト・クロス」「ボディ・ダブル」でも飽きずに同じようなヒッチコックの引用を繰り返すさまに嫌気がさし、「スカーフェイス」はホークスにまで剽窃の対象を拡げたのかと思って許し難いという思いを強くして劇場には足を運ばず、後にヴィデオで観たに過ぎません。
 「アンタッチャブル」も、ヒッチコックだけでなくエイゼンシュテインを真似して喜ぶさまだけが見どころのような映画で、個人的には呆れるだけの代物でした。
 しかしこの新作には食指が動いてしまったのは、数年前に観て結構面白かったカーティス・ハンソン「L.A.コンフィデンシャル」と同じくジェイムズ・エルロイの原作を基に、1940年代半ばのフィルム・ノワールを再現するという売り出し文句につい惹かれてしまったからでした。ヒューストン「マルタの鷹」、ホークス「三つ数えろ」、ワイルダー「深夜の告白」等々、戦後間もない時期にハリウッドを席巻した犯罪メロドラマの系譜は、人を惹きつける魅力に溢れたジャンルです。
 映画は、ロサンジェルス市街での乱闘シーンから始まり、これを止めに入った警察官たちの中にプロボクサーとしての経験を持つ者が二人いること、その二人が、警察署主催のボクシング試合に出ること(警官の待遇改善を訴えるために市民から支持を貰うため、という名目の試合)などが、二人のうちの一人であるジョシュ・ハートネットのモノローグで語られます。試合後、ハートネットは試合相手のアーロン・エッカートと公私にわたって友情を深め、エッカートの同棲相手であるスカーレット・ヨハンソンとも親密度を上げてゆきます。そんな中で、二人の警官はコンビを組み、連続殺人犯を追いかける仕事を命じられるものの、別の事件に首を突っ込んだエッカートは白昼の発砲事件に巻き込まれて二人を射殺し、その現場のすぐ近くでは娼婦の惨殺死体(マスコミはこの被害者を“ブラック・ダリア”と呼ぶのです)が発見され、エッカートはこちらの事件のほうにのめり込んでゆくことになります。
 観客に考える暇を与えずにあれよあれよという間に物語を展開させてゆくというのは、40年代フィルム・ノワールのやり口には違いありませんが、デ・パルマの作劇は、わたくしにはかったるく感じました。ハートネットにも、エッカートにも、さらにはヨハンソンにも、物語上のアクセントというか、観客の興味を惹きつける部分を一度も見せないうちに、お話のほうばかり先行させてゆくやり方が、見た目のスピード感とは逆に、肝心のものが一向に始まろうとしないモタモタした感じを与えてしまったように思えたのです。
 映画女優志望の娘が口を裂かれ、内臓を摘出されるという惨たらしいやり方で殺された猟奇的事件を追うエッカートの執念が何なのかという謎、そうしたエッカートに怪訝な思いを抱きながらも結局は事件に巻き込まれてゆくハートネットのやりきれなさなど、このテのお話につきものの要素は揃っているはずなのに、一向に走り出さない映画。40年代半ばのフィルム・ノワールの雰囲気だけを模倣しようとしたために、あれもこれも入れ込もうと貪欲になったものの、肝心の“映画のこころ”は模倣することができずにいるため、上っ面だけをなぞって登場人物のハートに迫るものがなかったということなのでしょうか。わたくしには、画面を観ながらデ・パルマに対する偏見がこみ上げてきて、やはりこいつはイモ監督だ、という思いばかりが浮上してしまったのでした。
 わたくしには相性の悪い映画だと思いますので、最初から観るべきではなかったのかも知れません。

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