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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの無神論

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どうも、無神論者です。悔い改める予定は特にありません。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=52973
無神論者といっても実は様々で、実際には神様を信じない人の総称だったりします。政治家やら公務員やらスキャンダルやらを叩くのと同じ感覚で宗教を叩く人、宗教に恨みを持つ人、宗教に無関心で神様いてもいなくてもどうでもいいと思っている人、論理的矛盾から神様を肯定出来ないとする人、宗教全否定の人、その他諸々です。あ、宗教行事全否定ってのは意外に少ないばかりか、無神論コミュではむしろ叩かれます。

世間では一緒くたに「クリスチャン」と総称されても実際には教派(宗派だっけ?どうでもいいや)というか派閥に分かれていて1まとめに出来ないように、無神論者を定義づけるのは困難です。まあ、人類愛や献身sでイメージされる(と世間では認識されている)筈のクリスチャンの集いコミュで内輪争いが絶えず、逆に人類愛も善も神様も信じない無神論コミュの方が余程争いが少ないというのは何の皮肉かわかりませんが…。

他にも、無神論に関してこんなネタもあります。
http://labaq.com/archives/51270716.html
http://labaq.com/archives/51266625.html
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1301278.html

前置きが長くなりましたが、一応本題です。

・上記の紹介事例は、皆さんが持つ無神論者のイメージそのものですか?それともイメージと異なるのでしょうか?
・クリスチャンの人達は、無神論及び無神論者をどう捉えていますか?
・無神論者に対して言いたいことはありますか?
・無神論者と宗教者の違いって何でしょうか?クリスチャンにあって無神論者にないもの、逆に無神論者にあってクリスチャンにないものは何でしょうか?両者の間に優劣は存在しますか?
・無神論者の意見は、クリスチャンにとって有益?無益か?逆に無神論者に対するクリスチャンからの意見は有益か?無益か?
・人はいかなる理由でクリスチャンになり、または無神論者になると考えますか?
・無神論者であったことはありますか?または無神論者になろうとしたことはありますか?あったとすれば、どんな理由ですか?



幾つか項目を挙げてみましたが、僕の考えというよりは議論の叩き台みたいなものです。この項目に拘らず、無神論及び無神論者に対する考えをお聞き出来れば幸いです。

コメント(601)

>551
そう考えてこそ見えてくる価値観やら事実の面白さについては、神様に拘っていると見えないもんです。酒飲みが酒飲まない人間に対して「人生の楽しみの半分を失ったも同然」なんて余計なお世話なこと言うよりも野暮かもしれませんよ。

"Beer is proof that God loves us and wants us to be happy.” とベンジャミン・フランクリンは言ったとか言わなかったとか。
>551
>有神論と無神論でいちいち優劣を競っても、アホみたいな結論しか出ません。

おおexclamation & questionこれが終局の結論かも知れないですね。わーい(嬉しい顔)
次の問の応えとして:
>・無神論者と宗教者の違いって何でしょうか?クリスチャンにあって無神論者にないもの、逆に無神論者にあってクリスチャンにないものは何でしょうか?両者の間に優劣は存在しますか?
>554
>本来、信仰とは、神を鏡として自分の姿を映して見ることであろうと思います。
>556
>佐伯さん
神様を鏡とする考えには同意です。
ただ、中には悪い意味で鏡にしてしまっている人もいるみたいです。神様にドップリ依存している自分の姿を鏡で見ても、何とも思わない人もいるみたいです。その辺り、単なる鏡だけでは、見失ってしまうでしょうね。

お二方の会話に首を突っ込むようですが、のむらさんのご趣旨がお分かりに成りながらそれを実行しないようなクリスチャンを例に持ち出す事は極めて無神論的な非難ではなかろうかと感じました。
のむらさんのことを指しているのではないですが、何故ならのむらさんはご自身は無神論者ではないと主張されていると思われますので、全て否定的な態度を取ることは何ら建設的な考えを産まないのではないでしょうか?
余計なことでしょうが、神を鏡として自分の姿を見るとは「神様にどっぷり依存している(意味が私にはイマイチ不明ですが。)自分の姿を見ても何とも思わない人」は神の鏡ではなく普通の市販されている鏡を使っているのではないかと思えますね。
苦言ばかり述べまして申し訳ございません。
>でも、この表現は違います。議論でやっちゃいけない不完全な引用、いや発言の捏造と言ってもいいです。「思われる」がついているからといって見過ごせるレベルではないです。誤解や曲解を招くには十分なレベルです。速やかに撤回して下さい。
宜しくお願いします。

撤回します。
再度の質問です。

>僕について「自称無神論者だが、言動からは違うと解釈する」というのであれば(反論はしますが)そう見做すこと自体は自由です。

のむらさんは自称無神論者であると主張されるのでしょうか?(手続きを踏んでます。)
「使徒行伝」のパウロは無神論者です。偶像崇拝論は無神論そのものといえます。
>芹沢さん#568へ

 もう少し詳しく教えてください!
>571

聖書についてクリスチャンに説明するの愚は犯しませんけど・・・・。

以前、閻魔咲夜がいた時に展開した論です。

偶像といっても、単なる物体をそれと知って崇拝する宗教は無い。
像はメディアの役割を果たすわけです。
しかし、パウロは、「人間の想像によって金や石に刻む云々」のようなことを言うわけです。
これは実に強力なロジックでしょう。
喩えれば「自爆テロ」ですね。宗教一般の存立を危うくするようなことを言うわけですから。

自分らは特別だから大丈夫だと思っているのでしょう。
新興宗教にはいつもありがちな過激さです。

後知恵で言えば、それはキリスト教自身を傷つけているわけです。
その神は「頭の中の観念」という偶像ですから。
>555 川口 滋さん




ここは私が代わって答えてもよいでしょう。


>Ex nihiloの説明もせずに、宙に浮いた屋根から家を造る様な事をし乍ら堅剛な土台と柱があると言い張る滑稽を見出して戴きたいですね。
>因みにex nihiloを有形(tangible)の世界だけで考える様な話はよして下さいね。

多分、無からどうやって世界ができたか、と聞きたいようだが。

そんなこと知りません!

川口先生、あなた知ってるんですかいな?
知ってるというなら、何で知ってるんですか?

>Stephen William Hawking卿もまだ無形(intangible)の世界(自然界の法則や定数)の誕生を議論した論文を出して居りません、また其の要の必要性を認めていますね。

それがどうしたんですか?

>彼は個性的な神(personal god)の存在を信じないとは言っても無神論者とは自称して居りませんが。

そら、ホーキングの勝手でしょう。
>567
>僕について「自称無神論者だが、言動からは違うと解釈する」というのであれば(反論はしますが)そう見做すこと自体は自由です。

>(反論はしますが)
と書かれてありますので、
拙コメント566で
のむらさんは自称無神論者であると主張されるのでしょうか?(手続きを踏んでます。)
とお尋ねしたのですよ。
そうしたら
567でのむらさんは、
>これは答えかねます。何度も同じことを説明する気はないですし、こういう(Tomさんが意図する・せざるにかかわらず)後出しジャンケン狙い的な質問はどうかと思います。

反論をすると言われたので反論を期待してました。
お答えする気がないのは困ることでもあるのでしょうか?
としか私には考えられません。
もし私の質問に逃げるのでしたら以前にご説明されているコメントの番号をせめてでもお教え願えますでしょうか?
それも元にして(引用して)さらなる議論を繰り広げたいと思います。
のむらさんの言葉の揚げ足を取るのではなく「後出しジャンケン狙い的な質問」は私の意図ではなくのむらさんの曲解で誤解を私ではなくのむらさんに読んだ人は感じるのではないでしょうか?
>569
>Tomさんは、「神様を否定しないと無神論に至ることは出来ない」と思ってません?

のむらさんは私の考えには撤回してくれとおっしゃいますが⇑は同じ事をしているのでは?
私はこの質問にお答えします。
「神の存在を否定するのが無神論である。」とが私が高校生の時に出した結論であると以前に書きました。それをどの様にのむらさんが受け取るのかはあなたのご自由で昔から人の口に戸は立てられぬとを私もその通りだろうと思います。

>まさかさんが519で発言した内容を、読んでみて下さい。
・・・・・
>正直、こんなネタは説明するまでもないと思うんですけど。

おっしゃるとおりです。
まさかさんの例を出しても「神の存在を否定するのが無神論である。」との私の考えに正直言って何もこの引用は関連のないものです。

>Tomさんは、宗教的ベースがないと人に優しく出来ないんですか?理屈抜きで人に優しく出来ないんですか?

わたしはのむらさんに必要以上の優しさと言葉を持って書いているつもりです。
それを感じられないのは私にはどうしようもないのむらさんの御心ですね。

>Tomさんは、「神様を否定しないと無神論に至ることは出来ない」と思ってません?

再びのむらさんへやさしくお答えします。
「神の存在を否定するのが無神論である。」
のむらさんの無神論の定義は?なんですか、との質問をやさしく伺いたいです。
私はやさしくないのではなく単にしつこいだけです。
このしつこさはトピの質問にのむらさんはさじを投げていると私は思うのです。
私が単に思うのですからその思考の自由は認めてもらいたい。
そうでなければのむらさんが言う場合にはOKだがTomは言ってはならんとの撤回を求めることになるからです。
この私の考えに直接的な反論を期待します。
>570
>Tomさん
>「無神論者」とは何であるかの私なりの定義みたいなものを
>539の佐伯さんのコメントに感じたことを書いたつもりです。
件のレスを読みましたが、Tomさんの解釈したようなことは書いてありませんでした。その結論は単なる曲解です。

その経緯を此処に再現してみますね。
佐伯氏>539
 おとといの日曜日、礼拝のあと、青年会の勉強会で「偶像崇拝」について学びました。
 偶像とは必ずしも木や石や金属で作られた神々の像のことだけではなく、富や名声も偶像になりうるし、また、わたしたちが心の中で自分の都合のいいように勝手にイメージした「唯一神」すらも偶像である、とのこと。
 なかなかに考えさせられました。
 この伝で行くと、たとえ無神論者であっても、偶像は崇拝している場合があるのかも知れませんね。

拙>548
 仰る通りです。
 無神論は神がいないと信じているだけでそれが真理だと信じているのですね。
 その信じているものが偶像なんかも知れません。
 有神論はいるかいないか分からぬ神を信じそれが真理だと信じているのです。
 しかもそれは他の名前の神からは偶像となります。
 ですから無神論にしがみつき有神論を笑うのは目くそが何とかを哂うと同じように私には思えます。

 もしたった一つ有神論に歩があるのは、無神論は全ての否定しか結論がないのですが、有神論には善 悪の違いを知る知恵なる倫理観があり愛が慈悲があり希望があり何よりも神仏を知った時の喜びは俗世 の者にも無神論者にも知ることのできないものです。
 そうした対比からは真実であろうかなかろうかどちらが幸せなのか自明であると言えるでしょう。

これに対してのむらさんは、
>551
>>Tomさん
>無神論は神がいないと信じているだけでそれが真理だと信じているのですね。
何度も言うように無神論者なんて積極的に神様を支持しない以外はてんでバラバラです。「存在を証明出来ないから、肯定も否定も出来ない・いてもいなくてもどうでもいい」という僕みたいなのもいるんですけど…。僕みたいに一応は自然科学かじってりゃ「信じる・信じない」とかは別問題としか考えないですし、
真理とやらが存在するかどうかすら、怪しいです。

>件のレスを読みましたが、Tomさんの解釈したようなことは書いてありませんでした。その結論は単なる曲解です。

よろしいですか、のむらさん。
議論とは「その解釈はこれこれの理由で違う。」「その結論はこれこれの理由で曲解である。」と理由を書くものなんです。
頭ごなしに「間違った解釈だ。」「曲解だ。」では議論になりません。
何のためにトピを挙げたんだい?、とあまりやさしくない言い方をしますとそうなりますね。

目を見開いてよく読んで頂ければ佐伯さんの>たとえ無神論者であっても、偶像は崇拝している場合があるのかも知れませんね。
に私は>無神論は神がいないと信じているだけでそれが真理だと信じているのですね。
と応じているのです。

そこにのむらさんのコメントが入るのですが、私にはのむらさんの無神論とは深く知りませんでしたから>548を書いた時点では正直言ってのむらさん個人の無神論は眼中に無いコメントだったのです。

>存在を証明出来ないから、肯定も否定も出来ない・いてもいなくてもどうでもいい」という僕みたいなのもいるんですけど

私にはのむらさんのような考えの無神論はその時点(548の時点)に置いては眼中になかったとを上記ののむらさんのお言葉から察していただきたいと思います。
無神論に神がいてもいなくても「どうでもいい」と『本気』で思われるのであればそれに議論をする私のほうが間違っていたと今気が付きました。わーい(嬉しい顔)
冒頭にトピ文にはありましたがまさかそれがのむらさんご自身の事とは思ってませんでした。
神の存在がどうでもいいのであればその議論は暖簾に腕押しです。
私には創造主は『この世に』存在せず、神(イエス)と聖霊はそれを信仰する各人の心にのみ存在するとの持論があります。
>Tom氏



気になることなので質問します。


>無神論は神がいないと信じているだけでそれが真理だと信じているのですね。


なぜそれが(無神論者において)【 真 理 】でなければならないとお考えですか?
なぜそれを(無神論者が)【 信 じ 】ていなければならないとお考えですか?
つまり、なぜそれが(無神論者にとって)【 疑うべからざるもの 】だと思うのですか?
 ユング心理学的な解釈を今一度提案したいと思います。
 ユングによれば、世界中に伝わる神話や伝説、昔話や、わたしたち一人一人の夢の中に出てくるイメージには共通性があり、ユングはそれを元型(アーキタイプ)と名付けました。
 原型にはグレートマザーとか影(シャドー)とかいろいろありますが、最もポピュラーであり、かつ重要であると考えられるのは「アニマ・アニムス」です。
 「アニマ」は男性の夢やイメージの中に出てくる理想的な女性像であり、「アニムス」は女性の夢やイメージの中に出てくる理想的な男性像のことです。
 これらのアニマ・アニムスや、動物など(僕はとてもかわいい犬の出てくる夢をときどき見ることがあります)が表しているのは、結局、その人自身の「魂の姿」なのではないでしょうか。
 「神」というイメージも、これらの元型に連なるものであり、やはりその人の「魂」を表しているのではなかろうか…と考えています。
>579
>無神論は神がいないと信じているだけでそれが真理だと信じているのですね。

私の経験からの発想です。
直感と言っても良いと思います。
真理は誰にも分からぬモノが私の考えの前提にあり、「真理を知っているのは全知全能の神のみ」を信じる有神論があります。
無神論が有神論を否定する存在であれば『神の存在の否定』が無神論の存在理由であり、それが無神論にとって真理だと想像するのです。
無神論とは文字通り「神は無い」と主張する論と思います。
神がいるかどうか分からぬでが「神は無い」を主張するものでありませんので無神論はおろか論にすらなりません。
誰にも神がいるかどうか分からぬものを居ると信じるのが有神論であるならば、居ないと信じるのが無神論であろうが私の推測(想像)なのです。
更に私の想像を逞しくすれば神仏を信じる者は架空の山を作り上げ天国なる架空の山の頂を目指して登りつめようとする者で無神論者は架空の山などは無いと否定し登山者を『哂う』事に重点を置いている者ではなかろうかです。

>無神論は神がいないと信じているだけでそれが真理だと信じているのですね。

こう書いた動機はもしこれに反論があれば別の観点(私の無神論の定義ではない)からの定義を期待したものですしある意味私の知らないことを基にした(無神論)識者への挑戦でもあったのです。
無神論の確たる定義がなければ幾ら議論をしたところで平行線を辿るのは自明の理と思います。

芹沢さんにその定義はありますでしょうか?
>578
無視するのが「優しさ」と思いましたが、私はそうした優しさでなくはっきりと興味のない議論はしたくありませんと言わせてもらうのが私のような年寄りの優しさです。
>Tomさん

>無神論が有神論を否定する存在であれば『神の存在の否定』が無神論の存在理由であり、それが無神論にとって真理だと想像するのです。

「有神論」ではなく「宗教」でしょう? 宗教以外の「有神論」が有り得ますか?
宗教と神とは相即です。

よって反問します。  【宗教無しの有神論とは何ですか?】
>Tomさん

それだけでもなんですから(笑)
もうひとつふたつ謎をかけておきましょう。

のむら君は【神無しで】自然研究をします。彼はプロです。
わたしは【神無しで】主に社会科学(とくに規範論)の研究をしてきました。わたしの場合アマチュアですが。

【神無しに】それらがやれれば「無神論」じゃないですか。
定義はそれで充分じゃないですかね。


もうひとつ。

宗教に対峙するものは、
合理主義・唯物論・近代科学ですね。
これらのルーツは何だか知ってますか? 
悪魔崇拝ですかね。東洋思想が流入したんですかね。
いえいえ。そうではありません。
>584
>「有神論」ではなく「宗教」でしょう? 宗教以外の「有神論」が有り得ますか?
宗教と神とは相即です。
>よって反問します。  【宗教無しの有神論とは何ですか?】

これは私の言葉ではないですね。
芹沢さんの仮定ですね>「有神論」ではなく「宗教」でしょう?は。
意味もよくわかりませんのでご説明がありましたらコメントしましましょう。

>よって反問します。  【宗教無しの有神論とは何ですか?】

これは誰の言葉でしょうか?
私の記憶にありませんので(最近物覚えが非常に悪くなりました。)私が書いたのであればその箇所を期して頂ければ前後の関係で思い出すのかもしれませんが「宗教なしの有神論」とはちょっと理解できませんね。

私の>581の質問は
芹沢さんの無神論とはあったらなんですか?です。
禅問答されて得意になっているのではない心算なんですけどね。

>585
>【神無しに】それらがやれれば「無神論」じゃないですか。
定義はそれで充分じゃないですかね。

「それらがやれれば」のご説明を書いて頂ければ定義になると思います。
こちらの思うことを理解してくれでは子供の遣いみたいなもんでしょう、易しく言えば。

>宗教に対峙するものは、
合理主義・唯物論・近代科学ですね。
これらのルーツは何だか知ってますか? 
悪魔崇拝ですかね。東洋思想が流入したんですかね。
いえいえ。そうではありません。

私もそうは思わないのですが何を言いたいのでしょうか?
同じようなことを書かれるのでしたら私に理解する能力はないと思って下されても構いません。
>Tomさん


普通、神を信じると自称する人は自分の考えを「有神論」などという妙な呼び方はしないものでしょう?
有神論とは、異なる多数の信念の総称であるからです。
○○教会、○○派、などと呼びますよね。自称としてはクリスチャンとか○○教の信者と呼びます。
「神を信じる」とは、いわば信念を同じくする党派への所属と同等です。

人は、教えられねば神なる考えを抱くことは決してありません。
この「神」もまた多くの信念の総称です。
人は誰でも神なんぞという抽象ではなく、「○○教の××神」を具体的に信じるわけです。

そういう事態をわたしは客観的に見ています。
世の中には無数の宗教があって無数の神がいます。
なぜそれぞれの信者はそれぞれの教えを信じるのでしょうか?
それは、家族がそうであるとか、田舎から出てきて無知ゆえに勧誘に引っかかったとかそういうことです。
要は偶然出会ったものを最善と信じているにすぎません。
A派に行けばA派になり、B派に行けばB派になる。

神なるものの手前には必ず人間がいます。人間がそれについて発言しなければ神なるものは成り立ちません。聖書も人間語の書物・文書にすぎません。

ならば、人間たちがそれぞれ神なるものをタネにして好き勝手を主張している、神は特定の人間の主張にすぎない、と考えるのは当然でしょう。

とりあえずこれが無神論のあらましです。

ここで重要なキーワードは、「他者」と「引継ぎ」です。
何らかのかたちで他者の主張を聞くか読まないかぎり、神はありえません。
神は人から人へ引き継がれてゆく考えです。

そうでない形で神について言及することができますか?
これが一番目の問題、【反問】の趣旨です。
二番目の問題、【神なしに】を説明します。

それには科学者の仕事を理解してもらわねばなりません。
科学者の仕事とは、「理論を攻撃すること」です。
理論とは「事物に関する漠然とした思い付き」です。

「カラスは黒い」はひとつの理論です。
科学者の仕事はこれを証明することではないのです。科学者の仕事とは、「黒くないカラス」を見つけることなのです。
証明しようとするなら、全てのカラスを調べなくてはならないはずです。現存する全てのカラスを調べるだけでは足りません。カラスはどんどん生まれてきますから。従って証明は不可能です。
100万羽のカラスを調べたから確実か、というとそうではありません。一羽の黒くないカラスの出現で反証されます。
100万羽を1000万羽に拡大しても、確実性には貢献しません。
「カラスは黒い」理論の有効性は、黒くないカラスが見つかるまでです。

科学理論といえど、真理として墨守されているわけではありません。
さきごろ、「光より速い粒子の発見」のニュースが世間を騒がせましたが、あれは科学者が既存理論を攻撃しているのです。
あれは実験事実によって理論を攻撃した一例です。
その理論とはアインシュタインの相対性理論ですが。
「真理の墨守」と「権威」は科学の忌避するところです。

すべての理論において、反証が重ねられて、単に生き残っているのが科学理論です。

さて、以下の二つの命題を比べてください。

1. やがて月が地上に落下するであろう
2. 2012年4月1日に月が地上に落下するであろう

これは予言ですが、2は締め切りが設けてあり、事実を確認できます。その時がくれば事実によって反駁できるからです。
それに対して1は永遠に不滅です。いつになっても「まだその時ではない」と言いぬけられるからです。

これはどうでしょうか

3. 全ての物体は2秒ごとに30パーセント大きくなる

「カラスは黒い」や命題2は、事実によって反駁されて廃棄される可能性がありますが、1や3はその可能性が無いから永遠に不滅です。
2だけが科学的であって、1や3は非科学的です。

神がいる、というのもそういう命題であって、「引継ぎ」によっていつまでも存在します。
創世記だってそうです。天地創造を見た者がいますか?
589は未完の説明です。規範には「最高権威」なるものが必要かどうかなど重要な問題を残していますが、面倒な説明をしなくてはならないので保留にします。

歴史的に考えるのは有益です。
「大日本帝国陸海軍」・「ソビエト共産主義」・「原発安全神話」などは、真理の墨守が招いた悲惨な結末として有名です。それぞれについて、科学的な理論攻撃つまり批判がいかに重要であったかを噛みしめるべきです。
三番目の問題、
「合理主義・唯物論・近代科学」のルーツですが。

それは「キリスト教」です。キリスト教なしにこれらは存在しなかったでしょう。
無神論は「成人したキリスト教」なのです。親殺しの大罪人かもしれませんが。
これも面倒なので、特に要求されれば説明します。

ちなみに、閻魔咲夜がいた時に、合理主義がキライとかいうから、では合理主義のルーツは何だ?と聞いたわけです。
彼女は一切答えず、そのうちいなくなりました。
>588

芹沢さんの正直なお考えを述べてくださいまして誠に感謝です。
それに反論を書いてみます。

>「神を信じる」とは、いわば信念を同じくする党派への所属と同等です。

神を信じるのと党派に所属するのとは同等ではありません。
私はどの教派にも所属せずに聖書の言葉を信じております。
こうした考えはよくあるんです。
信心(faith)を持つが信仰(religion)は持たないがそれです。
カルト宗教は教祖を神格化させ神と崇めるさせる教えであるグループへの所属です。
同じようなことが各宗教にありますがカルト宗教と違うのは伝統的な宗教は神仏を信じてその教えを広めていることです。
信心を持つとは個人と神の関係ですから宣教とか折伏とかは無縁なことです。
宗教を信じるとはその宗教の教義を信じる事ですから神と個人の信心に信仰とのワンクッションが入り込むということだと思います。

>人は誰でも神なんぞという抽象ではなく、「○○教の××神」を具体的に信じるわけです。

そういう考えの人もいるかもしれませんが私はたまたま聖書を信じて読んでいる者ですが、読むことによって神を信じていると言ってもいいかも知れません。
聖書は人によって書かれたとする考えは私も賛成できます。
聖書から神への信心を取ってしまったら何が残るでしょうか?
言葉しか残らずその言葉の意味しか残りません。

此処で質問ですが、ある小説を読んで心に沁みた、感動した、鼓舞された、鼓舞されたことで今までした事の無いような事をしたとの経験がありませんか?
その小説では具体的なことを小説のキャラがしたことが書かれて居り、それから受ける印象はある程度誰にも共通した感情を与えるものだと思いますがテーマが深い意味を持つもの例えば生と死と愛とは何かのようなテーマですと価値観・倫理観・情欲の違いが夫々に出てくるものだと思います。

宗教の教えもそれに似たようなものなんですね。
宗教の教えを信者が必ずしも全く同じように受け取っているのではないのは私の三十年ほどにわたるクリスチャン達との会話から分かることです。
もし、何々教の神を具体的に信じているとの宗教があればそれは偶像信仰宗教でなければありえないことです。

仏教ですら仏像に霊が宿ると信じたとしても仏像自体が仏とは考えないでしょうからそれと同じく神仏を具体的に信じるとの言い方は正しいものでないと言って良いでしょう。

仏教典の教えは特にそうだと思うのですが福音は比喩で書かれているとよく言われますしイエスの言葉は多くは比喩だと言っても間違いではないと思います。
「神の子」とは比喩であり、神の独り子イエスとか神の子とされるとかの表現を誰しもが同一に具体的に信じているとの考えは誰も持たないし持てるものではありません。

聖書は誰かによって書かれたのは間違いないことと私も思います。
神が書いたとは私でも思いません。
其処か此処では要らぬことですが創造主なる神が現存し人間個々に関わりを持つとかお祈りをすれば具体的に聞き入れてくれるとする信仰は妄信だとすら考えます。そう考えなければ現実の社会に辻褄が合いません。
ある米国人が日本の3/11をクリスチャンでないから神の罰があたったと発言して問題になりました。
ところがクリスチャン国のはずの米国では去年は何百もの人が短期間で竜巻で亡くなりこの2〜3日の間に10数名が亡くなりました。
そうした天災で亡くなる人を神の業と考える人は米国でも実に多いのです。
自然現象を神の仕業とする考えは私にはありません、なぜならこの世に神の存在はないと考えるからです。
そうした考えが無神論だと思います。
それなら何故聖書を真実なる神と信じられるのかとの疑問が湧いてくるはずです。
聖書には真実なる神の言葉であると信じた人が神から救われる、神の子となる力が与えられると書かれているからそれを信じなければ聖書理解はできません。

それなら、私は、聖書を神の言葉と受け入れ聖書は真実を語ると信じてみました。
その考えの上で新約を読んでみました。これは近代聖書学では本文批評と呼ばれているものだそうです。
その本文批評の読み方の上に高等批評と呼ばれる「聖書の文書を、ある時代の人間の様々な動機によって作成された人間的な創作文書である」との考えも取り入れて聖書を私は読んでいます。

どの様な解釈を私はしているか書けば良いのでしょうがそれは単なるひとりだけの考えであるとされるおそれもあると思いますので、上記に聖書の読み方はクリスチャンの間でも色々違ったものがあるとの例を挙げておきます。
そして聖書が宗教になるのはそれを信じて神を心のなかに取り入れることによります。
これは誰からも教わったことではありません。
私の信心が未だはっきりとしていない時点で6人のクリスチャンから神のお導きがありますように輪を組んでお祈りしてもらった直後に聖霊の存在をはっきり感じたことがありました。

一度はそれを神のお導きと信じたのですが自己暗示の可能性のほうが遥かに強いと否定するようになりました。何故ならそれは私の感情であり理性で説明できない事だったからです。
しかし、理性的に読んでいると思う本でも感情に働きかける部分が小説には多いのですね。
それがなかったら小説はマニュアル本に変わってしまうでしょう。
聖書も小説と同じ事です。
聖書は具体的にどうそれぞれの人生を暮らすかとのマニュアルではなく、自分の人生をどう考え聖書の字句を心に沁み込ませ、それによって感動し、神の愛を感動する心で受け入れ、その愛をどの様に自分の心を鼓舞する形で他人に与えることが出来るのか、とが私の聖書理解です。
その過程に於いて知性よりは感情の部分のほうが使われているのではないかと思います。
特に神の愛については自然発生的に理解できるものですから知性は殆んど働かないものではないかとさえ考えてます。

これは全く私個人の考えですが聖書を読んだ独りよがりの考えと言えるかも知れません。
しかし、私の聖書理解で芹沢さんの考えに反論ができます。

後はお互い受け入れる余地がなければ平行線を辿ると思いますが他人はどの様な考えを持つのかそれがどの様に変化するのかについて大きな興味が有ります。
私自身聖書の読み方は大きく変わって来ています。
神は人間が考えだしたものであろうとの考えは未だにありますが、その私を作った親の先祖、恐らく精子と卵子はアメーバのような菌から出来たものかも知れませんが誰かが何かを我々が住む地球の素を作り宇宙の素を作ったのであればそれを神と信じて何の差し障りがありましょうか?
我々が此処に居るとはその素になるものは何であれあったはずですから。
Tomさん


再反論は一切ございません。
個人的信条は批判の対象にはならないからです。
それをやれば、わたし自身の信条に違反することになります。

わたしは川口さんとTomさんの意見を無意識に混淆していたように思います。
無神論者に対する遠まわしの非難には反論すべきだと感じたから、自分の所信を言ったまでです。
>594
>個人的信条は批判の対象にはならないからです。
それをやれば、わたし自身の信条に違反することになります。

そういうことですよね。
他人が考えていることを否定するとそっくり同じ方法で自分が否定されることが分からないのは愚かなことですよね。
私はそれを既成宗教にも広げて人様の信心は攻撃すべきではないと主ます。
それがたとえカルト宗教であろうがです。
カルト宗教は多分簡単に分かることなのですが−神仏を信じる代わりに宗祖などを神格化するのがカルト宗教と思います。−信心だけは他人にはどうしようもありません。
しかし、信心故に輸血を我が子に拒否して殺してしまうのは殺人以外の何者でもありませんから間違った教とはっきり言えます。
しかしその信仰故に自分の命を落とすのは愚かと哂う前に壮絶な信心と思いたいです。
私は殉教も愚かと思うのですが、やはり壮絶な信心でしょうね。
踏み絵の時代に火あぶりの刑になり幼子を抱いて母は共に息絶えたとの歴史を読むと私は誰がそんな布教をしたのかと腹が立ちます。
そんな布教をしたらイエス=キリストと聖霊の名が泣きます。
イエスは人間のために自らの肉体を神に捧げましたがイエスは人間がそうしなくても良いようにとの教えであって信仰の証の為に人間も自らの肉を十字架に架けよとは決して教えていないはずです。

色々と神を信じるのに考え方があるでしょうが、お釈迦様でも結局はどうしたら人間は幸せに死ねるのか、つまり幸せに生きることができるのかを考えたのだと思います。
この世で正しい信仰故に善なる心を持つことが出来、そのような人は極楽で永遠に暮らせるとの教えを信じる事が出来る人は即ちこの世で既に極楽に住んでいるのと同じ事であろうと私は考えます。
しかしそんな考えは誰も信じないでしょうしそれ故にだれも幸福には導かないかも知れません。
特にロケット・サイエンティストのような賢い人達から一笑に附される事と思います。

しかし、聖書はそうした事を書いているのですがそう理解する人は多くはないだろうと思います。
ただ、この世には真実は分からないものとして存在していると私は思いますし、例えばこれからイスラエル人が行く戦争は神によって自国民は守られているとのモーゼの言葉(申命記)をイエスも正しいとしていますし60年ほど前には日本国民の多くは神風を信じたことでしょうし現在の米国民も自分たちの戦争は勝っている時は間違っていないと信じその敵は聖戦と言ってますね。
どちらが正しいのかは立場が違っただけですっかり変わってしまいますから誰にも何が正しいかは視点の持ち方で変わってくるものでしょう。

自分に分からないものは分からないとし何が真実は神仏の霊にお祈りして教えて貰うとの考えが一番いいのだと私は思います。
そうした謙虚な気持ちになる(この謙虚さが私に一番欠けているのですが。)為には人や人の言ってることを信じてはいけないのだと私は思います。
天使のような優しい愛と神をも恐れぬ悪魔が共に住んでいる所が人間の心のなかと私は思うのです。
そして多くの人、特に日本の方々は自分は善人で悪魔は住んでいないと思っているのではないでしょうか?
これは決して皮肉ではなく3/11の悲劇の後の被災者の方々の行動を見て全世界も私もそう思うのです。
日本人には仏のような優しい超人間的な存在がふさわしく、又お釈迦様の教えが日本人をその様にしたのかも知れません。

しかし米国人のように鬼(悪魔)のような心を持っていると自覚する人間(そう教わってますから)にはキリスト教は自身を規制する為に役立つと思います。
私の心の悪は「傲慢」です。
私は何をしても他人とは違って許されると考える「傲慢さ」です。
この傲慢さは自分が可愛いあまりに自分で規制できないものです。
聖書の言葉はこの傲慢さに重しを置くのに役立つのではないかと思います。
もし私が自分の傲慢さを他人が知るほどに外に出したとしたら私を嗜めるクリスチャンの言葉はどれほどの役に立つでしょう?

この事だけでも聖書の言葉の意味の重さが分かるのではないでしょうか?
聖書の理解はその言葉をどれだけ自身の上に置いて重く感じることが出来るということになるのかも知れません。
そうした読み方ができ、それに沿っての生き方が出来ればもう立派にこの世にいながらにして天国に住んでいる人と言えるでしょうね。
そんな人がいたら羨ましいです。
>Tomさん


また何か念の入った勘違いをされているので、注意しておきます。


>他人が考えていることを否定するとそっくり同じ方法で自分が否定される


そんなバーター関係は存在しません。

他人の信心に干渉しないのは、第一には迷惑でないというだけのことです。社会に対して迷惑をかけなければ何をしようが当人の勝手です。

第二には、メジャーリーグの不文律と同じで「倒した相手を踏みつけない」ということでしかありません。道徳的強者・精神的強者である無神論者の自己規律です。

第三には、宗教側がさんざんやってきたところの、醜いイデオロギー強制を嫌悪するからです。自分らがそういう醜いことをしたくないという美意識です。宗教と同類になったらたまらないです。


>私はそれを既成宗教にも広げて人様の信心は攻撃すべきではないと主ます。


そんなことはありません。必要があればいくらでもやります。そもそも矛盾だらけですから、いくらでも可能です。可能だけど不必要なことはしません。必要ならやります。


>それがたとえカルト宗教であろうがです。


カルトは迷惑団体です。合法なあらゆる手段で糾弾し排除すべきものです。
「信仰」であることは問題ではありません。


あなたはカルトを全然理解していません。無知は時には死に繋がります。

カルトについて発言するなら、専門書を一冊読み潰すくらいの勉強をしてからにすべきです。

JHWの輸血禁止を「信仰」と呼びますか? 冗談ではありません。あれは「疫病」です。
JHWの歴史を真面目に調べれば、信仰と言って尊重すべきものは何も無いことが明らかになります。

輸血禁止が始まったのは1945年かその前後です。その前は種痘を禁止していました。
この事実だけで「おや?」と思いませんか。
思ったら調べなさい。

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