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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュのブーバーの哲学、神の試練について。

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ユダヤ教徒でありながら、イスラエルとアラブ人の和解につとめた哲学者、マルティン・ブーバー。
そのテーマは「我‐汝」です。

ブーバーが言うには、日常のさりげない出来事、たとえば隣の席の人の独り言、たまたま開いた本のある言葉は、「神の合図」であるとのこと。
彼によれば、神はあらゆる手段や状況で合図を送っている。
そのとき、神との間に「我‐汝」の関係が築かれたとき、神の合図に人は築く。
そして、それを自分の課題として受け止めて行動するとき、それが、神に対する人間の側への合図である、とのこと。
これが「神との対話」である、そうな。

さて。

ユダヤでは、苦難に満ちた試練は、人生の真理をつかむ奥義、隠された教え、神が与える最高の合図であるとされます。
神が、その人間を認めているしるしである、とのこと。
そして、人間が、その試練を合図であると認めて有閑に受け入れて耐え抜く行為そのものが、「神を認めている」という返答の合図となる、そうな。

で。

はばかりながらトピ主は、「これは神が与えたもうた試練だな。よし、神からの合図、受け取った!」などと思ったことはほとんどありません。
苦難は苦難、労苦は労苦、痛みは痛み、疲弊は疲弊。
そういう不信心な人間のろくでもない話はともかく、クリスチャンやユダヤやムスリム、モルモン、あるいはもっと違う宗教の方々、ひょっとしたら無神論者と称する人々も、
ヒルティが言う「導き」「驚くべき出来事」たる、…まあ神でも最高存在でも理性神でもトロツキーでも良いですが…、何かの「合図」であると思ったことはありますか。

錯覚でも良いです。
とかくトピ主は一度しかそれがないので(洗礼を受けに行った時だけ)、皆さんにそういう応答ないし対話めいた感覚が生じた体験談があればお聞きしたいわけです。

コメント(96)

>>[052]

彼は人類の幸福こそが神様の栄光であることを知らないから神か人かの2択だと思い込んでいるだけで、イリアさんが紹介している内容すら理解出来てないw
>>[52]
人間に期待しないようにと
洗脳されてるんでしょ?
>>[57]
でた
妄想に拠り所を求める受け入り洗脳坊や

世の中に洗脳されてる奴が何を言ってるんだかw

ってか、受け入りなんて意味不明なオリジナル用語を使ってる奴こそ

受け入り坊や

と呼ばれるべきであろうw
>>[062]

神を信じてる人は全て洗脳されている

と洗脳されているから話が通じないw
>>[48]

天の教会論をあなた方から聞く事になるとは思いませんでしたが、
それはケリュグマの神を否定した方々も含むとお考えですか?
>>[56]

話題になる、神秘的な霊性とは、具体的には?

自然の驚異?
宗教文化の荘厳さ?
人間社会の営みにおける善性?
あるいは奇跡物語ですか?

批判とかではなく、具体的に知りたいんですよ。
>>[065]
神が神である以上は、誰であれヒトとして良心的たらんとする者は結果として必ず報われる構図が用意されているのは当然だと、まあ演繹的にそう信じているだけのことですのでね。

とりま、
神が永遠の命=永続的な至福を皆に用意していると天啓で告げられたことに対し、これを受けて当該至福(まさしく最高の益)を追求する場合、一体これの何が悪いのかという話。
また、
自身の信仰に邁進する際、他人が如何なる目的を自覚して信仰していたかを分析することは、必要だとも有用だとも思えません。信仰するのは、まさに自分自身なのですから。

仮に、
明確な目的がないまま信仰しているおり、適正な目的を模索するためだというのならば、

そもそも目的が無いままに任意の宗教に帰依するという形態自体、相当に奇異なものに感じるのですが。

禁教時代の隠れキリシタン、特に、浦上四番崩れで、地元でも「クロ」と忌み嫌われた挙句、幕末から明治初頭にかけて、国家に対する害悪として、各地に流刑され、江戸幕府より厳しい拷問を
(水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上)された3394人(内殉教は662人)は、現世に何の益があって
神を信じ、信仰者を名乗っていたのでしょうか。
そのとおり。

現世における益は有限的で永続せず、かつ現世では不条理が散見されるという現実がある。

だからこそ、現世に留まらない永続的な至福=永遠の命をヒトは追求する指向があるという話。
で、

そうした指向は、永続的存在である神からヒトが創られた以上、むしろ本然的で有るべき姿であり、当該指向は、永続的至福そのものである神の元へ戻る行為、すなわち失われた楽園への帰還云々と、

まさにこうした話が聖書で展開されているという認識は、それこそ全キリスト教派で共通するものとばかり思っていましたが。
現世には不条理が散見されるにせよ、では受肉したヒトとして現世で暮らすこと自体が無意味なのか?という問いについては、

それこそ神がイエズスなる自身の化身を受肉したヒトとして現世に派遣したという事実をもって、「それは違う」と断固告げられたのみならず、

むしろ現世にて精一杯ヒトとして良心的に生きる心意気に留まりさえすれば永遠の命を獲得出来るという保証=福音を示すことで、その絶対的価値を説き、

あまつさえ、
良心に呵責を(少なくとも現世での人生終焉において)抱かせるリスクが高いもの=「罪」を、わざわざリストアップして紹介する等、良心的に生き抜くためのアドバイスまでが整備されている状況下、

もはや永続的な至福=永遠の命を追求すること自体が「神への愛」に他ならないとも解せますな。

仮にそう解した場合、聖書や各種教義は、「学習」するものというよりは、むしろ演繹的に受け入れて良心的な社会生活を送るために「活用」する対象と化することは、これ想像に難くなでない。

以上のことから、
信仰に邁進するほど、聖書を「学習」しなくなるという興味深い現象が起こり得るといいますか。
>>[75]☆大海原のスイマー☆さん

仰ること、よくわかります。
迫害、殉教者を例に出したのは、現世利益に対する、ひとつの極論的なアンチテーゼのつもりだったのですが。
私も、苦難の果てにやっと天国に行けるよりも、リジューの幼き聖テレジアのような人生の果ての天国行が幸せだとは思います。
ただ、殉教は、イエスを愛し、自分を迫害する者を赦した果てにあるものですから、私のような、mixiで、ちょっと侮辱されたくらいで半ギレになって言い返すようでは、到達できない境地なのだろう、とも思います。
義徳、すなわちフェアな状態を尊重する指向は、良心的な社会生活に際して不可欠である以上、

現世にてアンフェアな形に追いやられた者を想起して「悲しい」気持ちになることは、むしろ適正な信仰形態と言い得ます。


殉教者をして「彼らは天国に行ったのだから、悲しむなんてナンセンス」と平然と言い放つようなスタイルが、概して共感よりも違和感ないし反発を生みやすいのは、こうした理由に拠るのかと。
この間、西洋の歴史家が、
「合理的選択としての殉教」という表現を記していましたな。

僕としては理解出来ないが、
現世でどんなに願っても、絶対に叶わないことがある。
それは永遠の生命。

人間、一度は死ぬのだから、
死に方を決めることで、
自分の死後に対する保証を得られる。
これは合理的選択である、と。
個人的には、合理的選択としての殉教より、
アイデンティティーの確立の方を挙げたいですな。

スターリン時代の秘密警察が、共産党の幹部らを粛清するとき、
どうやって自白を得たかと言えば、必ずしも拷問だけではない。

「良き共産党員」を自認する人間に、こう突きつけるわけですな。
「あなたは死ぬべきだと共産党が言っている。
あなたは、あなたの生涯をかけ、あなたが人生を捧げた共産党が、
間違っていると言うのか?」

「共産党が正しい」と思って死ぬのか、
「共産党は間違いで、今まで自分が費やした活動は無駄だった」と思って死ぬのか。

まあ、一種の精神的拷問には違いないですが、
人間は、自分が費やした何かが正しかったと信じたい。
つまり、それを信じた自分の理性を信頼したいわけですな。
ブーバーの意味でのピラティスです。
つまり、殉教者は、
理性がイカれたわけでもなければ、
狂信的でもない。

自分がそれを正しいと考えた自分を信頼したわけです。

「キリストは間違っているかもしれない。
しかし私はキリストに殉じる」
なんてのはいないわけで。

ブーバーはユダヤ人として迫害されながらも、ユダヤ教には醒めていた。
彼は神を信仰していたが、自分は「ユダヤの哲学者ではない」と言ったわけで。

死に方を選べるなら、
皆さんはどう死にたいですか?
もちろん、ブーバーはピラティスを否定し、エムナーを主張した側です。
神は正しいが宗教が間違っている可能性はある。

キリシタンの歴史で言えば、最後は棄教した不干斎ハビアンの人生はどうでしょう。

彼は、宗教文化では結婚を禁じられている修道女と駆け落ちし、キリスト教を棄教した。
愛を貫いて教会から離れた彼は、
殉教者たちに比べて「間違っていた」か、それとも否か。

それとも修道女を修道院に送り返し、「彼のレギーネ」を心から断ち切ることが、
神への信仰なのか、それとも否か。
>>[80]

>>彼らは天国に行ったのだから、悲しむなんてナンセンス

人間として、神の子として このような考えを持つ人はいないと思いますが、私たちカトリック、いやキリスト教徒は信仰を持つとき、 どこに生きる目的を置くかといえば、例え今苦しくとも
永遠の命に置くのではないでしょうが?

うまく表現ができませんが、例えば 貧困、病気その他で
生きていくのがたいへんだったとしても永遠の命へ 希望をもったとき、その人の霊魂は 花開くのではないでしょうか?

ここに アルジェリアでイスラム過激者によって殺されたフランス人トラピスト、 院長クリステイアン神父の遺言が 沢田先生のエッセイで 明らかにされています。
先生がようやくなさったものの、 さらに要約です。

今アルジェリアで台頭している反外国人テロ活動の波の中で、あり日 私が犠牲になることがあったら、私の命は神とアルジェリア国民に捧げられたと知ってください。
イスラム過激派とムスリム信仰はとは別であり、アルジェリアのムスリム信者から私は色々を学ぶことがでしたし、彼らの信仰と私たちの福音の間に共通点がある…..とあり私たち共通のお父様である神様のみ旨であれば、お互いに天国で会いましょう。

私たちは神のみ旨都いうことを教えられました。
例えどんなことがあっても 「フィアット」なれかしだと思います。
>>[087]

いや、全く異論ありませんが。

現世で如何なる目に遭おうが、ヒトとしての良心を貫く指向に留まれば永遠の命=永続的至福に繋がる。ゆえに、現世で如何なる災厄が降り掛かろうが、腐らずに前向きに生きる姿勢=「御旨のままに」=fiatの精神にて信仰に邁進するという話ですから。
「宗教が間違っている」かは、当人の入信目的が何であるか判明しないことには判定のしようがない。

たとえば、
音楽評論家となる目的で音楽に係わる者と、演奏家になる目的で音楽に係わる者がいた場合、ある実践が適正か否かは、当然に両者では異なるという話。

加えると、
実態として音楽評論家を目指している者が、演奏家を目指している者に対して「その練習方法は間違っている」とは言ったところで、単に滑稽なだけ。
>>[89]

では、公同の教会は、人が自由意思により、入信目的を明確ににして参加するものと?
>>[090]

別に。明確な目的なくとも、入信するのは、そりゃまあ、当人の自由ですな。
>>[91]

原罪を有していても、人は自由たり得ますか?
いずれにせよ、
目的もないまま入信した者の所業を、当該宗教の立場から正しい・間違いと判定することなど出来ますまい。何となく楽器に触れたくなっただけの者に対して、その手つきが正しい・正しくないと論ずる意味などない訳ですから。

ただ、
如何なる宗教・教派も目的を想定して成り立っていることには相違ない。

「その宗教が違っている可能性」を吟味するにあたって、

任意の宗教・教派、或いは信徒の目的そのものの正誤を判定するというのであれば、それは結局、判定者のお眼鏡に叶うか否かの話でしかなく、厳密には客観的な説得力を持ち得ず、それはもはや論議というよりは判定者の主観の精査にしかならない。

そうではなく、
任意の宗教・教派ないし信徒の所業につき、それが当人の目的に整合する有用性が有るか無いかの判定であるならば、客観的な答えを引き出せる論議として成り立つ余地はあるものの、

いずれにせよ、
対象の目的を精査・抽出して論を進めないことには、あまり意味を成さないという話。
>>[092]
「ヒトの持つ自由とは、何人たりとも、それを阻害することは出来ても、厳密には奪い得ない。」と司祭からは教えられた訳です。

まあ第三者からすれば詭弁もよいところなのでしょうが、ぶっちゃけ他人がどう思おうが、当人が自由だと思えば、当人は自由たり得るという話。


片や、
神の創造物である以上、ある意味、ヒトには自由などないとも言い得る。

いずれにせよ、
自身の信仰に邁進するにあたり、自由だと思うのが有効なのか、はたまた奴隷だと思うのが有効なのか、それで各自が好きにすればよいと感じますね。
>>[94]

〉厳密には奪い得ない。

本当にそうだと良いですなあ(シミジミ
>>[095]
そうですな。
理屈はそうでも、ではそう実感出来るかは別の話。正直、司祭から説明された時も、「何てまあスゲー負け惜しみの台詞だ、そりゃ」と内心思いましたね。

まあ、
心涼しきは無敵なり、みたいな境地を説いているのでしょうが。

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