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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの『ヘブライ人への手紙』12章2節の翻訳について

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 翻訳上の問題について、学術的に、また信仰的に話し合いたいと思います。

 ヘブライ人への手紙 12章2節

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(新共同訳聖書)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(新改訳聖書)

「Let us fix our eyes on Jesus, the author and perfecter of our faith, who for the joy set before him endured the cross, scorning its shame, and sat down at the right hand of the throne of God.」(NIV)

 新共同訳聖書で「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、」のところ、新改訳聖書では「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、」となっており、解釈が大きく異なります。
 NIVは新改訳聖書の解釈に近いようです。
 ギリシア語原文に詳しい方も詳しくない方も、御自由に御議論ください。

コメント(25)

[2] ἀφορῶντες εἰς τὸν τῆς πίστεως ἀρχηγὸν καὶ τελειωτὴν Ἰησοῦν, ὃς ἀντὶ τῆς προκειμένης αὐτῷ χαρᾶς ὑπέμεινεν σταυρὸν αἰσχύνης καταφρονήσας, “ἐν δεξιᾷ” τε τοῦ θρόνου τοῦ θεοῦ “κεκάθικεν.”

喜びは、χαρά.
つまり、ἀντὶ(〜に代わって)が、イエスの喜びに掛かるか否か、という話なのですが…

原文に“忠実”を言うなら、岩波訳などのように、「喜びの故に」が正しいように思えますが
(口語訳でも喜びの故に」、
まあ、リビングバイブルでも「十字架の後の喜びを知って」ですが)、
フランシスコ会訳が「ご自分の前に置かれた喜びを捨てて」とあるので、
単にカトリックの神学による解釈が入っているだけではないですかね?

捨てて、という意味だとちょっと苦しい気がします。
つまり、総じて言えば、プロテスタントは、「十字架の恥」が一見喜びとは程遠いが、贖罪を果たせるという至上の喜びが恥に代わって、というニュアンス。

カトリックは、「十字架の恥」が、イエスが受ける筈だった地上での栄光という喜びを、贖罪の為に、代わりに捨てて、
ὑπομένω(耐え忍ぶ)わけですな。

どっちでも大差も無さそうですが、予定を果たそうとしているのを強調しているが新教的で、
自分の意志でそうしたと言うところを強調しているのが旧教的、ということでしょうか。

…と、なると、やはりプロテスタント的には、「喜びの故に」ではないかと思いますが…
>>[2]

 教派的な解釈の違いがあるわけですね。

 わたしたちがキリストにならう者として生きていくとき、「喜びを捨てて苦しみにつく」べきなのか、それとも「苦しみの向こうに喜びを見る」べきなのか、(その両方だ、とは言わずに)、イリアさんはどのようにお考えですか?
>>[5]

 翻訳としてはどちらの方がお好きですか?
>>[6]

苦しみの向こうに喜びを見たいですな。
僕は「自分の前におかれている喜びのゆえに」という読みのほうがずっと心にしっくり来ます。
ですがもう一つ問題は、「自分の前に」というその意味はずっと先のことか、それともすぐ前のことか、という問題です。
さんざん苦労したそのずっと先にようやく待っている喜びか。
今すでに手にしうる喜びか。

もちろん苦労を乗り越えた先の喜びでもあるだろうし、
神に鍛えていただけることの今現在のあふれる喜びでもあると思います。
この「ヘブル人への手紙」の初めのほうに、
「神は・・・御子によって諸々の世界を造られた」(第1ー2)
とありますが、これはどういう意味でしょうか。
「御子は・・・神の本質の真の姿であって・・・」
(第1ー3より)


旧約聖書においてさんざん見られている神については人によってさまざまな思いを持たれるだろうが、イエスにおいて現れたそのありよう、姿こそが神の本質の真の姿だ、ということでしょうか。
https://www.blueletterbible.org/kjv/heb/12/1/t_conc_1145002
12:2 ἀφορῶντες εἰς τὸν τῆς πίστεως ἀρχηγὸν καὶ τελειωτὴν Ἰησοῦν ὃς ἀντὶ τῆς προκειμένης αὐτῷ χαρᾶς ὑπέμεινεν σταυρὸν αἰσχύνης καταφρονήσας ἐν δεξιᾷ τε τοῦ θρόνου τοῦ θεοῦ εκάθισεν
ネストレ&アランド
http://www.nestle-aland.com/en/read-na28-online/text/bibeltext/lesen/stelle/68/120001/129999/
>>[17]

ヘブライ書のインターリニア(STRONG'Sナンバー付)なら

http://biblehub.com/interlinear/hebrews/12-2.htm

こっちの方が見やすいんじゃないですか。

ヘブル人への手紙は、神が御子に対して、
「あなたこそは私の子。今日、私はあなたを生んだ」
とおっしゃったと書くが、
アダムにしろ、その他いっさいの被造物にしろ、神が生んだ神の子だとは言えないでしょうか。
いや、それは広げ過ぎなんでしょうか。
さまざまな解釈がありえますね。

ヘブライ人への手紙 口語訳1955
1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。

https://biblehub.com/text/hebrews/1-1.htm
>>[19]

ヘブライ人への手紙 口語訳1955
5:5 同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、/「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」/と言われたかたから、お受けになったのである。
***
やはり、先在のキリストではないですね。
いつからイエスはキリストかというキリスト論は遡っていきましたからこうですね。
ヨハネ福音書はこの文書よりあとなので先在のキリストのようです。
>>[21]
突然無視ですね。
新約が示す、父子の関係は意外にも父からの子の流出のようにも取れます。ヘブライ人への手紙は正典です。
アタナシウスらは、それ以後にギリシアの哲学を歪曲して教理を考案した可能性があります。
>>[21]

5:1大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。

大祭司職は人間から選ばれること。

5:5同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、
「あなたこそは、わたしの子。
きょう、わたしはあなたを生んだ」
と言われたかたから、お受けになったのである。

とメシアに任職されたるにあたって「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と神はメシアに言われ、大祭司の栄誉も得られたことを言っているので、先在云々を述べている箇所ではないですね。
>>[23]
ヘブライ人への手紙は大祭司キリスト論の小論で、大祭司はキリストだったような気もするが?

確かに原文は三位一体を意味するわけない

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