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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュの聖書は矛盾だらけ

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コメント(205)

>>[164]

だから、それは「私達はそれをペトロの骨と言っている」と主張しているだけで、客観的な根拠ないじゃん。

それを言うなら、かつてイスラエルのエルサレムで、「ヨセフの子ヨシュア(イエス)、マリア、ミリアム」らの墓と骨壷が見つかっている。
ユダヤ人たちが「これはナザレのイエス一家の墓である」と主張すれば、あなたは認めるのか?
ちなみに、マリアとミリアムにはDNA鑑定の結果血縁関係はなく、嫁姑の関係だったと思われる。
だから、「伝えられている」と言えば何でも良し、なんて、意味ない。
間違った情報が伝えられているかもしれないし、意図的に改竄した可能性もある。

そもそも、コンスタンティヌス帝の統治下で、カイサリアの司教エウセビオスは、過去の歴史を改竄しようとはかったし、教会は考古学の研究を禁じたこともある。
398年のカルタゴ会議で、カトリック教会は、司教が異邦人の書物を読むことを禁じているし、大法王グレゴリウス一世は、文法の習得にすら、
「私は、正しい構文や格変化を軽蔑する。何故なら、聖なる神の御言葉がドナトゥス(注…文法家)の規則にしばられるなどもっての他と思うからだ」と批判して、
パラティヌスの丘に建っていたアポロン神殿の蔵書を焼き払わせた。

こういう反知性主義で、まともに伝承が継承されていると考える方がおかしい。
何もかもデタラメ扱いされないだけマシ。
また、ローマ法では、既決囚の相続人に没収した財産を分与することになっていたが、
カトリック教会の教会法と宗教裁判法は分与を認めなかった。
法王インノケンティウス三世の言い分は、「親が罪を犯したのだから、子供も天罰を受けるのだ」というもので、子供が自発的に親を告発しない限り、遺産は一切相続出来なかった。

カトリックの異端審問官は死者も告発したので、被告人が死後七十年経っている場合もあったし、墓から掘り出した遺骨を火炙りにして、相続人の全財産を奪うことさえあった。
(本来は、没収した財産は聖堂の建設費用にあてる予定だったのだが、実際は審問官が独り占めしたそうな)

異端審問官とその助手には武器の携帯が許されていたが、1245年、法王は審問官に、助手の暴力行為を斜面する権限を与えた。
「右の頬を打たれたなら、左の頬を向けよ」の精神がどこに生きてたのか。

この審問官として選ばれたのは、アッシジの聖フランチェスコのフランシスコ会や、トマス・アクィナスのドミニコ会から選ばれた。
アッシジの聖フランチェスコの清貧の思想を受け継いだフラティチェリ派は、フランシスコ会どころか、法王から「誤った思想を抱いた有害な者たち」扱いされ、1315年に破門された。
法王マルティヌス五世は、フラティチェリ派が住んでいたマグナラタの村を襲撃して、住民を皆殺しにしろと命じてます。

あなたはこれらが正しいと言うのですね?
>>[168]

じゃあ、カトリックは正しくないじゃん。
正しいと主張するあなたは間違い。
では、コピペ太郎殿は、実践のフィールドで異端者を処刑しようが何しようが「正しいと言っているから正しいのだ」か、
あるいはカトリックは間違っている、のいずれかを認めたということで。

メデタシメデタシですな。
だから、トートロジーだってばw
いつまで同じ事を言っているのか。

「カトリックは間違っているという真理は不変であるが故にカトリックは間違っている」とも言える。
ナンセンスの極みw
じゃあ、法王が掟に反するのなら、「法王には従えません」と言わないとw
そして、歴史上それが度々起こった時にカトリック信徒はそう言わなかったのだから、カトリック総体が全て間違っているわけですなw
カトリックの倫理神学によると、アリストテレスの徳目たる知恵、正義、中庸、剛毅に対して、
神の恵みによって、神学的徳目すなわち、信仰、希望、愛が与えられるとした。
四世紀のアンブロシウスは、義は自分が負っている全てを与えることにあり、義を果たした後に初めて愛を実践することが出来るとしました。

果てさて、歴代のローマ法王の誰が全てを与えたのやら。
アウグスティヌスはロマ書5:5の「神の愛」を目的格属格として読み、「神に対する愛」と解釈することで、「義とすること」が求められるとしたわけですな。
「義がそそがれる結果」として、義認され、功績を積む行為が可能になると。
それでなお欠けているものは神が赦される。

すなわち、

「まさに我々の義は真正なる全である目標にむけられているがゆえに真正のものであるが、現世においていはむしろ罪の赦しからなっており、徳の完成からなるのではない」(「神の国」十九巻27章)

で、カトリックの誇る天使博士トマス・アクィナスはそれを踏襲して、義とは秘跡によって伝達される恩寵の実であるとするわけです。

ところが、宗教改革直前には、義する恩寵は報酬として獲得しなければならないもの、それが不十分な功績であっても、それによって獲得しなければならないとしたわけですな。
いわゆるオッカム主義というヤツです。

つーことは、功績を必要とする行為義認であるということですな。
聖書は勿論聖伝にも反する背反です。
トマスに還って功績論を否定しないとw
つまり、カトリック的にもプロテスタントは正しいわけですなw
反論がないようなので、「真理は不変故にプロテスタントは正しい。カトリックの聖人、聖アウグスティヌスも聖トマスも認めている」ということで。

めでたし目出度し。
>>[179]

そもそもプロテスタントが正しいとする主張の反証を福音派に求めるのが無意味w
>>[182]

忘れてましたw
そういや、彼は福音派でしたな。
面当てされたカトリックの方は御苦労さん、という所でしょうかw
>>[186]

カトリックは正しいとかマリア様大好きとか言ってるのが本当ならカトリックコミュに寄生してないでサッサとカトリックに帰正すりゃいいのにねw

あれではただただ奇声をあげて荒らしてるだけなんで、福音派がカトリックにケンカを売ってることにしかならないw
>>[188]

まあ、確かに間接的に馬鹿にしてますよねw

トートロジーしか言わなくなったし、カトリックの方の反応も特にないし、そろそろお開きにしましょうか。

ネタはまだ山ほどあるのですが、「反証」が循環論だけだと全然面白くないですしw

どうも話が聖書の矛盾からずれているような気がします。

こちらでは休日向けの自由主義神学の学びサイトをあげておきます。
NHK「100分で名著」
加藤隆先生による旧約 一回23分 
ノートにメモしながら見ると良いと思います。
まあ、千葉大学の講義のレベルと思います。かなり高い?
1回「一神教の誕生」

https://www.youtube.com/watch?v=958lgu6Yz5Q

旧約聖書は古代イスラエル民族と神との関係史である。


>>[200]

まあ、そんな罪人だからこそ、キリストによる贖いが、という話ですな。
キリストの背負った十字架そのものは個人は背負いきれないが、試練として、個々に与えられた十字架ぐらいは背負いましょう、という感じなのがキリスト教。

ナザレのイエスが旧約聖書から引用した隣人愛の規定は、元の文脈だとイスラエル限定。
それを全人類に広げちゃったものだから、ユダヤのラビなんか「『全人類』なんていう抽象概念を愛せるのか」とか批判してましたな。
まあ、抽象的だというなら神もそうで、ルターも逆説的に「我々は(神が欲しているような愛し方をしていないという意味で)皆無神論者だ」とか言ってます。

そういう価値の顛倒がキリスト教の教理で、だからこそルサンチマンの宗教とも言われるのですが、
最近の、特に日本人は部外者も当事者も、割りと素直に栄光の神学まっしぐらで捉えていますな。
新約聖書には信徒の幸福を保障する文言なんか無いのに。
>>[197]

これ、面白い事実がありましてね。
自由意志というのは、「何かをやる」とされる意志の源泉だと普通の人間は思っているのですが、実はそうではない。

科学的実験でも明らかなんですが、自発的行動というのは、本人の意識に上る前から、脳内の活動性が記録されます。
で、意識に上った色々な事柄を、選択して、「やらない事」を決めていく、という形で自由意志が表象として現れる。

つまり、やるという選択ではなくて、やらないという選択。
人間の自我意識というのは拒否権行使の為の装置なんですな。
前頭葉の下面、眼窩脳の表面に炎症が起こると、抑制が解除されてしまったような精神症状が現れる。

自己意識、つまり聖書で言うところの固有のプシュケーが、全体的な有機性、すなわち聖書で言うところの、キリストにつながったゾーエーを妨げている状態が、
まあ再臨やら何やらで解除されて、ゾーエー一筋になったら、本来なら、もう人間はずっと神を賛美しまくりたい状態なのかもしれません。

大体、イエスの祈りを唱えるなどの瞑想体験は、本人にとって退屈過ぎて仕方ない状態であってもおかしくないのに(まあそういう事を言う人もいるが)、
脳は喜んで(?)リラックスしている形でのα波だのフロントθ波とか出しまくり、ストレスに対抗する部位が厚くなり痛み(社会的孤独に関する心的な痛みも含む)に鈍くなるのだから、
まあ、さもありなんという感じじゃないですか?

カトリックになると、天国での報酬は至福直観だと断言してますな。
ソクラテス(やプラトン)、釈迦などの「枢軸の時代」に、東西で同じように瞑想に対するメソッドが構築されて、「意識の遊ばせ方」が分析されたのは割りと面白い話です。
それまでやりたいことをやっていたのかもしれません。

プラトンの影響を受けているキリスト教のある修道活動者は、「沈黙することを学ぶ為に」ずっと口に石を加えて、心でずっと祈っていたとか。

まあ、そこまで極端な例はともかくとしても、欲望を拡大して現実化する為の機能としてのみ自我意識を使う場合以外にも、それこそユングの言う通り文化的な、たとえば神の元型みたいなゾーエーの源泉があるのかもしれず、それが意識に上っても欲望を優先して捨てているのが普通の人間かもしれません。

最近の日本人は、学級崩壊でも職場でも、言語をまともに使わず下等な動物のように振る舞う傾向がありますが、まさに「賢い」人たちである日本人の自我意識は強すぎるのかもしれませんな。
矛盾のない、すっきり整理整頓されたもの、論理的なものだけを信じたいというのは、むしろ極めて人間的な考えですね。
矛盾だらけの書を前にして、それをどう受け取るかと深く考察していく所に心の修練も実は知らず知らずに成し遂げられてゆくと思います。

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