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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【花燃ゆ】京都府

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【花燃ゆ】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(11)

池田屋事件吉田稔麿終焉地(京都市中京区)。

いったん池田屋に入った吉田稔麿は、長州藩邸に戻るが、池田屋が新選組に襲撃されたという知らせを聞き、池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で会津藩兵に遭遇し討ち死にしたという。
別の説では、池田屋が襲撃を受けたことを長州藩邸に知らせに走ったが、門が開けられなかったため門前で自刃したともいわれる。
来島又兵衛戦死の地(清水谷家の椋)(京都市上京区)。

禁門の変で来島又兵衛は、蛤御門に猛攻をかけた。当時の蛤御門は、現在より100メートルほど内側にあったが、又兵衛は御所の目前まで迫ったところを、清水谷家の前で銃弾に倒れた。
清水谷家の椋が今も残っている。
十七烈士の墓(大山崎町)。

真木和泉ら17名は蛤御門の変に敗れると、長州藩兵を逃がすため天王山に立て籠もり、しんがりを務めた。
新選組は、陣取った場所が主戦場の京都御所から離れていたため、活躍することができなかったので、天王山で手柄を立てようと意気揚々だったが、真木和泉らはすでに自害していた。
幕府は17名の墓を宝積寺に設置したが、明治元年天王山山頂に移された。なお、17名の中に長州藩士はいない。
蛤御門(新在家御門)(京都市上京区)。

1788年に発生した天明の大火で御所が炎上したとき、滅多に開くことのなかった新在家御門が開いたため、蛤が火にあぶられ開くことになぞらえ「蛤御門」と呼ばれるようになった。
1863年に起きた八月十八日の政変で、長州藩は京を追放されたが、翌年帝に赦免を嘆願するという名目で兵を率いて上洛した。だが孝明天皇の長州排除の意志は堅く、一橋・会津・桑名・薩摩らが御所を固めて進入を阻止しようとしたため、長州と交戦になった(蛤御門の変/禁門の変)。来島又兵衛は銃弾を受け自刃、久坂玄瑞と寺島忠三郎は嘆願が容れられず鷹司邸で自刃、入江九一は鷹司邸脱出時に越前藩士に槍で突かれ戦死した。真木和泉ら17名は、天王山で自決した。
長州勢は落ち延びる際に藩邸に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士が隠れていそうな中立売御門付近の家屋を攻撃し、この二個所から上がった炎が大火に発展し京都市街は焼け野原となった(どんどん焼け)。蛤御門には、禁門の変のときの弾痕が今も残っている。
なお現在の蛤御門は明治になって移設されたもので、それ以前は現在よりも30メートルほど内側に南を向いて建てられていた。
七卿落ちの碑(妙法院)(京都市東山区)。

妙法院は、最澄を開基として比叡山に山内寺院として創建したのが始まりとも、後白河上皇が法住寺内の地を昌雲に与えて創建したのが始まりとも言われる。三千院・青蓮院とともに、叡山三門跡のひとつとされる。

1863年の八月十八日の政変で御所から排除された長州藩と、それを支持していた七人の公卿は、妙法院の宸殿に集まり、今後について協議した。その結果、いったん長州に落ち延びることを決定し、翌19日未明、長州の久坂玄瑞に率いられ、京都から退去した。


写真左:七卿落ちの碑。
写真右:妙法院宸殿。
勤王家殉難之地・小畠川(明智川)(京都市西京区)

禁門の変の後、逃亡していた長州藩の楳本僊之助と薩摩藩の相良頼元・新八郎兄弟は、敗残兵掃討のため待ち受けていた小浜藩兵と、この近くの樫原札の辻で遭遇し、斬殺された。
石標のすぐ西には、長州藩御用達の油商小泉仁左衛門の邸宅があり、尊王攘夷の私塾「立命館」を開くなど尊王攘夷派と関わりがあったため、彼の邸宅に逃れようとした可能性がある。

石標は、小畠川の上にある。明智光秀が造った用水路だと伝えられ、樫原では「明智川」と呼ばれてきた。
伝承によると、本能寺の変の直後に光秀がこの辺りで落馬した。それを見た村人が、腰掛けとおにぎりを差し出すと、光秀は「向こうに見える火事がどこで起きているか当てたら褒美を与える」と言うので、村人が「本能寺の辺り」と即答し、褒美として用水路を造ってほしいと願い出た。光秀が要望に答えてただちに造らせたのが、明智川だという。
光秀は亀岡城を出て本能寺の変を起こしたが、その後は坂本城と安土城に入っていて、樫原を通る理由がない。また樫原から、本能寺の炎が見えるとは考えにくい。立て札に「光秀は三日後に秀吉に敗れている」とあるのは誤りで、実際は11日後だが、いずれにせよ用水路を造る時間はなかった。実際はそれ以前の丹波平定の際、樫原を補給基地とし、老の坂から桂までの道を整備したときに、用水路を造ったと考えられる。
翠紅館(京都市東山区)

正法寺の塔頭があり、眺望が良く、会合などに利用されていたのを鎌倉時代に公家の鷲尾家が買い取り、その景観の素晴らしさから「翠」と「紅」の素晴らしい館という意味で名付けたといわれる。その後、鷲尾家から西本願寺の東山別院に寄進された。
1863年1月には土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多、久坂玄瑞らが集まり、6月にも長州藩の桂小五郎、久留米藩の真木保臣らが集まった。これを翠紅館会議という。
角屋(京都市下京区)

島原の揚屋で、明治にお茶屋に変わり1985年まで営業していた。久坂玄瑞はここでよく密議を重ね、新選組も壬生に近いためたびたび訪れた。新選組がつけた刃傷が残っている。
小川亭之跡(京都市東山区)

小川亭は、肥後藩御用達「魚卯」の未亡人ていと姑りせが開いた旅館である。景色がいいため、肥後藩士ほか住江甚兵衛、河上彦斎、轟武兵衛、宮部鼎蔵、山田信道、高木源右衛門、藤村紫朗、桂小五郎、平野国臣らが出入りし、ていは彼らの面倒をよく見て勤王ばあさんとして知られた。
徳川時代対馬宗氏屋敷跡・桂小五郎寓居跡(京都市中京区)

対馬藩主宗氏は長州藩主毛利氏の縁戚だったため、両者は協力関係にあった。対馬藩の大島友之允(大島渚の曾祖父)は長州藩の桂小五郎と親しかったので、桂は対馬屋敷を居所の一つとしていた。池田屋事件の際、桂は屋根をつたって脱出し、対馬屋敷に逃れている。
間部詮勝寓居跡(京都市中京区)

1804年、間部詮熙の五男として江戸の鯖江藩邸で生まれた。幼名は鉞之進。
1858年老中となり、大老井伊直弼の下で財務と外交を担った。同年上洛し、日米修好通商条約調印の勅許を得るとともに、一橋派や尊皇攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走する。これに対し吉田松陰は、間部詮勝の暗殺を企てた。「井伊の赤鬼」に対し「間部の青鬼」と呼ばれた。
だが成果を挙げた詮勝は、幕政の主導権を握ろうとして井伊直弼と対立し、1859年罷免された。

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