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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【太平記】奈良県

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【太平記】にまつわる奈良県の史跡写真館です。

コメント(11)

賀名生皇居跡(五條市)。

1336年、後醍醐天皇は吉野へ逃れる途中、賀名生の堀孫太郎信増邸に迎えられた。1348年には、後村上天皇が吉野より難を逃れ入邸している。長慶天皇、後亀山天皇もここに滞在したという。
堀邸は全国でも最古に属する民家で、重要文化財に指定されている。「賀名生皇居」の扁額は、天誅組の吉村寅太郎の筆によるものである。
面塚・観世能楽発祥の地(川西町)

観阿弥三郎清次が、大和の山田猿楽から結崎座に加わり、一般大衆にもわかりやすい芸能に変化させ、座名も結崎座から観世座に変えたのが観世の発祥とされる。
面塚は、一個の面と一束の葱がこの地に降ってきたのを、村人が面を埋葬したのを示している。葱はその地に植えたところ、結崎ネブカに育ったという。
大塔宮御陣地(金峯山寺)(吉野町)

金峯山寺は7世紀後半、役小角が創建したと伝えられる。
護良親王が1333年吉野で挙兵したとき、ここに本陣を置いた。二階堂道蘊の軍勢が迫ると、親王はここで最期の酒宴をしたと伝えられる。
村上義光忠死所(金峯山寺)(吉野町)

7本の矢を受けた護良親王が自害しようとしたとき、重傷を負っていた村上義光が親王の甲冑を身に付け、身代わりとなって自害したという。
南朝皇居(吉水神社)(吉野町)

1336年、後醍醐天皇が京を脱出し吉野へ逃れたとき、吉水院を行宮とされた。現存する唯一の南朝行宮で、「後醍醐天皇玉座」がある。
吉野朝宮跡(南朝妙法殿)(皇居跡公園)(吉野町)

後醍醐天皇が吉水院に入った数日後に、近くの金峯山寺の塔頭実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めた。この寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となった。
1958年、南朝の天皇と忠臣、太平洋戦争の戦没者の霊を祀る南朝妙法殿が建てられた。付近は皇居跡公園となっている。
御幸の芝(吉野町)

後醍醐天皇がこの地に来たとき、空模様が怪しくなってきたので「ここはなほ丹生の社にほど近し祈らば晴れよ五月雨の空」と詠むと、急に空が晴れたという。
後醍醐天皇塔尾陵・後醍醐天皇腰掛石(如意輪寺)(吉野町)

如意輪寺は延喜年間、日蔵上人により開かれたと伝わる。
後醍醐天皇は1339年、右の御手に剣を、左の御手に経巻を握り、足利尊氏のいる京都の方を睨みつけ「玉骨はたとひ南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」と言って崩御した。歴代天皇陵は全て南向きに造られているが、後醍醐天皇陵だけは京都のある北を向いている。
正行公埋髻塚・小楠公髻塚碑(如意輪寺)(吉野町)

楠木正行は四条畷の合戦の前に、一族郎党とともに吉野山を訪れ、後村上天皇に拝謁した後、後醍醐天皇陵の前で誓いを立て、本堂の扉に辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を鏃で刻んだ。それから髻を切り、奉納したのを埋めた。
小楠公髻塚碑は、江戸末期に紀州藩士津田正臣が建立した。
至情塚(如意輪寺)(吉野町)

如意輪寺で後村上天皇に仕えていた弁内侍は評判の美人で、高師直が彼女を我が物にしようと拉致したのを、楠木正行が助け吉野に送り返した。二人が魅かれ合っていることを知った天皇は結婚を許したが、正行は死を覚悟しており「とても世に永らふべきもあらぬ身の仮のちぎりをいかで結ばん」と詠んで断った。
正行の戦死を知った弁内侍は「大君に仕えまつるも今日よりは心にそむる墨染めの袖」と詠み、髪を下して埋納したのが至情塚だという。
黒木御所跡(春日神社)(西吉野町)

後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇の南朝三帝がここを御所とした。

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