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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【徳川家康】京都府

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【徳川家康】にまつわる京都府の史跡写真館です。
徳川家康関係の史跡は、【徳川家康】トピックにまとめて下さい。

コメント(5)

草内の渡し(京田辺市)

本能寺の変の知らせを聞いた徳川家康は、草内の渡しを渡って三河に帰ったと考えられている。一説には、穴山梅雪も1日遅れでここを渡ろうとし、襲われたという。
1964年に山城大橋ができたため、渡しは廃止された。
穴山梅雪翁墓(京田辺市)

穴山梅雪が家康と別行動をとった理由は、痔のせいで馬に乗れなかったとも、家康に疑念を抱いたとも、家康を逃すためわざと目立つ行動をとるためとも言われている。地元に残る伝承では、普賢寺谷で梅雪の従者が道案内人を殺し、太刀の銀製の鍔を奪ったことで地元民が蜂起し、木津川を渡る前に梅雪を殺したという。
木津川の氾濫により、現在地に移された。
飯岡の渡し(京田辺市)

穴山梅雪が木津川を渡ろうとした地は、墓に近い飯岡の渡しが有力視されている。
家康公伊賀越えの道(観音寺(普賢寺))(田辺町)

堺見物を終え上洛しようとしていた家康一行は、飯盛山付近で茶屋四郎次郎から本能寺の変を聞かされる。一行はそこから津田を通り、尊延寺の山中を抜けて朱智神社に宿泊し、普賢寺を通って三河を目指したと考えられている。
茶屋四郎次郎・同新四郎屋敷跡(瑞蓮寺)(京都市中京区)

小笠原長時の家臣中島宗延の子の明延が武士を廃業し、大永年間に京に上り呉服商を始めたのが起源とされる。「茶屋」の屋号は、将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下るに設け、160年にわたって本拠とした。
明延の子の初代清延は、徳川家康に重用された。本能寺の変の際、清延は家康とともに堺を訪問したが、家康一行はその後上洛し茶屋邸に宿泊することになっていたので、清延は先に京に戻った。ところが茶屋邸は本能寺の目の前だったので、早馬で家康のもとに行き、飯盛山の近くで合流し、本能寺の変を知らせた。その後は伊賀越えに同行し、豊富な資金力で家康を助けた。
この功績により徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになり、角倉家・後藤家とともに「京の三長者」と言われた。

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