ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【武蔵】京都府

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
【武蔵】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(5)

蓮華王院本堂(三十三間堂)(京都市東山区)

元は後白河上皇の離宮法住寺殿があったところで、平清盛に命じて建造させた。「三十三間堂」の名称は、本堂の内陣の柱間が33あることによる。
江戸時代には各藩の弓術家により、本堂の軒下で約120mの距離を射る「通し矢」の舞台となった。

吉岡英治の小説「宮本武蔵」では、武蔵と吉岡伝七郎の決闘の舞台を三十三間堂に設定している。真剣を持って待つ伝七郎に対し、武蔵は長い木刀を持って遅参した。伝七郎は武蔵の木刀を侮ったが、武蔵は三十三間堂の廊下から伝七郎を見下ろす位置に立ち、有利な体勢にいた。大河ドラマでは、有利な風上をとるため両者が同時に風上に向かって走り出す。三十三間堂での決闘はフィクションだが、吉岡英治が舞台をこの地に設定したのは、長い廊下がビジュアル的に効果的だからである。
「二天記」には、両者の決闘は洛外で行われ、伝七郎の五尺の木刀を武蔵が奪い撃ち倒したと記されている。
一乗寺下り松(京都市左京区)

吉岡清十郎とその弟伝七郎を続けて倒された吉岡道場は、17歳の吉岡亦七郎を当主に立て、一門の面目に賭けて武蔵に一乗寺下り松での決闘を挑んだ。
吉岡一門は小高い場所に陣取り、武蔵がどの方向から来ても対応できる体勢をとったが、武蔵はいつも通り遅刻するものと油断していた。だが武蔵は刻限より前に来て、裏の藪に隠れていた。彼は73人の吉岡一門を相手にせず、いきなり背後から現れ、最後方にいた当主の亦七郎を一刀のもとに切り捨てると、藪の中に逃げた。藪の中では敵は刀を振ることができないからである。地元に残る伝承では、武蔵は田圃の畦などに刀を何本も隠し、刀が切れなくなったときの用意をしていたという。武蔵は剣術に優れていただけでなく、人一倍狡猾で、なおかつ逃げ足も速かったのだ。

「一乗寺下り松」の名は、かつて一乗寺がこの上にあったことに由来している。街道の目印となる松があったが、当時の松は枯れ、現在のものは5代目になる。平敦盛の北の方が、一の谷の戦いで戦死した彼の遺児を松の下に捨てたところ、通りがかった法然が拾って立派な僧に育てたという逸話がある。
1336年には、足利尊氏に京都を制圧され近江に逃れた後醍醐天皇軍の楠木正成が、この地に布陣して尊氏を破り、京都を奪回している。
一乗寺下り松古木(八大神社)(京都市左京区)

宮本武蔵の時代から明治まで生きた初代の一乗寺下り松の一部が、八大神社に保管されている。
宮本武蔵・吉岡一門決闘ノ地(京都市上京区)

柏崎具元の「古老茶話」には、宮本武蔵は吉岡一門と北野七本松で決闘したと記されている。また黒川道祐の「雍州府志」には、北野七本松は下り松と呼ぶという記述がある。
町で剣術を教えていた吉岡一門が、一乗寺で決闘するのは不自然である。またこの地は一条通に当たり、吉岡道場が下り松近くにあったとする伝承から、この付近を決闘の地とする異説がある。
諸侯屋敷・一条下り松遺跡(京都市上京区)

吉岡の屋敷と道場がこの辺りにあり、その裏庭にあった松が「下り松」と呼ばれた。「一条下り松の決闘」の舞台は一乗寺ではなく、この地だとする説がある。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」 更新情報

NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。