ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【太平記】京都府

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
【太平記】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(17)

足利尊氏産湯の井戸(安国寺)(綾部市)。

安国寺は993年頃に開創され、もとは光福寺と称していた。1252年勧修寺重房が上杉荘を賜り、「上杉」の苗字を名乗ると、光福寺は上杉氏の氏寺となる。
上杉頼重の娘清子が足利貞氏に嫁ぐと、1305年光福寺門前にあった上杉別邸で尊氏を出産。これにより光福寺は、上杉氏・足利氏の尊崇を受けるようになる。1338年、尊氏は元弘の乱以降に戦死した者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺を建立するにあたり、光福寺を丹波の安国寺とした。
松の下露跡(井手町)。

笠置山を脱出した後醍醐天皇ら一行は、3日間山中をさまよい、供の者は万里小路藤房・季房兄弟だけになっていた。
後醍醐天皇が「さしてゆく笠置の山をいでしより 天が下には隠れ家もなし」と詠むと、藤房は「いかにせんたのむかげとて立寄れば なお袖濡らす松の下露」と返した。
名和長年公殉節の地(名和児童公園)(京都市上京区)。

名和長年は1336年、九州から再度上洛してきた足利尊氏の軍勢を京都で迎え撃ち、敗れて戦死した。1886年、その地に顕彰碑がたてられた。
新田義貞首塚(滝口寺)(京都市右京区)。

往生院は平安時代に創建され、かつては数多くの坊が建ち並んでいたが、その後祇王寺と三宝寺のみが残った。1868年の廃仏毀釈により廃寺となったが、昭和に再興され、滝口入道に因んで国文学者の佐佐木信綱が寺号を「滝口寺」と名付けた。
越前で戦死した新田義貞の首は京都で晒されたが、妻の勾当内侍が盗み出し、往生院に葬ったという。
足利高氏旗揚げの地(篠村八幡宮) (亀岡市)。

篠村八幡宮は1071年、応神天皇陵を守護する誉田八幡宮から、源頼義が勧請して創建された。
1333年足利高氏は、反幕府勢力を討伐するよう命ぜられ鎌倉を発ったが、高氏の祖先八幡太郎義家を祭神に祀る篠村八幡に陣を張ったまま、動かなくなった。
4月29日になって、すでに後醍醐天皇からの綸旨を受けていた高氏は、ついにこの地で尊王討幕を宣言し、5月7日に六波羅探題を攻め滅ぼした。
旗立揚は、このとき源氏の白旗を立てた揚で、現在のものは数代目。
矢塚は、足利高氏が必勝祈願の願文を奉じた後、玉串に代えて鏑矢を奉納したところ、弟の直義以下並居る武将達が次々と、戦勝祈願を込めて鏑矢を奉奠し、これらを納めた場所である。
足利尊氏邸・等持寺跡(京都市中京区)。

この地は尊氏が北朝を支援するために住んだ三条坊門第の跡で、室町幕府発祥の地である。尊氏がこの地で死去すると、足利氏の菩提寺「等持寺」になったが、義満が室町に「花の御所」を造営すると、等持寺は別院であった等持院に合併され消滅した。
平氏六波羅第跡・六波羅探題府址(京都市東山区)。

六波羅探題は承久の乱の後、朝廷を監視するため平氏六波羅邸跡に鎌倉幕府が設置した出先機関。執権・連署に次ぐ重職とみなされた。
1333年に足利高氏・佐々木道誉・赤松円心らの攻撃を受け、陥落した。石碑は、写真撮影時には六原小学校にあったが、現在は向かいの六波羅蜜寺に移されている。
千種忠顕戦死の地(京都市左京区)

千種忠顕は学問より武芸を好み、淫蕩・博打にかまけていたため父から義絶されるが、後醍醐天皇側近となり、隠岐配流に随行している。天皇とともに島を脱出し、船上山で挙兵し、建武政権では3か国の国司となって、結城親光・楠木正成・名和長年らと共に「三木一草」と称された。
足利軍が京に攻め入ると、忠顕は険しい雲母坂を登り、この地に布陣した。
水飲対陣之跡(京都市左京区)

石碑には「卿水飲ノ地ニ戦死シ給フ」と刻まれている。ここは八瀬からの道・修学院からの道・比叡山頂からの道の3つが交わる要衝で、ここで千種軍と足利軍が戦ったのだろう。
ここが前線で、「戦死之地」碑がある地は忠顕が本陣を置いた地と思われる。
観世座発祥の地(田辺町)

観世座は、伊賀出身の観阿弥清次が結崎座を興したのが始まりとされる。
かつて虚空蔵の岩の崎に観世音が祭られており、観阿弥・世阿弥父子はこれを信仰し、その座を「観世座」と名付けた。「結崎座」といったのは、イワサキがユウサキに転じたのだという。
伊賀の上嶋家文書によると、観阿弥清次は楠木正成の甥とされ、大河ドラマ「太平記」でもそうなっていたが、創作と考えられている。
観世稲荷社(西陣中央小学校)(京都市上京区)

この地は観世家の屋敷跡で、足利義満が観阿弥に与えたと伝わり、九世観世大夫黒雪が江戸に移転するまで続いた。
1921年、二十四世観世大夫がこの地に観世稲荷社を建立した。この地は現在「観世町」という町名になっている。
楠木正行・正時首塚(正行寺)(宇治市)

楠木正行の子である正行・正時兄弟は、四条畷の戦いで高師直と戦い、敗れて自刃した。安間了意は、首級を携え吉野に逃れようとしたが、行く手を足利軍に阻まれたため、この地に首級を埋葬したと伝わる。
能楽発祥の地・能楽大成機縁の地(新熊野神社)(東山区)

藤若丸と父の観世清次が1374年、猿楽の結崎座を率いこの地で勧進興行を行った。見物していた足利義満は大いに満足し、父子を同朋衆に加え、それぞれ「観阿弥」「世阿弥」と名乗らせた。
二条富小路内裏跡(京都市中京区)

この地には西園寺家の冷泉富小路殿があり、1259年の閑院内裏焼失後は後深草天皇の皇居となった。1306年に焼失したが、1312年に再建されたのが二条富小路内裏である。花園天皇・後醍醐天皇・光厳天皇の内裏となったが、1336年建武新政崩壊による戦乱で焼失した。
後醍醐天皇はこの地で即位し、隠岐からの帰洛後もここで建武の新政を執ったと考えられている。
後醍醐天皇行在所跡・行宮遺跡碑・ゆるぎ石(笠置町)

1331年、倒幕計画が露見した後醍醐天皇は、三種の神器を持って京都を脱出し、笠置山に立て籠った。彼は各地に檄を飛ばし、2千の兵を集めたが、すぐに鎌倉幕府4万の大軍に囲まれた。
笠置山は天然の要害で、少数にもかかわらず幕府軍は攻めあぐんでいたが、陶山義高が50人ほどで山頂まで登り、放火すると、後醍醐天皇は身ひとつで脱出した。
「太平記」に描かれた、南向きに枝が伸びた木の夢を見て後醍醐天皇が「楠」という者を頼ろうと考えたのは、笠置山での出来事である。

笠置山は巨石が多く、武器に使える。ゆるぎ石は、落とすつもりでこの地に運んだものだが、使用されずに残っている。手で押すとゆるぐのでそう呼ばれている。
一の木戸跡・南朝忠臣足助重範公奮戦趾(笠置町)

足助重範は一の木戸で戦い、強弓で幕府軍の荒尾九郎・弥五郎兄弟を討ち取った。だが笠置山陥落後に捕縛され、六条河原で処刑された。

ログインすると、残り1件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」 更新情報

NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。