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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【八重の桜】京都府

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【八重の桜】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(11)

新島襄旧邸(同志社発祥の地)(京都市上京区)。

かねてより親交の深かった高松保実子爵より屋敷を借り受け、1875年同志社英学校をこの地に開校した。同志社は翌年今出川に移転し、その後は新島家の住居となった。
外観はベランダを巡らせたコロニアルスタイルの洋風だが、洋室と和室が混在し、引き戸と開き戸が混在する和洋折衷の構造になっている。日本特に京都は蒸し暑いため、床を高くし、セントラルヒーティングを設置している。
琵琶湖疏水(京都市)。

疏水完成以前、京都−大津間の輸送は人馬に頼っており、大規模な輸送を行うことは難しかった。だが琵琶湖疏水開削は、舟運による輸送が可能になるばかりか、水道用水の確保、灌漑、水力発電、市電運行なども目的とした、京都復興をかけた一大総合開発プロジェクトでもあった。設計を任されたのは21歳の田辺朔郎で、第1疏水が1890年、第2疏水が1912年に完成した。
南禅寺付近から銀閣寺までの琵琶湖疏水に沿った小径は、西田幾多郎が散策しながら思索にふけったことから「哲学の道」と命名されている。


写真左:琵琶湖疏水と琵琶湖疏水記念館。
写真中:哲学の道。
写真右:南禅寺を通る琵琶湖疏水「水路閣」。室町期の名刹の中を、文明開化の象徴が通る超芸術の趣きがある。福沢諭吉は「景観破壊だ」と強く反対した。
インクライン(京都市東山区)。

琵琶湖疏水の大津から宇治川に至る20.2キロの舟運ルートの途中、標高差のある2カ所に敷設された傾斜鉄道。蹴上インクラインは延長581.8メートル(世界最長)で標高差36メートル、伏見インクラインは延長290.8メートル、標高差15メートル。1890年に完成したが、京津線・京阪本線の開通により大津−京都−伏見間が鉄道で結ばれたことから利用者が激減し、1948年に休止した。現在は蹴上で形態保存されている。
女紅場跡(京都市上京区)。

1872年、日本で2番目の公立女学校「新英学校及女紅場」がこの地に設置された。英国人教師による英学(英語教育)と女工(裁縫・手芸・読み書きなど)の二科を置いた。
この学校は、1904年に「京都府立京都第一高等女学校」、1948年には男女共学の「京都府立鴨沂高校」となり現在に至っている。鴨沂高校の正門は、新英学校及女紅場の正門を移築したものである。
山本八重は1872年、兄山本覚馬の推薦により権舎長・教道試補となった。だが1875年、宣教師新島襄と婚約したことが原因で解雇された。
山本覚馬・八重邸跡(京都市中京区)。

京都府顧問となった山本覚馬は、京都府権大参事槙村正直邸の隣に、新門辰五郎の土地を購入して居を構えた。その場所は、八重の回想録に「その頃私達は河原町通りの京都ホテルの前で、大黒屋書店の南隣に居りました」、また「山本覚馬伝」に「河原町御池下ル即ち今の京都ホテルの西南向ひの家に移られた」と記されていることから、河原町通西側に面した現在の御池通路上であったと考えられる。
薩摩藩錦小路藩邸跡(京都市中京区)。

この地に大名屋敷が設けられたのは、16世紀末か17世紀初頭からと考えられる。
最初は山城守松平忠国の屋敷であったが、17世紀末に松平下総守の屋敷となり、18世紀初頭からは島津氏の京屋敷となった。
薩摩藩邸の入り口は当初錦小路にあり「錦小路藩邸」と呼ばれたが、後に東洞院通まで拡張された。その後、錦小路藩邸が手狭になったため、1863年御所のすぐ北の相国寺門前に二本松藩邸が設けられた。
現在は大丸京都店。
薩摩藩二本松藩邸跡(同志社大学今出川校地)(京都市上京区)。

錦小路藩邸が手狭になったため、薩摩藩は1863年二本松に新たに藩邸を構えた。この地は、薩長同盟が調印された地という説がある。
この地はその後山本覚馬(八重の兄)の所有となったが、同志社が寄贈を受け、1876年校舎をここに移した。
キリシタンの学校が御所の至近距離にあったことは、住民の強い反発をかい、今出川校地では聖書を教えないという約束を京都府と結ぶことになった。そこで新島襄は、現在のアーモスト館あたりにあった豆腐屋を買い上げ、校外のその場所で聖書を教えた。
会津藩洋学所跡地(長徳寺)(京都市上京区)

山本覚馬は1864年、在洛藩士のためにこの地を借り、洋学所を設けた。会津藩士だけでなく、他藩の者も学んだという。
徳富蘇峯先生勉学之処(田中神社)(京都市左京区)

徳富蘇峰は同志社在学中、これより50メートル北にあった水車小屋に下宿していた。碑はかつて下宿跡にあったが、田中神社に移設された。
京都守護職上屋敷址(京都府庁)(京都市上京区)

京都守護職は1862年、京都の治安維持のために設立された幕府の役職で、会津藩主松平容保が就任した。京都所司代・京都町奉行の上位に位置づけられた。その役宅ははじめ黒谷金戒光明寺に置かれたが、1863年この地に新築された。1867年に廃止され、跡地には京都府庁が移転した。

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