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NHK大河ドラマ紀行「べらぼう」コミュの【太平記】大阪府

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【太平記】にまつわる大阪府の史跡写真館です。

コメント(21)

楠木正成誕生地(千早赤坂村)。

楠木正成は1294年、千早赤阪村の水分で生まれたと伝えられている。
文禄年間に増田長盛が豊臣秀吉の命を受け土壇を築き、元禄年間には領主の石川総茂が保護を加え、1875年には大久保利通が石碑を建立し顕彰した。
下赤坂城跡(千早赤坂村)。

笠置山に逃れた後醍醐天皇に危険が迫ったとき、天皇を迎えるために楠木正成が1331年に急遽築いたと言われている。
しかし笠置山が陥落し、後醍醐天皇が捕らえられると、幕府軍は下赤坂城へ攻め寄せた。正成は熱湯や大木を投下するなどの奇策を用いて幕府軍を翻弄したが、にわか造りの城は落城し、正成は金剛山へ逃れた。
正成は1332年に再び決起し、湯浅定仏の守る下赤坂城を攻撃し奪回するが、幕府軍によって再び落城した。正成は千早城に入り抵抗するが、その間に鎌倉幕府は滅亡した。
千早・赤坂の戦いで正成が健闘したことが、倒幕の気運を全国的に高めたとされる。
現在は千早赤阪中学校。
千早城跡(千早神社)(千早赤坂村)。

赤坂城の詰めの城として、その背後の山上に1332年に築いた。
幕府軍が千早城の楠木正成攻撃に釘付けになっているとき、後醍醐天皇が隠岐の配所を脱出し、討幕の綸旨を全国に発した。播磨の赤松則村、肥後の菊池武時らが蜂起すると、千早城を囲んでいた守護たちは相次いで帰国した。
鎌倉が手薄になっているのを見た新田義貞は、関東で挙兵し鎌倉を陥落させ、鎌倉幕府はあっけなく滅亡する。
建武の新政以後、千早城は楠木氏の居城として楠木正行、楠木正儀、楠木正勝が城主となった。1392年畠山基国に攻められ落城し、千早城は歴史に幕を閉じた。
北畠顕家戦死の地(石津古戦場)(堺市西区)。

南朝方の北畠顕家軍は和泉で奮戦していたが、北朝方の高師直は堺に向けて進軍した。両軍は1338年、堺浦で激突した。顕家軍は連戦の疲労に加えて、味方の援軍が遅れ、さらに瀬戸内海水軍が北朝方についたため、総崩れとなった。顕家も戦場から脱出したが、共廻り二百騎とともに石津で包囲された。顕家軍は決死の戦いを挑むが、顕家が落馬してしまい、ついに討ち取られた。名和義高と南部師行もこのとき討ち死にした。
小楠公義戦之跡碑(渡辺橋跡)(大阪市中央区)

小楠公こと楠木正行が1347年、瓜生野・住吉天王寺合戦で山名時氏・細川顕氏の幕府軍を破ると、敗走した兵がこの地にあった渡辺橋に殺到し、川に落ちた。正行は敵兵500を救出し、衣服と薬を与えたという。戦前は南朝が正統とされ、楠公一族が賞賛されたため、このような巨大な記念碑が建立されたのだ。
正行の首洗い井戸(枚岡神社)(東大阪市)

この井戸で楠木正行の首級を洗ったとか、彼が戦いに行く前に死を覚悟して首を洗ったなどと伝えられる。この付近では、霊の目撃談が絶えない。
楠正行首塚(東大阪市)

四条畷の戦いは四条畷市で行われたとするのが通説だが、東大阪市四条町という説もある。いずれにせよ敗れた楠木正行・正時兄弟は、刺し違えて自害した。正行首塚は、大阪や京都など各地にある。
楠水龍王(箕面市)

楠木正成が1336年、湊川の戦いに向かう途中、ここにあった小庵の井戸で水を飲んだと伝えられる。
桜井駅跡・楠公父子訣別之所(史跡桜井駅跡史跡公園)(島本町)

続日本紀に、711年摂津国嶋上郡に大原駅を設けたと記されており、これが桜井駅だと考えられている。
楠木正成が死を決して湊川の戦いに行く前に、この地で若年の正行を帰したと太平記に記されており、戦前の教科書には必ず載っていた有名な逸話であるが、創作と思われる。
小楠公御墓所(四条畷市)

四条畷の戦いで小楠公こと楠木正行は、野崎に布陣する圧倒的多数の高師直軍に対し、東高野街道を突撃しこの付近まで後退させたが、飯盛山の師直軍に側面攻撃され、この地で力尽きた。
住吉行宮跡(大阪市住吉区)

北朝の足利義詮が降伏したため、後村上天皇は1352年、住吉大社神主津守氏の邸内にあった正印殿を行宮とし1か月ほど滞在した。
その後南朝が優勢になると1360年に再び遷御し、1368年の崩御まで行宮とした。次の長慶天皇は住吉行宮で即位し、1368年に吉野へ遷っている。
北朝光厳天皇行在所(金剛寺観蔵院)(河内長野市)
南朝後村上天皇行在所(金剛寺摩尼院)(河内長野市)

1354年に南朝が京都に侵攻し、光厳・光明・崇光の三上皇を拉致して、金剛寺の観蔵院に行在所を置いた。後に後村上天皇が金剛寺の摩尼院を行宮としたため、およそ3年にわたり、南北朝の行在所が同じ寺の隣どうしに存在したことになる。
楠公通学橋(河内長野市)

幼い楠木正成が、大江時親に兵法を学ぶため通った道だという。
楠公学問所中院(観心寺)(河内長野市)

観心寺は710年役小角によって開かれた。初め雲心寺といい、815年に観心寺と改称した。楠木正成はここで、滝覚坊の下で修行した。正成の首級が送られたとき、長男正行は切腹しようとしたという。
後村上天皇行在所跡(総持院跡)(観心寺)(河内長野市)

後村上天皇は1359年から、総持院を行在所としていた。
大楠公首塚・天誅組讃蹟碑(観心寺)(河内長野市)

楠木正成の首は六条河原にさらされたが、足利尊氏が首級を返したので、楠木家の菩提寺である観心寺に葬られた。
後に尊皇派の聖地と化したようで、天誅組が大和に向かう途中、1863年8月17日にここに詣でたのを記念して、首塚前に天誅組讃蹟碑が建てられた。長野の吉年米蔵は、観心寺で握飯と草鞋を100人分用意していたが、年をとり肥満していたため千早で歩けなくなり、脱落した。
天誅組はこの後大和に入り挙兵するが、翌日八月十八日の政変が起き、彼らは暴徒として追われる身となる。
楠木正成首塚(徳蔵寺)(東淀川区)

楠木正成の首を持った落武者たちが、河内へ埋葬しようとこの地まで来たとき、落武者狩りに襲われ、首を仮埋して去った。江戸時代に住職が二箇の五輪塔を建てたが、大阪空襲で寺は全焼し、首塚がどこにあったかわからなくなった。徳蔵寺を戦後再建したとき、黒く焼けた五輪塔を寺の前に設置した。
明治になると正成が神格化され、軍部が官幣神社にしようとしたが、住職は首塚の存在を否定し神社設立を拒否したと伝わる。
大江時親邸跡(河内長野市)

大江(毛利)時親は大江匡房の七世孫で、この地に住んでいたとされる。楠木正成は、観心寺からここまで7キロ通い、兵学を習ったという。
楠木正成旗掛の松(葛井寺)(藤井寺市)

1347年の藤井寺合戦で、正成はこの松に旗を掛け正行・正時・正儀の三人の息子を呼び、秘策を練り、十倍の細川顕氏を破ったという。
楠木正成首塚(杜本神社)(羽曳野市)

楠木正成が戦死したとき、敵の目を逃れて御首を密かにこの地に埋めたという。

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