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NHK大河ドラマ紀行「べらぼう」コミュの【徳川家康】愛知県

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【徳川家康】にまつわる愛知県の史跡写真館です。
徳川家康関係の史跡は、【徳川家康】トピックにまとめて下さい。

コメント(89)

小幡上総介信貞の墓(新城市)

信長公記には小幡信貞は討死したと記されているが、実際は生き延びており、小幡一族の誰かと混同されているようだ。説明板には「小幡隊の墓」と表示されている。
岩手左馬之助・岡部竹雲斎の墓(新城市)

東弾正山を守っていた岡部竹雲斎盛久・岩手胤秀・小山田信茂・小笠原長忠・城和泉守らに対し、徳川軍の大須賀康高・三宅康定・菅沼定政・戸田忠次・高力康長らが押し寄せた。岡部竹雲斎は大須賀勢に討たれ、岩手胤秀は三宅勢に討たれたという。
山本勘蔵信供の墓(新城市)

山本信供は、長篠城を監視するため寒狭川沿いに備えていたが、勝頼から全軍設楽原に集結し決戦することを指示された。だが到着したときは総崩れとなっていて、信供は徳川軍の渡辺半蔵守綱に討ち取られた。彼は山本勘助晴幸の子で、20歳だった。
高森恵光寺の塚(新城市)

恵光寺武田家の宗賢・玄孫父子は長篠合戦に出征したが、主従全員が戦死した。この地で死んだとも、鳶が巣砦で死んだともいわれる。
名高田前激戦地(新城市)

武田軍右翼の馬場信春・土屋昌次らと、織田軍左翼の水野信元・佐久間信盛・丹羽長秀らが激戦を交えた場所である。
真田信綱墓・真田昌輝墓(新城市)

真田信綱・昌輝兄弟は、連吾川と五反田川に挟まれた丘陵地に布陣し、馬場信春・土屋昌続らとともに右翼を構成し、丸山砦の佐久間信盛隊と戦い討死した。これにより、勝頼本陣にいた弟の武藤昌幸が真田家当主となった。
信綱・昌輝兄弟の墓の横には、禰津甚平是広・常田図書春清・鎌原筑前守之綱の墓もある。
鑓畑と武田軍退路(新城市)

この辺りの畑で鏃が多く取れたのは、武田軍退却時の混乱を示しているのだろう。
土屋右衛門尉昌次の墓・温井左近の墓(新城市)

土屋昌続は、真田隊とともに織田軍の一の柵・二の柵を突破し、三の柵に迫った。だが左翼の山県昌景が討ち死にしたことで武田軍全体が動揺し、穴山隊が撤退し始めたため、敵陣深くまで進出していた土屋隊は、真田隊とともに取り残された。昌続は全員を退却させることは不可能と悟り、弟の昌恒に退却を命じ、「信玄様が亡くなられたとき殉死しようとしたが高坂弾正に止められた。今こそ自分の死に時である」と言って信長本陣を目指し、三の柵に取りついたところで銃弾を受け戦死した。温井左近は、昌続の首を持って戦場から離脱し、首を埋めたあと村人たちに金銭を渡し、供養を頼んで切腹したという。
竹広激戦地(新城市)

徳川家康陣と山県昌景陣の間に位置し、設楽原の戦いで最も激戦が繰り広げられた地である。山県隊ははじめ大久保隊を突破しようとして阻止されたため、家康本陣を正面突破しようと試みた。
内藤修理亮昌豊公之墓(新城市)

内藤昌豊は、武田軍の中央天王山に布陣した。柳田で激戦を繰り広げたが、全身に矢を受け落馬し、朝比奈泰勝に首を取られた。
武田勝頼公指揮の地(新城市)

内藤昌豊の陣があった天王山は信玄台地の中央部にあり、勝頼が本陣を置いた才ノ神より前方にあったため、勝頼はここへ移動し指揮を取った。
原隼人佐昌胤の墓(新城市)

彼は内藤昌豊らと中央で徳川主力と戦った。左翼で山県昌景が討ち死にすると、山県隊を吸収して戦線の維持に努めたが、銃弾を浴び討ち死にした。
柳田前激戦地(新城市)

武田軍中央の武田信廉・内藤昌豊・原昌胤が滝川一益隊に突撃し、柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉らが援軍にかけつけ激戦を繰り広げた。また天王山本陣の麓にあたり、敗走する武田軍が合流し最後の突撃を行った場所でもある。
甘利郷左衛門尉信康之墓(新城市)

彼は柳田の住民が協力するものと期待したが、織田・徳川連合軍が到着すると馬防柵や堀の作成を手伝った。信康は柳田の激戦地で戦ったが、堀と馬防柵の固さを悔しがり「この部落は絶対に発展させない」と呪って、ダンゾウ屋敷の前で立ったまま切腹したと伝わる。柳田の住民は気味悪くなり、信玄原に引っ越したという。
橋詰殿戦場(新城市)

馬場美濃守信房が、勝頼を逃がすためここで殿として戦った。
馬場美濃守討死之地(新城市)

彼はこの戦いで死ぬと決めていて、勝頼が落ちのびるのを見届けた後、「我は馬場美濃守なり。この首を取って功名といたせ」と言って、この緒巻桜の下で自ら討たれたという。彼に槍をつけたのは、塙直政配下の河井三十郎と岡三郎左衛門と伝わる。
馬場美濃守信房・馬場彦五郎勝行の墓(新城市)

馬場勝行は、信房の息子とも伯父とも言われる。
滝川助義・笠井肥後相討ノ地(花の木公園釣り堀センター)(新城市)

この近くに猿橋があり、武田勝頼が設楽原の戦いに敗れ、ここから敗走したという。笠井肥後守満秀は、自分の馬を勝頼に与え、自らはしんがりとなって滝川助義と戦い、相討ちになったという。
馬場信房の墓(鳳来町)

馬場信房は壊滅する武田軍の殿を務め、武田勝頼が戦場を脱出したのを確認すると、引き返して敵方に突入し62歳で戦死した。ここは彼の首を埋めたとされる。
首洗い池(新城市)

水がいつも赤く濁っているいのは、設楽原の戦いのとき首や刀を洗ったせいだと伝わる。
逆さ桑(鳳来町)

長篠合戦後、体格の良い若武者が落ちのびる途中、この地で粥を馳走になったとき、桑の枝を折って箸の代わりにした。彼が食後に箸を地面に刺したところ、やがてその箸が根付き桑の木になった。しかしその枝が下へ伸びることから、逆さ桑と呼ばれるようになった。人々は後に、その若武者は武田勝頼だろうと噂した。
長篠城跡(鳳来町)

1508年菅沼元成が築き、その後は武田と徳川の争奪の的となった。
長篠城は寒狭川と宇連川が合流する地点に築かれ、川に面したところは断崖で堅固に見える。だがこれは南から見た場合で、もともと武田側の城として対徳川への備えの城だった。
1575年の長篠の合戦では、奥平氏は家康の娘を娶り一門として遇するという条件で徳川に寝返っており、守りの薄い北から武田に攻撃されていた。この戦いで城は損壊し、奥平信昌は翌年新城城を築城して、長篠城は廃城となった。
長篠城糧庫跡(鳳来町)

もともと武田側の城だった長篠城は、南からの攻撃には堅固だが、徳川側に寝返った後も糧庫は北側にあった。武田軍から放たれた火矢により糧庫が焼失したため、長篠城は長期籠城を予定していたが数日しか持たないことになり、岡崎城へ使者を送り援軍を請うしかなくなった。
武田勝頼本陣跡・片葉の葦・山縣三郎兵衛息継ぎの井戸(医王寺)(鳳来町)

医王寺山は長篠城を見下ろす位置にあり、勝頼は当初ここに本陣を置いたが、織田・徳川軍の到来により、設楽原での決戦を決意し清井田に本陣を移した。
決戦の前夜、勝頼の夢に老人が現われ、決戦しないよう諫めたが、勝頼は老人の腕を切り落とした。翌朝医王寺の弥陀が池を見ると、葦が片葉になっていたという。
天神山陣地跡(荏柄天神社)(鳳来町)

長篠の合戦で、一条信龍・土屋昌次・真田信綱・昌輝らが布陣した。
織田信長本陣地・極楽寺跡(平井神社)(新城市)

当時すでに極楽寺はなく、信長は極楽寺山に最初の本陣を置いた。織田・徳川軍は数で勝っているにもかかわらず武田を恐れていたため、酒井忠次が海老すくいをやったら大ウケしたと甲陽軍鑑に記録されている。
忠次は鳶ヶ巣山砦を奇襲してはどうかと進言したが、信長は「愚策」と一蹴した。ところがあとで忠次を密かに呼び、間者を警戒していただけで、奇襲してみてはどうかと持ちかけた。
道路を挟んだ南の平井神社にも、織田信長本陣地の碑がある。
鳥居強右衛門呼びかけの伝承地(鳳来町)

包囲された長篠城を密かに脱出した強右衛門は、岡崎城に行き援軍を呼ぶことに成功したが、それを長篠城に知らせようと入城を試み、武田軍に捕らえられた。
強右衛門を取り調べた武田軍は、援軍が二・三日で到着すると知り、すぐに城を落とす必要に迫られ、「援軍は来ない」と叫べば助けてやると言ったが、彼はこの地で「援軍はもうすぐ来る」と叫び、処刑された。
鳶ヶ巣山砦(鳳来町)

長篠城包囲のための武田の拠点だったが、ここを徳川に奪われたことで、設楽原での決戦のため西へ深く進んでいた武田勝頼は退路を断たれてしまい、正面の織田・徳川軍を撃破するしか道がなくなった。
松平伊忠戦死之地(新城市)

松平伊忠は深溝松平家に生まれた。有名な「家忠日記」を書いた家忠の父である。
鳶ヶ巣山を攻撃し、武田信玄の弟信実を討ち取ったが、追撃戦で深追いしすぎてしまい小山田昌行の部隊に討たれた。織田・徳川連合軍では唯一の武将の戦死となった。
五味與惣兵衛貞氏之墓(新城市)

浪人組の将として鳶ヶ巣の中山砦に布陣したが、酒井忠次隊に攻められ討死したという。墓がなぜこの地にあるかは謎で、別の資料では「武田臣五味与三兵衛貞氏墓 柳田村 鳶巣山に於て討死、首此処に埋む・塩瀬久兵衛の物語也」とあり、塩瀬によってこの地に運ばれた可能性はある。
高坂昌澄の墓(新城市)

弾正昌信の子で、当初は長篠城の監視をしていたが、設楽原の決戦場で戦い、稲生次郎左衛門に討たれた。
山本信供戦死之地(新城市)

山本勘介信供は勘助晴幸の子で、当初は長篠城監視隊として寒挟川沿いに布陣していたが、武田勝頼の指示により竹広で戦い、大海まで退き、この地で渡辺半蔵守綱に討たれたという。
丸山砦跡・大宮前激戦地(新城市)

丸山砦は馬防柵の外にある高地で、はじめ佐久間信盛が布陣していたのを、馬場信春が奪った。佐久間隊は馬防柵の中に逃げたが、馬場隊は馬防柵を相手にするのは得策でないと考え、深追いしなかった。
堀無手右衛門の墓(新城市)

長篇長篠軍記に「堀無手右衛門は最後の決戦に属して、竹広村山形高地に陣取り徳川の精鋭を防ぎ、敵将本多甚九郎正近を討ち取り、味方総崩れとなるや武田信豊等と途中宮脇川の此所において追兵を防ぎ敵将滝川源右衛門助義を殪し、其他二十余人を殺傷した此処に壮烈の戦死を遂げた」とあることから、この地に墓が築かれた。
横田備中守綱松之墓(新城市)

横田綱松は原虎胤の長男で、横田高松の婿養子となったが、長篠の合戦で息子3人とともに討死にした。
川窪備後守詮秋・土屋備前守直規・望月甚八郎重氏の墓(常林寺)(新城市)

3名は武田勝頼本陣近くに布陣した。敗戦が濃厚になると、勝頼の退却を援護するためこの地に踏みとどまり討死にした。
コロミツ坂(新城市)

長篠城を守りぬいた奥平貞昌は、有海の小呂道坂で織田信長より戦功を讃えられ、「信」の字を賜り信昌と名乗った。
蟻塚(鳳来町)

長篠の合戦の戦死者を弔った塚で、蟻が大量に発生したため、石碑を建てて供養したところ蟻は発生しなくなったという。
潜みの大楠(賀茂神社)(豊橋市)

1573年、野田城救援に出撃した家康は逆に武田勢に追われ、この楠の空洞に隠れたと伝わる。

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