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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【平清盛】京都府

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【平清盛】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(16)

忠盛灯篭(八坂神社)(京都市東山区)。

永久年間の頃、白河院が祇園女御の許に行くためこの辺りを通ったとき、鬼のようなものが見えたので、供の平忠盛に討ち取れと命じた。だが忠盛がこれを生け捕りにしたところ、祇園の社僧が油壷と松明とを持ち、灯籠に燈明を献ろうとしていたところだった。雨を防ぐために被っていた蓑が、灯の先を受けて銀の針のように見えたのである。
忠盛の思慮深さに感嘆した白河院は、祇園女御を忠盛に与えた。こうして忠盛の妻になった祇園女御が産んだのが清盛で、人々は「清盛は忠盛の子にあらず、まことに白河院の皇子なり」と噂した。
平清盛終焉地・高倉天皇誕生地(平盛国邸跡)(京都市下京区)

平盛国は平盛康の子で、清盛の側近であった。
平安末期には八条通に平家の邸宅が建ち並んでおり、盛国邸は「師元朝臣記」によると、八条河原口にあった。清盛は1181年、盛国邸で死亡した。
壇ノ浦の戦いで平家が敗れると、盛国は捕虜となって鎌倉に送られた。盛国は飲食を絶ち、1186年に餓死した。
高倉天皇は、清盛の妻の妹滋子と後白河法皇の子として、この付近で生まれたとされる。
祇王寺(京都市右京区)。

往生院は平安時代に創建され、かつては数多くの坊が建ち並んでいたが、その後祇王寺と三宝寺のみが残った。1868年の廃仏毀釈により廃寺となったが、京都府知事北垣国道が別荘の一棟を寄付し、1905年に再興された。

平清盛は白拍子の妓王・妓女の姉妹を寵愛していたが、ある日白拍子の仏御前が訪れ、舞を披露したいと申し出る。清盛は追い払おうとしたが、妓王のとりなしにより仏御前は清盛の御前で舞うことを許された。仏御前は、
「君を初めて見る折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れ居て遊ぶめれ」
と即興で舞いながら歌い、清盛の寵愛を得た。
妓王・妓女は清盛に疎まれるようになり、ついには仏御前を慰めるため彼女の前で舞を見せよと命じられるに至り、母の刀自とともに髪を剃り、出家して往生院に入った。妓王は去り際に、障子にこう書き残したという。
「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき」
その後、仏御前も出家して往生院に入った。彼女は、自分もまたいずれ捨てられるはかない運命と知り、ひたすらに念仏を唱えることで極楽往生を願ったのである。


写真左:右から仏御前、妓女、大日如来、平清盛、妓王、刀自の像。
写真右:右は平清盛供養等、左は妓王・妓女・刀自の墓。
白河・鳥羽法皇院政の地・冠石(安楽寿院)(京都市南区)

白河法皇は1086年に譲位すると、鳥羽離宮を造営し院政を始めた。鳥羽法皇も、28年間に及ぶ院政をこの地で行った。
その後南北朝期に多くの建物が焼失し、急速に荒廃していった。
冠石は、鳥羽天皇が法皇になったとき、冠を置きそれを中心に離宮を造営したと伝わる。
鳥羽離宮田中殿跡(田中殿公園)(京都市南区)

治承三年(1179年)の政変で、後白河法皇は平清盛によって田中殿に幽閉された。
俊寛僧都鹿ヶ谷山荘跡(京都市左京区)

後白河院の近臣藤原成親・成経父子、西光、俊寛、平康頼、多田行綱らが1177年、俊寛の鹿ヶ谷山荘において平氏打倒の謀議をしたとされる。
謀議は行綱の密告により発覚し、西光の自白によって関係者は一網打尽にされた。西光は斬首、成親は備中に流罪(密かに殺される)、俊寛・成経・康頼は薩摩の鬼界島に流された。成経と康頼は後に赦され、一人残された俊寛は絶食して死んだ。
謀議が本当にあったかどうかは当時から現在も論争があり、平清盛が後白河院の勢力を削ぐためにでっちあげたとする説もある。
謀議が行われた山荘は、「平家物語」では俊寛の、「愚管抄」では静賢のものとされている。建碑者である西垣精之助が、この地が俊寛山荘跡だという夢を見て、碑を建てたという。
平清盛公西八条殿跡(若一神社)(京都市下京区)

平清盛の屋敷が六波羅と西八条にあり、周囲には平家一門の屋敷が立ち並んでいた。祇王や仏御前の屋敷も西八条にあった。
平家は1183年、義仲に追われ都落ちする際に、西八条殿に火を放ったため焼失した。
若一神社は、西八条殿内にあった鎮守社だと言われる。境内には「平清盛御手植えの楠」があるが、この木の前だけ西大路通が歪んでいるのは、楠が非常に大きく移植が困難であり、移植しようとして祟りがあったからだとも言われる。
西八条第跡(梅小路公園)(京都市下京区)

梅小路公園にも、西八条第跡の碑がある。
西行井戸(京都市右京区)

西行は二尊院附近に庵を結び、近くのこの井戸を使っていたと伝わる。
三條東殿遺址(京都市中京区)

白河法皇が1125年にこの地を得て、院御所とした。
その後は後白河上皇の御所となっていたが、1160年源義朝が三条東殿を襲撃し、上皇を捕らえ幽閉した。この地は平治の乱勃発の地である。
平安宮一本御書所跡(京都市上京区)

平安時代、この地は内裏の東側にあたり、一本御書所があった。一本御書所は、世間に流布した書籍を各一本書き写して保管したところである。
平治の乱では、藤原信頼らが後白河上皇を一本御書所に幽閉した。
平重衡首洗池・不成柿(木津町)

一ノ谷の戦いで捕虜になった平重衡は、かつて東大寺・興福寺を焼き打ちしたため、南都衆徒から身柄の引き渡しを要求された。そして1185年、木津川の河原で斬首され、首は付近にあったこの池で洗われた後、奈良の般若寺に晒された。
重衡が最後に食べた柿の種を池のほとりに植えたところ、実が成らないので不成柿と呼ばれた。当時の柿の木はすでに枯れており、今ある柿の木は実が成っている。
高倉宮趾(京都市中京区)

高倉宮は、この地にあった後白河天皇の皇子以仁王の御所。高倉小路に面していたため高倉宮と呼ばれた。彼はこの地で、平氏追討の令旨を下した。
白河南殿址(京都市左京区)

白河南殿は白河泉殿や白河御所と呼ばれ、後に設けられた北殿に対し南殿や南本御所と呼ばれた。もとは大僧正覚円の房舎だったものを、白河上皇の院御所に改めた。
白河北殿址(京都大学熊野寮)(京都市左京区)

白河北殿は白河上皇の院御所で、南本御所に対し北殿や北新御所と呼ばれた。その後は上西門院の御所となっていたが、拘束を恐れた兄崇徳上皇が1156年に押し入り、そのまま保元の乱の本陣とした。白河北殿は後白河天皇軍に放火され、焼失した。
高松殿址(高松神明神社)(京都市中京区)

高松殿は、醍醐天皇の息子源高明の邸宅だった。その娘明子は藤原道長の妻となり、「高松殿」と称された。その後は、三条天皇の皇子小一条院の御所となった。
1155年には後白河天皇がこの地で即位し、高松内裏と称された。保元の乱では、後白河天皇の本陣となっている。その後は平治の乱で焼失したが、邸内に祀られていた高松明神は今も残っている。

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