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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【篤姫】京都府

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【篤姫】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(35)

寺田屋(京都市伏見区)。

かつて淀川の水運が盛んだったころはこの界隈も船宿として栄えたが、現在はすっかりさびれている。寺田屋のみが今日も旅館として営業を続けている。
寺田屋事件現場。
薩摩藩は寺田屋を常宿にしていた。
坂本龍馬宿泊の部屋。
薩摩藩が常宿にしていた寺田屋を龍馬も常宿にしていたこと、襲われて薩摩藩邸に逃げ込んだこと、「日本初の新婚旅行」で薩摩に行ったことなどは、龍馬と薩摩の深い関係を覗わせる。
寺田屋の風呂。
おりょうはここから格子越しに外を見て、幕吏の襲撃を知ったことになっているが、どうやら当時の寺田屋は1868年の戊辰の兵火で焼失しているようだ。
鳥羽伏見の戦い小枝橋古戦場(京都市伏見区)。
この橋の西から強行に上洛を図った旧幕府軍に対し、薩摩軍は鳥羽離宮公園にある「築山」から大砲を打ちかけ追い払った。
この戦いの最中、薩長土連合軍に錦の御旗が翻り、旧幕府軍は戦意を喪失して退却した。
魚三楼(京都市伏見区)。
小枝橋方面で砲声が響くと、両軍は伏見市街でも交戦を始めた。魚三楼の格子には今も弾痕が残っている。
鳥羽伏見の戦いで、伏見の大半は焼き払われた。
鳥羽伏見の戦い勃発の地碑(京都市伏見区)。
薩摩軍は、現在の鳥羽離宮公園に陣を敷いていた。
小松帯刀京屋敷跡(京都市上京区)。

薩長同盟が締結されたのは、近衛家別邸の中にあった小松京屋敷であった。
「大久保利通伝」に、桂小五郎が薩長同盟のために入京したくだりで「一月京師に入り、先づ西郷の寓所に投宿せしが、数日にして、近衛家の花畑に在りし別荘に移転せり」と記されているが、現在「花畑」がどこにあったかは判然としない。
新町上立売の同志社大学新町校舎はかつて近衛家別邸であり、石碑が建てられている(写真左)が、「花畑」は一条堀川(写真右)にあったとする異説もあり、「篤姫紀行」ではこちらが取り上げられた。
左:猿ヶ辻の立札(京都市上京区、京都御苑)。
右:猿ヶ辻の猿。

御所の鬼門である東北に角ができるのを嫌い、築地塀の角を内側に切り込んである。そこに左甚五郎作の、比叡山延暦寺の地主神、日吉大社の使いである猿を置いているが、夜遊びに出かけて行かないよう金網で囲われている。

この猿のいる交差点を猿ヶ辻という。1863(文久3)年5月、攘夷派の公家姉小路公知がこの付近で暗殺されたのが「猿ヶ辻の変」である。現場に「人斬り新兵衛」の異名をとる薩摩藩士田中新兵衛の鞘が落ちていたため、容疑者として捕縛されたが、田中は鞘を盗まれた不覚を恥じて自害した。
「猿ヶ辻の変」によって、薩摩藩は御所九門の警護役を解任された。
明治天皇生誕地(中山邸跡)(京都市上京区)。

明治天皇は中山忠能邸で、その娘慶子から生まれた。明治天皇は京都で生まれた最後の天皇である。
寺田屋敷地内にある「寺田屋跡」の碑。
この碑のある場所にかつて寺田屋があり、鳥羽伏見の戦いで焼失した後、その隣の現在地に寺田屋を再建したというのが真相のようだ。
和宮生誕地(京都御苑・橋本家跡)(京都市上京区)。
橋本経子(後の観行院)は仁孝天皇の側室となったが、和宮を妊娠中に仁孝天皇が崩御したため、実家の橋本家に戻り、そこで和宮を産んで育てた。
有栖川宮邸跡(京都御苑)(京都市上京区)。
有栖川宮熾仁親王は和宮の許婚で、戊辰戦争では東征大総督となった。
淀城跡(京都市伏見区)。
京阪淀駅近くに現在ある淀城は、松平定綱が伏見城の廃材を転用して1623年に築いたものである。鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍が淀城に籠もろうとするが、淀藩に拒絶された。
淀古城跡(妙教寺)(京都市伏見区)。
豊臣秀吉は、側室茶々の産所として1589年淀城を築かせ、以後茶々は淀殿と呼ばれるようになった。だが生まれた鶴松は3歳で死去し、伏見城築城により廃城となった。現在は妙教寺に石碑が立つのみであるが、鳥羽伏見の戦いでは寺内に砲弾が着弾し、その跡が今も残っている。
坂本龍子旧宅(京都市中京区)。

坂本龍馬の妻お龍は、楢崎将作の長女として1841年、京都の富小路六角に生まれた。将作はその後ここ柳馬場三条で開業医となったが、勤皇の志士たちと交流したため安政の大獄で捕えられ獄死した。
龍馬との出会いは寺田屋で奉公していたときとも、また妹君江が土佐藩の賄いをしていた縁とも言われる。
龍馬の死後は姉乙女のもとに身を寄せるが、気性の激しい者同士で合わず、1年ほどでそこを去り、東京に上り西郷隆盛らを頼るが、生活は貧しかった。
明治に入り、小説「汗血千里の駒」が出版されると龍馬は時の人となったが、お龍はそれを読むまで龍馬が何をした人か知らなかったという。
その後は名を「ツル」と改め、1875年横須賀の商人西村松兵衛と再婚。妹の息子を養子にとり、母と妹を呼び寄せて暮らしたが、養子と母は他界し、松兵衛と妹が家を出て独り暮らしとなった。俗説ではツルは酒浸りとなり、「私は龍馬の妻だった」が口癖だったと伝わる。
横須賀にある墓には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子墓」(原文ママ)と刻まれている。松兵衛とは別の墓に葬られている。
二条城(二の丸御殿)(京都市中京区)。

神泉苑の敷地の大部分を接収し、1603年徳川家康が築いた。
1603年徳川家康の将軍宣下と、1867年徳川慶喜による大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。1611年には二の丸御殿で家康と豊臣秀頼の会見が行わている。
洛中に残る唯一の城であり、堅固な城を作ると敵に取られたときに困るので、小規模な構造になっている。東映京都撮影所や京都映画撮影所から最も近い場所にある城だが、天守が1750年に焼失して以来存在しないため、撮影に用いられることは少ない。
西郷・月照王政復古謀議旧跡(清閑寺)(京都市東山区)。
西郷隆盛と月照は、清閑寺にあった茶室郭公亭で謀議を行った。
小御所(京都御所)(京都市上京区)。

京都御所にある、天皇が幕府の使者・所司代・諸侯などを謁見したところ。
1868年1月3日には、小御所会議が行われた。同日発せられた王政復古の大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参与)からなる最初の会議でもある。この場において徳川慶喜の辞官納地が決定されたため、「王政復古のクーデター」と呼ばれることもある。
薩長同盟締結の地・近衛家別邸御花畑跡・小松帯刀京屋敷跡(京都市上京区)。

薩長同盟は、「御花畑」と呼ばれた近衛家別邸内にあった小松帯刀京屋敷で締結されたが、御花畑がどこにあったかで長年論争があった。
大河ドラマ「篤姫」放送時には、一条堀川にあったと考えられ、[13]にあるように石碑が立てられたが、2016年に古地図の研究で、室町通北端の鞍馬口通にあったことが判明した。それまで薩長同盟締結の地は、同志社大学今出川校地(二本松薩摩藩邸)や同志社大学新町校地(近衛家別邸)など諸説が唱えられたが、論争に決着がついた。
2017年3月5日、室町鞍馬口に新しい碑が建てられ、一条堀川の碑は撤去された。
伏見口の戦い激戦地跡(京橋)(京都市伏見区)

京橋付近は、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝舟などが集まる伏見港の中心だった。
鳥羽伏見の戦いの前日、会津藩兵が大坂から船で伏見京橋に上陸し、伏見御堂に布陣した。翌日戦闘になり、このあたりの民家が多く焼かれた。
会津藩駐屯地跡(東本願寺伏見別院)(京都市伏見区)

伏見御堂は慶長年間、本願寺第12代法主教如が家康の寄進を受けて創建した。
鳥羽伏見の戦いで会津藩はこの地に本陣を置いたが、薩摩兵は伏見御堂にも攻め寄せて来て、畳を盾に鉄砲の打ち合いになったという。この戦いで建物が大きく損傷したため、建て替えられた。
伏見奉行所跡(京都市伏見区)

伏見奉行所は、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の拠点となったが、薩摩藩は150メートル離れた御香宮に陣を張り、砲撃を加えた。伏見奉行所は灰燼に帰した。
現在は桃陵団地。
薩摩軍本営跡(御香宮神社)(京都市伏見区)

薩摩軍は当初伏見藩邸に待機していたが、旧幕府軍や会津藩兵が伏見奉行所に集結すると、本営を御香宮神社に移した。
旧幕府軍の兵力は1500以上、対する薩摩はその半数ほどだったが、御香宮神社は伏見奉行所を見下ろす高地にあり、正確な砲撃を加えたため、伏見奉行所は壊滅した。
近衛邸跡(京都御苑)(京都市上京区)

近衛家は、藤原忠通の四男近衛基実を家祖とする。その子の基通が近衛の北、室町の東の邸宅を「近衛殿」と称したことが家名の由来である。
薩摩の島津家とは鎌倉時代に主従関係を結んでいたことから、以降も密接な関係が続いた。江戸時代には幕府が公家と大名の接触を監視していたが、薩摩藩邸(現在の同志社大学今出川校地)は近衛邸の向かいに設置された。
外様藩出身で将軍正室になったのは島津家だけで、家斉正室の寔子と家定正室の敬子(篤子)は、いずれも近衛家の養女になってから輿入れしている。
篤子の養父近衛忠煕は、1857年左大臣となるが、戊午の密勅に関与し一橋派に組したため、安政の大獄で失脚し落飾謹慎した。
近衛家は1878年、東京に移転した。近衛邸跡の庭園と近衛桜が、今も残っている。
桂宮邸跡(京都御苑)(京都市上京区)

桂宮家は、正親町天皇の孫智仁親王が1589年に創設し、1881年に断絶した。
桂宮邸は幕末に孝明天皇の仮皇居となっていたこともあり、和宮親子内親王は1861年、ここから江戸に嫁いでいる。
聖護院旧仮皇居(京都市)

聖護院は増誉が創建し、常光寺と称したが、寛治年間に現在地へ移り聖護院と改めた。
1788年の大火では光格天皇の仮御所となり、1854年の大火では孝明天皇の仮御所となった。

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