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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【光る君へ】京都府

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【光る君へ】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(17)

紫式部邸宅址(廬山寺)(京都市上京区)

曽祖父藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅(堤第)跡で、紫式部はこの地で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、源氏物語のほとんどを執筆したと考えられている。
廬山寺は938年に船岡山南麓に開山し、1573年現在地に移転した。
夕顔之墳(京都市下京区)

夕顔は光源氏の乳母の家の隣に住んでいて、家の前に夕顔が咲いていたことからそう呼ばれた。架空の人物だが、彼女が暮らしていたと思われる地に江戸期に夕顔社が建立され、墓だけが今も民家の庭に残っている。
平安宮内裏跡(京都市上京区)

内裏は天皇や后たちの居住空間で、内郭の南辺には紫宸殿・仁寿殿・承香殿・清涼殿などハレの場があり、北辺には弘徽殿・飛香舎(藤壺)・淑景舎(桐壺)といった七殿五舎からなる後宮が存在し、それぞれの建物は廻廊や透渡廊で繋がっていた。
960年と976年に焼失し、その後は里内裏に移転した。1227年の火災で消滅し、二度と再建されなかった。
平安宮内裏清涼殿跡(京都市上京区)

平安前期には仁寿殿が天皇の生活の場であり、清涼殿は嵯峨天皇の時代に新設されたと考えられる。1039年の内裏火災以降は里内裏が使用されるようになり、清涼殿はあまり使用されなくなった。
平安宮内裏紫宸殿跡(京都市上京区)

紫宸殿は平安宮内裏の正殿で、公的な儀式が執り行われた。平安中期に大極殿が荒廃すると、紫宸殿ではハレの行事、仁寿殿ではケの行事が行われるようになった。
平安宮内裏弘徽殿跡(京都市上京区)

弘徽殿は天皇の居所である清涼殿に近く、後宮の中では重要な位置にあった。
源氏物語の弘徽殿女御は桐壺帝に入内し、後の朱雀帝を産む。作中では、光源氏の母桐壺更衣が帝の寵愛を受けるのを妬み、執拗な嫌がらせをして死に至らしめた。女御の妹の朧月夜もここに住み、光源氏と結ばれたが、彼は女御の怒りをかって須磨へ流される。
平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡(京都市上京区)

光源氏の母桐壺更衣は、庭に桐を植えていたためそう呼ばれた。清涼殿から最も遠いことから、后としての身分の低さを表している。
平安宮内裏凝華舎(梅壺)跡・飛香舎(藤壺)跡(京都市上京区)

梅壺は、南庭に紅白の梅を植えていたことからそう呼ばれた。
藤壺は梅壺の南にあり、藤を植えていたことからそう呼ばれた。東側から天皇の居所である清涼殿に行くことができ、後宮の中でも重要な位置を占めた。源氏物語執筆当時の藤壺女御は、紫式部が仕えた藤原彰子で、作中で藤壺が重要人物であることに影響を与えている。光源氏は亡き母に似ている藤壺に思いを寄せ、冷泉帝を生む。
土御門第(藤原道長邸)跡(京都御苑)(京都市上京区)

宇多天皇を祖とする源雅信の屋敷で、彼の死後に娘の倫子とその夫藤原道長が継承したとみられる。すぐ東には法成寺が創建され、道長の権勢の象徴となった。
この邸で、道長の娘の彰子は後一条天皇と後朱雀天皇を、娘の嬉子も後冷泉天皇を出産した。
平安京大極殿跡(京都市上京区)

大内裏の朝堂院の北端中央にあり、殿内には高御座が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われた。
朝廷の儀式の中心が土御門東洞院殿(現在の京都御所)へ移行するにつれ衰退し、1177年の安元の大火で焼失した後は再建されなかった。
晴明神社(安倍晴明屋敷跡)(京都市上京区)

一条天皇は安倍晴明没後の1007年、彼の遺業を讃え、屋敷跡に晴明神社を建立した。
一条院跡(名和児童公園)(京都市上京区)

佐伯公行がこの地を取得し、東三条院(円融天皇女御の藤原詮子)に献上した。彼女は息子一条天皇の御所として修造し、999年の内裏焼亡から1011年の崩御まで里内裏として使用された。
東の別納には、藤原道長・彰子父娘の宿泊所が設けられていた。彰子に仕えた紫式部が日記に書いている「内裏」とはこの一条院内裏のことで、一条天皇の治世には文化サロンとなった。
東三条殿跡(京都市中京区)

藤原良房が創設し、摂関家嫡流に伝領された。藤原兼家は東三条殿と呼ばれ、その後はその子道隆、その弟道長、その子頼道に引き継がれた。円融天皇の女御藤原詮子は980年、この地で懐仁親王(後の一条天皇)を産み、初めて女院号を与えられ「東三条院」と称した。
「大鏡」には、藤原伊周がこの地で弓の遊びを開催したとき、思いかけずやって来た叔父道長が、自家の繁栄を誓言して弓の勝負に勝ったため父道隆が青ざめたと記録されている。
1005年の内裏焼亡以降は、一条天皇の里内裏として用いられた。
この地はその後、藤原頼長の所有となった。1156年に鳥羽法皇が崩御すると、頼長と崇徳上皇の軍勢が東三条殿に集結した。ところが頼長の宇治滞在中に、藤原忠通と後白河天皇の軍が東三条殿を接収したのをきっかけに、保元の乱が勃発した。
1166年に焼失すると、以後は再建されず荒廃した。
枇杷殿跡(京都御苑)(京都市上京区)

藤原仲平の屋敷で、邸内に枇杷が植えられていたことから「枇杷殿」「枇杷左大臣」と呼ばれた。
1002年に藤原道長の所有となり、娘姸子の里邸として整備された。1009年の内裏消失後は一条天皇の里内裏となり、紫式部も藤原実資の取次役としてこの地で仕えたと考えられる。
1014年に内裏が消失すると、三条天皇の里内裏となった。彼は1016年、道長に強要されこの地で後一条天皇に譲位した。
高陽院跡(京都市中京区)

賀陽親王の邸宅だったため、賀陽院・高陽院と呼ばれた。
藤原頼通はこの地を気に入り、1021年敷地を倍に広げて、四方を池に囲まれた豪華な寝殿造の大邸宅を造営した。藤原実資の日記「小右記」には、高陽院の豪華絢爛な様子と馬場殿があったことが記されている。1024年の後一条天皇行幸の際は、競馬が開催された。
頼通はここを拠点に長期政権を運営したが、宇治の平等院に引退した後は、里内裏として提供することとした。これを受けて後冷泉天皇・後三条天皇・白河天皇・堀河天皇・鳥羽天皇の5代がこの地に居住し「累代の皇居」と呼ばれた。鳥羽天皇の皇后となった藤原泰子に「高陽院」の女院号が与えられたのも、この地に居住していたことに由来する。

1205年には、後鳥羽上皇が御所として院政の拠点とした。1221年の承久の乱ではこの地に兵が集められ、北条義時追討の院宣が発せられた。しかし上皇軍が宇治川で幕府軍に敗退すると、三浦胤義・山田重忠らはこの地に逃げ帰るが、上皇は門を固く閉ざし彼らを追い返した。
1223年に焼失し、その後は再建されなかった。
花山院邸跡(宗像神社)(京都御苑)(京都市上京区)

もともとは、清和天皇の皇子貞保親王の邸宅小一条院だった。後に藤原忠平の邸宅となり、外曾孫の憲平親王(後の冷泉天皇)の立太子礼を執り行った。冷泉天皇の皇子花山天皇は、退位後にここを御所としたので花山院と呼ばれ、1008年にここで崩御したことから追号が「花山院」となった。

花山院邸は後醍醐天皇の母の実家であることから、後醍醐天皇は1336年に幽閉された。天皇は、その子恒良親王を次の皇位に就けることを条件に、三種の神器を光明天皇に引き渡したが、実は偽物だった。後醍醐天皇は密かに脱出し、吉野で南朝を開いた。
恒良親王も花山院邸に幽閉され、1338年毒殺されたと「太平記」に記されている。
藤原道綱母子・源頼光一条邸跡(京都市上京区)

一条邸は、一条戻橋のすぐ西にあり、もとは藤原倫寧の邸宅だった。
「藤原道綱母」は936年ころ、藤原倫寧の娘として生まれた。954年に藤原兼家の妻となり、翌年道綱を産んだ。だが兼家は970年、豪華な東三条殿を建設し、時姫とその子らと移り住んだ。それから道綱母への来訪が激減したことが、「蜻蛉日記」執筆の契機になったとも言われる。それでも衣服の仕立てがうまかったようで、兼家からその後も仕立てを頼まれている。
「蜻蛉日記」は、954年から974年までの20年間における、兼家や道綱との生活、兼家がほかの妻に産ませた娘を養女にした話などが綴られている。女流日記の先駆けとなり、「源氏物語」など後代の文学に影響を与えた。また「大鏡」に「きはめたる和歌の上手」と評され、しばしば夫や息子のために代作した。「嘆きつつ一人寝る夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る」は百人一首に収録され、非常に有名である。
「尊卑分脈」には「本朝第一美人三人内也」と評されている。「更級日記」の著者菅原孝標女は姪である。また道綱母の兄藤原理能は清少納言の姉を妻にしているので、道綱母と清少納言は義理の姉妹となる。

藤原道綱は、一条邸で生まれ育った。父や兄弟たちのような政治的才覚も、母のような文学的素養も欠いていたが、彼が昇進できたのは源倫子の姉妹「中の御方」を妻にしたゆえであり、藤原実資に「一文不通之人」「僅書名字、不知一二者也」と酷評された。
花山天皇を出家させる陰謀「寛和の変」では、道綱は三種の神器を皇太子懐仁親王の元へ運ぶ役目を果たした。
1019年、左大臣藤原顕光が辞任するという噂が流れた。道綱は道長に1年でいいから大臣にしてほしいと頼んだが、顕光は辞任せず、道綱は生涯大臣にはなれなかった。
道綱母は972年中川に転居し、一条邸は倫寧の従兄弟源頼光に譲られたが、頼光の娘を娶った道綱はその後も居住していた。
道綱の娘豊子は、中宮彰子に仕えた女房で、紫式部日記に「宰相の君」として登場する。道綱の息子道命は、祖母とともに中古三十六歌仙の一人に選ばれている。

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