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お江戸漫遊連コミュの二八そば

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 画像1は、大判錦絵「鬼あざみ清吉」 三代歌川豊国作 名古屋市博物館所蔵
      まもなく明治になろうとする1800年代中頃に描かれたもの

 画像2は、黄表紙「仇敵 手打新蕎麦」文化四年(1807)版 南杣笑楚満人作 歌川豊彦画



富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ



 さて、「二八そば」は江戸時代からあったもの。この二八そばは落語の「時そば」に出てきますが、関西では「時うどん」。これらの落語は江戸時代からあったものではなく明治以降に出来たようで、「時そば」は三代目柳家小さんが上方落語の演目「時うどん」を江戸噺として移植したといわれてます。

 最近、「十割蕎麦」なるものが流行しているようですが、これはおそらく平成になってできた言葉。「とわりそば」と読むのかと思ったら、「じゅうわりそば」とルビを振ってあったものがありました。

 「八割五分蕎麦」とか「九割蕎麦」のようなものがあれば、打率十割のような言い方と同じと思えますが、ひとまとまりの単語で「じゅうわりそば」は、ちとダサい。

「十月十日」は、ひとまとまりの単語では、「とつきとおか」。数詞としての「十」ならば、「じゅうがつとおか」です。「十」を「とお」(または「と」)と読むのは、古語の「トヲ」からきたもの。


 話を戻して――

 「十割蕎麦」とは、小麦粉をつなぎとせずに蕎麦粉だけで打った蕎麦を意味するようです。
 これは、江戸時代初期から「生蕎麦」(きそば)といわれていたもので、その名残は蕎麦屋の暖簾や看板の文字にありますね。
 ところが看板の偽りからか、「生蕎麦」は「生粉打蕎麦」(きこうちそば)なる言葉に代わり、最近になって「十割蕎麦」なるものが生まれたようです。

 笑っちゃうのが、「生十割蕎麦」と書いた看板。

 いずれにせよこの「十割」は、「二八そば」の語源の一説、「蕎麦粉8に対して饂飩粉(うどんこ)2の割合で打った」というところから発していることは間違いないでしょう。

 ところが、落語の「時そば」や「時うどん」では、「二八」は一杯十六文の金額からきているように思えます。

 蕎麦粉の割合なのか、一杯の金額なのか。それとも別のことから「二八そば」が生まれたのか。まずはみんなでこの謎解きをしてみましょう。

コメント(23)

 画像は、『守貞漫稿』より。
 左が京坂の品書き 右が江戸の品書き

富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ富士山クローバーチューリップ

 越智久為著『反古染』宝暦三年(1753)写本には『衣食住記』からの引用として、次のように書かれています。

「元文のころより夜鷹蕎麦切、其後手打蕎麦切、大平盛り、宝暦の頃風鈴蕎麦切品々出る」

 元文:1736〜1741年

 さらに『衣食住記』には、このように書かれています。

「享保の頃饂飩蕎麦切菓子屋へ誂へ、船切りにして取り寄せたり。其後、麹町へうたんやなどと云ふ。慳貪屋出来、蕎麦切ゆでて、紅殻塗の桶に入れ、汁を徳利に入れて添来たる。其後享保半頃、神田辺にて「二八即座けんとん」と云ふ看板を出す。かかれば、そばをうどん桶に入れたり。二八そばと云ふこと此時始めなるべし」

 享保:1716〜1736年

 へうたんや:瓢箪屋

 「けんどん」は、慳貪。
 愛想のないこと。あらっぽいこと。つっけんどん。けちで欲が深いこと。
 おそらくは「つっけんどん」という言葉からきたものでしょう。

 紅殻塗(べんがらぬり):赤い漆塗り


 『衣食住記』の記述は、次のように続きます。

「うんどん蕎麦切、好みに従ひ即座に出す。殊の外流行。其の後、膳部共に箱に入れて、先々へ遣事に成り、一八、二八、三八と追々に知恵を振るふ。元文の頃より夜鷹蕎麦切、其の後手打蕎麦切、大平盛り、宝暦の頃風鈴蕎麦切品々出る」

 元文:1736〜1741年

 宝暦:1751〜1764年

 「二八そば」は「二八即座けんとん」と云われたように、つっけんどんな男が始めた「注文したら即座に出てくること」が売りの蕎麦屋――から始まったこと重要です。

 重要な部分は、下記。

 「一八、二八、三八と追々に知恵を振るふ」 

 「二八そば」が出現したのは、享保(1716〜1736年)の中頃。
 当時の蕎麦切の値段は六〜八文と推測される。なので、「八文の蕎麦切を二つずつ出した」という説はあやしい。

 「蕎麦切の値段は二つで十六文」、「二八」は「2×8」を意味したという説があるがこじつけにすぎない。

 『守貞漫稿』には、江戸時代後期の蕎麦屋の品書きが紹介されています。
 天保(1830〜1844年)頃のもので、京坂(京・大坂)、江戸とも、蕎麦もうどんも十六文、志つぽく二十四文。天ぷら三十二文、玉子とじとも三十二文(江戸)など、いろいろな蕎麦の値段がある。江戸の蕎麦屋の品書きには、上酒は一合で四十文となっている。

 京坂(京・大坂)、江戸で蕎麦(もり・かけ)の値段には差がなく、十六文であったことがわかります。

 その後の値段の推移は、幕末・維新の物価高騰によって蕎麦やうどんも例外でなく、一気に五十文になりました。

 落語の「時そば」や「時うどん」の十六文値段は、1800年代の初期から中期までのものとみてよいでしょう。
 おおざっぱに言えば十六文の蕎麦は、「二八そば」が出現した一世紀後のものです。
 だから、十六文の蕎麦を九九の「2×8」をあてはめていったという説などは、まったくのお門違い。

 振り返って、 「一八、二八、三八と追々に知恵を振るふ」 を考えてみましょう。

 ボクは次のように考えました。

 二八(おそらく仁八)というつっけんどんな男が、即座に出すことを売り物に「二八即座けんとん」をキャッチフレーズにした蕎麦屋をはじめた。それが当たって「二八そば」といわれるようになり、それにあやかって出前をする「一八そば」「三八そば」なども現れた。

 いかがでしょうか。
 編集機能を使って文章を整えようかな、と思ったら、日記と違ってできないみたい。

 読みづらい文章、お許しを。

  あはは。。。

 こんなのがありました。

 http://gourmet.livedoor.com/restaurant/327471/

 山本さんの「五十六そば」なんてどうでしょう。

ひゃくさま
トピありがとうございます(^-^)/
いえいえ、画像まであってわかりやすいです。
私も資料は持ってたりするのですが、「積ん読」だったり、つまんないと前へ進めない(^O^)/
やっぱり画像があると想像(妄想?)が膨らみますね〜。

当時の味で、蕎麦食べてみたい(^〜^)
☆ばびこはん
 ちょっと書き過ぎたかな。上記『衣食住記』からの引用に、「手打蕎麦切」がでてきます。
 蕎麦や饂飩を打つ製麺機は明治になって発明されたもの。はじめは弾み車を使った手動式でした。

 その製麺機が現れるずっと前。江戸時代中期には手打蕎麦切があった。これも面白いでしょ。
 二八蕎麦の語源は仁八さんがはじめたからという説はシュールでいいですねえ。
 またニハチをIMEで変換すると第一候補は仁八というのも意外でした。

 ちなみに私が通う社員食堂の蕎麦は逆二八蕎麦というかひょっとすると九一蕎麦くらいで、うどんと同じ味がします(笑)。
 まあ蕎麦粉の価格と小麦粉の価格は江戸時代(というかつい近年まで?)と現代とでは逆転しているでしょうから…
「二八即座けんとん」のけんどんでやすが、こんな詞がございやすンですが。
 倹飩(けんどん)、これ倹約饂飩をつめた詞でやして。うどんや蕎麦をいっぺえずつ盛り切りにしたものをそう呼ぶそうでやすから、お客の注文があるとぐいづくりでこせえて出す見世だったンでやしょう。これを売る見世をけんどん屋と呼んでいたようでやして。
<阿千代之伝>安永「倹飩そばではらをつくろひ」
<川傍柳二>天明「倹飩や覗いて娵(よめ)はいゝゑ也」


 また、こうもありやすナ。
 慳貪(けんどん) 汁で煮た饂飩または蕎麦切を盛切にしたもの。けんどん饂飩。けんどん蕎麦切。
<柳多留廿>天明五「母の留守けんどんなどて人をあつめ」

 慳貪屋(けんどんや) うどん、蕎麦、飯、酒など、一杯盛切の飲食物をあきなう見世。
<川柳評万句合>安永七年「つぼ深いさかづきを出すけんどんや」
 このつぼ深いさかづきッてえのハいま言ふぐい呑のことでございやしょう。ぐいッと急いで呑むなぞ品のいゝもんぢァありやせんから、けんどん屋にァ似合いですナ。

   喜の字

Stephanさま
江戸時代は蕎麦粉より小麦粉が高かったんですか?確かにそうかも(^-^)/
あと、どの地域まで蕎麦文化でどこからうどんなんでしょう?(江戸とは関係ないかも)

喜三二さま
またまた面白いお話ありがとうございました。川柳からいろんなことがわかりますね。
 9の稿、ちょいと直させてもらいやしょう。

>お客の注文があるとぐいづくりでこせえて出す見世だったンでやしょう。

 これ間違いで、饂飩でも蕎麦でも一杯盛り切りで黙って出しておいて客にすすめたりもしねえ見世を慳貪屋と呼んでたそうでして。器に盛っちァたゞ突き出すだけ。愛想なんてありァしねえ。そいだもんで、愛想のねえのを突ッ慳貪ッて言ふようになったンぢァありやせんかい。

 また、こんなけんどんもありやしてネ。忍けんどんト大名けんどん。
  藪入や 二階へ二膳 しのぶ山
この句のしのぶ山は忍けんどんのこと。小さな器のけんどんで、四角くて大きな箱のけんどんを大名けんどんト言ってゐたようでやして。二階へ二膳たァ粋ぢァありやせんかい。江戸の町家の二階ッてのハいまみてえに作り付けの階段ぢァなくて、梯子段がふつうでやすから、上へ上がって梯子を引上げちまえば誰に遠慮もいらぬ仲ァってことでしてネ。そいつを藪入でやるンだから、丁稚だったらおませだねえ。この句ハ手代かねえ。

喜の字
 小麦の日本における在来種に含まれるタンパク質のアミノ酸組成はグルディン形成からみた場合、中力粉となるものでした。唐菓子由来のかりんとうも、饂飩や素麺、醤油の原料、天麩羅のころもにも饂飩粉と称される中力粉でした。
 江戸で醤油が普及した頃には既に大豆だけではなく小麦も使われていました。
 小麦は蕎麦に比べて需要が多く、不作のときは生産が需要に追いつかない。

 そんなことから江戸時代初期には、蕎麦切を打つときのつなぎに小麦粉を使うことはなかったのです。

 新潟の「へぎ蕎麦」は大正時代にできたものですが、これは地域的なこともあって小麦粉の入手が困難だったことによります。小千谷が紡績がさかんだったことから、それに使われていた布海苔を蕎麦切のつなぎに使ったのがはじまりです。
ひゃくさんの文章を読ませて頂きまして、コミュにも参加させて頂きました。


さて、蕎麦の細切りの歴史よりも、うどんやそうめんの方が細切りの歴史が古いですものねほっとした顔
落語も、時代に合わせて、変化をしていったと聞きます。

『守貞漫稿』を読みましたが、天ぷらも始めはお菓子として登場するのが興味深かったです。
るんるん陸奥さん
 どうもです。

『守貞謾稿』(生業上)にはこうあります。

「二八うどん、だし汁かけ、湯漬ともに下図の如き平皿に盛る。しっぽま、安平、鶏卵の類、平椀(漆器)にもる、椀は朱或は黒ぬり」
「江戸は二八の蕎麦にも皿を用ひず、下図の如き外面朱ぬり内黒なり、底横木二本ありて竹簀をしき、其上にそばを盛る、是を盛りと云、盛そばの下略也、だし汁かけたるを上略して掛と云、かけは丼鉢に盛る、天ぷら 花巻 しっぽく あられ なんばん等皆丼鉢に盛る」
【けんどん争ひ】
 江戸時代の随筆集、岩本活東子(達磨屋佐七)編『燕石十種』(えんせきじっしゅ)という文久年間の史料の二巻には、「けんどん争ひ」として山崎美成と曲亭馬琴の「けんどん」の語源に関するやりとりが掲載されています。

 二人は当時の文人サークル「耽奇会」で出会ったようです。

 馬琴は「けんどん」の語源について慳貪、見頓、巻飩などの漢字からの忖度、けんどん蕎麦、大名けんどん、けんどん野郎などの派生語からなど考察を加えたのですが、美成は馬琴の検証が気にいらない。
 当初の尊敬の念も消え、次第に馬琴に対して「先生」と呼びかけたに対し、馬琴が「子」と返して来たことに対して美成は「人を下に見て貶められた」と感じ、怒った。
 馬琴は「子」とは孔子や孟子に通ずる尊称の意で貶めた覚えはないという。しかし美成は納得しない。
 執拗に自説への拘泥と人格誹謗をネチネチと馬琴に送り返したそうです。
 この「けんどん争ひ」とは学者同士の意見交換とも思えない。「このヤロー」です。

 けんどん争ひ。いつの世でも起きそうですなァ。釣ぢァ獲物がでっけえちいせでもめ、蕎麦屋へゝえりァもりの枚数が多いの少ねえでもめ、物知りの間ぢァどっちが正しいかッてんでもめネ。やだねえ。争ってるト蕎麦のびちまうゼ。
 もっとものびる蕎麦ッてえのハ小麦粉が多いンだとかないとか。あっしァわかんねえがネ。殻ごと挽いた真ッ黒な蕎麦ァ茹で置きしてものびねえト馴染みの親爺が言ってたことがありやしたが、そいで観光地なんかぢァ真ッ黒な蕎麦ァ出すのかァト気づいたりしてネ。バスでどっと固まって来た客に一ツッツ茹でゝたら間に合わねえものネ。

 さて、別のことでやすが、どなたかご存じありやせんかねえ。
 ちか比(頃)江戸蕎麦ッて招牌(かんばん)挙げてる蕎麦屋が東京にちらほら見かけやすが、なにをもって江戸蕎麦ッて言ふンでやしょうか。また、そうした見世がたいてい鳥渡(ちょいと)した小料理をだしやすんですワ。そうしたことが江戸蕎麦の決まりなんですかねえ。あっしァどうも蕎麦屋は小料理屋ッてえか割烹ぢァねえと思っておりやすんですがねえ。
 ご存じのお方がございやしたらおせえておくんなせえ。

 喜の字
るんるん喜三二 さん
 江戸蕎麦だとか十割蕎麦などというものは、最近の造語です。こうした言葉は「手打ち」を売り物にする店がよく使っています。

 で、前に書いたとおり「手打蕎麦」はもともとは「機会打ち」(製麺機で打った蕎麦)の対語ではなく、江戸時代中期からあったものです。詳細はそのうち書くとして、昭和の戦後になって電動モータを動力源とする製麺機の普及によって、「手打ち」と称する手作りの蕎麦打ちは東京ではほとんど姿を消しました。

 ところが、昭和40年代のおわりになって蕎麦打ち教室なるものが出現。江戸でやってた3本の棒を使って蕎麦を打つ法が広まりはじめました。
 趣味でやってるうちはいいのですが、1ヶ月足らずでプロを養成するコースもあって。。。
 脱サラの手打蕎麦屋が、次々にできていったのです。
 そうした店では懐古趣味の人たちを相手に「本物の蕎麦」と称して出すのですが、正直言って素人芸のようなものも少なくない。
 江戸時代にまで遡ってみるということは、ふつうに営業している蕎麦屋には出来ないこと。それをいいことに、聞きかじりの薀蓄でリピート客をつかみ、特別に美味くもない蕎麦を出していたりする。

 蕎麦屋は知ってる。「大きくとって、小さく打て」。これが基本です。
「つゆは大量に作り、蕎麦は必要なだけ打て」ということです。
 ところが、江戸で蕎麦がブームしてくると、そうもいっていられない。そこで3本の棒を使って打つやりかたが考案されたのです。
 だから客の少ない店で、これ見よがしに大きく打つなんてのは、本末転倒です。

 蕎麦のコミュでボクが鰹節のトピックに書いたことに、突っ込みを入れてきた人がいます。突っ込みの内容から「俄仕込みの知識」を披露したいのだとわかったけど、それにしても書くこと書くことお粗末極まりない。たとえば明治になってできた本枯節(4度以上黴付けした)について、「江戸時代から使われていた」と書く。それじゃ、江戸時代のいつごろかと返信すると返ってこない。
 その突込みを入れてきた人は、なんと築地の蕎麦打教室の理事長さん。ボクからの質問の答えに窮して、鰹節問屋の専務さんに訊きにいく。で、「鰹節問屋の専務さんはこう言ってました」という(笑)
 鰹節問屋の専務さんが言おうが横丁のご隠居さんが語ろうがそんなの関係ない。
 開店して30年ほどの鰹節問屋。その二代目は蕎麦打教室の理事長の質問にどう思って答えたのか。
 理事長さんは、鰹節問屋の専務さんから『鰹節』という専門書を貸してもらうと言ってたけど、宮下章著『鰹節』ならボクは出てすぐ(8年ほど前)に読んでる。

 江戸時代中期にでた『蕎麦全書』(日新舎友蕎子)には蕎麦汁に使う鰹節について「よく枯れた節を使うのがよい」と書いているものの、著者自身は精進を好んだようで、鰹節を使った汁では蕎麦は食べていなかった。
 当時の鰹節は、それほど生臭いものだったという証左になるでしょう。

 江戸辛汁というのがあります。
 汁は「つゆ」とも言いますが、これは「露」から洒落て言うようになったもの。江戸時代後期の随筆には「露」がよくでてきます。

 さて、落語にもでてくる江戸辛汁とは、どんなものなのか。
 江戸開府から200年。1800年代になる少し前、天明のあたりから江戸の料理は大きく変化します。
 なかでも1820年を過ぎたころから料理に使われだした「白味醂」によって、江戸の味ができたといっても過言ではありません。

「醤油と味醂は一対一」キッコーマンのテレビコマーシャルでやってたあの配分が江戸の味のベースです。

 で、江戸辛汁は、醤油1と白味醂1を合わせた2が、1になるまで煮詰めたもの。
 だから、猪口のつゆをたっぷりつけて蕎麦を食うなんてできるはずもない。
 ひゃくの旦那、ありがたふおざりィやす。
 江戸蕎麦の名乗りがちか比(頃)のもんてえことハ東京もんのあっしも承知ァしておりやすしたンですがねえ。お手間とらせやした。

  喜の字

 追い書き
 ついこないだまで、本州の真ン中で山ぐらしいたしやしておりやしてネ。旦那お書きの蕎麦打ち教室ご卒業のにわか蕎麦屋さんが、いっぺえ見世ァ開きやしてサ。こいつがすぐに白人だなッて分かるンですワ。もりをせいろなんて偉ぶって客に呼ばせやしてサ、跡ハできますものハ天麩羅。これもきのうけふの白人に揚げられもんぢァねえが、そいつゥやっつけちまふ。油の切れハわりいしネ。法外な直ェふっかけやすくせに、天麩羅と精進揚げの区別もつかねえ。種もんハなしダ。あんなもん出すのは名人達人の蕎麦屋ぢァねえッて面ァしてるが、裏ァまわりァできねえだけのこと。そいで、もりッきャねえ見世ハ白人だってえことが知れるッてわけでネ。直でも分かりやすねえ。白人はてめえの仕事をべらぼうに高く評価いたしやすんで、もりいちめえが七百円だの九百円だのゝ高直サ。
 とんでもねえじでえになりやしたもんヨ。くわばらくわばら。
ひゃくさま
へぎ蕎麦大好きですが、そういう理由があったのですね。でも、いろいろ考えますね〜(怪我の巧妙?ちょっと違う)

昔から、あるんですね。「蘊蓄争い」
きっと、内容関係なく、引っ込みつかないのでしょう。
蕎麦屋に限らず、店主が威張ってるのはやな感じ。たとえ味が良かったとしても、それこそ後味が悪い。サービスも含め、トータルの雰囲気が大切ですね〜。
 ちか比(頃)お江戸でちらほら見かける江戸蕎麦ッてのハなにか定めがあるンですかね。ご存じのお方いらっしゃったら、後学のためにおせえておくんなせえ。

 喜の字

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