萬葉集・万葉集コミュの未解読の人麻呂七夕歌

未解読の人麻呂七夕歌

七夕(なぬかのよ)

天漢安川原定而神競者磨待無
(天の川安の川原定而神競者磨待無)

(巻10ー二〇三三)
この歌一首は※①庚辰(こうしん)の年に作れり
※②右は柿本朝臣人麻呂歌集に出づ

【訓み】
人麻呂歌集所載七夕歌の最後を飾る歌であるがご覧のように定訓が無い。
略体歌も勿論だがこういった中途半端な？非略体歌も訓み方が難しい。
各先生方の試訓を挙げておくと

天の川安川原の定まりて　神(こころ)競(くら)べば時待たなくに（西本願寺本の訓）

天の川安川原(やすのかわら)の定まりて神つ競(つどひ)は時待たなくに(賀茂馬淵)
天の川安川原に定まりて神し競(きほ)へば年待たなくに(武田祐吉)
天の川安川原に定まりて神つ競(きほ)ひは　時待たなくに(佐々木信綱)
天の川安川原に定(しづ)まりて　神(こころ)競(きほ)へば　麿(とき)待たなくに(土屋文明)
天の川安川原の定まりて　神し競(きほ)へば麻呂待たなく(澤瀉久孝)

天の川安河原の定まりて心競(きほ)へば磨(とぎ)て待たなく(中西進)
(天の川の安の川原が神代の昔に決められてしまってから、逢いたいと思う心がはやるので、心は張り詰めるばかりで待てない)

私はこの中西先生の訳が一番良いのではと思っていた(ただ、やはりこれも定訓ではない)のだが、「神」は「こころ」と訓めるのか。岩波古語辞典を調べたところ「神」には「こころ」「たましい」という訓みは勿論、意味も無かったから「義訓」となるのだろうか。

参考までに………恥ずかしながら先生方の訓みと覚えていた歌を参考にしながら私なりに考えたのは

天の川安の川原と定めてし神と競(きほ)はば時待てなくに
(渡瀬を安の川原と決めてしまった神々と争っても徒に時が過ぎてゆくばかりだ……)

というものだが果たして訓めるのだろうか。「神」＝天の川を挟んで二人を分け隔てた織女の父・天帝や天の川を作った神々と考えた。

【作歌年度他】
左注にはこの歌が※①庚辰の年に作ったとあり人麻呂歌集所載の七夕歌ということを併せて考えると、それは天武九年(680)としか考えられない(粂川定一氏)らしく、また左注もどうやら人麻呂の自注でそれだけに人麻呂にとって重要な意義を持つ作品であったらしい(伊藤先生)
※③人麻呂の生年は多分斉明朝の655年頃(伊藤、神野志先生)と考えられるからこの歌は人麻呂二十五歳位の作となる。当時は二十才位で出仕したと考えられているから出仕後五年位の作となり妥当なところではないか。その意義とは何だったのかはっきりしないが、勝手な推測ながら人麻呂が初めて宮廷、それも忍壁や弓削、長、舎人などの所謂皇子文化圏で開かれた七夕の宴に参加してその席で詠んだ歌ということではないだろうか。

歴史学者の吉田孝先生は著書「大系日本の歴史」の中で「柿本人麻呂の生年はこれまでの通説よりも古く、大化改新のころと推定する説が有力となってきた」と述べているが、私は寡聞にしてそのような説を聞かず現在も知らない。
これに従って人麻呂の生年を大化改新の頃とすると人麻呂の生年は645年頃となり、二十歳(665・天智四年)で出仕したとして人麻呂が二十六歳である天智朝最後の天智十年(671)の頃までは天智朝に出仕していたということになる。これでは人麻呂作の※④二一七番・吉備津采女死亡の歌が近江朝に詠まれたものとする説(北山茂夫)に与することになってしまうのではないか。

この二一七番吉備津采女挽歌は結構難解で私など説明するのも難しいが、持統朝の采女入水事件として当時有名であった吉備津の采女事件について「人麻呂と同時代の事件(吉備津の采女事件)を近江朝の采女志賀津の采女に託して歌ったものと見る」(伊藤先生)という作品である。
つまり、人麻呂が持統朝当時話題になった「吉備津の采女事件」を、二一七長歌では双方の名を一切出さず「梓弓音聞くわれも」とさも自分も知っている事件でございますとばかりに詠み乍ら、二一八、二一九短歌で直接知る筈のない志賀津の子を詠む…という手法で表面上は恰も天智朝の「志賀津の采女入水事件」の如く見せかけ、その実「これはあの『吉備津の采女入水事件』である」と聴衆に確信させるように仕組んだもので、流石に当時の禁忌に触れた事件や人物の名をそのままストレートに詠み込むのは差し障りがあったのだろう。
亡くなったのが官女とはいえ采女、しかも禁忌に触れた人物というのでは公式の挽歌を詠む筈もなく鎮魂の目的と共に宴会の場で雰囲気を変えるための歌として作ったのではないか。

二一七歌の作歌時期は、配列(巻二の年代順配列はあまり当てにならないが)から考えて持統後期～文武朝と思われる。反歌が「反歌」ではなく「短歌」となっていることからこの歌群が少なくとも持統六年(692)以後、確実なのは持統十年(696)高市皇子挽歌以後に作られた可能性が高く(これにも若干の例外があるが)、勝手な推理だが私は大宝三年(702)以後の作ではないかと思う。

これを北山氏の言うように天智朝の作で仮に天智朝最後の天智十年(671)の作とすると、この後天武朝での初の万葉集掲載歌(人麻呂歌集を除く)でおそらく持統二年(688)の作と思われる二八番近江荒都歌まで最低でも一七年もの間、こんな手の込んだ歌を作ることの出来る優れた宮廷歌人が一首の歌も詠まなかった……ということになってしまい極めて不自然と思わざるを得ない。また、人麻呂の持統朝出世作とも言える持統三年(689)の日並皇子挽歌を作った時の年齢が当時では既に初老である四五歳とは到底考え難い。

伊藤、神野志(こうのし)という万葉学の高名な学者先生二人の意見が一致している655年頃というのは極めて妥当な人麻呂出生の年度と思う。Wikiなどでは寧ろ人麻呂の出生年度をもう五年くらい後に考えているくらいである。

※①庚辰の年………この後には天平十二年(740)があるということだが、人麻呂歌集所載ということを考えればやはり天武九年しかないであろう。

※ ②「右」(人麻呂歌集)の範囲は一九九六から二〇三三まで

※③人麻呂の生年………お二人の考えは人麻呂は平城京遷都(和銅三年・710)の直前に死亡し死亡時の年齢が五十五才くらいと思われるということからだろう。

※④ この二一七歌の題詞「吉備津釆女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌」からも人麻呂が持統朝に作ったものであることが分かる。