萬葉集・万葉集コミュの一五一番額田王作天智天皇挽歌についての若干の考察

天皇の大殯の時の歌二首のうち
かからむ※①の豫(かね)て知りせば大御船(おほみふね) 泊(は)てし泊りに標(しめ)結はましを
(このように(天皇が病で亡くなる)なるであろうことの予め分かっていたならば、大君の乗られる船が泊まっている湊に標を結って悪しきモノ(物、鬼)が入ってこないようにしましたものを)

原文; 如是有乃豫知勢婆大御船泊之登萬里人標結麻思乎

(額田王・巻2ー一五一)

額田王らしいシンプルで古格と男性的な力強さを持つ歌。原文に忠実な訓み、意を考えると上記のようになろうかと思う。
しかし、浅学の徒の身で万葉学の大家お二人には大変僭越かつ失礼ながら、伊藤中西両先生の訓み及び意を見るとそれぞれ下記の如く少々疑問を感じるのだ。

(伊藤先生の場合)

訓み………※②かからむと豫(かね)て知りせば大御船(おほみふね) 泊(は)てし泊りに標結はましを
意………(こうなるであろうとあらかじめ知っていたなら、大君の御船が泊った港に標縄を結りめぐらして悪霊が入らないようにするのだったのに)

疑問点…………ネットなどでも「かからむと」としている訳が多いように思うことからこれで良いのかとも思ったが、やはり「如是有乃」の「乃」の訓みはあくまでも「の」であって「と」とは訓めない。伊藤先生はこれに関して何も説明していないが、中西先生の本では「これを『と』と訓むために原文『乃』を『刀』の誤りとすると仮名違い(となる)」とあって、どうやら伊藤先生は敢えて仮名違いを黙認したように思える。「仮名違い」とは音韻による用字違いをいうのだろう、動作の相手、変化の結果、引用、並列、比喩の意の格助詞「と」は下記の例のように音韻乙の字を用いなければならず、音韻甲の「刀」は誤りであるということと思われる。伊藤先生は「誤字とするのは最後の手段」と言っていたと記憶しているので少々意外に思ったのだが………
で、音韻乙の「と」の例を示すと
弟日娘跡(六五)「をとひめと」(動作の相手)
遊士跡(一二六)「みやびをと」(引用)
春山跡(五二)「はるやまと」(引用)
客去君跡(六九)「たびゆくきみと」(引用)
由久遊久登(一三〇)ゆくゆくと」(比喩)

何か圧倒的に「跡」が多いが(笑)………音韻乙の「ト」の字としては止、等、登、騰、徳、得、鳥、十、跡、迹、常を挙げている(学燈社・稲岡耕二編万葉集必携・万葉仮名一覧)がよく見かけるのは等、登、跡、常くらいのものだろう。
勿論、私如き浅学の徒でも知っているこんな基本的なことをプロフェッショナルで百戦錬磨の万葉学の達人・伊藤先生が知らぬワケがない。先生はこんなことは当然のこととして、もっとはっきりとした明確な意を表わすためにワザと「と」を使ったのだろうと思えるし、さらには力強く男性的な語感を額田王の歌の魅力として、それを最大限に表現するために敢えて意味明白、男性的で力強い語感の「と」を使って「かからむと」としたのではないかと思っていた。
そしてそのことを注記するのを忘れたのではないだろうか。私の勝手な思い込みだが、この「如是有乃」の「乃」は※①連体修飾語の格助詞「の」であるから訓みはあくまで原文に忠実な「の」として、「を」「と」と同じような意で扱えばよいのではないかと思っていたのである。

(中西先生の場合)
訓み………かからむの ※②懐(おもひ)知りせば大御船(おほみふね) 泊てし泊りに標結はましを
意……(このように去ってしまおうとするお気持ちが分かっていましたなら、天皇の御船の泊った津に標を結んで出られぬようにしておきましたものを)

⑴ 「金沢文庫本、類聚古集、古葉略類聚鈔による。『懐』は集中歌には用いられぬが漢文中に見える」として「豫」を「懐」としているが、伊藤先生の言うように誤字とするのは最終手段とすべきであって、十分に意味の通じる、いや、明らかにこちらの方が適していると思える「豫」をわざわざ実感として感じにくい「懐」にするのは感心しない。表現の問題かも知れぬが死ぬ寸前の意識不明である人に「去ってしまおうとなさるお気持ち」などあるわけが無かろうとついつい思ってしまうのだ(笑)、如何にも不自然でまた(2)の標の用法もあり、私は中西先生の意訳には違和感を感じざるを得ない。

(2)「標(しめ)」とは一定の領域を囲い込み、内側から人を排除するなどしてその領域を占有したり神聖性を保ったりすることをいい、これが本来の用法だろう。
「明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ」(一四二七)は、春菜を積むため事前に野に標をし、他人を立ち入らせないようにしたもの。
また「標野」は天皇所有のそのような料地を意味する。
尤も、この中西先生の意のように天皇の霊を出てゆかぬようにするというのも、少ないものの
「祝(はふり)らが斎ふ社の黄葉も標縄越えて散るといふものを」(二三〇九)

と用例はあるから誤りではない。
が、やはり標とは本来、外部からの侵入を阻止するためのものであり、ここは伊藤先生の意の用法が適当と思うのである。

(結論)
それとも………あくまでも「と」とせずに「乃」の訓みを「かからむの」とした場合には、「豫」を「懐」とした中西先生の意の方が意が通って適しているということなのだろうか？
「かからむの豫(かね)て知りせば」では「かからむの」が「かからむの」が「知りせば」を修飾することは、用法的に間違っていてあり得ないのか？
後で分かったことだが、これはどうやら「の」が「体言＋の＋体言」の形式を今日に至るまで保っていることに起因していると思われる。

＞「私が行く」という形は今日普通であるが、「私の行く」で切れる文の形は、今日でもまだ使われない。これは「の」が「体言＋の＋体言」の形を依然として厳重に保っているからである(岩波古語辞典)

この古語辞典の文から思うに、額田王の「かからむ(体言)＋の＋豫て知りせば(非体言)」は文の形として成り立たないということだろう。これを伊藤先生の「かからむ(体言)＋と＋豫て知りせば(非体言)」、或いは中西先生の「かからむ(体言)＋の＋懐(体言)」ならば形として成り立つということではないかと今、気が付いたのだが………

つまり私の考えた訓み「かからむの豫(かね)て知りせば……」は形として成り立たないということだろう ^^;
しかし、そうであれば額田王の原文も形として成り立たないということになるのではないか。

以上、先生方の意訳の文はその形が成り立つように工夫？されたものだったのである。だからどちらの意訳も正しいということになり、どちらを取るかは読者の好みということになるのだろう。ちなみに私は上に書いてきた理由から迷わず、単純明快な伊藤先生の意訳を選ぶ。

以上下手な考察ではあるが、誤り、問題点等ありましたらご指摘、ご指導のほど宜しくお願い致します。

※① 連体修飾語の格助詞「の」………少し長くなるが岩波古語辞典によると「あはれの鳥」は「あはれ」に所属する鳥であり「あはれ」という属性を保有する鳥である。
こうした属性を示す用法から「一杯の濁れる酒」「千万の軍」など体言を修飾限定する「の」の用法が発展し、さらに「朝露のごと」「夕霧のごと」のように「ごと」( 同一の意)を修飾する用法も現れている。
例; 「くちをしの花のちぎりや」、「たのもしげなの事やとのたまふ」(枕草子135)

つまり「かからむの豫(かね)て知りせば」では「かからむの」が「知りせば」を修飾しているということになるのだろうが、これは上に書いたように「形」として成り立たない。

※② かからむと豫(かね)て知りせば………巻17ー3959 には弟・書持(ふみもち)の死を悼んだ大伴家持の歌
かからむとかねて知りせば越の海の荒礒の波も見せましものを

があるが、原文は仮名表記の「可加良牟等可祢弖思理世婆………」となっておりなんら問題はない。が、二句目を見るとこの額田王作一五一歌もやはり原文通り「豫(かね)て知りせば」とするのが適当と考える。そのためにはやはり「の」ではなく「と」を用いなければならないのだろう。