萬葉集・万葉集コミュの石田王の死

石田王(いはたのおほきみ)の死　

【１】春日蔵首老は何故深更に異界の地泊瀬へ向かったか

二十年前、まだ初心者であった頃に古書店で買った保育社カラーブックス「万葉のふるさと」(高田昇氏著・昭和38年出版)を読んでいて疑問を抱いた歌があった。

※春日蔵首老の歌一首
つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ
((多に蔦が沢山絡みつく)磐余もまだ通り過ぎていない。いったいいつになったら磐余の先にある泊瀬山を越えられるのだろうか。夜も更けてきたというのに)
原文; 角障經石村毛不過泊瀬山何時毛将超夜者深去通都

(巻三ー 282)

がそれで、初心者でも泊瀬(初瀬)が葬送の地で周囲には舒明天皇や鏡女王を埋葬した忍坂もある異界の地であること位は知っていた。歌からは作者の老が夜に藤原京周辺から泊瀬方面に向かって発ったらしきことが分かる。

隠国の異界と恐れられた泊瀬…また※①磐余の地も以前に投稿した「香具山・鳥見山・三輪山に囲まれた地帯が磐余。この地帯を東方に約七キロ歩めば泊瀬に入る。磐余を泊瀬の国の精霊たちが暗い谷間を流れ下って平野に出、香具山によってせき止められたたまり場と見る説(和田賀寿男『大和三山』)がある」ということで、282歌からは詠嘆の意の助詞「も」の効果も手伝ってか作者老の不安な気持ちがこちらに伝わってくるようだ。
この老の不安は、以前投稿したやはり月の出が遅いために真っ暗な夜道を行く不安を詠んだ間人宿禰大浦の290番歌
倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の光乏しき

に比べてもずっと強いように感じる。

歌に続いて著者の「山田から阿倍そして泊瀬への道のりは長い。ほとんど人家もない道が続く。ここは万葉人たちが※②泊瀬女のところへ朝夕通った道だ」という解説文が載せられている。著者はどうやら解説文には記載の無い「何か」を知っているらしい。
だが、老がわざわざ夜更けにそんな怖い道を通って愛人の泊瀬女宅を訪れるとは考え難い。しかし著者の文から考えて老が目指しているのはどうやら異界の地の泊瀬であるらしい。

「ほとんど人家もない道が続く」…‥今からたかだか六十年前でさえそんなありさまである。1300年前の深更の山田道の暗さ、寂しさ、恐ろしさはいかほどだったであろうか。
老が通っているのは山田道か磐余道かは不明だが何にしろ暗く寂しいことには変わりあるまい。私の持った疑問は老が何故そんな夜更けに不気味な磐余の地を通って更に不気味な異界の地・泊瀬に向かって慌ただしく飛ったのか？そして仏道修行を積んだ筈の老が、多分従者もあるだろうに何故そんなに不安がっているのか？ということである。

この疑問に関して触れた解説書やネット記事は皆無で自分で色々と調べて考えざるを得ない。そのためにこのことは長い間滞っていて半ば忘れていたが、そのうち段々と興味深いことが分かってきた。
この282の二つ後にはやはり老の
焼津辺にわが行きしかば駿河なる阿倍の市道(いちぢ)に逢ひし子らはも (284)

があるから三河、駿河方面に向かったのか？いや、それなら何もわざわざそんな夜更けに出発することはあるまい、ましてや不気味な地を二つも通らねばならないのである。「越える」といっても泊瀬山を越えて吉隠や墨坂方面にまで行くとは限らず、第一ちゃんとした官道がある。以前投稿したように泊瀬を取り巻く山は皆「泊瀬の山」であり忍坂の山も泊瀬の山なのである。だから「越える」といっても多分高い山ではなく低い丘を通過するのだろう。そこで私が思ったのはその夜のうちに辿り着ける泊瀬で何か弔問及び調査報告を要する急な凶事が起こったのではないかということである。泊瀬といっても結構その範囲は広いがまあ3時間もあれば到着できるだろう。

とすると、元僧籍の老は泊瀬に居るらしい誰か高貴な人に起こった凶事を知った宮廷の命によりお悔やみと状況視察のために泊瀬へ向かったように思えるが、それならば確かに適任と言える。それにしても老の不安は少々仏道修行が足りないようにも思うが、それはその顔見知りの高貴な人物某が泊瀬で亡くなり和田氏が言うようにその霊が泊瀬から磐余へと流れ下って来るように思ったのではないか。
マイナーな存在であるが「巨勢山のつらつら椿」の元となったと思われる56の「河の辺のつらつら椿」など独特な味わい深い雰囲気を持つ歌を詠む老のこの歌を読んで同じような疑問を持たれた方もおられるのではないだろうか。

上記284の歌は老が焼津にて詠んだものと思われるが、私は初め老が持統最晩年(持統は大宝二年(702)十二月没)である大宝二年の※③持統参河行幸に従駕した際に焼津まで足を伸ばして詠んだものだろうと思っていた。
しかし巻三に載せられた歌の配列は部立ごとにほぼ年代順とされる。
そうすると、284の歌は大宝元年秋九月の持統文武紀伊行幸の際に老が詠んだ
よろしなへわが背の君が負ひ来にしこの背の山を妹とは呼ばじ (286)

よりも前に配置されていることから、持統参河行幸の際のものではなくその前年の大宝元年に詠まれたものと考えられる。行幸の前に老が下準備や根回し等のために参河に赴任、滞在したものと思われるが老はその時になんらかの所用で焼津にまで足を伸ばしたのだろうか。
そうすると282、284、286は大宝元年にその配列通りの順に詠まれた歌々と考えられる。
また282が詠まれたのは後述する425の「河風の寒き長谷」という句から推して老が還俗して間もない三月かと思われる。因みに続日本紀によると老はこの大宝元年三月十九日、還俗に伴い僧名「弁基」から「春日蔵首老」に改名している。

この282の前後に高市黒人やこの春日老の歌が交互に載せられていること、老の還俗後と見られる歌々が還俗前の298歌より前に並べられている理由については不明だが、老などの資料にそのまま拠ったものか(伊藤先生)ということらしい。

以上作歌の年度は持統晩年の大宝元年らしきことは分かったものの、この歌のことはそれから進捗の無いままに長い間離れていたのだが「石上布留」に関する歌を調べていた時にふと目に留まった※④歌があった。そしてその歌の作者が丹生王(丹生女王)で配列から持統晩年頃に作られ、どうやらこの282歌に関係があるらしきことに思い当たった。
その歌を読むと、はたして老が夜に泊瀬に向かったのはその日に忍壁皇子の子息で丹生女王の夫と思しき石田王という人物が泊瀬で急死したためと思われ、282から感じられる老の不安(怖れ)はこの石田王の死と上記和田氏の説とを結び付けることによってのみ初めて理解することができると感じる。

そして日付の記載は無いものの歌の配列と泊瀬で没という内容から考えて石田王の死が大宝元年と見て間違いないだろうと思われる挽歌が二組ある。
それが上の丹生王作420～422と山前王作423の歌群でこれらの前にある河内王の挽歌群が持統八年(694)作であることからは持統晩年の作と思われる。しかもこれらの挽歌群の後には吉野で入水した出雲娘子を火葬にした時の人麻呂の429～430が有り、これは持統の大宝元年六月吉野行幸の際の作と思われる。
石田王挽歌である420～422、423の配列が巻三挽歌の部のこの位置にあることは、老の282との関連を考え併せると石田王が大宝元年三月に亡くなったことの十分な根拠となるように私は思うのである。

その石田王の死に関する挽歌は次頁以下の通り。

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[1] mixiユーザー 10月11日 00:16

石田王の死

【２】丹生王(丹生女王)作の挽歌

その作者の歌というのは※④丹生王(にふのおほきみ)の
石上布留の山なる杉群(すぎむら)の思ひ過ぐべき君にあらなくに
(石上布留の地の杉群、その杉のようにすぐに忘れ過ぎてしまうような存在ではないのだ……私にとって大事なあのお方は)
(巻三ー422)

で、題詞には「石田王の卒りし時に丹生王の作れる歌一首幷せて短歌」とあり、これは挽歌である420番長歌に添えられた短歌のうちの一首である。
この420はなかなか練れた、また凝った歌で最初は少々くどく感じるが解説書片手に何度も読み返していると実に丁寧に作られていることが分かる。中でも歌に出てくる「悔しきこと」についての八句三連の叙述は52「藤原京御井の歌」の六句四連の叙述に似ており、丹生王はもしかして詞章を作る中臣氏のような詞人ででもあったのか。

なゆ竹のとをよる御子さ丹つらふわが大君はこもりくの初瀬の山に神さびに斎きいますと玉梓の人ぞ言ひつるおよづれかわが聞きつるたはことかわが聞きつるも』天地に悔しきことの世間の悔しきことは「天雲のそくへの極み天地の至れるまでに杖つきもつかずも行きて夕占問ひ石占もちて」「わが宿にみもろを立てて枕辺に斎瓮を据ゑ竹玉を間なく貫き垂れ木綿たすきかひなに懸けて」「天に有るささらの小野の七節菅(ななふすげ) 手に取り持ちてひさかたの天の川原に出で立ちてみそぎてましを」高山の巌の上にいませつるかも　(巻三ー420)

(なよ竹のようにしなやかな御子、紅顔の青年である大君は(隠り国の)泊瀬山に神々しく祭られておられますと使いの者が告げた。私は虚言を聞いたのか、それとも出鱈目を聞いたのか。嗚呼、それにしてもこの天地のはざまで悔しいこと世の中において悔しいことは、天雲の遠く棚引く果て天と地の接する地の果てまでも杖を突いてでも突かなくとも、兎に角も行って夕方に辻占を立て石を蹴って吉凶を占う。そしてわが家には神棚を設け、枕辺には御神酒の瓶を据え付け竹玉を隙間なく貫き垂らし腕には木綿のたすきを掛け天にあるささらの小野から丈長の菅草を手に取って (久方の)天の川原に出で立ち身を清めてお祈りしておくべきであったものを……なのに私がそうしなかったばかりに大君は今では高い山の巌の上におられることだ )
(巻三ー420)

丹生王は人麻呂217歌の発句を踏まえたと思われ如何にも女性らしく丁寧かつ上手に詠みあげている。「わが宿にみもろを立てて」以後の十六句と422からは丹生王が女性であり、歌の上手さから嘗て大伴旅人と恋仲であったらしき「丹生女王」と呼ばれる女性と同一の人物に違いあるまい。述べるべき事象が少ない石田王についてこれだけ長い挽歌を詠めることや「わが宿にみもろを立てて………」以下の句からは丹生王は石田王の妻の一人で、同じく妻であったと思われる紀皇女亡き後、石田王と同居していたのではないか。
この歌や太宰府赴任後の旅人への贈答歌553、554からも分かるように所謂「実」のある女性であったのだろう。発句の「なゆ竹のとをよる御子さ丹つらふわが大君は」からは
丹生王が石田王より年長であったであろうことが推測され、年若くまた美青年らしき石田王に対する妻としての、また女としての愛惜が籠っているように感じる。

この歌群のすぐ後にも石田王への※⑥挽歌群(423～425)が載せられているが、それを読むと著者高田氏の書いていた「ここは万葉人たちが泊瀬女のところへ朝夕通った道だ」という文中に書かれた万葉人というのは石田王であろうことが推察できる。
それは私が単に他に泊瀬の愛人の元に「朝夕通った」万葉人が出てくるような歌を知らないからでご存じの方がおられたら教えて頂きたいと思う。

以上のことから282番歌は大宝元年に泊瀬で急死した石田王の弔いと状況視察のために老が深更泊瀬へ向かった際、異界の地へと向かう不安を詠んだものと見て間違いないように思う。老は顔見知りの石田王の霊が「……香具山によってせき止められたたまり場」である磐余へと流れ来るのではと考えて恐ろしかったのではないか。

この420長歌の前の歌群417～419(河内王挽歌)が持統八年(694)の作であることからもこの420歌は持統晩年(持統は大宝二年(702)十二月没)に作られたものと思われる。
そして石田王の没年は上記のように282歌から考えて大宝元年(701)だろうと述べたがこれは417の河内王挽歌からは七年後ということになって間隔に問題は無いと思われる。
石田王が亡くなったのはやはり大宝元年に違いないと私は思うのである。

[2] mixiユーザー 10月11日 00:19

石田王の死

【3】山前王作の挽歌　(上)

次に423～425の※⑤石田王挽歌群について見てみると

同じく石田王の卒りし時に、※⑥山前王の哀傷(かなし)びて作る歌一首

つのさはふ磐余の道を朝さらず ※⑦行きけむ人の思ひつつ通ひけまくは霍公鳥鳴く五月にはあやめぐさ花橘を玉に貫き [一云貫き交へ] かづらにせむと九月の時雨の時は黄葉を折りかざさむと延ふ葛のいや遠長く [一云葛の根のいや遠長に] 万代に絶えじと思ひて [一云大船の思ひたのみて] 通ひけむ君をば明日ゆ [一云君を明日ゆは] 外にかも見む

((蔓草が多く絡み付いた岩)磐余の道を毎朝帰っていった君が道々思ったであろうことは
霍公鳥の鳴く五月には菖蒲や橘の花を玉のように紐に貫いて(一には、貫き交え)髪飾りにしよう。また九月の時雨の季節には黄葉を挿頭にして髪に挿そう。そして這う葛のようにますます末長く(一には、葛の根のように末永く）いつまでも仲睦まじくしていようと思って（一には、大船のように頼りにして）通った君。その君を明日からは（一には、明日からは君を）他界の人として見ることになってしまったのだなあ………)

左注; 右の一首は或いは柿本朝臣人麻呂の作という
(巻三ー423)

この423の題詞や424～425の左注から石田王は山前王と兄弟で忍壁皇子の子であったと思われる。忍壁が人麻呂最大のパトロンであったことから左注の「或いは人麻呂の作と云へり」というのは十分考えられることである。しかもこの歌群の次にある426、さらに一首置いて428～430と人麻呂の作であることを考えるとその可能性はさらに高まるように思う。人麻呂は大宝二年(702)の持統、慶雲二年(705)の忍壁の没時までは宮廷歌人として残っていたと考えられるから大宝元年と思しきこの石田王の没時に詠んだということは当然あり得る。これらの歌群の後に配列されている人麻呂作の数首はいわば人麻呂終末期の作なのであろう。

ただ、人麻呂歌集を含めて人麻呂が端午の節句を詠んだ歌を私は知らない。端午の節句というのは、21や1465を除けばもう少し後の時代、例えば家持などに多く詠まれたもののように思うのであるがどうなのであろうか。
これについては「異文の注記から考えて山前王の初案に人麻呂が修正を加えたと見るのが穏やかであろう」(伊藤先生)ということで、なるほど本文系統の方が異文系統よりもスッキリしているのは私でも分かる。すると次に掲げる「ある本」に載せられている反歌二首についても人麻呂の手が入っているとも考えられ、事実伊藤先生は「万葉考(真淵)はそのように言及しており蒼古たる調べの中に思い入れが染み通って味わいが深い」と感想を述べている。

この423長歌は元々反歌を伴わなかったのだろう。但しすぐ後には「或本の反歌二首」として

こもりくの泊瀬娘子が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも
((こもりくの)泊瀬娘子が手に巻いている玉は乱れているというではないか)
(山前王・巻三ー424)

川風の寒き泊瀬を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや
(川風の寒い泊瀬を嘆きながら君が歩くと似た人に遭うのだろうか、いや、決して逢えはしない)
(山前王・巻三ー425)

左注；右二首は或は曰く紀皇女の薨し後に山前王の石田王に代わって作ると言へり

とあるから、「或る本の反歌」とはこの長歌が山前王によって詠まれた時とは別の機会に詠まれたものだろう。但し、左注では「紀皇女没時に石田王に代わって山前王が詠んだもの」となっており紀皇女が石田王の妻であったことは間違いないと思われる。皇女の「薨し後」とあるから法要等であろうが「代作を頼んだ人はその皇女の夫以外あり得ないと思われる」(伊藤先生)からであり、これに従えば里中先生の「天上の虹」にあるらしき「紀皇女は文武天皇の妃」という描写はあり得ないこととなる。

従って、ここでは石田王が亡くなった時に詠まれたものと紀皇女が亡くなった時(後)に詠まれたものとの二通りを考える必要がある。

[3] mixiユーザー 10月11日 00:20

石田王の死

【3】山前王作の挽歌　(下)

石田王が亡くなった時に詠まれたものと紀皇女が亡くなった時(後)に詠まれた時のものとの二通りを考えてみると

⑴ 石田王が亡くなった時に詠まれた歌である場合

424の泊瀬娘子は石田王が思いを懸けて通っていた泊瀬女だろう。するとこの玉の乱れというのは石田王の死を暗示していることになる。

425の「君」とは死んで霊界に行った石田王を指し、石田王が既に亡くなって霊界の人となった紀皇女を探して川風の寒い泊瀬を彷徨い歩いているがそんな女性には逢えないということを述べているのだろう。この「川風の寒き泊瀬」という句により石田王が亡くなったのは春日蔵首老が還俗した大宝元年の三月以降であると思われ、多分旧暦三月、還俗してすぐのことではないか。

⑵紀皇女が亡くなった後に詠まれた歌である場合(左注の立場によった場合)

424「こもりくの泊瀬娘子」とは※⑧異界である泊瀬に行ってしまったとする紀皇女を指すのであろう。するとこの「玉」の乱れというのは紀皇女の死を喩えていることになる。

425は残された石田王が、亡くなった妻の紀皇女を探して現世の泊瀬を彷徨っても(それにしては長歌の石田王は愛人と遊ぶことばかり考えていて能天気なものであるが……)皇女に似た人に逢えないということを言っている。しかし、「……君が歩くに」の句を見ても分かるように、それでは「山前王が石田王の立場に立って詠んだ歌」とはならない。
「山前王が石田王の立場に立って詠んだ歌」ならば
川風の寒き泊瀬を嘆きつつわれが歩くに似る人も逢へや

でなければならず、この場合「われ」が石田王の自称となる。

したがってその矛盾を解消し歌の内容と山前王の代作ということを一致させるには、この二首の歌が「紀皇女の夫・某と非常に親しい仲にあった石田王がその某のために詠む歌を山前王が代作した(伊藤先生)」というように考えなければならず、紀皇女と石田王とが結婚していた、という認識を解消しなければならなくないだろう。そして歌から受ける感じや上記の真淵の意見を考えると、それを更に山前王の依頼を受けた人麻呂が代作したという可能性も出てくるというかなりややこしいことになって不自然さも感じる。

しかし、例えば424の場合、紀皇女を泊瀬娘子と呼ぶのは皇女が泊瀬で亡くなった或いは泊瀬に葬られたのであろうか。そうでない(地理的に考えてその可能性が高いと思うのだが)のならば、紀皇女が異界の人になったから、或いは泊瀬が葬送の地、異界の地であったからといって泊瀬娘子と呼ぶのは強引に過ぎはしないだろうか。ここで紀皇女を泊瀬娘子とするのは多分石田王が泊瀬で亡くなりそこに葬られたからだろうと思うのだが、この泊瀬娘子についてはやはり皇女の死後石田王が足繁く通っていた愛人である泊瀬女であると考える方が遥かに自然で無理が無いように思うのだ。故に私は左注に言う事柄を石田王挽歌に結びつけて考えるのはやはり無理があり、なんらかの情報の混乱、錯綜により誤って編纂者に伝わってしまったのではないかと思うのである。

そう考えるとこの二首はやはり石田王の死の直後に山前王によって423長歌が詠まれたのとは別のなんらかの機会、例えば後の法要の場などにおいて人麻呂によって詠まれた石田王挽歌と考えるべきだろう。そしてそれが※⑨下記の伊藤先生が言うように故意に反歌として利用され、ある本に載せられたのではと思うのだ。
伊藤先生は「別の折の歌二首が長歌423の反歌として利用されたものらしい。そういうことから長歌だけで伝わる場合と長歌と反歌との形で伝わる場合とが生じたらしい」と述べている。
いずれにしろ私にはこの二首はあくまで独立した石田王挽歌として「別の折に」詠まれたものであると考える……としか言いようが無い。この424、425及び左注と423との関連というのは集中でも屈指の難解な箇所らしく私如き浅学の廃人が考察するのも烏滸がましくまた恥ずかしき限りなのだが、書き始めた以上は一応考え得る可能性は述べておくこととして真実は後世の俊英の活躍に期待したい。

以上、最後まで読んで下さった方々には感謝とともに何か酔狂な冗長駄文を読ませてしまったようで申し訳なく思うが、それでも内容は可能な限り正確を期したと自負している。この石田王の死に関連する歌を考察することで一人の人間の死…人が死ぬということは大変なことだと言われるが、その人間の死によって詠まれた歌々から明らかになる人間関係、特に興味のあった春日蔵首老、丹生王、紀皇女といった人々の境遇、人となりや心理を考察できたことは、未だ知らなかった人麻呂関与の可能性や色々な歌を知る機会となったことと共に存外大きな収穫であったと満足している。

[4] mixiユーザー 10月11日 00:22

石田王の死　(注)

※ ①磐余………中西先生の「万葉集事典」をお持ちの方は巻末近くの508頁「明日香周辺」の地図を見て頂きたくと分かり易いと思うが櫻井の駅の南に「石村山」という山(岡)がある。この石村山の「石村」が語源で石村山のすぐ西の安倍の辺りが石村の中心だったのではないか。おそらく「磐余」も元は「石村」で舒明2番の「山常(大和)」のように当て字であったのだろう。

※ ② 笠金村 (六ー912)
「泊瀬女の造る※木綿花み吉野の滝の水沫(みなわ)に咲きにけらずや」

泊瀬は葬送の地で女が木綿垂(ゆうしで)を作ったがそれを花に見立てた(中西先生)

白木綿花……斎串としての榊の枝などに付けた白い木綿を花に見立てた語。「木綿」は楮の皮を剥ぎ、その繊維を蒸して水に浸し、晒して細かな糸にしたもの　

初瀬女………「泊瀬」は奈良県櫻井市初瀬。聖地とされた。その地の女性で祭具である「木綿花」を造るに相応しい。(伊藤先生)

※ ③持統参河行幸………持統は大宝二年十月十日に出発、十一月二十五日帰還、十二月十三日重病となり十二月二十二日崩御(続紀)ということでおそらく老齢で発病前から体調があまり優れなかっただろうと思われるが、何故こんな長い旅に出たのかは不明。

※ ④丹生王………丹生女王とも。丹生王が若き日の大伴旅人の恋人らしきことから興味があって覚えていたのだが……
大伴旅人が天智四年(665)生であるから恋仲であった丹生王が詠んだ1610番歌
高円の秋野の上の瞿麦の花うら若み人のかざしし瞿麦の花
(高円の秋野に咲いたナデシコの花よ。(私が)初々しいので(貴方が)挿頭になさった、そのナデシコの花よ)

旅人が瞿麦(丹生王)を手折って挿頭にしたということは丹生王と契って自分のものにしたということの比喩だろう。但し、高円とあるからといって高円の野で二人が結ばれたということではなく、王は高円の瞿麦を見て嘗てのことを思い出しているのだろう。何故なら平城京遷都(710)後のこととすると旅人は少なくとも三十六歳よりも年長ということになってしまい少し考えにくいからである。王の「うらわかみ」という句から仮に旅人が二十五歳、王が七歳年下の十八歳の時のことであったとして王の生年は天武四年(672)生となり、420挽歌が詠まれたと思われる大宝元年(701)年には三十才で、その発句「なゆ竹のとをよる御子さ丹つらふわが大君」からおそらく没時二十四、五歳くらいかと考えられる石田王より五、六歳くらい年長ではなかったか。或いは石田王はさらに年少であったのかもしれない。
思うに嘗て旅人に愛された丹生王は石田王元服の際の添伏となりそのまま妻の一人として迎えられたのではないか。なお423～425の歌群の題詞や内容から考えると石田王は山前(やまさき)王と共に忍壁皇子の子息で山前王が兄なのであろうと思うのだが。その遺骨から死亡時(705年)の年齢は47、8歳くらいと言われる忍壁の誕生は659年(斉明五年)くらいであろう。そうすると山前王を儲けたのは仮に忍壁18歳の時として676年、石田王を設けたのが678年として石田王没時と思われる大宝元年(701)には石田王二十四歳くらいか。死因は不明。

※ ⑤石田王挽歌群………厳密には「群」ではないのだろうが大目に見て頂きたい ^^;

※ ⑥作者は山前王(やまくまのおほきみ。やまさきのおほきみとも)………忍壁皇子の子。
423の題詞、424、425の左注から石田王の兄弟、特に兄かと思われる。養老七年(723)十二月没。⑤から考えて没時の年齢は48歳となり少し早世なようだがこの時代としてはまずは妥当なところか。

※ ⑦………原文「将帰人乃」で、この「帰」と泊瀬から藤原京までは直線距離で十一キロくらいあることから考えると石田王はやはり藤原京周辺に居住して泊瀬へと通っていたと考える方が穏当だろう。泊瀬に邸があって藤原京まで宮仕えに通うというのも不可能ではないが少し無理があるように思う。「朝さらず」は石田王が熱心に通っていたことの比喩だろう。

※ ⑧………普通、支配者層の埋葬地はその宮居のあった地であることが多いが、妻や皇女など女性皇族には広陵郡赤穂に葬られた天武夫人氷上嬢、十市皇女(この二人は書紀による)、桜井市吉隠に葬られたらしき但馬皇女(氷上嬢の娘)など遠隔地に葬られた例もある。

※ ⑨伊藤先生は「別の折の歌二首が長歌423の反歌として利用されたものらしい。そういうことから長歌だけで伝わる場合と長歌と反歌との形で伝わる場合とが生じたらしい」と述べている。いずれにしろこの二首はその内容から石田王挽歌として「別の折に」詠まれたものであることは間違いないであろう。

[5] mixiユーザー 10月11日 00:35

紀皇女

※①紀皇女の御歌一首

軽の池の浦廻(うらみ)行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに
(※②軽の池の入り江を泳ぎ廻る鴨でさえも水草の上に独寝をしないのに(どうして私が独寝の侘しい思いをしなければならないのか))

(巻三ー390)

結構知られた歌で女性に人気があると思っていたのだが未だ出ていなかったようである。
皇女という尊貴性と時代の古さから巻三譬喩歌の部の最初に載せられたと考えられるが、冒頭歌に相応しく如何にも皇女の作らしい品格を持った美しい秀歌だと思う。
私はどうもこの譬喩歌というのが苦手で、この歌は分かりやすい方なのだろうが、どの部分までが譬喩なのか分かりにくいものが多いように思う。この歌は何時も雌雄でいるという鴨の夫婦仲の良い習性に自分の独寝の侘しさを寓した、謂わば逆接の譬喩？とでもいうものだろうか(笑)

紀皇女は弓削皇子の119～122四連作のような歌があることから艶聞多き女性かと書かれた解説書もあるが、弓削の四連作は以前投稿したように仮託である可能性が強く、また既に石田王の妻となっている紀皇女への憧れを詠んだものと思われる。紀皇女に艶聞が多かったと思えるような歌は集中に無く事実とは認め難い。
では、夫がいる紀皇女が何故こんな独寝の寂しさを託つような歌を詠んだのか、作歌のために想像で詠んだ歌なのかといえば違うと思う。
その疑問は山前王作の423石田王挽歌を読むことによって氷解する様に思われる。
紀皇女が何時頃亡くなったか、また石田王が何時頃から愛人の泊瀬女と懇ろになったかについては明らかではないが、石田王挽歌である丹生女王420歌の「なゆ竹のとをゆる御子さ丹つらふわが大君」、山前王423歌の「朝さらず」という句とこの390歌からは紀皇女が恋多き女などとは認め難く、寧ろ夫である若く美男子と思しき石田王の女漁りに寂しい思いをさせられた挙句に早世した気の毒な女性であるように思える。

この歌は藤原宿奈麻呂の妻、石川女郎の
大き海の水底深く思ひつつ裳引き平しし菅原の里
(大海の海底のように深い思慕を込めながら地を平すように裳裾を引いて歩き回った菅原の里よ)
(巻二十ー4491)

に通じるものがあるように感じる。4491は白鳳時代ではなく平城京時代の歌であるが男女の間柄に関することにそう変わりはあるまい。「平城京裡、上流階級の生活の意外に索莫とした一段面がここに残されている感がある」(犬養先生)という事情は藤原京時代もそう変わらぬように思うのである。

390歌はそんな寂しかった紀皇女の内面の発露なのではないだろうか。
それゆえに紀皇女が詠んだ歌はこの390ただ一首だけだが紛れもなく紀皇女の自作と思うのである。

※①紀皇女(きのひめみこ)……天武皇女。母は蘇我赤兄の娘、大蕤娘(おおぬのいらつめ)で同母兄に穂積皇子がいる。

※②軽の池………「軽」とは橿原市大軽・見瀬・石川・五条野一帯の地を指し、その集落では市が開かれていた(犬養先生)
「軽の池」と剣池(石川池)とは同じとする意見もあるようだが、和田先生は「軽の地の剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池は五世紀前半に倭漢(やまとのあや)氏によって作られたかと思う」(飛鳥・歴史と風土)、中西先生は「軽池は応神十一年十一月に造」と述べており剣池とは別のものであるらしく、後世に埋め立てられてしまったのだろう。
なお厳密には剣池と石川池とは違うらしいが、ややこしいことに一つの池を標識で二つに分けたものということである(和田先生)

[6] mixiユーザー 10月13日 15:35

紀皇女は蓮っ葉女？

物に寄せて思を述べたる

おのれゆゑ罵(の)らえて居れば青馬の面高夫駄(おもだかぶだ)に乗りて来べしや
(おのれのために叱られているのに、なんでよりによって目立つ青馬の荷駄馬なんかに乗って来るんだよ！)
(作者未詳・巻十二ー3098)

左注；右一首は平群文屋朝臣益人(へぐりのふむやのあそみますひと傳へて云はく「昔聞く、※①紀皇女竊(ひそか)に※②高安王と嫁(あ)ひて嘖(ころ)はえりし時にこの歌作り給ふ」といへり。ただ高安王は左降して伊予国守に任務(ま)けらゆ

左注を加味した歌の内容は………紀皇女がかなり年下の高安王と交際していることを親に嗅ぎつけられお叱りを受けているその折も折、なんとお相手の高安王がタイミング良く(？)やって来た。しかも人目につく青馬(白い毛の馬)と呼ばれる目立つ馬に乗って堂々と！である。
普通内密な関係の愛人宅を訪れる男というのは目立ちにくい黒や栗毛の馬に乗って来るものをなんという無神経さよ！と紀皇女は烈火の如く怒り、相手を「君」とか「わが背子」などとは呼ばずに「おのれ」と呼んで罵っている………ということになるかと思う。

「面高」とは面長のこと又は顔を高く上げたさまをいうがここでは如何にも得意そうな感じのする後者が相応しいだろう。「夫駄」は、夫役に使う荷馬のことで皇女が馬にまで八つ当たりをして言っている言葉かと思われる。
学者先生方は皇女の歌ということのためか戯れに罵った歌といった捉え方が多いようで、例えば「おのれ」について「お前さん(伊藤先生)」「あなた(中西先生)」というような柔らかめの呼び方にしている。
しかし「おのれ」は『目下の相手にいう。また、相手を卑しめ罵っていう。おまえ。てめえ。』(岩波古語辞典)となっており、しかもこの3098歌を例に引いていることからはこの時代においても決して良い言葉とは思えず、どころか汚くて悪い言葉と感じる。
だから下記の左注があくまで「お話し」らしいということからも、ここは女が本当に怒り心頭であると取った方が適当で「お話し」としても面白いし、女の感情を正直に表現できると私は思うのだが。

しかし実際のところ、幾ら怒り心頭といっても天武の皇女でましてや390のような上品で優美な歌を詠む紀皇女が万が一にも腹立ちの感情を爆発させこのような品位も言霊もへったくれもない汚い罵声を浴びせる筈がない。また紀皇女が恋多き女性というのも噂だけのことでそんな事実も根拠も無い。要するにこの話は3822「橘の寺」の左注に出てくる椎野連長年の話のような、あくまでも左注に言う「平群文屋朝臣益人」なる人間が「昔、人から聞いた」という話で、事実が伝えられる中で誤り、錯綜、混乱によって歪められてしまった胡散臭い「お話し(与太話、冗談)」だろうと思うのだ。

物事というものは伝えられているうちに全く違ったものとなってしまった……ということはよくあることである。左注最後にある伊予国に左遷ということからは、『その左遷の理由が石上乙麻呂と久米若売のような女性問題であった場合において艶聞の多い女性としてこの時代に評判であった紀皇女と結び付けられて伝わってしまった可能性も考えられる』(伊藤先生)。
またそれを了解のうえで面白おかしく脚色して作られた「お話」のようにも思え、巻十六に掲載される方が相応しいように思える歌である。

以上、紀皇女は下記※①のように藤原京時代には既に前述の石田王という忍壁皇子の子息と思しき人物と結婚していたと思われ、同じ藤原京時代に早世しているので長皇子の孫の結婚相手ということはあり得ない。ゆえに誤って伝えられた結果か或いは興味本位の可能性が大きい与太話かならば、ここはいっそ思い切ってなんと皇女ともあろうお方が蓮っ葉女みたいなはしたない言葉で男を面罵しているとした方が以前投稿した1403「三輪の杉原」のように人間味があって面白いのではないかと私は思うのだが。 

[7] mixiユーザー 10月13日 15:37

紀皇女は蓮っ葉女？《注》

※①紀皇女………高安王は長皇子の孫であるということから高安王の生年を考えてみると、弟の弓削の生年が天智九年(670)くらいと考えられるから長皇子の生年は天智四年(665)くらいか。すると六番目の子で高安王の父・川内王を儲けたのは持統九年(690)くらい、その長子高安王が生まれたのは文武五年(708)くらいのものだろうか。

これに対して紀皇女は天智六年(667)くらいの生まれかと思われる穂積皇子の妹だから十歳下としても677年くらいの生まれとなり、高安王より三十歳くらい年上ということになってしまい交際相手としては考え難い。何よりも423～425の石田王挽歌から紀皇女は藤原京時代には亡くなっていると考えられる。するとこの歌でいう紀皇女は、多少誤差があったとしても高安王七歳くらいの時には既にこの世を去っているわけで、ここでの紀皇女は390を詠んだ天武皇女である紀皇女ではあり得ないということになる。

これについては同名の紀皇女が別にいたか又は※②多紀皇女の誤りだろうという意見がある。しかし同じ名前の皇女がそう上手い具合に？いるとも思えず、また多紀皇女も吉永登という学者先生の研究によれば高安王より十歳くらい年上らしい。
しかも④澤瀉・注釈によるとそれよりさらに二十歳以上年上になるらしい(笑)(伊藤先生)
ということでこれはやはり平群文屋朝臣益人とやらに伝わるまでに起こった話の内容の錯綜や混乱による事実誤認若しくはそれに尾鰭を付けた娯楽や余興のための創作話(お話し)であるとするのが適当であるように私は思うのである。

※②高安王……「皇胤紹運録」に長皇子の孫で川内王(長皇子の子)の子と記す。537の作者である高田女王の父。天平十一年(739)臣籍に降り大原真人高安となり、同十四年(742)に没(伊藤先生)。 577番の題詞参照。

※③多紀皇女……託基皇女とも。天武皇女で母は宍人大麻呂の娘のカジ媛娘（「カジ」は木偏に穀）何分生年月日が不明なのではっきりしたことは分からないが、忍壁の妹であるからには長皇子の孫である高安王よりはかなりの年長であると考えてまず間違いないだろう。澤瀉先生の意見(注釈)は正しいと思う。

※④……また、中西先生は「これ(多紀皇女)だと紀皇女より十歳年上」とする。やはり紀皇女が高安王の結婚のお相手というのはあり得ない。

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