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ビキニ事件(第五福竜丸事件)コミュの福竜丸と私 見崎吉男

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元第五福竜丸漁労長見崎吉男さんの手記の一部を紹介したいと思います。

写真 アンタレス 2004年に見崎さんの家を訪問した時の様子 見崎さん当時

〜生い立ち〜

1925年焼津町鰯ヶ島の漁師の家に生まれ、少年時代父親のサバ漁船に乗る。1942年に焼津のカツオ漁船福積丸が海軍に徴用され、乗組員として徴用される。1944年小笠原群島で米軍の空襲を受ける。1945年1月に徴兵され、九州唐津で敗戦となる。
戦後は焼津の富士水産会社の第二福竜丸乗組員になる。1953年5月に第二福竜丸の船長西川角市が、マグロ漁船事代丸を購入した際に漁労長となる。
※第七事代丸が1951年にカツオ漁船からマグロ船に改造され53年第五福竜丸となる。

〜海に生きる〜

大自然の遥かな夢を追い求めて、日本の遠洋漁業の黎明期に力強く明日に向って、海に乗り出して生き抜こうとしていたすごい海の男達がいた。漁労長見崎吉男率いる第五福竜丸の乗組員だった。
第五福竜丸の命名で、「第五」としたのは「四」の数字は好かれず吉ではないと思われているからである。「福」と「竜」は、二つとも幸運をあらわす言葉である。「竜」の字は中国から伝わったもので、「幸福をさずける竜」は、海の神様という意味で幸運の象徴(シンボル)と見られていた。

遠洋漁業は危険な事業でもある。暮らしのためとはいえなぜ航海にいどむのかは、人間の持つ好奇心と想像力と夢があり、冒険もあり、それが激しく魂を揺さぶるからだ。大海原に乗り出していくのは、地図の無い世界(新漁場)を探し求めて、大航海者達が新しい陸地の発見に生涯をかける。それを発見した時の歓喜は、想像を絶する。
いつの時代でも人々は夢をみて勝負をかけ、新しいはるかな発見を追い求める。安定した陸地より、不安定だが海の上で生きることを選んだ。世の中を上手く立ち回るとか、他人よりいい思いをしようという欲の固まりもない。質素な生活も苦にしない強靭な肉体で、激しい労働にも耐える。渾身の力を込めて血わき肉踊る海の生き物たちとの格闘に、湧き起こる精神力にひそかな漁師の誇りをかみしめる。
魚達は海の宝だ、地球と自然の芸術作品だ。魚たちは歴史的に技術的にも捕れば無くなる海の資源でもある。このことをよく知っていて一番心配しているのは漁師であり、祈りながら航海して漁場を後にする。漁師は自然との闘いに決して立ち向かう事はしない。困難や用心する局面には周到に準備し出来る限り回避する。本物の航海は、命をかけて海に生きているかがためされるのだ。
焼津港では、漁師を漁士と読み、「士」(サムライ)の字を使った。立派な男子で海洋民族を誇りに、勇敢に海に生きるという意味がある。船内には汗が飛び散りぎらぎらした男の体臭がこびりついて、野性味のある熱気が漂っている。エネルギッシュによく行動し、泰然としてゆるぎなく状況を切り開き、ダイナミックに活路を開いていくのが漁師だ。
漁師は航海中に自分の時間があればよく勉強し、独学独歩で世界に通用する航海者を目指した。変化を求めない紋切り型の社会とは違い、むしろ対立する場面に活路を求めていくのがしばしばである。漁師は一見豪快で無遠慮に見えるが、意外に融通が利く幅も深みもある人間性を持っている。また礼儀を重んじ清潔整頓を常として、「解くときのことを思って結べ」と、次のことを考えてそれに備えておくことが海に生きる常識で、道徳の第一歩でもある。
漁師は望んで、大自然の中に探究心を燃やして乗り出す。遠洋航海はその希少価値において尊重すべき存在で、名誉と栄光を秘めている。遥かな大海原を舞台に、夢と現実をおいかけ海に生きる男達である。


1954年1月22日に第五福竜丸は焼津港を出航した。船には見崎吉男漁労長を中心に、ベテランの久保山愛吉無線長、若い筒井久吉船長など乗り組み員23人であった。福竜丸は当初ミッドウェー諸島近海で操業していたが不漁が続き、漁場を求めてマーシャル諸島へと航行した。

〜ビキニ島で水爆実験〜

1954年早春、第五福竜丸は焼津港を出港した。出港の時間は研ぎ澄ました冷たい鋼の棒が首筋から背中にすっと入ってきて、海の人間・漁師に変る瞬間である。もう1人の自分が現れてきて、体の奥の方に少しの気負いとかすかな哀歓、悲壮感、そんなものを心の底に沈める瞬間である。
私は海が好きだ、夜の空に真っ赤に輝くさそり座の主星アンタレスに誘惑される。素晴らしい夜の大空、女王のアンタレス、白い航跡、快調なエンジンの響き、輝く星達が、孤独で寂しがり屋の航海者を慰める。きらめく鏡のような海、潮にまみれた男の「こく」が垢のように体にこびりつき、焼ける太陽がじりじりと肌を焦がす。船はある時は、うねりと波の飛沫の中をきりもみするようにくぐりぬける。こんな壮大な昼と夜の舞台の上で、精一杯生きることに感謝する。
1954年3月1日午前0時、南の空に見えるさそり座は、真っ赤な1等星アンタレスを中心に大きなS字カーブを描いている。東太平洋の漁場を跡にして、進路西日本への帰り道についていた。途中ビキニ島の北西160キロ付近を、将来に備えて新漁場の開拓のための海洋調査を予定した。
さわやかな微風、満天の星が輝いている。天体観測と船位測定をし、船位とビキニ島の双方の距離を確認した。さそり座の主星アンタレスが孤独な航海者を誘惑するかのように真っ赤に燃えている。私の大空の恋人で、福竜丸の幸運をもたらすマスコットである。素晴らしい大空の観測を終了し、「よし」と満足した気持ちで右横に振り向いたその時、アメリカの核兵器実験に遭遇した。
「しまった、やった!」という激しい突き刺す思いが、頭の中で叫びとなって火花を散らして走った。暗闇の海に忍び寄っていた最悪のシナリオが用意されていた。南西の水平線から這い上がって来たオレンジ色の大群は、太平洋の水平線を紅蓮の炎でなめつくし、たちまち天に駆け登りすべてを圧倒して大空を焦がした。午前3時50分、夜明けの10分前。あまりにも違いすぎるこのすざまじい光景、通常の世界では考えられない天地が逆さまになったような光景だった。
「これは一体なんだ」、この事情を予測できない、まったく虚をつかれた突然の出来事だった。船室に休んでいた乗組員は一斉にデッキに飛び出してきた。私のいる左舷上段のデッキめがけて、全員が駆け登ってきた。興奮とスピード感が船内を走った。人間が切り裂いた残酷な一瞬の光景、私たちは重要な光景の一部始終の唯一の目撃者となった。
一瞬不動と沈黙、鋭い目付き、今の出来事はなんだ、今すぐに知りたい。誰もが激しく高ぶる感情を懸命に抑えながら、体の奥でそう叫んだ。正体不明の何者かに、果し合いを申し込まれたようだ。船上は決闘を前にしたように、殺気を含んだ荒涼とした情景に包まれた。
どれくらいたったのだろう。しーんと殺風景な静寂を破り、私は乗組員に見張り員の配置と、警戒態勢をとる様に次々と指示を出した。船内は一変して乗組員の激しい動きに変っていった。
「すぐ現場を離れるか、じっくりと次の動きを見るか」。私は間違いなく米軍の包囲網に入っていると判断した。今さら逃げの手を打ったところで、彼らの手の内では打つ手なしと決めて冷静に相手の動きを見る。その都度臨機応変に行動することを決断し、ゆっくりと大きく旋回航法をとって様子を見る。必ず米軍の船が来るか、飛行機が来るかと思ったがついぞ影もなく音もしない。依然として静まり返っている。私は「さて次の策は」と、いろいろな場面を頭に描きながらいた。
光をみて9分後に、すざまじい轟音が連続して押し寄せてきた。マーシャル諸島の島々が一度に崩れ落ちたか海底が裂けて海水が怒涛となって落ちていくような想像をさせる激しさであった。私は正体不明の得たいの知れない現象に二度も肝っ玉をつかまれた。
海は次第に荒れ模様になってきた。もうとっくに夜が明けている時間なのに、依然としてすっきりと夜明けない状態である。強い風となり雨も横殴りの雨となった。海上にうねりが出始め波頭が砕けて船内に飛び込んでくる。午前8時風と雨と波と一緒になって、鋭く突き刺さってくる。白い物体に気づいた。後で死の灰といわれるものでサンゴ礁の粉末破片であった。福竜丸は激しく変っていく空と海の間に翻弄されながら、かいくぐっていく。午前9時、いつしか上空にどす黒い粘土をかき混ぜ練りこんだような黒雲が、船を飲み込むようにすぐ真上を東に移動していった。まるで熊の大群が揉み合い押し合いながら、マストすれすれに異様な威圧感を与える状況だった。
変化を知る手がかりもなく、米軍の動きも全く感じられない。出口の見えない真っ暗なトンネルの中を得体も知れない何者かと、一緒に二人三脚のような状態だった。私は感と推測を頼りに、午前10時進路を真北に航行した。やがて黒い嵐の海から次第に様子が変り、太陽の光が海上に一筋の帯のように降りてきた。
正午12時頃、「これは一体なんだ」、いつの間にか静かな海にたどり着いたようだ。太陽が降り注ぎ、風もやんだ。西から東に移動していた黒雲の下を、船は南から北へ向って一生懸命に、まさに命がけの横切ったのだ。遠洋航海に出ていた小さな船は、不思議な出来事をのせて、次から次へと起こる現象に圧倒され、翻弄されながら力を振り絞って北に向かって航行した。私たちは本船からの問い合わせや通報を慎重にし、日本からの至急の連絡や通報を当然のように待っていた。また乗組員の健康に注意した。私たちは推測と推理を積み重ね、直感を使い分けて航海してきた。
「何日の汝に焼津港に入港させるか、何時にやることはなにか」
先ず本船からの話は一本化して、必要なところに必要なだけ話してんでばらばらに決して話さない。幾日ではない時間の問題であること、勝手な発言を封じ込めることにした。入港時に病院・清水海上保安庁の三者には、すみやかに事の次第を説明し、真相の究明と具体策を早急に依頼する。後は私たちの話を受けたほうで、事態を究明しなんらかの方策が示されるだろう。私は霧の中の推理をくみたてて決意した。
3月14日未明、焼津港に入港。何にも知らされていない母港は、夜景の光を水に映してまだ眠っていた。

つづく・・

コメント(2)

写真 協立病院に掲げられた看板 協立病院で治療を受ける様子 ガイガー検知器で検査を受ける見崎吉男さん


〜3月14日の焼津〜

14日午前8時、私は焼津共立病院を訪ねた。玄関の拭き掃除をしていたおばさんが、今日の当直医が外科の大井先生だと親切に教えてくれた。私は待っているよりいった方が良いと思い行くと、向こうから人品いやしからぬ中年のそれらしき人物が来た。私はこの人だと直感して、急ぎ足で近寄り声をかけた。外科部長の大井俊了先生(後に大井外科を開設)、この人に会うためにあの航海をしてきたのだ。上陸後に最初にお目にかかった人物、事件解明への最も重要な人物となった。先生に今までのことを詳細に説明し、全員の健康診断を依頼した。午後1時を約束の時間とした。私は先生との説明の中で真相は以前不明だが、アメリカの原爆実験だと思うと言った。確信に満ちた私の推理の話に、先生は身を乗り出してじっと話しを聞いてくれた。先生は「私も広島に入り、原爆の話はよく知っているし、知り合いで亡くなった人もいる」と語った。
先生は当時日本の医療団が編成され、東京の都築正男先生が団長を勤めた事。またこの方面では日本医学の方がアメリカより進んでいるのではないかなど、広範囲にわたり90分近く話された。私は先生の人間味と誠実で庶民的な感じを受け、漁師に対し自分と同等のところまで引き上げて話す態度に深く信頼を覚えた。
午後1時乗組員全員が病院に集合した。大井先生は「全員軽い火傷の症状ですが、今日の表面的な診断の結果です。あなたの話が気になり藤枝保健所に連絡しておきます。多分あそこに測定する機械があるはずです。明日また来てください」と言われた。
私は病院からの帰り道、ずっと東京大学の話を考えながら歩いていた。私は次第に東京に行こう、東大付属病院にいったらとの思いが強くなってきた。船主の西川氏に会い事の次第を話すと、宜しく頼むとのことだった。私は折り返し大井先生のところに引き返して面談して、感謝の意を伝えながら乗組員の東大行きを話した。
大井先生は「わかりました。良い考えだと思います。」と快諾された。先生は「紹介状だと適当なところに届いて本意が通じないで、ただの患者になってしまう。それでは東大まで行く意味がない。きつい話だが見崎さんの話したアメリカの原爆の話にビックリしたが、いかに東大でもびっくりするよ」という。私は「この話が役に立つなら使ってください」といい原爆の話を書き入れる事で一致した。
先生は「東京に行ってもらう人は、とりあえず2人位がどうだろう。私の方で1人決めますが。もう1人はあなたが決めてください」と言った。東大行きの2人と紹介状の内容を決めた。
私は大急ぎで帰り西川船主と乗組員2人に話し、すぐに東京行きの強引な話を承知してくれた。慌しいうちに日はとっぷり暮れ、東京行きの最終列車も終っていた。
明朝15日、朝5時東京行きの一番列車と決まった。未だに暗い焼津駅のプラットホームの上の方はうように冷たい風が通りすぎていく。ホームには乗組員の山本・増田・船主西川と私の4つの影が立ち長く伸びていた。私は苦心した切り札の診断依頼書とさんご礁の破片を、東大に願いを込めて2人に渡した。遠くで列車の音がして、私は2人の手を握ると、二人も握り返してきた。2人の頭の中をどんな思いが去来しているのだろう、2人は列車の人となった。列車は底力のある響きを残して、ホームのカーブを曲がっていった。私は福竜丸の責任者として、やるべきことは全部やったと思った。

東大から発信する電波が、その日のうちに稲妻となって関係する機関に発信された。至急報を受け取った静岡県庁・焼津市・焼津漁港は、16日に漁協大会議室に県内関係者が一同に会した。
3月16日「読売新聞」朝刊が、スクープで「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇、二三名が原子病」の記事を掲載した。16日に県衛生部長・予防課長などが乗組員の面接と放射能の測定をおこなった。その結果衣類・頭髪・爪等に強い放射能が検出され、全員が焼津北病院に隔離された。強い放射能を検出した第五福竜丸の水揚げされたマグロはすべて廃棄された。その後全国各地の漁港に入る漁船のマグロが放射能汚染で大量に廃棄処分にされ埋められた。この年の12月末までに、放射能で汚染された日本の漁船や貨物船は683席にものぼった。
焼津市は3月27日に、「原子力を兵器として使用することを禁止」する決議をし、外務省を通じ国連に提出した。翌28日に乗組員21人は、静浜基地より米軍輸送機ダグラス2機で羽田空港に移送された。比較的重症の5人が東大病院に、比較的軽症者の16人が国立東京第一病院に入院した。

つづく・・
写真 ラップ博士 44年ぶりに福竜丸エンジンと再開する見崎さん この手記が書かれている冊子


〜ラップ博士の願い〜

『福竜丸』(1958年・みすず書房出版)を書いたアメリカの科学者ラルフ・E・ラップ博士は序文に書いている。
「第五福竜丸」事件が起きなかったら、世界の人は何も知らずに惰眠をむさぼっていたに違いない。2度も原爆の苦しみをなめた日本人にとって、この事件はもはや広島がやられた感じを持ったのだった。福竜丸や久保山愛吉さんの名は、どこの家庭でも知らないものがないほどである。
では、なぜこの物語を今頃になって書こうとするのだろうか。根本の理由は、日本以外の世界の人々にこの物語を知ってもらいたいからだ。例えば、米国人は福竜丸の航海の本当の意義についてごく限られた理解しかもっていない。私はこれらの事実を、だれでも日本人と同じ程度に知るべきだという事を痛感する。
(中略)私は心から原子による悲劇が、二度と再び海で起きないように希望する。原子戦争がきちがい沙汰だとわかってくださることが切なる願いである。福竜丸船上の出来事を、戦争と平和の何れの時を問わず、絶対に再び起こさせてはならないと思う。」
船の影ひとつない大海原を航海していた小さな漁船が、重大な意味を持って私たちの前に現れたのだ。科学者ラップは正確に事実と正しい記録を歴史として、後世の人々に市民一人一人の問題として、国民の問題として伝える事を心から願っていた。福竜丸事件について、正確な事実と正しい記録を作るためにどんな努力をしたのだろうか。新聞や雑誌、映画やテレビ、多数出版された本が、福竜丸の航海について正しく伝えてきただろうか。
第五福竜丸の航海は1954年1月22日に出航し、3月1日から3月16日の出来事である。数えてみればたった半月の日数のことが事件の核心である。私にとってこのたった半月の日数が、何年にも匹敵する苦悩に満ちた、そしてこれくらい大切で大きな問題を抱えた航海はなかった。

〜退院を前に三好先生の話〜

三好和夫先生は東京大学付属病院の主治医(血液学の権威)で、その後まもなく徳島大学の教授に赴任された。また熊取先生は、国立第一病院の主治医から、後に科学技術庁放射線医学総合研究所の所長となった。
三好和夫先生は、私たちが退院する時に次のような話をしました。
「日本の医学の総力と名誉にかけて、皆様を迎え向き合ってきましたが、東京の病院から一応退院です。一時帰郷し、ふるさと療養という場所を変えた療養生活です。東京の病院にいた日数だけ必要です。再び入院が必要と判断された方は、すぐに東京に戻ってもらいます。外の空気は決して安心した親切なものばかりではありません。時には試練であり、また勉強です。
これからの人生に必用なものを選んでいく為の道であります。早速あなた方を待っている人たちがいます。政党団体・宗教・報道・雑誌の大勢のみなさんです。変に自分の立場を勘違いして、翻弄されたり利用されてしまうことのないように結論は自分だけでなさらないことです。外からのいろいろな話や誘いよりも、まず自分の事を先にしてください。しっかりと日本の大地の上に立つことです。あたりを見回して自らの新しい出発点と希望を育てる準備をしてください。病院生活の延長であることを決して忘れないで下さい」
私は人に心配させてはいけない、迷惑をかけてはいけない。事件の話題の中心になった人間、水爆の被災という大きな病気をした人間が、遠洋航海という人間集団の中で周りの人たちはどう感じるだろうか。自分自身に絶対の自信があるのか、これは自分が今までやってきたことからも無理がある。自分が漁労長になって、新しい航海に出るなら話は別だ。それぞれが自ら判断で新しい人生を探していくのだ。
私は漁師をやめたこの時が、最も苦しい時であった。どんな大変であったか、これを乗りこえてよくやった。

〜21世紀に平和の感動を〜

―第五福竜丸とエンジン(解説)―
第五福竜丸は文部省に買い上げられ、東京水産大学の練習船はやぶさ丸となった。1966年に廃船となり東京夢の島に放置されたが、保存運動により、現在は同所の第五福竜丸展示館に展示されている。
250馬力のディーゼルエンジンは、三重県尾鷲市の貨物船第三千代川丸に積まれた。1968年に同船は、同県御浜沖で座礁し沈没した。
1996年12月に尾鷲市の杉末広さんらにより、エンジンが引き上げられた。1999年9月第五福竜丸展示館前に、東京都はエンジンの展示を決定した。

44年振りにエンジンと再会した見崎吉男氏
―焼津市文化センター広場―
21世紀に向けて、福祉や環境など最も困難で報いの極めて少ない中で奮闘している人たちがいます。日の当たらないところで平和運動を実践している人たちがいます。平和運動はやんやの喝采より、静かな感動が人々へと溢れていく、これが日本の新しい出発点です。平和の感動をみんなに知らせよう、世界の人々に知らせよう、それが新しい世界の出発点です。
1998年2月28日に、第五福竜丸の心臓であるエンジンが焼津に着きました。
私は君にメッセージを送ります。
「はるばる長いたびを続けて東京に行くエンジン君、ご苦労様です。40数年前福竜丸の航海を支えたのは君です。東京にいる船体が兄貴なら君は弟です。まさに波乱万丈の運命をたどった兄と弟が、もうすぐ再会をめざしてここに来ました。
どんな苦労話があるのだろう。山ほども海ほどもあるのがよくわかる。だから愚痴らしいことも、文句のひとつも言わないで泰然と磐石な君は男だ。正真正銘の福竜丸のエンジンだ。山本機関長が愛した君は、実によい響きを残してくれた。
はからずも君の第二の故郷になった和歌山県や三重県は、日本の真ん中だ。その海の底で、君は本当の浦島太郎になってしまった。乙姫さんと魚たちと一緒に住んでいたんだ。いろいろな話を数え切れないほどしたことだろう。
 君の事を知った和歌山のおじさんがいた、君の事を想像し、きっと頑固で無愛想で、無口で取っ付きにくいと思ったが、本当は話が好きで気に入られる不思議な魅力があるんだ。
おじさんは君のことがだんだん気になり、本気で好きになってしまった。君と人間と話をさせてやりたい、そんな心意気がほうはいと盛り上がってきた。
おじさんの書いたシナリオに、自らの人生をかけたのだ。前進する平和運動に前例はいらない。大きな夢を語り、新しい冒険にいどむ、君を哀れで悲しいエレジーの主人公にしてはいけない。平和を創造する力になるとおじさんは考え、苦労の多い作業だが君を引き上げ、力強い生きた平和運動の歴史を作ろうとした。君は辛抱強いはるやかな青年です、兄と弟を会わせるために、もうじき東京に行きます」


終わり

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