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宗教的対話ー「三つのL」ーコミュの講話 暮らしの中の宗教ー宗教の原点ー

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この講演の企画はなかなか実現は難しそうですが、草稿を掲載しておきます。

講師 やすいゆたか(哲学者)

- 暮らしの中の宗教―宗教の原点を求めてー
講師 やすいゆたか(哲学者)

第一回 命(Life)の信仰
「いただきます」という言葉はだれに対して言っているのでしょう。命をいただいているという気持になったとき、生き物たちとの命の輪がみえてくるかもしれません。

第二回 光(Light)の信仰
「おはよう、きょうもよろしく」と昇ってくる朝日にあいさつしてみましょう。光と熱をいただき、智恵と希望が湧いてくるのではないでしょうか。

第三回 愛(Love)の信仰
「愛しています」と家族に恋人に、そして総ての人に言えたらいいですね。愛する心がなければ、どんな大きな仕事も、どんな素晴らしい才能も人を幸せにはしてくれません。

第四回 宗教的対話の可能性
みんな命と光と愛を信じて生きているのに、どうして分かり合えないことがあるのでしょう。絡み合った紐をやさしくほどいて、互いの喜びや哀しみを話し合えば、手を取り合っていけるのではないでしょうか。

第五回 宗教のときめき
生まれてきたこと、出会ったこと、生きていること、働くこと、学ぶこと、愛し合うこと、宗教は人間であることの不思議に連れ戻してくれます。

コメント(27)

ーーーーーーーーー第一回 命(Life)の信仰ーーーーーーーーーーーーーーーー

        ーー1、命をいただきます。ーーー

 今日は命の信仰についてお話しします。今からもう半世紀近く前のことなのですが、『朝日新聞』の地方版に「小さな目」という子供の詩を紹介する小さなコーナーがありまして、そこに「いただきますというのは、命をいただきますという意味です」と書いてあったのです。

□びっくりしましたね。だって私は、そういう意味だとは思っていなかったものですから、食事を作ってくれる人に感謝していただきますと言っていると思いましたし、親が働いた収入で、食べさせてもらえるので、親に感謝していただきますというのかと思っていたのです。あるいは、農漁民や流通やお店の人に感謝という気持もあるかなとは思いました。そして神を信仰している人は神が総てを与えてくれているので、神に感謝していただいているのかなということですね。そういうように捉えていたのです。

□まさか食物それ自体に感謝していただきますと言っているとは思っていませんでした。それも「命をいただきます」ていうことは、動植物を殺して、その命をいただいているということですね。殺して食べるなんてグロテスクというか恐ろしいですね。でも実際は、殺してその命をいただいているのです。

□それをなんと小学生が詩にしているものだから、ショックを受けたのです。先生か親がそう教えたのかもしれませんが、子供の心でそのまま受け止めているわけです。

□殺す人と運ぶ人と調理する人と食べる人が別ですと、食べている人は、自分が動植物を殺して食べているとは思わないものです。特に育ち盛りの子供たちは肉が大好きで、むさぼるように肉にかぶりつきます。もし捕まえてきて殺して調理して食べるとしたら大変ですね。

□牛や豚や鶏にしますと、人間に飼われて、人間に殺されて、人間に食べられているわけで、飼ったり、殺したり、運んだりしている人は、食べる人の身代わりにしているだけですから、食べてる人が殺しているのだという認識が重要なのです。

□食べることによって我々は栄養を補給し、生命活動が出来るわけです。つまり他の生き物の命を奪って、その死と引き換えに生きているということですね。生と死は裏表なのです。自分が死なないためには、他の生き物が死ななければならないわけです。他の生き物の命のお陰で生きているのですから、それだけの命の分も大切にして生きなければならないということですね。

□それで食べ物つまり動植物に感謝して手を合わせ、敬虔な気持になって食事をするということは、宗教的ですね。我々は宗教というと、何か目に見えない神霊に手を合わせて、祈りを捧げて守ってもらおうとすることだと思いがちです。それでそんなの迷信だとか思って拒否してしまう人も多いわけです。


ーーーーーーーーーーーー2、宗教への目覚めーーーーーーーーーーーーーーー

□私も元々は宗教否定派でした。家は私で四代目のクリスチャンなのですが、神さまがいて宇宙を作っただとか、死んだら天国に行けるだとか、なんの根拠があって言うのだ、迷信じゃないかと考えていたのです。それでみんな本当は迷信だと思って、信じていないのだけれど、みんなで信じているふりをしているのだろうと思っていたのです。

□それで高校生ぐらいの時だったと思いますが、牧師さんに本当は神様の実在なんて信じていないでしょうと単刀直入にうががったのです。するとその牧師さんは、もし信じていないとしたら、どうして毎日教会で祈りを捧げ一生を神様に捧げつくす生活が出来るのですかと反問されたのです。確かにそうだ、と思いました。その牧師さんは出世されて九州教区の大主教にまでなられたのです。

□今度は大学生になってからでしたか、若い牧師にさんに同じ事を伺いますと、「ええ、復活とか、天国とか、天地を作った神だとか、なかなか信じられませんね。いつも信じられなくて苦しんでいます。でも何故か教会にいないと不安で、神を求める心から逃れる事ができないのです。だから苦しみながら牧師をしています。」と正直におっしゃったのです。やはり信仰の差でしょうか、その方は左遷されたようです。

□でも現代人の信仰は、科学的合理的思考にならされていますので、実は不信仰に苦しみながらも神の救いを求めるという逆説的な信仰が特色なのです。それはいいとして、最近私が宗教づいてきたのは、キリスト教や仏教は、私が考えていたほど迷信的なものではないということです。それに気付いたのです。

□といいますのが、『バイブル』には天に昇ったのはエリヤとイエスだけで、他にはだれも天に昇っていないのです。では何て書いてあるのか、「塵だから塵に戻る」とされているわけです。

□では天国に入るというのはどういうことなのか、それは歴史が終焉してからなのです。後何百年か、何千年かしたら歴史が終わるというのです。天使のラッパが鳴り響いて、歴史が終わりますと、その時に神が審判されて、義に生きた人は甦らされて、神の国に入れるのではないかという願望が預言として語られているだけです。

□その神の国を天国というのですが、審判が行われると言うのは、神が地上に降りられて、地上を支配されるということなのです。ですからこの地上が今まで神がおられた天国になるという意味なのです。ですから亡くなった人たちは土に帰っているという唯物論者と同じなのです。

□仏教でも浄土真宗は、死後阿弥陀仏がお迎えに来てくださり、極楽に往生できるとなっているはずですね。ところが浄土真宗の教学担当の偉い坊さんの話では、死後極楽にいけるというような、実体として極楽があるようなことは、死んでないのにどうして分かるのか、仏教は阿弥陀仏に導かれて、慈悲の心で生きていればそれが阿弥陀浄土つまり極楽だということです。阿弥陀仏の力で浄土に生きることを往相回向といい、そこで受けた慈悲の心を周囲に施していくのを還相回向というのだそうです。

□つまり地獄も極楽も生きている人間の心の様相だということですね。そうすると死んだら極楽という話は何なんだということになります。そういう迷信じみたことは浄土真宗の僧侶が信仰されていないということなのです。せめて浄土真宗のお坊さんだけは信じていて欲しい気もしますね。

□死後阿弥陀浄土に行くとしたら、肉体は滅んでしまって存在しないのですから、結局霊魂だけになって往くということでしょう。そういう肉体のない霊魂だけが実体として存在するという霊信仰は浄土真宗ではしていないということです。だから浄土真宗では香典嚢に「ご霊前」とは書かないのです。霊がないのに死後浄土にいけるわけがありません。

□つまり既成の大宗教が迷信から脱却したようなことを言っているので、宗教に対する見方が変わってきたのです。それから命の信仰で聖餐に関心を持ちまして、それで宗教に近づいたわけです。
ーーーーーーーーーーー3、主イエスの聖餐の謎ーーーーーーーーーーーーーー

□きっかけはオウム真理教事件です。彼らがハルマゲドンという全人類を相手にした最終戦争を仕掛けようとしていたのですが、それが露見してびっくりしましたね、魂が縦揺れを起こしました。それに対してキリスト教会は、「ヨハネ黙示録」を悪用されたというので、オウム真理教を非難したのです。このキリスト教会の対応にはがっかりしました。彼らは「ヨハネ黙示録」が悪用されたことを問題にするだけで、「ヨハネ黙示録」そのものは問題にしないのです。

□「ヨハネ黙示録」は、イエスが人類の贖罪のために犠牲の十字架についたのに、それでもイエスを信仰しない人々に対して、ホロコーストが行われるという「ヨハネ黙示録」が問題とは思わないわけです。それじゃあオウム真理教が、浅原尊師の教えを頑固に拒絶する旧人類を滅ぼして、人類を救済しようとする計画を批判できるでしょうか。

□その問題はさておき、その「ヨハネ黙示録」に「ほふられた仔羊」が出てきます。これがイエスの象徴なのです。つまり過ぎ越しの食事で犠牲になって食べられる仔羊がイエスだということです。

□イエスは処刑されましたが、屠られていませんね。つまり肉を捌かれて、食べられたことになっていません。ひょっとして、「ヨハネ黙示録」は、実はイエスが食べられたことを暗示しているのではと考えたのです。

□そんなイエスが食べられたなんて有り得ないと思われるでしょうが、それには実は思い当る節がいくつかあるのです。

□一つは今日まで続いているミサです。キリスト教の礼拝をカトリックではミサと呼び、その他では聖餐式と呼びます。それはイエスの肉だと言ってパンを食べ、イエスの血だと言ってワインを飲んでいます。もちろんイエスはパンではないし、ワインではありません。イエスの肉でないものをイエスの肉だと言い、イエスの血でないものをイエスの血だといえば、それは偶像崇拝ですね。あるいは物を神とするフェティシズム(物神崇拝)であり、唯一絶対神信仰ではもっとも神を冒瀆する行為とされている筈なのです。

□にも拘らず、それがキリスト教の中心儀礼になっているのはなぜかということですね。それはイエスを食べるという行為を反復する必要があるからではないかと考えられます。

□イエスを食べることによってイエスと合一し、永遠の命に連なるのだと教会は説明しますが、ご飯を食べればご飯と合一するとか、牛を食べれば牛と合一するとは言わないわけです。これはイエスを食べたとしたら、その行為が神との合一する聖なる行為だったということを、パンとワインを使って繰り返すことで、反復することで主張していると解釈できるわけです。

□それにイエスは十字架にかけられる一年以上前にカファリナウムで、自分を「命のパン」だと規定し、「人の子(メシア)の肉を食べ,血を飲んだ者を終末の日に甦らせる」と約束しているのです。つまりイエスへの聖餐を命じているわけです。それを象徴的な意味で解釈していたわけですが、実際にイエスが処刑されるとなると、それは象徴的な意味でなくなり、イエスの命令としてイエスを聖餐することが迫られたと考えられます。

□それが最後の晩餐です。これから捕まえられて処刑される人がパンを手にとって「これは私の肉である、これを食べなさい」と言い、ワインを注いで、「これが私の血である、これを飲みなさい」と言えば、どういう意味で受け止められるかです。イエスも弟子も偶像崇拝や物神崇拝は神への冒瀆だと考えているわけですから、パンがイエスの肉だとか、ワインをイエスの血だとかは考えません。

□それはリハーサルなのです。今このパンを私の肉に見立てて食べなさい、明日の過ぎ越しの晩餐は私の肉を食べなさいということです。つまりいよいよ約束の聖餐の時が迫っている、明日は立派に聖餐によって聖霊を引継ぎなさいという指令なのです。

□もし聖霊がイエスの体に宿っていれば、イエスの肉を食べ、血を飲めば、それは弟子の体に入って、肉や血が排泄された後に聖霊だけが弟子の体に宿ると言う聖霊移転が起こるわけです。これは猟奇的な人喰いではなく、全く神聖な宗教儀礼です。

□何故イエスの復活を弟子たちは体験できたのか、もしイエスの肉を食べ、血を飲んだとしたら説明できます。もちろん本当に神がイエスを復活させたのなら、それでいいのですが、キリスト教徒以外はそれは信じられませんね。だからキリスト教はインチキで復活をでっちあげて信徒をだましているという白い目でみられがちです。インチキ宗教との対話など得るところがないとされてしまいがちです。

□でももしイエスを聖餐したのなら、復活体験はあり得るわけです。人間は全能幻想をもっています。これが聖餐によって聖霊が引き継がれたと思い込むことで、全能感が無限に増幅されるのです。それで少しでもイエスを連想させる者を見ますと、その人がイエスに見えてしまうという体験が起こります。

□マグダラのマリアが園丁をイエスだと思い込み、エマオでクレオパとおそらく弟ヤコブが旅人が食事の時に急にイエスと分かったというのも精神分析すれば、イエスの聖餐による全能感の無限増幅の例に見事に当てはまります。

□エルサレムで密室で弟子たちが食事中に突然イエスが現われたのも、イエスそっくりだった弟ヤコブに、イエスの聖霊が入ったと思い込むことによる二重人格症状として説明できます。ヤコブが自分がヤコブであることを忘れて、イエスになり切ってしまったら、他のイエスを聖餐して全能感が異常に強くなった弟子たちにとって、ヤコブがイエスの復活としか思えないのは当然でしょう。

□福音書の作者たちは精神分析学を知りませんから、意図的に精神分析すれば聖餐による復活と分析できるように話を作れることはありえないので、これらの体験は実際にあったと見なすべきなのです。

ーーーーーーーーー4、食べる事と食べられる事ーーーーーーーーーーーーーー

□聖餐によって復活を体験したという分析は、『イエスは食べられて復活した』のPDF版で読んでいただくとして、命の信仰にとって、大切なのは、イエスが食べる事によってではなく、食べられる事によって、自らを永遠の命として証したということです。

□人間はフードチェーン(食物連鎖)の頂点にいますから、食べられる事を知りません。他の生き物を殺して食べて自らの命を引き伸ばすだけです。自らが食べられ、その命を引き継いでもらってこそ自然の循環を永遠の命を構成することになるわけです。

□もとより個体としては、初めも終りもあります。有始有終です。永遠の命の循環の中で一こまになってこそ、永遠の命の現われになれるわけです。そのためには個体としての生に固執してはならず、食べられる存在として己を相対化してこそ、永遠の命の循環に戻れることを示す必要があったのです。

□仏教でも慈悲の心で「餓えている虎」を憐れみ、捨身飼虎した修行者の姿を機縁にしてゴータマ・シッダールタは覚ったといわれています。個体の生を離れて、大いなる命の環に身を投げ入れたということでしょう。そこに有限な生にもかかわらず、永遠の命を生きている、構成しているということになるわけです。

□イエスは聖霊を信仰し、それを引き継がせるために自らの肉と血を捧げて、永遠の命につながったわけですが、それでは我々は自らの命をどのように生きれば、一番よく自らを食べさせることができるのでしょうか。

□イエスの場合は聖霊を宿したので究極の選択で聖餐を行わせたわけですが、我々の体を食べさせても大して栄養になるわけではないですし、精神も聖霊も引き継げませんね。本当に人間の肉や血を食べるとなると、これは安心して眠れなくなり、社会は崩壊します。ですからカニバリズムをタブーにするのは絶対に必要です、

ーーーーーーーーーー5、物を作って食べさせる事ーーーーーーーーーーーーー

□それで我々は自らを身体の外の事物の中に出し、食物や衣料や生活用品や住居や文化的な事物やサービスとして表現し、それを食べてもらう、消費してもらうということですね。私の話はこなれが悪くてなかなか咀嚼できないかもしれませんが、宗教の原点を考えるお話も、生きていくのに大切な活力になるのではないかとディナーのつもり、実際は、スナック菓子にもならないかも分かりませんが、お話しているわけです。

□だから母親は赤子を自らの血を乳にして与えて育てますね。そして子供たちに自分の命を籠め、祈りをつまり魂を籠めて食事を作って与えるのです。そういう気持でないとだめですね。自分の子供には一番美味しいものを食べさせようと精魂こめて作らないと駄目です。そこに手作りの味、おふくろの味が生まれます。

□一流の料理人が目指すのは結局、家庭料理だという逆説があります。いかに高級食材を使ってもおくふろの味には勝てない、それはおふくろは自らの命を与えているからなのです。

□ここでこの話に矛盾を感じられておられる方はいませんか、最初「命をいただきます」という話の時には、ご飯だとか魚や肉が神様だ、食物を神として食べているという話だったのに、ここにきて料理をしている人の命を食べているという話に変わっているじゃないかという矛盾です。

□しかしどっちなんだということじゃあありませんね。生の肉や魚を齧ることもあるでしょうが、食材を食べやすくして提供するという調理人の営みで食材の命をいただくのですが、当然、その際に調理に命を燃やしている調理人の命もいただいているわけです。

□人の命ははかなくて、瞬くうちに年をとってしまいましたが、私たちはその命をどう燃やしてきたでしょうか、料理を作るということは料理の姿になって、食べられて、食べた人の命をつくります。食材の命に調理人の命も加わっているのです。

□もちろん農民や漁民が植物を育て魚を捕り、自然環境を守っていることによって食べられるのですから、それに費やされた農漁民だけでなく、輸送や流通の人々の営みも籠められているわけですね。ですから動植物の命を神としていただくということの中に人々の命も籠められているということで、イエスが肉と血を直接弟子たちに与えたように、母は子に人は人に命を与えているわけです。

□動植物や大地の命をいただいているということは、それらと関わる農漁民や流通、消費を営む総ての人々が自然や動植物のために命を費やしているわけで、それは動植物や大地に命を捧げているということでもあるわけです。

□例えば、ライオンが草食動物を食べて生きていて、そのお陰で、自然のバランスが取れているとしますと、草食動物たちの生態系を守るためにライオンは命を捧げて生きていることになります。ライオンは草食動物に食べられるわけではありませんが、彼の一生は草食動物たちの生態系の維持のために捧げられていることになるのです。

□その意味で食べるばかりで食べられていないという捉え方も一面的なのです。だから命をいただいている動植物の神々に生贄や人身御供を捧げたりするのも、命をいただくためには人間も命を捧げ、一生を捧げて動植物や自然環境を守らなくてはいけないということを象徴していたわけです。

ーーーーーーーーーーー6、家庭こそ神殿であるーーーーーーーーーーーーーー

□直接的な命のやりとりとしては食事が宗教儀礼の中枢になるわけですが、どうも最近はおざなりですね。祈りと命を籠めて、自分の命を与えるつもりで、絶品を出すべきです。たとえパンとワインでも神父が聖別したらそれでなんでもいいではだめです。

□お寺でも神社でも参拝客に儀礼として食事を出すといいと思います。そうしますと落ち着きますから、ありがたい法話も聴かせてもらいたくなるものです。そのためには魅力ある食事でなければならないわけです。ドラ焼きのようなお茶菓子でもいいのですが、どうせ出すのなら、そこでしか食べられないおいしいものを作ってだすべきです。

□命を与えるのが神であり、宗教だとしたら、日常の食事こそ神を食べる聖餐であり、過程こそ神殿だということになりますね。一日三回食事の度に神に手を合わせて生きる力をいただいているわけです。もちろんその中には母の家族の社会の生産流通などに携わる人々の命も籠もっているわけで、そういう人人への感謝の気持も籠められて手を合わせているわけです。

□家庭が神殿だとしますと、主婦は祭祀でもあり、神でもあります。聖なる食事をつくって出しているのですから、その神殿が汚れていたり不潔であってはいけませんね。もちろん時代の変化もあり、女性だけが炊事洗濯掃除を一手に引き受けなくても言い訳で、分担を決めたり、輪番制にしてもいいわけですが、聖餐を作って食べる場であるという自覚が大切です。

□食事は直接的な命の引継ぎなので、最も宗教性が強いわけですが、先ほども少し触れましたが、物やサービスを作って提供することも命を食べやすくして与える行為であるということなのです。

□この宗教の原点の話も身近な日々の暮らしの営みに宗教性を見出して、生きる喜びやありがたさを感じていただくための話ですが、心の栄養になればいいわけですね。それは比喩であって比喩でないわけです。この話を咀嚼して、元気に生きていただければ、それで私の命を食べていただいた事になるわけです。それだけこの話には私の命つまり人生がつまっていますからね。

□もちろん子供服を内職で作っておられる方が、子供服に精魂籠めて命を結晶させておられるわけで、それを着て子供は元気に遊んだりしています、裸では危なくて外に出れません。つまり生きる力を与えているわけですから、物やサービスを作って提供すると言う事は、命を与えているという宗教的な営みでもあるのだということです。

□ですから、宗教は大切ですね。我々はつい経済的な利害を計算して損得勘定だけで行動してしまい。命を与えあい、支え合って暮していること、そのことの意味を深く考えようとはしなくなります。

□命を与えあい支えあっていると言う事を意識し、それに手を合わせて感謝する心を忘れなければ、日々生きている事、生かされていることがとてもありがたい幸せな事だと感じることが出来るのではないでしょうか。
------------------------7、死して生きるー永遠の命とはー------------------

 自己意識というのは、個体の意識である場合が多いですから、個体の死は避けられないとすれば、それは自己の消滅ですから、せっかく生まれてきたのに、自分が消えてなくなってしまうというのはとても恐ろしいことですね。あのイエスですら十字架につけられて殺されるのを恐れて、恐怖のあまり汗が血のように滴り落ちたといわれています。

 イエスは三日目の甦りを予告していたのにどうして怯える必要があったのでしょうか。福音書ではイエスは肉体を持って復活していますが、実はイエスは、そういう復活だとは考えていなかったのです。何故なら、彼は聖餐を指令していたわけですから、食べられて肉体はなくなってしまい、聖霊が引き継がれるわけです。だからイエスのいう三日目の復活は、聖霊が弟子たちの体の中に宿って、活動し始め、弟子たちが甦ったイエスとして活動する事を指していたのです。

 ところが弟子たちは神の子イエスから聖霊を引き継いだと思い込んで全能感が異常に強くなって、肉体を持って復活したイエスとの遭遇を体験してしまったということです。それが幻想だったということは気付く由もなかったのです。

 個体の消滅は避けようがないのですが、しかし逆に個体的な消滅としての死がなければ、生もないという絶対矛盾が存在するわけですね。もしも死ななければ、今、ここで何かをしなければならないことはなくなってしまいます。働かなくても、食べなくても、息をしなくても死なないとすれば、生きていることもないわけです。個体の消滅としての死があるので、それを先延ばしするために、行なう活動が生きるということなのです。

ですから、命を信仰して生きるということは、有限な人生に無限の意味を与えて、永遠性を感得することに他ならないのです。そのためにも個体の身体にアイデンティティを求めすぎてはいけません。人や事物、大いなる生命とのつながりに価値を置き、それを自分だと感じる必要があります。

 自分の意識と言うのも、自分の個体的な身体の中でのみ生み出された意識と捉えないで、家族や職場や社会の中で、事物とのかかわりや自然環境の中で生み出されたものとして捉え返すことが大切です。家族や友人や学校や職場や様々な帰属する集団を大切にし、よき伝統や文化を尊重し、継承発展させようとする態度が求められます。そのような自我の拡大によって、たとえ個体としての自分は消滅しようとも、拡大された意味の自己は残っていくと感じることも出来るのではないでしょうか。

そして、たとえ身体としての自己はなくなっても自分の残した仕事や作品、それらを通して与えた影響の中に自分の不滅性を感じることができることもあるのです。

ダ・ヴィンチの描いたモナリザは今日も謎の微笑をなげかけていますが、実はモナリザのモデルはダ・ヴィンチ自身であったといわれています、彼はモナリザになって今も生き続けているのです。だから自分の仕事や作り出した事物や自分が与えたひとびとへの感動や記憶の中にすら自分は残っているということですね。

 しかし物や記憶の中に遺された自己もそこに自分が納得できる物があるかが問題です。そこに不滅の光があると感じられる物を遺せたら、人生自体はきわめてはかないとしても、納得できるかもしれませんね。
----------------------第二回 光(Light)の信仰----------------------------

----------------------1、太陽は暮らしの指揮者--------------------------

 昔は電燈というものがなかったので、日が暮れると蝋燭や菜種油などで明かりを燈すのですが、もったいないので、早く寝るようにしていたようです。朝は白んでくると目覚めて「おはようございます」と挨拶をします。そして昇ってくる朝日を拝むのが日課ですね。

 もちろん家族やご近所の人々と今日もよろしくという気持をこめて挨拶するのですが、特に太陽に向かって「おはようございます」と呼びかけたらどうでしょう。毎朝熱と光をもたらしてくれる太陽に今日もありがとうという感謝の気持を表現すれば、その熱と光をいただいて自分も精一杯充実して生きなければ、申し訳ないという気持になるのではないでしょうか。

 太陽と共に目覚め。日が沈むと眠る。つまり太陽が我々の生活の指揮者みたいなものです。それだけ光というのが大切だということですね。光を頼りに世界を識別し、太陽のエネルギーで動植物が繁殖活動し、その命をいただいて人間たちは活動しているのですから、当然と言えば当然です。

 毎朝、毎朝太陽が東から昇ってきてくれて、西に沈みます。この日課を一日も欠かさずしてくださるので、我々も生きていけているわけで、大変ありがたいのです。そういう意味で太陽は勤勉です。太陽の方から見ても人間は勤勉でしょうね。毎日毎日日課をこなして働き、物資を作り出し、文明を築き上げています。それで現存する世界最古の文学作品である『ギルガメシュ叙事詩』では太陽神ウトゥはギルガメシュ王の味方をしまして、森の守り神フンババを旱や強風で弱らせるのです。

 ------------------2、普遍的な太陽と光の信仰--------------------

 ですから、太陽や光を神として信仰するのはかなり普遍的に見受けられます。キリスト教では、イエスの降誕祭を十二月二十五日にしていますが、実は歴史上の人物であるイエスの誕生日は不明です。冬至は陽射が一番弱くなるので、その日を太陽の誕生日としていたのを、イエスは、世を照らす光つまり「世の光」であるので、イエスの誕生日も十二月二十五日にしたということらしいです。つまりイエス信仰を太陽神信仰と習合させているのです。

 仏教でも弥勒信仰は太陽神信仰を取り込んだものだとされています。また阿弥陀如来の梵名はアミターバで無量の光という意味です。つまり光の仏なのです。華厳宗の宇宙の本体である仏の毘盧遮那仏やそれが人間に対して法を説かれた姿の大日如来も本体は光であるとされます。

 つまり超越神や人格神や覚った人である仏を崇拝する宗教も自然神である太陽神信仰あるいは光信仰と習合しているわけなのです。ですから仏教を日本に導入しまして、仏教が毘盧遮那仏も阿弥陀仏も光信仰なので、それに影響されて、日本神道では、太陽神である天照大神が主神の座についたのではないかという解釈もできます。

 このように太陽や光を信仰することは、だれでもしていることであって、朝日に向かって手を合わせて、『お日様、今日も昇ってきてくれてありがとうございます。今日もご苦労様ですが、我々に熱と光を与え、私たちの暮らしを支えてください。私たちは、あなたの恵みに感謝して、存分に持てる力を発揮して、物作りやサービスに励み、素晴らしい文化を創造し、自然と融合した文明を築くために創造的に活動するつもりです。どうぞ私たちを見守って、間違った道に行かないように監視してください。』ぐらい唱えた方がいいですね。

  ------------------3、北極星信仰から太陽信仰へ--------------------

 『古事記』や『日本書紀』二冊まとめて記紀といいますが、記紀に最初に現われる神は天の真ん中にいる主の神という意味で天御中主命なのです。この周りを総ての存在が回っているので、実は北極星信仰なのです。

でもイザナギの神が黄泉の国の穢れを落す禊ぎをしまして、それで左目から生まれたのが天照大神だとされています。それで要するに主神が天御中主命から天照大神変更したのではないかということが、窺えます。

航海や遊牧の民には方角を示してくれる北極星を主神とする神話が多いようなのです。それでいわゆる天孫族は半島南端から壱岐、対馬を拠点にして日本海に勢力を張り、筑紫に進出してきた勢力ですから、北極星信仰だった可能性が強いですね。

 それに対して大和や河内で農耕を営んでいて人たちは生駒山や三輪山に登る太陽を主神にしていたようです。 元々太陽神ニギハヤヒを祖先神にしていたのが物部氏です。

 イワレヒコが東征しまして、ニギハヤヒの勢力は敗れて、臣下になりますが、太陽神の祭祀は続けていたのです。それが五八七年の蘇我・物部戦争で敗れまして物部宗家が滅んだので、ニギハヤヒ信仰は地域的な太陽神に限定して、アマテラスという太陽神信仰をつくり、これを大王の一族の祖先神だということにし、主神にしたという大宗教改革があったかもしれません。

 何故乗り換えたかですが、やはり大和、河内に君臨するには農業中心の宗教でないといけないので、農業は太陽の恩恵や、太陽の動きで作られる暦と関連が深いので、太陽中心の信仰にならざるを得ないわけです。それに仏教が導入されて大いに権威を持ったのですが、当時の仏教は宇宙の隅々まで照らすような無量光、つまり超巨大太陽の信仰と融合していたのです。そうしますと、やはり北極星より太陽の方がかっこよく思いますね。

 でもいままでご先祖として祭祀してきた北極星に対して申し訳ないので、北極星を意味する称号を大王につけることにしたのです。それが天皇です。天皇は道教の天皇大帝つまり天帝の言い換えです。北極星は天帝が星の姿で現われているものなのです。

 -------------------------4、根源物質としての光----------------------

 チベット密教には、死んだら分解して光になるという信仰があるようです。土葬では土から生まれて土に還るということですが、火葬となると燃えて光になるという捉えているのかもしれません。

 最も小さな原子から世界が構成されていると見る世界観を原子論的世界観と言いますが、それは古代の場合は全く観念的仮説でしかありませんでした。それが現代では百近い原子が発見され、原子ももっと小さな基礎粒子から構成されていると言われます。そしてその最小単位を考えますと、粒子と波動の両方の性質を持つような光として捉えられる電磁波に行き着くようですね。

 ですから光は根源物質、アルケーとして捉え返されます。その意味では光は自分たちの体の外部からもたらされているだけでなく、最も根源的には、我々も物質としては光の在り様であると言えるでしょう。つまり物質とは元々光の濃淡、彩り、組み合わせ、凝縮、散乱にすぎないのです。もちろん光の凝縮ですから半端じゃないですよね。だからそれが解放されて散乱するとものすごい光の量です。巨大な熱やパワーを伴う場合もあるわけで、原子力というのは、核爆弾でも原発でもその片鱗を覗かせています。

 陽明学で有名な王陽明は、臨終に際して、弟子から遺言を求められ、「私は光明だから、何も言い残す事はないよ」と言われたそうです。もちろん彼は死んで、体を燃やして光になるという意味ではなく、彼の人生と彼の学問が、残された人々にとってまさしく明るい光として照り輝いて道を照らしているということです。

 『法華経』には薬王菩薩の前身である喜見菩薩は、法華経が最高だと分かったので、仏に感謝に捧げようとしましたが、どうせ捧げるのなら自分の体を捧げようとしました。つまり千二百年かけて、油を体に溜め込んだ上で、焼身自殺しました。するとその光が八十億恒河沙の世界を照したといいますから、まあ無量壽光ですね。無量壽光と言えば阿弥陀仏のことでもあるわけです。阿弥陀仏に匹敵するほど明るい光を宇宙の隅々まで照らしたということです。これこそ真の精進だと諸仏はほめそやしたわけです。

 この話では油を体に溜め込むと言いますが、それは比喩で、彼が覚った法華経の真理を千二百年の間衆生に解き明かしたということでしょうね。

 人間は存在それ自体が根源的には光なのであり、外から熱や光をもらうだけでなく、自らも光として燃えて、世界を照らして、生き方を照らし示すべきだという事でしょう。つまりお互いに照らし合って、支え合い、導き合って、太陽や月や星を手本に生きなさいということです。

 ところがあまりに光が手軽に作れてしまいますと、天体のありがたみも忘れられがちですし、お金を出せば買えてしまう存在になれば光の信仰が衰えてしまいます。東北大震災で福島で本格的な原発事故が起きまして、電気を起こして光をいくらでも取り出そうとする人間の強欲に警鐘が鳴っているわけですが、原発というのは、高速増殖炉と再処理工場の技術が完成すれば、ほとんど無尽蔵にエネルギーを取り出せる技術らしいですね。それだけにリスクが大きくて、一旦事故が起こりますと、非常に甚大な被害が起こります。安全が確保できない以上、研究にとどめ、実用には当分手を出すべきではないでしょう。

------------------------5、理性としての光-----------------------------

 体の外部から熱と光を受けているという表現は間違いではありませんが、熱も光も感覚ですから、それは体の外部に光源があるとしても、照り輝いて燃えているのは、己の感覚それ自体であるとも言えます。光は存在するもの、対象としては根源物質なのですが、感覚的な意識でもあるわけです。つまり、物質と意識が光としては未分化であるといえます。

 光の濃淡や組み合わせによって、対象が構成され認識されるわけですから、光は我々の知る働き理性であるとも言えるのです。ですから太陽の光の神アポロンは、理性の神であり、総ての闇を照らして物事の謎を解き明かし、人々の運命を見通す占いの神、予言の神でもあるわけです。

 ですから光の濃淡や組み立て、我々自身の感覚として現われて、それが事物を構成しますと、あたかも感覚ではない、客観的実在としての事物であるかに捉えられ、外部を構成して、物として自立し、理性を支配し、制約しようとするわけです。

 ですから物事を認識するとは、光や音などの感覚が自己を否定的に対象化して事物として現われる様を感じ取ることなのですね。実はこれは個々人の小さな主観だけの働きではありません。星や太陽や大自然やミクロの世界まで、個人の理性が勝手に構成している筈はないのですから、それは星や太陽や大自然が、ミクロの粘菌やバクテリアやアトムたちがやはり燃えて光っているのを、大いなる命の一部である私が燃えて光って感じているわけです。それは私の働きである姿をとっているけれど、大いなる生命自身の、その事物自身の働きでもあるということです。

 だから私が生きている事、感じていること、言い換えれば光っていることは、大いなる生命であるコスモスが生きて感じていることと同じなのです。つまり私は他の私つまり大勢の他人との差異や比較においては、ちっぽけで他の誰でもない私で、私なりに燃え光り、感じ取っているので、私が考えていること、感じていること、行動する事は、私だけのもののように思いますが、それは世界が事物の姿をとって現われるためには、個々人の主観に、感覚であることを否定して事物として認識されるという存在構造になっているからなのです。

 だから理性は個々人の考える働きであると同時に、世界が燃えて光って感じていることでもあるということ、そこに個人と世界が究極、一つであって、同時に個人の数だけ、個物の数だけ世界が無数であるということがいえますね。個人と仏、個人と神が絶対に断絶しているのだけれど、究極同一だということもいえるわけです。西田幾多郎の用語では「絶対矛盾的自己同一」です。

 近代西洋の理性主義は、主観的な理性主義に傾きがちだったのです。つまり主観の側に人間の意識があって、客観的に実在する事物を感覚を通して知覚した上で、それを主観の意識が思考によって解釈して認識するという捉え方ですね。それでは客観的な実在としての事物が果たしてどれだけ認識できるのか分かりませんし、認識する主体は主観でしかなく、認識される事物の側が主体の意識を生み出しているという面は無視されてしまいます。

 しかし意識というものは、主観が意識したいように意識できるわけではありません。対象が現われるままに意識しているという面も無視できないはずです。そもそも意識がそれぞれ個人的で主観的でしかないのなら、共通の認識というもののもなかなか成立しないので、コミュニケーションが成り立たないのじゃないでしょうか。理性を個人の主観的な意識に狭く解釈してしまわないで、同時に対象的な事物や事象の働きであり、それは究極的には大いなる生命である光が燃え、輝いているということなのではないでしょうか。
 
 
------------------6、希望、救い、覚りとしての光-----------------------

 結局、我々は存在それ自体を光としてイメージし、光として説明しようとします。つまり光というプラスイメージにして、存在を肯定し、存在に身を任しているわけです。つまり光として存在を信仰しているのです。この信仰を頼りに生きているといえるかもしれません。その意味で光は希望です。

 根源的に人間存在が有限性によって規定されている限り、つまり死ぬことなしに生きられない限り、どんなにあがいたって死の暗い淵が待っているだけですから、それは絶望だと言えます。絶望した上で開き直って生きているわけですね。どうせ有限な命なら、その中で精一杯輝いて充実して生きてやろうじゃないかということです。精一杯充実して生き抜いたということは、やはり幸せなのです。逆にもし死がなければ、何もしなければならないという切実さがなくなり、愛を感じたり、美を感じたりすることも出来なくなると思われます。

 人間は身体的には物質であり、根源的には光であることによって、有限な生を生きるしかないのですが、それは大いなる生命が個体を通して現われるということでから、それぞれが個性的な姿で、自分らしく輝くことで、大いなる生命の光を輝かしているという意味で、希望に成ることができるのです。

 元々生命は一つであり、個々の生命はその一つの現れなのですね。ですからその人なりに精一杯、自分を実現させて生きれば、それは大いなる生命が生きたこと輝いたことになりますから、どれもそれぞれにかけがえのない尊い美しさをもった光なのです。

 イエスも「野の花を見よ」と言われましたね。どの花もそれぞれ、美しく咲き誇っているわけです。「世界で一つだけの花」なのです。そのことを覚ったら、花は花のままで覚りなのです。この覚りに到達したのが天台本覚思想です。梅原猛先生は、この天台本覚思想が大好きなのです。

鎌倉時代の禅僧瑩山紹瑾(一二六八-一三二五)の『伝光録』首章に「釈迦牟尼佛成道するとき、大地有情も成道す」とあります。覚ろうとする釈尊も明けの明星や山川草木とは切り離された「我」であるのなら、覚りはしないのです。明けの明星や山川草木を我と見た時に覚るのです。また明けの明星や山川草木も釈尊とは無縁な物体である限りでは覚りはしません。釈尊の命として輝いた時に覚っているのです。


 金春善竹の謡曲に『芭蕉』という名曲があります。芭蕉の精が「されば柳は緑。花は紅と知る事も。唯其まゝの色香の草木も。成仏の国土ぞ成仏の国土なるべし。」というありがたい教えを聞いて成仏します。ですから芭蕉は芭蕉のままでいいわけですね。そのままで素晴らしいということです。

 でも色あせた葉っぱとか、形の悪い花だとか、グロテスクな爬虫類だとかいますね。人でも美貌を誇る人もいれば、醜い人もいます。非常に頭の回転が速い人もいれば、計算に手間取る上に間違いだらけの人もいます。果たしてそのままでいいと言えるのでしょうか。

 だから較べて優劣をつける問題じゃないのです。生まれてきただけでもすごいことですし、花が咲いた、実をつけたこれは驚くべき事です。ちんちくりんでも咲いているなら、ちんちくりんでもよく咲いているじゃないか、これは素晴らしいと思えばいいわけですね。身体障害児を抱えた親たちは、障害を持っているのに生きている事を素晴らしいことだと感動して、障害児から生きる事の尊さを学んでいるわけです。

 大乗仏教では,煩悩即菩提といいます。煩悩を抱えて、苦しみながら生きています。生きるということは実は苦の連続なんですが、その中にこそ人間の真価が発揮され、己の可能性を追求でき、自己実現できるのですから、そその中にこそ、菩提つまり覚りがあるのです。

 食器を洗い、きれいに拭きますと、輝きますね。部屋をきれいに掃除しますと、すっきり爽快になります。そのときに部屋は輝きます。それは部屋が存在に輝いている、覚っているわけです。そのことを素晴らしいと思う感性を持てば、掃除が楽しくなります。

 光の信仰といえば太陽を拝んだり、蝋燭を燈してお祈りしたり、つい明かりを連想したりしますが、それだけではないのです。自分の部屋の中とか、周りの事物、町の様子、自然環境など総ての物、そして何より自分たちの身体や生き方、理性そういう存在の総ての燃えて、輝いているというあり方のことなのです。

----------------------第三回 愛(Love)の信仰---------------------------

            1、フリーハグズ

 フリーハグズという運動があるのをご存知ですか?街角で全く見ず知らずの人々とハグつまり抱き合う運動です。これは訳しますと「自由抱擁」ですね。それを「無料抱擁」と訳してはダメです。「フリー」は「無料」という意味はあるのですが、この場合はとんでもない誤訳ですね。

 全く見ず知らずの人と抱き合えるということは、愛を信じているからですね。愛の信仰を広げようとするキリスト教か何か宗教団体の運動かと思うとそれがそうではないらしいのです。この運動は二〇〇一年、アメリカのジェイソン・ハンター氏が始めた活動です。二〇〇六年にYoutubeに公開されたシドニーで製作されたSick Puppies - All The Same - YouTubeが三ヶ月で一五〇〇万人が閲覧しましてYouTubeインスピレーション部門でビデオアワード賞を獲得したのです。それで爆発的に広がったようです。日本でも『探偵ナイトスクープ』で試みたのですが、大成功だったようです。

 でも「フリーハグズ大阪」というYoutubeではなかなか来ないのです。最後にやっと一人だけフリーハグズしてくれまして、実際には難しいものだということが分かります。街行く人はそんなことにかまっている暇なんかないということでしょうか。もっと好奇心をもって見ず知らずの人と抱き合うってどんな感覚だろうかとか、ほんとにぬくもりとか、癒しとか感じられるのだろうかとか、そういうことに胸がときめいて欲しいですね。

 家族間でもなかなか抱き合うことはないですね。夫婦間でもほとんどなかったりして。せっかく結婚したのに長続きしない夫婦も多いようですね。ましてや赤の他人となると警戒心が先に立って、恐ろしくて抱き合えません。どんな凶暴な人とか、変質者がいて、酷い目に遭わされるかもしれない、そう思うとぞっとしますね。そういう事故があったら大変だというので、シドニーでも警官にとめられています。二五〇〇万ドル相当の賠償責任保険に入っていないから駄目だというのです。それで一万人の署名を集めて、やっと許可を得たということらしいです。

 でも見ず知らずの人でも愛を感じ合えるということですから、このパフォーマンスによって、家族や友人や職場の仲間に対して、素直な愛情表現ができるようになるのではないでしょうか。愛や慈悲の宗教を看板にしているキリスト教や仏教でも儀礼の中に取り込めばいいかもしれませんね。

 キリスト教の礼拝では「主の平和」という儀礼があります。互いに「主の平和」と呼びかけあって、握手を交わすのです。どうせなら、それをフリーハグズにすればいいかもしれませんね。もっともこの「主の平和」の意味は、キリスト教が全世界に広がって、争いがなくなるという意味ですから、解釈次第では恐ろしいことかもしれません。

 肝心なことは愛情ですから、ハグまでしなくても、握手でもいいし、笑顔の挨拶でもいいのですが、ハグの場合、全く距離がなくなり、ぬくもりを感じられて触れ合う喜びがあるわけで、癒しの効果が大きいのです。より強く愛情が実感できるということですね。しかしそこまでで止めておかないと、キッスまですると感触の刺激が強すぎて、今度はメンタルなものが損なわれることになります。
       2、偉大なムスリムたち

 東北大震災で、見直されたのがムスリムたちです。ムスリムというのはアッラーへのイスラーム(絶対帰依)に生きる人々つまりイスラム教徒のことです。ボランティアで被災地に入って大活躍してくれています。困った人を助けるというのは、アッラーの神が大変喜ばれることなので、ムスリムは献身的にボランティアをするのです。

 ですからアッラーの神に点数稼ぎをしていると見なしますと、彼らのやっていることは最終的には自分が楽園に入れてもらうための利己的行為だということになります。カントの「傾向性を抑制して義務に従う」というのが道徳だという道徳観から言いますと、動機に楽園があるので、自己の私利私欲のためで道徳性はゼロだということになります。

 でも、キリスト教国や日本などでは、ホームレスがいまして、路頭に迷っている人も多いのですが、イスラム教国ではムスリムの間での助け合いがしっかりしていて、ホームレスを出さないようにしているらしいです。その動機は、神から認めてもらいたいという気持が強いという事はあるでしょうが、やはり困った人を助けるのが社会や人間の義務だという考え方が浸透している結果だと受け止めていいでしょう。

 たとえ楽園などの私利私欲があったとしても、困った人を助けたり、献身的にボランティアする人々は、困っている人々に喜んでもらえるという事がうれしいからやっているので、本当は愛情なんかなくて私利私欲の塊りでしかないと決め付けるのは間違いです。

 キリスト教徒が聖典にしている『新約聖書』の「ヨハネによる黙示録」には、イエスを救い主と認めない人々は容赦なくホロコーストされ、煮え滾る血の池に投げ込まれます。そういう強迫観念から信仰しているとすれば、彼らの愛も怪しいものだということになりますね。でもキリスト教徒が行なっているチャリティも決して偽善の塊りではなく、多くの場合愛からであり、善意なのです。

         3、愛の諸相

 仏教では愛はむしろ欲しがる、執着するという意味で遣われます。相手のみになって考え、献身的に人のために尽力しようとする気持は慈悲という言葉で表現されます。

 古代ギリシアでは、エロース(恋慕)とフィリア(友愛)という言葉が遣われました。美や理想を追い求め慕うというのがエロースで、共にそれを実現するために協力しあうのがフィリアです。つまりポリス(都市国家)という共同体の中で、理想を共有し、連帯して支え合う関係が求められたのです。

 キリスト教はアガペー(神の愛)が強調されます。神は自分に似せて人間をつくったので、人間を愛していて、その独り子であるイエスを十字架につけて人類の総ての罪を贖わせるほど自己犠牲的に愛してくださっているとします。その愛によって救われているので、我々は神の愛に充たされ、その愛を隣人への愛として溢れさせることが出来るのです。

 神への愛と隣人への愛に生きれば、自分たちの心の中に神がいることになるので、この世界が神の国であるということですね。「命の信仰」でも申しましたが、『バイブル』には死後天国に入っているわけではないのです。歴史の終焉後なのですね。だとすれば、何時の事かわからず、ただ願望や祈りとして楽園に入る願いがあるだけです。それでは救われないので、生きている間に神の国を体験できる、救われることにしなければなりません。

イエスは「神の国はあなたがたの間にある」と言われました。家族仲良く支え合って暮している、学友や職場の仲間と支え合い、励ましあってよい人間関係を作り、学ぶ喜び、働く喜びを感じているとしますね。そうすればそこには幸せがあり、愛である神がおられるということになります。

将来のいつか分からない終末後の天国を誰が信じられるでしょう。今、ここで互いに愛し合って神の国に生きていれば、有限な命を精一杯大切に充実して輝かせる以上に何を求めるというのでしょう。たしかに宗教家はどんな要求でも神は叶えてくれると言うかも知れません、終末後の神の国まで保証してくれるかもしれませんが、それはそう言えば心が休まるからに過ぎません。

神への愛と隣人への愛に生きることで、神の国に生きている事になるのなら、日常の暮らしを愛を籠めて生きていけばいいということですね。炊事洗濯掃除買い物、主婦の仕事は同じことの繰り返しみたいで、次第にマンネリになってしまうかもしれませんが、そのお陰でみんな明るく元気に生きていけるのですから、たっぷり愛情を籠めればいいわけです。また家族はそれに対して大いに協力し、感謝や笑顔で返し、自分の仕事や役目を愛情を籠めてはたせばいいということです。

 
        4、市場経済と愛

そこで問題なのが、仕事を通して消費者に製品やサービスを提供しているのですが、市場経済が前提になっていますので、その対価として貨幣が手にはいればよく、貨幣のために働いているということでいす。世のため人のためにいい製品やサービスを提供して喜んでもらうことを目的にしていないのです。あくまでも私利私欲の追求として商品をつくり売っているわけです。それでは愛情が希薄になってしまいますね。

もちろん仕事に誇りを持っていて、仕事を通して消費者の暮らしを豊かにしたいという愛情を持って働いておられる方もたくさんいるわけです。収入のことなど二の次で、いい物を作り、いいサービスをするという愛情を懐いて働いていれば、それなりの充実感があります。ただそういう人はあまり多くありません。みんな私利私欲で働いているので、市場法則が成り立ち、見えざる手による自動的な価格機構が機能するのです。あまり世のため人のために働く人ばかりだと、正当な価格よりもやすく設定されるので、人の何倍も働かなくてはならなくなります。

市場経済だと働く事は、貨幣を手に入れるための犠牲として捉えられ、そして手に入れた貨幣で他人の労働の成果を支配するので、他人を自己の犠牲にしているわけです。つまり相互に支配し合っているわけですね。だから愛情が涌かないのも道理です。

しかし労働を犠牲として捉えていますと、とても幸せには成れません。労働こそ自己の本領を発揮する自己実現として捉えられるようになるためには、消費者を目的にし、消費者への愛情で物を作るようにしなければならないということです。

マルクスは私的所有に基づく商品交換社会である限り疎外からの脱却は無理だとしました。よそよそしい他人関係の社会では、互いに無名なので、つながりを感じられないのです。ですから新しい共同体にしてお互いを身内と感じられるようにしなければならないと考えたわけです。それではじめて愛情が感じられるということですね。

でも実際にはそういう身内的な共同体を作るのはなかなかできません。ですからこの市場経済の極致である資本主義社会の中で、お互いを手段としてだけではなく、同時に目的とし合って生きることに道徳性を見出したのがカントです。そうしなければ魂と魂の人格的な関係が結べないので、人間性を失ってしまうということなのです。それでは決して幸福や充実を感じて生きる事はできないわけです。

その意味で見ず知らずの人が抱き合おうとするフリーハグズは、魂の砂漠に愛の雨を降らせようとするようなものです。人間性を取り戻すための大事なパフォーマンスだと言えますね。

        5、「ありがとう」という言葉

 商品交換は等価交換が原則だということになっていますので、製品やサービスの価値は貨幣で支払っています。ですから商取引としては貨幣を支払う以上に礼を言ったりする必要はないわけです。それで子どもの時に母に連れられて、バスに乗ったり、買い物をしたときに母は「ありがとう」と言わなくていいというのです。一応理窟は通っているのですが、どうも納得がいきませんでした。

 私の両親は教師でして、母は中学校で国語と家庭を担当していました。彼女の考えでは商取引の世界では、金で支払っているのだから、それ以上の礼は言わなくていいということで、その代り、商取引ではないのなら、ちゃんと人格的にお礼を言わないと失礼だという考えていたのです。

 教師の給与は生活給ですから、彼女は労働の対価ではないと考えていたのです。もし教師の賃金が労働の対価なら、給与をもらっている以上、礼を言われる筋合いがないということになります。彼女は授業の準備や生活指導に追われていまして、いつもくたくたでした。ですから生徒や生徒の父兄が教師に感謝するのは当然だということです。

 つまり、彼女は商取引の世界は人格的な関係ではなく、物と物の関係と割り切る事で、教育の世界を人格的な人間教育の場にしようとしていたわけです。ですから教育の世界は、給与は大したものではなくても、それさえ我慢すれば、愛情を籠めて働ける職場だったということです。

 カントに言わせれば商取引の世界では互いに手段にし合うわけで、だから人格を手段化するのは仕方ないが、同時に目的としても扱ってこそ、人格的な人間関係が成り立つのだということですね。つまり商品価値の面ばかり見ないで、効用の面を見て、効用を通して人間同士が支え合っていることを反省すれば、お互いを人格として目的にし合えると言いたいわけです。

 たとえばラーメン屋さんはラーメンを売って生計を立てているので、お金を稼ぐためのラーメンなのです。でもおいしそうな顔して食べている客を見ると、それが生きがいになり、もっといい顔にしてやろうと、愛情を籠め、創意工夫を凝らして絶品のラーメンを作るのです。

 どんな仕事でも、愛情を籠めて作ることは出来るはずですね。米作り農家はおいしい米を食べてもらおうと、眼には見えない消費者のために愛情を籠めてつくるわけです。日本の米やりんごは格別においしいと中国の富裕層が高値を付けて買ってくれるそうですが、その秘密は米やリンゴに対して農家は格別の愛情と誇りを注いで、一所懸命に作っているので良い品質のものが出来るのです。

 こんな事を言いますと、米やリンゴなどの物に対して愛情が注げるか、また見ず知らずのしかも中国の人にまで愛情を注げるのかと疑問に思う人もおられるかもしれません。やはり愛情の対象は人間に限られ、しかも身内の人に限定されるのではないかという感覚の人もおられるでしょう。

 でもその労働によって米やリンゴづくりによって暮らしが成り立っていて、社会的に存在できているのですから、米やリンゴは大変大切でありがたいものであり、自分の誇りとして強くアイデンティティや愛着が涌くものではないでしょうか、粗末に扱われたらすごく腹が立つでしょう。またそれを高く買ってくれる人の笑顔を思うと、その人に感謝し、もっといいものを作ってもっと喜ばせたいと思うでしょう。もしその人が不幸な眼にあったら気の毒だと思うのではないでしょうか。

 確かに物と物の交換という割り切った関係になったために、そこに愛情の入る余地が希薄になったり、感じにくくなっているのですが、想像力を働かせ、効用面のつながりを振り返れば、魂を籠めることも全く不可能ではないわけです。そこに宗教の役割があるのではないでしょうか。

 だからたとえ商取引であっても、金を払ったら対価を払ったから、「ありがとう」は言わなくていい、ではなくて、それは価値に対する対価であって、愛情や思いやりに対しては「ありがとう」というべきです。バスに乗った時でも、お店で買い物をしたときでも、運転手や店員に「ありがとう」と言えば、そう言われた人は、客を人間として大切に愛情を籠めて接客する気持にさせられるのです。

 「ありがとう」という言葉はなかなか言えないもので、特に全能感が強い幼児に言わせるのに苦労する事があります。「アリが一匹、アリが二匹…アリが九匹、アリが…」とか言って、「ありがとう」と無理に言わせたことがありますね。でもこの言葉で白黒からカラーに変わるように魂の世界になるのです。

        6、宗教のアヘン効果について

 マルクスは、人間関係が物と物の関係に置き換えられて、人間が物として扱われる事を告発し、そういう商品社会、またその極致の資本主義社会をひっくり返して、新しい人間の共同体に置き換えるべきだとしました。それで心の持ち方次第で、商品関係や資本主義の中にも魂や愛情を籠められるなどという宗教を、革命的な自覚を眠り込ませるアヘンとして糾弾したのです。解釈ばかりしている哲学者にも、肝心なことは解釈ではなくて、変革だと言いました。

 もちろん改革すべき事、革命すべき事は大いにやればいいと思いますが、それは機が熟す事も必要で、当面は商品社会や資本主義社会に生きていかなければならないのです。そこで魂を感じられる愛情を籠めて生きられるということが大切です。世の矛盾や問題点をしっかり科学的に認識した上で、変革や革命の可能性を追求しつつも、それでもこの世界を肯定的に喜びを持って生きようとするためには、宗教が必要なのです。

もちろんその宗教は、迷信や偽善の塊りであったり、特定の団体や聖人を神格化してその力に依存するような宗教である必要はありません。有限でちっぽけな存在に過ぎない、個々の人間が、人々や自然や諸事物や歴史や大いなる生命と一体感を感じて、精一杯充実して生きられるような生き方や考え方ですね、それはやはり宗教ではないでしょうか。

 誰だって世の矛盾や不合理に耐えて生きているのです。腹立つことは山ほどありますが、怒ってばかりでは体に悪いのです。元気でなんとか活躍させてもらって食べているわけですから、大いに感謝して幸せだと思って生きなければ申し訳ありません。そのためには自分の命が大いなる生命の現われで
あることを信じ、光を信じ、愛を信じるしかありませんね。
 
 宗教が現実の矛盾を隠蔽し、現実から逃避させるということでアヘン効果を問題にされますが、宗教的信念があるから、現実に立ち向かえるという人もいるわけでして、一般論で語っても仕方ありません。具体的に問題点を指摘し合い改善しあえばいいわけです。

       7、聖徳太子の「和」の精神

 愛の信仰で再評価されるべきなのは聖徳太子の「和」の精神です。聖徳太子に対しては、昔から賛否両論で、和の精神を矛盾を隠蔽して、専制的な権力に従わせる論理として非難する人もいたようです。もちろん厩戸皇子は大王の権力を強化し、豪族たちを統合して、まとまりのよい平和で豊かな国づくりを目指していたわけですから、彼が民主主義者であったわけではありません。
 
 それでも話し合いの精神を強調し、衆知を集めて話し合い、重要なことを決定すべきだとしていることはたしかです。その場合に「凡夫の自覚」に立つよう訴えています。自分ひとり聖賢のつもりで、なんとしても自分の意見を押し通そうとしたり、人の批判に謙虚に耳を貸そうとしないのはいけないとしています。ともに欲望に囚われて理性を曇らしがちな凡夫なのですから、そのことをしっかり自覚すべきだというのです。相手の批判にも道理があり、こちらの主張にも無理があるのではないかと、互いに謙虚に反省し、学びあうようにして、話し合えば意見の対立の溝が次第になくなっていくものです。

 ただ議論がどうしても拗れてしまうのは、私利私欲や自己の権勢の維持に執念を燃やしていて、どうしたらみんなが幸せになれる平和な国づくりができるかという考え方に成り切れないからです。そこで仏教の慈悲の精神にみんなが目覚めれば、自分のことにように他人のことを大切に思うのが慈悲なので、平和で豊かな国づくりの方向で一致できるということなのです。

 だから厩戸皇子は仏教導入を慈悲による和の国造りの観点から捉えていたわけです。「憲法十七条」は「和を以て貴しと為せ」としていますが、これは日本は「和」基調に国造りをするという意味です。「和」が原理の国だから「和国」なのです。それまでは「倭国」と書かれていたのを「倭」という「ちびすけ」という意味をもつ卑字を嫌って、同じ音の「和国」にしようとしたわけです。争いのない和やかな国というキャッチフレーズになっているわけですね。

 日本という国名も素晴らしいと思いますが、中華思想で捉えますと、中国からみて日の出の方向つまり東の国という意味で、東夷の言い換えですね。中国を中心に置いた国名です。

倭国は中華思想から「ちびの夷人の国」の意味だったのです。それを「和国」と書き換えたところが、差別を跳ね返す発想で素晴らしいと思います。それで実際に遣隋使は対等外交を隋に対して試みて成功しています。

 この仏教的慈悲に基づく国造りの理念のために殉死されたのが厩戸皇子の跡継ぎであった山背大兄皇子です。彼は父の志を叶える為に出来れば自ら皇位につくことを望んだのですが、蘇我入鹿たちと姻戚関係を結ぶ事を拒んでいたので、信用されず、邪魔者扱いされて蘇我入鹿たちに攻撃されます。

 内戦に持ち込めばあるいは勝機はあるかもしれないのですが、それでは話し合いで国造りをするという和の精神に悖ると考えて、一族自害して、入鹿達の横暴に抗議したわけです。その結果、かえって入鹿たちは孤立して六四五年の乙支の変のクーデターで二年後に葬られてしまうのです。 

 しかも大化の改新の中心人物と見なされている中大兄皇子は、蘇我石川麿を謀反の疑いで討とうしますが、石川麿はあくまで冤罪を訴え、山背大兄皇子に倣って抗議の集団自殺を行ないました。石川麿の娘であり、中大兄皇子の妃でもあった遠智娘(おちいらつめ)は発狂して死んだようです。その娘が鸕野讃良皇女であり、後に大海人皇子の妃になります。彼女が持統天皇になるのですが、彼女の悲劇的な生い立ちから、彼女を自分の血を引く息子や孫の即位にこだわって、他の皇子たちを粛清した冷酷な権力者のように決め付ける学者がいますが、それは実は濡れ衣です。

 彼女こそ聖徳太子の和の精神を受け継ぎ、「吉野の誓い」に従って、慈悲の心で総ての皇子を公平に愛して、皇親政治をまもろうとしたので、皇子たちに推されて天皇になったのです。ですから武力で覇権を樹立しようとする傾向と、和の精神で纏め上げようとする傾向があります。両者はあるときは対立し、あるときは補完し合う形をとります。

          8、伊藤仁斎の仁愛

 「仁の徳爲る大なり。然ども一言以て之を蔽ふ。曰、愛のみ。君臣に在ては之を義と謂ひ、父子には之を親と謂、夫婦には之を別と謂、兄弟には之を敍と謂、朋友には之を信と謂ふ。皆愛より出づ。蓋愛は実心に出づ」(上39章:84)
「我能く人を愛すれば、人亦我を愛す。相親み相愛すること、父母の親みの如く、兄弟の睦きが如く、行ふとして得ずといふこと無く、事として成らずといふこと無し。・・88 […]故に仁とは、道徳の大本、学問の極致、天下の善、此に過たるは莫し」(上45章:88-89)

 伊藤仁斎は、朱子学によって形而上学になってしまった儒学を実践道徳に取り戻した人ですが、結局儒学の根本である仁というのは、お互いに大切と思い慈しみ合う心つまり情愛だというのです。もし愛がなければ、君主のために如何に忠義を尽くし、命を捧げたとしても、それは御家存続のための残酷な犠牲でしかありません。いかに親孝行に励んでも愛がなければ、世間体をつくろっているだけですね。愛情があってこそ真実の忠義であり、孝行なのです。

 それに対して愛があれば、たとえ結果はかんばしくなかっても、真心はつうじますから、絆は強まり、輪を広げる事になります。そして幸せを感じることはできますね。そして次へのステップになります。それで愛さえあればなんでも出来るんだと仁斎は言うわけです。


         9、愛が総てー神としての愛

 仁斎の言葉は新約聖書の「コリント人への手紙」の次の言葉と通じているようにも読めますね。
「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」

 強い信仰や献身があっても、愛がなければ何にもならないというわけです。つまり信仰や献身も愛の表現であってこそ真実なのですが、そうでなければ無に等しいとか無益とかいうのですから、偽りの信仰であり、偽りの献身であるということでしょう。

 これは律法(トーラー)主義への痛烈な批判なのです。『バイブル』には山ほどトーラーがあり、それを守れば神の御国に入れてもらえることになっていますが、イエスに言わせれば、字句通りトーラーを守っても無益なのです。愛がなければそんなことは一切無益なのです。

といいますのは何のためにトーラーを守るのかということです。トーラーを守れば神の御国に入れてもらえるから守るわけですね。入れてもらえなければ守らないでしょう。だからだめなのです。キリスト教からみれば、イスラム教が全くダメなのは六信五行で楽園に入ろうという信仰だからダメなのです。つまりトーラー主義と同じで目的は御国・楽園という利己なのです。利己心からいくら善行に励んでも、少しも道徳性はないというのが、カントの道徳論ですが、そのバイブルにおける根拠はここにあるわけです。

 ただカントの道徳説は、傾向性つまり私的利害や欲望に傾きがちな気持を抑制して人として為すべき事を為すところに道徳性があるということですね。これは愛の境地でしょうか。カント自身が認めているようにそれは義務の感情なのです。愛の境地ではないわけですね。カントの道徳の地平はまだ宗教的な愛ではないのです。

 愛となれば、それ自身が自己目的的であり、傾向性なのです。愛したいという欲望でもあるわけです。ですからもはやカントの意味での道徳性はありません。神を愛すること隣人を愛することそれ自体が目的であり、自己実現ですから、最大の喜びでもあるわけです。

 愛というのは対象とつながり、対象を自分自身のごとく感じたいという感情ですね。そうなることで命が一つに重なり、暖まり、光を発するわけです。つまり存在と存在が共鳴し、共振するわけで、ときめきが起こるのです。

 元々愛が目的ですから、そのために生まれ、生きてきたわけで、愛を感じることが出来れば、何も惜しむものはないのです。愛のためには何でもしてしまう、総てを失ってもいいという気持になるのもそのためです。

 「さねさし相模の小野の燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」

 この歌は『古事記』のヤマトタケル伝説に出てくる弟橘姫の辞世の歌です。相模野で火攻めに遭ったとき、ヤマトタケルは自分の命にかけても守りたいと思った弟橘姫の名前を命の限りに叫びました。絶体絶命のピンチですから、そのときにはヤマトタケルにとって「弟橘姫」は総てだったわけですね。ですから今際の際に自分の名を呼んでもらえたことで、愛が確証されたわけです。この日のため、この声を聴くために「弟橘姫」は存在していたのですから、もう何時死んでも本望なのです。それで奇蹟的に助かった後、海神に人身御供を求められて弟橘姫は、すすんで犠牲になることが出来たわけです。

 このように愛が総てと思え、愛のために命がけになれれば、それでその人なりの幸福が得ることが出来るのです。だから「神は愛なり」と言います。それで既に「神の御国」に入れたということですね。それはあるいはほんの刹那のことかもしれません。それは刹那であっても、時ははじき飛ばされて瞬間が永遠なのです。これを永遠の今というのです。今この時に過去はすべてなくなり、未来も意識されません。それが永遠なのです。この永遠の感覚は言葉では表せませんし、伝える事はできないのですが、そのことで自分の生まれた意味を納得して、何時死んでも悔いがないと思えるということです。

 もちろんそういう「永遠の今」の存在は宗教的な境地ですから、信仰の対象です。愛に生き、愛を信じていれば、そういう気持になれるということですね。つまり愛に生きているという充実感や喜びによって充たされて、時間意識がなくなって死を意識しないということなのでしょうか。まあ毎日が充実していれば、明日を思い煩う事もないということでしょうね。 それに愛は対象に向けられますから、我が身のことは省みるゆとりがないかもしれませんね。

 
            10、愛の儀礼

 愛を宗教とするためには、愛を儀礼としてパフォーマンスにしなければなりません。つまり愛していることを動作で表現することです。それで最初にフリーハグズを紹介したわけですが、あれはだれとでも愛し合えることを実感するための儀礼なのです。見ず知らずの人とも抱き合えるということは、身近な家族や友人や職場の同僚の愛も信じられることにつながるわけです。

 しかしそれを家族間で再確認しようとして家族内でハグし合うことを儀礼化したらどうでしょう。そうしますと儀礼として行なわなければ信じられないという、愛への疑念につながりますから、これはデリケートな問題ですね。

 家族ではおはよう、おやすみなさいとかの挨拶を欠かさないとか、食事の時に一緒にいただきますと手を合わせる程度でも、十分かもしれませんね。それより、実質的に互いの健康を気遣ったり、仕事のことや悩み事を話し合ったりする会話がある方が、よっぽど愛情を感じあえるかもしれません。

 やはり愛の宗教においては、夫婦の愛情表現が重要です。神話でも夫婦神が国を生み、神々を生み、子供を生み、実りを生みだすことになっているのです。結婚するまでにさんざんセックスを含め愛情交換をし合っていたのに、結婚してしまうと、途端に面倒くさくなってしまう夫婦も多いようですね。そして最近では、自分の配偶者はもういいみたいな人がいて、さかんに婚外交渉に励む人もいるようです。

 やはり夫婦が和合し精神的にも肉体的にも一つになって家族や社会や自然の生命や秩序を生み出していくということですね。イザナギ・イザナミの命は今も夫婦になって心と体を寄せ合い、慈しみあって、総ての生命や事物を生み出しているということです。と考えれば、夫婦の和合が大切だとわかります。

 もちろん夫婦の愛の結晶として子どもを育てるわけですから、誰の子が分かりにくいような婚外交渉は困りものですね。ところが少子高齢化となり、性交渉と出産との繋がりが薄くなってきて、感覚的あるいは享楽的なプレイとしてだけセックスを求めるようになりますと、いわゆる貞操観念が希薄になってきます。

 売春といえば非常に暗い、穢れたイメージがあったのですが、援助交際などが流行しだしてから、小遣い稼ぎになったり、実入りのいいバイト扱いになりました。そしてWEB時代になって裸を見せたり、性交渉を見せたりするのも、プレイの一種となり、どこまで性感覚を追求できるかスポーツの一種みたいにアスリート気分の出演者も多く、どんどん裸を晒す女性が増えているようです。これは性愛が宗教性を喪失してしまっているということですね。
    11、聖家族の構造

 キリスト教では天の父ヤハウェを父なる神と呼びます。イエスの父であるだけでなく、神は我々人間を自分の子供のように愛して下さるからです。家族関係になぞらえるのでかす。それは近代の家族関係を宗教的に解釈する事にもなります。父は一家の大黒柱としては、総ての収入をもたらしますから、貨幣によって総ての必要な物をもたらす万物の創造主です。

 つまり市場経済で世界につながっている父は世界の中では何億分の一のちっぽけな存在ですが、家族を支える事によって父なる神にまでなれるわけです。つまり家族は父を無力な塵的存在から神にまで引き揚げてくれる救世主なのです。

 だからイエスは子なる神なのです。そして母は子なる神を産む神の母である聖母マリアですね。父なる神は時に厳しい裁きの神ですが、聖母は総てを許す癒しの神です。このように市場経済での市民社会の中で家族は聖家族の構造を持つ事で、宗教的な救いをもたらしてくれるわけです。
--------------------第四回 宗教的対話の可能性-----------------------

          1、三つのLの普遍性

 三つのL、命Life、光Light、愛Loveは、どれもそれを信じることによって生きているような三つの信仰の対象です。ですから総ての宗教にとってこの三つの信仰は何らかの意味で取り込まれているのではないかと想像できます。

 キリスト教は、イエスを「命のパン」と規定して、「主の聖餐」によって永遠の命にあずかることができるとし、それを教会の中心儀礼にしています。そしてイエスを「世の光」として捉え、イエスは神が自らを人間にして地上に降ろした希望の光だとしています。イエスの誕生を記念する日を冬至にあわせたのも、それが太陽の誕生日だったからです。そして「神は愛なり」として愛を信じ、愛に生きることが神の国に入る道だと説いているのです。

 仏教の浄土教も三つのLの信仰ですね。阿弥陀仏は、梵名の「アミターバ」は「無量光」、「アミターユス」は「無量寿」の意味です。両方の意味をもっているのです。そして慈悲つまり愛の権化みたいな仏です。
 神道の場合は、命を与えてくれる穀物などの食物を神としますし、光信仰では太陽神を主神においています。そしてイザナギ・イザナミの夫婦神の性愛によって島が生まれ、神々が生まれ、人々が生まれるわけで、愛を人間の営みの中心に据えているとも解釈できます。

 一見、三つのLとは無縁な対象を神と崇めている宗教もあります。光ではなく闇を信仰しているものもあるでしょう。病気から救う神ではなく、疫病をはやらせる疫病神を祭っている人もいるのです。愛や平和の神ではなく、戦の神を信仰する人もいます。しかしそれは災難をもたらすものを神として崇め、祈りを捧げる事で大目にみてもらうとしているのです。それは三つのLを大切にし、三つのLを信仰しているからこそ、三つのLにとって脅威となる対象を神と仰ぎ,祟りを沈めてもらおうとしてしているわけです。

 多神教の場合、命、光、愛のどれにウェイトが大きいかは、神の個性を決定します。ですからある信仰が三つのLの内にどれかに偏っていたからといって、三つのL信仰が普遍的でないというわけではないのです。多神教は複数の神を信仰していいわけですから。単一神信仰ではないのです。

 それに対して唯一絶対の超越神を信仰する場合は、神は命、光、愛として現われ信仰されるということになります。もちろん超越神なので、原理的には、命、光、愛をも超越していて、どれかに還元したり、その三つの単純な総合として捉えるのは、表面的な教義に照らせば誤りです。とはいえ、命、光、愛はそれを信仰しなければ生きられないようなものですから、神は自らの超越性を否定して、命、光、愛として世界を作り、世界で輝き、世界でときめかなければならないのです。

 ですから総ての宗教は、三つのLについて対話をすれば、必ず理解し合え、共感し合え、大いに学びあうことができるのです。そして三つのLを信仰し、大切にする活動を共同して行う事で、心を一つにして愛し合い、共存共栄できるのではないでしょうか。

-----------------------2、中東問題の宗教的対話------------------------

 宗教的対話によって世界平和をもたらさなければならないのは、中東問題をめぐってです。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教が根深く対立し、なかなか宗教的和解に到達しません。

 こんなことをいいますと、あれは宗教で紛争しているのではなく、領土問題とか利害の対立なのであって、あくまで政治的に解決すべきで、宗教的に解決するような問題ではないと断定する政治学者が多いようです。しかし、それは認識が甘いのです。宗教的に和解出来ない限り、何時までも憎しみが残り、紛争は何時までも続き、しまいにハルマゲドンまで行き着かざるを得ないかもしれないのです。

 まず、ユダヤ教とキリスト教の和解の問題があります。イスラエルはユダヤ人国家ですが、その建国をキリスト教徒が認めたのは何千年もユダヤ人を迫害し続けてきたからです。ナチスによるユダヤ人の大虐殺はその総決算として受け取られたのです。ナチス自体はもはやキリスト教を信じてはいなかったのですが。

 なぜユダヤ人が迫害されたかといいますと、元はと言えば、イエス・キリストを十字架につけたのがユダヤ人であったからです。それで福音書にイエスの血についての報いはローマ帝国ではなく、ユダヤ人が引き受けることを承知して、イエスの処刑をポンテオ・ピラト総督に認めさせています。それで後世、キリスト教が世界宗教へと発展した結果、ユダヤ人がイエスの仇のごとく見なされて迫害されたということなのです。

 これに対して、ユダヤ人はイエスの処刑についてユダヤの最高法院の要求だったというのはでっち上げであるとしています。しかしこれは、おかしい理窟です。当時ローマ帝国のユダヤ支配にとってイエス集団は利用価値はあっても、なんら迫害の対象ではありえません。それに対して、トーラー主義に対してメシアつまり救い主への帰依を説いたイエス集団は、ユダヤ社会の秩序に挑戦する危険な新興宗教とみなされ、偽メシアとして糾弾され、摘発されたと考えた方が説得力があります。

 ユダヤの律法秩序を守るために、処刑したとすれば、この責任は誰が負うべきかということですね。ユダヤ社会の秩序維持のために摘発され、合法的に処刑されたのであれば、たとえ、キリスト教徒からみてイエスに正義があったとしても、ユダヤ人の処置を憎み子々孫々怨みを晴らすような事は大人気ないと言わざるをません。ですからユダヤ人もイエスを処刑した事が当時のユダヤの律法から言って合法的であったという立場で主張すべきでしょう。

 ユダヤ人に対するホロコーストについて、これは全く非人道的で許しがたいことでした。だからキリスト教徒がユダヤ人迫害を反省して、イスラエル建国を助けたのは頷けます。ただし、その地にはアラブ人が住んでいたので、その権利を保護した上でということになります。

 ただしユダヤ人はホロコーストに関して、ナチスによる大虐殺を非難するのなら、ヨシァの時代に行なわれた、カナン侵攻とそれに伴う大虐殺を反省した上ででなければなりません。ところがユダヤ人はカナン人に対する神の裁きを実行したまでであって、何ら疚しいことはないことになっています。

□そしてユダヤ人の聖書考古学の成果では、「出エジプト記」の記述は間違っていて、ジェリコでは、そうした大虐殺の痕跡はないということになっています。では『バイブル』の記述を削除したり訂正すべきですね。あるいは少なくとも、神の教えに背いて偶像崇拝や宗教的カニバリズムが行なわれていたことをもって大虐殺をしたとする歴史記述に対して、それが事実であったら大変間違った行為であったことを明確にしないといけません。そうでないと、彼らは『バイブル』の行為を根拠にそういうホロコーストを繰り返す事になりかねないからです。

 次にユダヤ人はアラビア人に対して、詫びておかなければならないことがあります。それはアラビア人の祖先にあたるアブラハムと奴隷女ハガルとの間に生まれたイシマエルをハガルと共に追放したということに関してです。

 それは大昔の伝承にすぎないので、本当にあったことかどうかは確かめようがありませんが、正妻サラが嫡子イサクのために要求した措置でした。この非情な措置が潜在意識の中で民族的なトラウマとなって、アラビア人のユダヤ人に対する反感の根底にあるのです。ともかくいかなる事情があったにせよ、御先祖がイシマエルに対して行なった措置は申し訳なかったと今からでもユダヤ教会とユダヤ民族の名前で謝っておく事が大切でしょう。

 ユダヤ教はエルサレム神殿を中心に置く宗教ですから、エルサレム神殿の再建が最大の悲願です。ところがそのエルサレム神殿は廃墟になったままです。なぜならその真ん中にイスラムの岩のドームがありまして、それを撤去できなければ、再建できないとされているからです。この問題が根っこにあるのです。それが解決できないので、敵意がとれず、問題がこじれ、各地に拡散するわけです。

 これは解決としては岩のドームはそのままにして、それを囲む形でエルサレム神殿を再建するしかありません。その上で、岩のドームをユダヤ教も使用させてもらうしかないのです。そんなイスラム教とユダヤ教が同じ宗教施設を共用できるはずがないと思われるかもしれませんが、それができるのです。

 もともと岩のドームはアブラハムが独り子イサクを燔祭つまり肉を黒焦げにして神に捧げようとしたところに建てられているのです。つまり神の命令ならたとえ人倫に反することでも従いますという絶対帰依の見本なのです。この絶対帰依がイスラームと呼ばれ、イスラム教の原理なので、岩のドームが建てられたわけです。元々のエルサレム神殿の謂われも同じですね。ということは、ユダヤ教もイスラム教も共通した原理だということです。

 ですからイスラム教は岩のドームは絶対に破壊させるわけにはいきませんし、ユダヤ教もエルサレム神殿の再建は譲れません。しかし同じ信仰なのだから、岩のドームを共用すればいいわけです。イスラム教徒にすれば、ユダヤ教徒は絶対帰依が出来ずに、神に見放され、世界を放浪したのだから、そんな連中に使わせたら穢れると思うかもしれませんが、そこは啓典の民として尊重してきた伝統もあるのですから、先輩として立てる度量も必要でしょう。

 なぜこんなことをユダヤ教やイスラム教と無縁な日本人に話すかと言いますと、当人たちはなかなかこの件では妥協が難しいわけで、第三者が説得する必要があるわけです。両者の和解は世界平和がかかっています。中東問題が最大の問題なのですから。世界中の人々が両教徒の和解を願っている事を知らせるのです。

□そして第三者からみて同じ神を信仰し、同じアブラハムの信仰を原理にしている両者が、そのことを喜び礼拝を共にすることは世界の平和、人類の共栄にとって大いに意義がある大切なことだと思うと説得することが必要ではないでしょうか。第三者からどう見られているかということは宗教者にとってどうでもいいかもしれませんが、全人類的関心事であることを知らせることは大きな圧力になると思われます。
        3、アジアの近代化とキリスト教の受容

 東アジアの近代化にあたり、多神教の多元的な原理やアニミズムでは、普遍的な科学的思考が定着しないので、なかなか近代化が進まないといわれ、キリスト教の導入によって普遍的な科学的認識に馴染ませる必要が啓蒙されたことがあります。それで一部知識人などが、キリスト教を受け入れる現象が見られました。

 しかしキリスト教的な普遍主義をいうなら、イスラム教の方が徹底しているはずで、必ずしも一神教が科学的思考の前提になるものではないといえます。それにキリスト教が地動説や進化論など科学的な物の見方に対立し、魔女狩りなどの迷信による弊害も極めて多く、近代化を阻害してきたこと忘れてはなりません。

 政治分野でも近代民主主義や人権思想が浸透するのは、神の前の平等や人権神授説があるからだと考え、そのためにもキリスト教の導入が必要だと考える人もいるようですが、それはキリスト教を売り込むための議論でしょう。お釜や便所にも神様がいるとし、一木一草に神を見、三度の食事にも神として手を合わせて拝む方が、徹底した平等思想だと言えますし、山も川も木も草も成仏できる尊い存在だと説く天台本覚思想にこそ人権思想を受容しやすい素地があるといえます。

 中国は、キリスト教を導入して皇帝独裁に対抗した太平天国以来、伝統思想を排斥して、外来思想で中国の近代化を図ろうとする流れがあります。孫文もキリスト教にあこがれました。しかし外来思想による中国の根本的改造という発想自体が、権威主義、事大主義を孕んでしまいますから、かえって複雑な問題を抱え込みます。独裁的傾向は孫文にもありましたし、党国家体制、個人独裁というのは、蒋介石、毛沢東にも顕著です。

 劉暁波は欧米並の人権を確立するには、中国の古典思想、古典文化を排斥して、キリスト教を導入する必要があると考えているようですが、それでかえって中国人のプライドを疵付け支持を広げることができないでいるようです。むしろ世界人権宣言や国際人権規約を踏まえて、それに孔子や孟子に見られる民本主義や、墨家の兼愛思想などのヒューマニズム、老荘思想にも見られる自然主義などをいいとこ取りして総合するなかで、中国に相応しい人権思想を構築すべきでしよう。

 考えてみれば人格的平等や人権というのも理性信仰ですね。人格的価値を平等とみなすことで、民主主義の政治システムがスムーズに機能しやすいから、そう信じているわけです。

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