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心の道場 I love 御書コミュの「開眼」に関する日犬臭のウソを破折する

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 日犬臭の輩は、学会員が何も知らないだろうと思ってか、御本尊は「アホッス(法主)の開眼」が無いと効力が無い、などと完全に邪宗のようなことを口走り続けています。簡単に言えば、
「大聖人の教えは、芸者遊びが大好きなトン魔がいないと効き目も功徳も生まれない」
という、ヘソが茶を沸かしそうな、大聖人の教えを「未究竟」におとしめる主張なのです。
 しかし、それが如何に大聖人の教えとは違う邪教であるかを御書に基づいて破折しましょう。


◎御書に示された「開眼供養」とは、御本尊の開眼などについて言っているのではありません。絵や彫刻の釈迦像を法華経の経文を安置することが開眼だと言っているのです。

 日犬臭のウソは、切り文(文章の一部を切り取って、歪曲し、白を黒と言う手口)ばかりなので、まず正確に開眼供養について示された御書を示します。

 御書には「開眼供養」について、次の三箇所で示されています。

(1)本尊問答抄

「何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす 其の義あるべし、問う其の義如何 仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、(中略)釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり 釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり 故に今能生を以て本尊とするなり(中略)仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神(たましい)なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもと(最)も逆なり。」(本尊問答抄 P.366)

(通解:どうして天台宗だけが法華経を本尊とするのですか。その答えは、真言宗、浄土宗、禅宗などは、仏を本尊とするのですが、天台宗は経を本尊とするのです。その義があるのです。問う、その義とは何ですか。仏と経とはどちらが勝れているのですか。その答えは、本尊とは勝れているものを用いるのです。(中略)釈尊と天台とは法華経を本尊と定めています。末代の今、私(日蓮)も仏や天台のように法華経を本尊とするのです。その理由は、法華経は釈尊の父母であり、諸仏の眼目なのです。釈迦や大日如来や、広く十方の諸仏は、法華経から出生されたのです。だから今、能生(仏を生みだす根源)を本尊とするのです。(中略)仏は所生であり、法華経は能生です。仏は身であり、法華経は精神です。であるならば、木像や画像の開眼供養は、ただ法華経だけに限るのです。ところが今、木像・画像の二種類の像を設置して、大日如来の化身とされた仏眼尊の印と真言によって開眼供養をすることなどは、正しい教えとは全く真逆のやり方なのです。)

(2)木絵二像開眼之事

「仏に三十二相有(いま)す 皆色法なり、(中略)三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし 梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可からず作る可からず、仏滅後は木絵の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり(中略)木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり(中略)されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり(中略)法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵の二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり(中略)木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏にも非ず魔なり鬼なり(中略)法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り 人の死するに其の身に鬼神入るが如し」(木絵二像開眼之事 P.468,9)

(通解:仏に三十二相が有ります。すべて色法です。(中略)そのうち三十一相は可見有対色なので書けるし作ることができます。梵音声の一相だけは不可見無対色なので書くことができないし作ることもできません。仏の滅後には、仏を木や絵に表した二種類の像があります。これらは三十一相であって、梵音声が欠けています。したがって仏ではありません。また仏の心法が欠けています。生身の仏と木像や画像の二種類の像を比較すると天地雲泥です。(中略)木像・絵像の二種類の仏の像の前に、経文を置けば三十二相が具足するのです。(中略)だから法華経を読まれる人は法華経を文字と思ってはなりません。法華経とはそのまま仏の心なのです。(中略)法華経を心法と定めて、三十一相の木像・絵像に安置すれば、木像・絵像の二種類の像はその全体が生身の仏なのです。草木成仏という法門はこのことなのです。(中略)木像・絵像の二種類の像を、真言師によって供養するならば、実際の仏でもありません。魔であり鬼なのです。(中略)法華経を心得た人(法華経の行者)が、木像・絵像の二種類の像を法華経によって開眼供養しなければ、家の主がいないところに泥棒が入り、人が死んだ時にその身に鬼神が入るようなものです。)

(3)四条金吾釈迦仏供養事

「秘之不伝とかかれて候は法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘めて説き給はずとなり。されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗に限るべし、(中略)国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色の絵の具は草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり 天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(四条金吾釈迦仏供養事 P.1145)

(通解:これを秘して伝えない、と書かれているのは、法華経の寿量品以外の一切経には、教主釈尊は秘密にされて説いていないということなのです。だからこそ、画像や木像の仏を開眼供養するのは法華経・天台宗に限るのです。(中略)国土世間と言うのは草木世間のことです。草木世間と言うのは、五色の絵の具は草木であり、画像はこれらの絵の具によって描かれるのです。木と言うものから木像が出来あがります。この絵像や画像に魂魄と呼ぶ魂を込めることが出来るのは、法華経の力なのです。これが天台大師のさとりなのです。この法門は、衆生について言えば即身成仏と言いますし、画像や木像について言うならば草木成仏と呼ぶのです。)


 まず、これらの御書で言われている「開眼供養」とは、「木絵の二像(木や絵で表された二種類の釈迦の像)」について言われているのであり、御本尊のことを言われているのではありません。

 「木絵(画)の二像」とは、木像と絵像(画像)のことで、これらは仏の三十二相のうちの「梵音声」が欠けているために三十一相しか無く、法華経の経文を木像・絵像の前(あるいは木像の中)に安置することで、三十二相を整足させるという化儀なのです。

 大聖人は、この開眼のための経を真言にするのは間違いである、という破折をされているのであって、法華経を安置し、あるいは読誦することが開眼になるのだということが御書で示された正義なのです。

 ところが、御本尊にはすでに主題の「南無妙法蓮華経」が認(したた)められていることから、三十二相がすでに備わっており、今さら木絵の二像のような法華経の安置による開眼などは不要なのです。ましてや、天魔のアホッスが何やら特別なウンコをなすり付けるような儀式をやられたら、大聖人と直結するための観心の本尊なのに、ハッキリ言って気分が悪いのではないでしょうか?何人もの元法華講員あるいは日犬本尊を安置していた学会員の体験ですが、命の底から人間を馬鹿にする権威主義の命(第六天の魔王の働き)が湧いて来たそうです。だから、日犬本尊の謗法払いを進めているのです。



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