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人心権『思想哲学』伴立クオリアコミュの『無意識』の領域は 心理学を越えて 時空を越えて存在

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心の中の領域で 意識や無意識が 心理学の分野だと考えられています。
しかし『無意識の領域』は 心理学の分野を越えて 時空を越えて存在していると言う事で 真理とは何か 人間の存在は何か こう言う事まで見えてきそうな気がします。
人間の「意識(心)」を 越えた処に 正しく存在している。科学と言う学問は この認識の為の学問なのかもしれない。私は そう思います。

人心権思想は 心理学を越える事で 新しい思想哲学として語りたいし語れるようになるかもしれないと考えています。

無意識とは 意識に先行する存在であると言う事は 最近の生物科学でも語られるようになっています。 

「意識と無意識」の関係に於いて 簡単に語ると・・
私達の社会事象は 全て私達の心の反映です。私達とは 私を含めた人類全てと国家や地域社会や企業や団体を含めた全ての意思や意識の事を意味しています。


しかし 一人一人にとっては 全ての社会事象が存在していても 全てというよりも 極一部さえも認識していないのが 現実的な私達の姿ではないでしょうか。
無限の世界とも思える社会事象ですから 高々が知れた人間の認識能力では 認識力も知れたものでも当たり前ですねぇ。

この社会事象の知らない領域が 私達にとっては「無意識の領域」と言えると考えています。(人心権思想的)

私達の社会事象は 自分自身にとっては 無意識の領域であると言う認識を持つ事が 断言さえできるからです。


そして、更に 『無意識の領域』とは何かと考えると、
自分にとっては 全ての社会事象も無意識の領域と言えるのです。
社会事象は 自分自身の認識に先行して存在している物、その物といえるからです。

ですから、私達が認識した部分だけが 狭い範囲ですけど「認識の領域」なんです。

この様に考えると・・・
『社会事象』だけでなく『自然現象』も含めて 全ての現象を『無意識の領域』と『意識の領域』で語れることが出来ると考えています。

人類の歴史も「※無意識の領域」そして「記憶」として「※人類の共有財産」としての価値があると言えると思います。
だから 文化文明も 人類として私達が引継ぎ・子孫に伝えていけるのです。

この「無意識の領域と意識の領域」は 私達の生命としての寿命を越えて存在している事でも理解できると思います。

「無意識の領域」が 正に 時空を越えて存在し続けているのです。大昔の人達も現代人も 「無意識の領域」と言う「※概念」の認識がなければ、「無意識な領域」の「認識の穴埋め」として、これを「神のなせる業」と錯覚さえしてしまっても可笑しく無い事かもしれません。

(十分な概念として説明できていないと思いますけど とりあえず書かせていただきました。後日補筆させていただきます)

コメント(18)

仏教で言う「唯識」に近いと思っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

大きな違いは
無意識の領域=阿頼耶識(あらやしき)を仏教の様に 難しく考えていないところです。

子供でも解かりやすい・・意識と無意識の関係が出来上がっている。
☆意識の領域  ・・自分(自我)のリアルな感覚と記憶
★無意識の領域 ・・自分自身も身体と言う物質と言う無意識と共存している。他人である全ての人間・生命・鉱物・社会事象 ・自然現象・・・等々


こう言う事から 飛躍しているように思うかもしれませんけど・・
この考え方に「多心・裏多心」の考え方が必要不可欠でもありました。
仏教で言う「空」の意味が 「不特定多数の集合知」=「超客観性」であると言う意味になります。

仏教の「唯識」と西洋哲学の「唯心論」の夫々の欠陥が 私の考え方で指摘できると考えています。

結局 社会の混乱を招く「宗教」的意識も改善され 戦争も無くせられるかもしれません。人類が営々と世代世代と引きついてきた 文化文明と秘められた「人類の意識」が合致して 人類の各人各人の心の中に花開いた幸せが いつか 訪れると思います。抽象的で すみません。 
☆意識の領域  ・・自分(自我)のリアルな感覚と記憶
★無意識の領域 ・・自分自身も身体と言う物質と言う無意識と共存している。他人である全ての人間・生命・鉱物・社会事象 ・自然現象・・・等々

私達の社会は「無意識の領域」なのですねぇ。自分自身は無意識の領域に囲まれて生きている。そして自分自身も無意識と共存している。この認識が必要だと思いますよ。

だから 社会は 人類がこの世に現れた時から 常に自分に冷たい。こう考えても良いと思います。この当たり前が 国家や指導者や国民自身も 中途半端な意識でしか認識していないのですねぇ。

本当の意思疎通が必要だと。
この存在の関係で 意思疎通が図れる事に価値観が持てるのだと。

人類にとっての悲劇・悲しい出来事は 避けたいものです。
意思疎通が無く 一方通行 思い込み 錯覚 妄想 等々を避けられる社会が理想であり、何らかの多くの『事前の策がある社会』が それを唯一防げる社会の様な気がします。

私達は 恋愛の時 片思いから始まり 片思いで終わる事がありませんか。
恋愛論では 経験から 体験できるはず。無意識の領域と意思疎通は 簡単ではないのです。

『無意識の領域』との意思疎通・・
編み出した智恵が 昔は宗教・現代では道徳・倫理かもしれません。 宗教・道徳・倫理は 間違った考えだったのだと考えています。

正しく編み出した智恵が 近代西洋哲学から生まれた科学的と位置づけられた学問なのだと考えています。
【無意識の領域】は 利用できるように【A 潜在意識化】されて準備されている→【B 意識する・認識する】事で上手に生活に生かそうと努力を惜しまない。

「例」人間では有りませんが・・蟻や蜂の生態は 人間にも似ているのではないでしょうか。私は 似ているように思いますけど・・。

◎人類は【無意識の領域】を自分達が生きる為に、他の動植物よりも上手に活用している。

この認識に欠けている為に たまたま人類が互いに殺しあう、これに類似する行為や人類としての絶滅の危機さえをお互いにまねいてしまう。

タイトルにした 意味があります。

『無意識』の領域は 心理学を越えて 時空を越えて存在

これは
★無意識の領域 ・・自分自身も身体と言う物質と言う無意識と共存している。他人である全ての人間・生命・鉱物・社会事象 ・自然現象・・・等々

『無意識の領域』との意思疎通・・
人類が自然に編み出した智恵が 昔は宗教・現代では道徳・倫理かもしれません。 宗教・道徳・倫理は 間違った考えだったのだと考えています。

正しく編み出した智恵が 近代西洋哲学から生まれた科学的と位置づけられた学問なのだと考えています。

従って
【無意識の領域】は 人間にとっては【潜在意識化された領域】とも言えると思います。

私達が勉強し学習する事は 潜在意識化された領域(端的には、本やデーターベース化された物も含まれます)を 上手に活用する為の物とも位置づけて良いと思います。むしろ そう考えて 思考を発展させていくべきだとも考えています。

【潜在意識】
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%BD%9C%E5%9C%A8%E6%84%8F%E8%AD%98/
【無意識の領域】と【意識】の関係は あるのでしょうか。
あるとしたら どんな事を言うのでしょうか。

仮説
その関係は 刺激をさしているのだと 刺激と言う意味に在るのだと考えています。
人間にとっては 五感等々をもって表現するものですけど、実際には 五感とは表面的な捉え方で表現しているのではないかと考えています。

例えば ある種の病気が原因として 死を考えるという場合においては 死を直接的に考えるのは「記憶や経験的意識の表現」にすぎず、その本来の行動の趣旨は 死ではなくて あくまで【強い刺激】を求める事に、その本来の衝動的行動があるのではないかと考えています。

この考え方は あくまでモデル的考え方ですけど、【死】を前提に 既存の全ての一連の行動を考えるには あまりにも その先の それを乗り越えた人間の人生に理屈が合わなくなるからです。要するに 既存の宗教的でも・倫理的でも 理屈が合っていないのではないかと考えられるのです。既存の世間的観念のいけないところではないかと考えています。 
無意識と「無」は 関係性があるだろうか。

私は「無」の定義の中の一つとして 不特定多数者の共通認識・共通意識を考えています。
要するに 大勢が当然だと考える事に 価値を見出せないと言う人間の意識です。
この意識こそ 弱肉強食を言って嘯く封建的考え方で 心の進化発展の途中の段階の人間の意識だと考えています。

進化発展した人間の心は 不特定多数者の共通認識こそ 最大最強の価値があると言う価値観になると、私は考えています。
これは 仏陀の言う「無」の言う意味でも在るのではないかと考えている「無」です。

さて そういった「無」の認識材料は 「空気」「水」等々です。時には 甘い・ショッパイ・美味しい等々の感情です。

この認識材料こそ、無意識の領域へ誘う 触媒の様な物・存在の一つと無意識の中で、あるいは宗教行事の中で考えられている物ではないかとも思います。

水で清める。塩で清める(民族の習慣ではそうでないところもある)。

実際には その様な形式を取らなくても、ここのトビでの概念で 簡単に無意識の領域や潜在意識の領域と言う言葉の認識を触媒として 私達の心の中に「宇宙よりも広い認識」をもてるのではないかと思います。

古代に於いて 「無意識の領域」を正しく理解できなかった為に 先人は 無の存在物を触媒として さもそれらしく見せかけていたのかもしれません。宗教行事のインチキの入り口でした。現代社会に於いても、未だに続いています。一方では科学的知識を尊重する社会を形成しながら・・・。
*******
人間の心 一人でも複数形の機能である・・・概略的説明
空間情報・時間情報の複数情報を元に認識する【センサー機能(認識機能)】を持って認識する【心】→【センサー機能(認識機能)の心が複数形】である。

【センサー機能(認識機能)の心が複数形】であり、【出力機能の心が単数形】である。
                        概念
【センサー機能(認識機能)の心が複数形】・・・・【感情的概念】と考えられる。
【出力機能の心が単数形】・・・・・・・・・・・【理性的概念】と【感情的概念】の二通りが出力機能に存在すると考えられるようになった。出力機能が機能用途別に捉えられるようになった。近代西洋哲学以降の西洋文明に於いての【理性的概念】の意識的出力によって【意思伝達能力の進化発展が見られるようになった】。

曖昧な心の表現の言葉は 心を複数形(感情的)とした言葉だからです。単数形(理性的)だったら単刀直入で 誰でも解かりやすい言葉や表現になります。

*******

私達の認識力は 「複数の認識能力の総合判断」を持った「センサー機能」の働きで認識いたします。この事が『多心』と言う概念の元でもあります。
『多心』は人間の心が一心「出力機能」ではないと言う事に尽きると思います。

●「多心」=「矛盾が必然的に存在する」=「煩悩(多数)が必然的に存在する」=「必然的に人情(多数)が生まれる」(人間は心を創る動物)

●「一心」=「理性」=「科学」=「学問」=「必然的に義理が生まれる」(同じ意味を持つ、言葉が違うだけ)

『矛盾』は人間の心が『多心』であれば必然性を持って現れるものです。この現れた事象に気が付くor気が付かないかは 価値観へと結びつくのでしょう。

『価値観』は『心で起こる矛盾を昇華した物です』

?人間の『多心』→『矛盾』→(昇華)→『価値観』
?『個人』大勢→『社会(共存共栄)の矛盾』→(昇華)→『文化文明』

民主主義時代も封建時代も概念的には同じです。
?と?の関係は同じ事なのでしょう。
『人心権と社会のかかわりとして関係性を現した物です』

『Jinsinken-ism』 今はイメージだけで 揺籃期にある人心権思想です。ですから恥ずかしながら 皆様とここ縁塾を持って ご縁を持って育てていただけましたらと心よりお願い申し上げます。以下簡単に書いたつもりですが大変に長くなっています。お許しください。解りにくい処もありますが真摯にお答えして参ります。宜しくお願い申し上げます。

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人間の「心」とは? その洞察を持ってして 今までの思想と違う 最も単純明快 それ故に 子供も大人も真理を追究しやい思想とすることを目指したいと思っています。世の中の欺瞞とも距離を置く物と考えております。

隠蔽されている「差別意識」。本能の一つです。
本能が意思を持つ心になっていると考えられるのではないでしょうか。
自我と分離できない、進化発展の過程にあると考えても良いところの本能です。

?愛(社会としての【愛=支えると言う意味を持つ】)と争い=支えるとは逆の意味を持つ 差別意識その物 
?人間は社会的動物である証
?真の民主主義社会 
?人の生きる気力 
?心の成長を持ってしての大人・子供の違い 
?心にしか無い自由・平等・平和の理念 
?護民官的政治 
?処世術的歴史 
?法律・経済 
?支える意思で造られた国家 等々殆ど全てを考えたいと思います。

現在 世界人権宣言や人権思想のもつ権利主義が持つ矛盾を超えて存在するものが「生きる気力の尊重」と言う言葉の中にありました。
人間の心は 長い世代交代を経て進化・発展するものだと考えます。そして進化・発展のベクトルの先に存在する心の感覚をだれが考えていたでしょうか。心の持つ感覚こそ 昔から 宗教にも隠蔽されていた自分自身の感覚です。


◎【裏多心・裏一心】の存在

「裏多心 と 裏一心」≧「錯覚」
「裏多心原理と裏一心原理」≧「錯覚」

一言で「錯覚」と言われるものは・・・「錯覚(Illusion)」も心なのです。
しかも 社会現象をある一面で彩っている心ではないでしょうか。

「裏多心原理と裏一心原理」と言う表現で捉えると 「多心原理と一心原理」に対する形で 新たな認識力になり 社会認識をネット社会に合わせる働きにもなると思います。

社会現象的「錯覚」は 自然現象の「ブラックホール」に似ていると思います。
インパクトを感じてもらえますでしょうか。

社会現象的な「裏多心原理と裏一心原理」とはどう言う事でしょうか?
それは・・・
マジック(手品)・詐欺・相場(投機)・命令・殺人や自殺(死のイメージ)・カルト・宗教・等々
追記
人間は 【赤ん坊の時(思考と意思を持ち始めた時)】に、人間は 既にこの二つの機能が使っている事がわかる。
【センサー機能(認識機能)の心が複数形】
【出力機能の心が単数形】
追記

【芸術概念】【芸術】全般 と 【平和の概念】

芸術とは・・
上記 【出力機能の心が単数形】が 単数形ではなく、
【複数形を成している表現出力】になっている事を言うのだと私は思っています。

言葉で【愛】がつく言葉の属性に 必ず【支える】と言う意味が含まれているように。
言葉で【芸術】がつく言葉の属性に 必ず【心の出力機能を 心が複数形】と言う意味が含まれている。

自分の感情を意味する【センサー機能(認識機能)の心が複数形】であるのですから、必然的に 芸術だと思えば 自分の感情が複数形で 把握・認識いたします。これでは 本来の芸術作品の意味・芸術の価値は 客観的というよりも主観的だともいえるわけです。 

こう考えると 芸術の言葉の意味も 曖昧から何となく 言語表現以上の解かりやすい物になるのではないでしょうか。
そして、芸術と平和が時として同じ目的で認識される事も その【意思伝達能力が複数形】と言う意味に於いて 【人類の平和のシンボルになりえるのだ】っと私は考えています。

この意味に於いて・・
【芸術の概念】=【平和の概念】と言えると私は考えています。どうですか。


芸術家の方々 芸術を堪能する方々 多分 今まで この様な【芸術概念】をもっていただろうか、もっているだろうか。
追記

人間の身体も「意思伝達」の機能のある物の一つとして考えるべきだと考えています。

人間の心の問題も含んでいると考えて見ると・・
もっと、違う道、すっきりした 健全な道を、気分として、表現として、持ってもらいたいです。一般的な 裸=自己表現=自分 こう言う表現を思考するレベルを突き抜けた人間の時代を、未来の人類の心の振り分け手法として、私は そう言う可笑しな心の進化発展を想像しているのですけど・・・

身体も 言語と同じく 意思伝達をするツールの一つと言う考え方をすると 何となく解かっていただけるとおもいますけど 解からないかもしれませんねぇ。

武道の身体の動きも、声としての言葉と違うだけ、最も 機能も違いますけど、意思伝達の機能として考えると同じ処・同じ意味の処があると考えています。(人心権思想的考え方ですたらーっ(汗))
追記

意識として 無や空の世界はあるのでしょうか?
有るとしたら どうやって 宗教上の高僧が嘯くような その境地へ入れるのでしょうか?

意識を捨てる事は 意識的には出来ないと思います。無の考えは間違っていると思います。少なからず 誰でも 何かの 記憶に残るからです。

空と言う考え方があります。もし この空と言う考え方にこだわりたいのであれば、人間の心の組成が多心裏多心と言う無限ともいえも心であと考えると 空の考え方に昇華できると思います。

人間には 物が入った引出しよりも 空っぽの引出しがいっぱい有ると言う事です。

このほうが ごまかしでもなく簡単なんです。こう言う事を最近の生物科学の研究成果が私達に教えているようです。

どうぞ 高僧の素敵な境地を簡単におつかみください・・
【脳死問題】と【ミトコンドリアと無意識の関係】

昨今 脳死判定の問題が話題になっていました。その時は ミトコンドリアの存在について 誰も触れていませんでした。

現実に脳死後も 心臓の活動は続く事が確認されています。
そして 身体の成長さえもする事が多くの事例を持って証明されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E6%AD%BB

脳死後も身体が生きた状態を保てる事は 共生生命体である【ミトコンドリア】の賜物であると言えると思います。

医療にしたも 生科学にしても 思想哲学にしても ミトコンドリアについてもっと深く その尊厳まで行き着く事があっても良いとおもいます。
思想哲学も科学のベクトルも・・・【有限な物】を求めて 探しているのが本来の姿勢だと思います。
【人間が 生きる為の合理的な体系全般、人間と共共生しているミトコンドリアとの良好な関係を伴う合理的体系全般】を言う様に進化発展すると思います。


宇宙と別宇宙とか、霊界だの天界やらすべて含めて 大昔から これらに目を向ける人は大勢いますけど これらの全ては 自分との関係を含めて そのアプローチの方法や目的は 多種多様で無限にある存在するようです。

しかし 共生生命体であるミトコンドリアと自分との関係を含めて このアプローチの方法は唯一これだけが有限であるとも思っています。

そして 有限と無限との比較をすると、有限の方が無限よりも、私達にとっては解かりやすいと言うメリットを持つ特別な価値観を見出せると思います。

私は人間の心の根っ子を語る為には 自分自身ともっとも身近な【共生生命体のミトコンドリアの事を無視してはいけないような時代】に入りかけているのかもしれないと考えてもいます。

自分と他人との関係の基本が内在されているかもしれないとも考えているからです。人間が「生きる為の環境問題」としてもミトコンドリアの生き死にを考える事が重要に思う時代になるのではないかと考えてもいるからです。

自分の体内にいて 共生している生命体であるミトコンドリアの存在を無視していてはいけない事ではないかと思うからです。

ミトコンドリアは 私達のあらゆる活動に必要不可欠な体温を供給している 死活問題や生命維持を含めて、今の自分の存在とも無関係ではないからです。適当な体温は 体内のホルモンバランスや酵素の働きまでも左右するものだそうですね。

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