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急行列車コミュの昭和57年11月15日改正

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昭和57年11月15日改正は急行列車が1/3が姿を消してしまい、線区によっては急行列車が1本も走らない線区も出てしまった改正であり、昼間の列車に多かったのは、特急格上げ、快速格下げであり、夜の列車に多かったのは、寝台特急格上げ、12系・14系への置き換えによる、旧型客車の淘汰である。

コメント(74)

もう1つ関西〜九州の電車寝台特急の金星・博多明星と季節列車明星の廃止が意味することは実質東京ヘ行く為の新幹線を利用して向かう特急乗り継ぎ割引料金廃止であり巧妙ともいえる値上げである。
季節列車明星の廃止で二段式寝台の車両が余剰になるから他の特急列車への転配計画である。
日本海3・2号とあけぼの1往復の二段寝台化に持って行きそこで捻出した車両を有効活用してあけぼのを実質2往復増発である。
もちろん急行津軽1・4号・鳥海の格上げである。
寝台電車特急金星・博多明星は名古屋・新大阪で始発の新幹線に乗れば通勤優先時間帯に到着出来るメリットが大きかったわけだから廃止が非難の対象になるのも当たり前だ。
もう1つこの2列車の廃止の理由には特急はくつるの増発用車両への捻出もある。
もう1つは昭和57年のダイヤ改正で残存したのは北海道・東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州地方の幹線の特急列車を補完輸送する線区又は地方交通線で特急列車に格上げする為の設備投資しても採算の合わない線区でグリーン車や座席指定サービスで喜ばれるような地域である所に大きな特色があるのと、もう1つは急行列車同士を併結して穴を空けない為のサービスが要求されている線区であるといった所にも急行列車の存続意義があったといえる。
>>[36]
中央本線の「アルプス」では特急の停車しない小駅利用者が多く見たままでは盛況。逆に特急が時間帯によってはガラガラでした。
>>[37] 特急列車は主要駅にしか止まらない上に料金が高いのに対して急行列車は地域のある程度の駅に止まる上に料金が安いから気軽に乗れる所にも急行列車の存在意義があるといえます。仰っている中央東線の特急あずさと急行アルプスのケースはこの典型だといえます。
但し効率的に考えると急行列車の限度ラインは昼で201キロの辺りだといえます。
昭和57年改正で昼行急行が残存したのは上野駅関係で見ると長野・新潟・喜多方・仙台までの列車でこれらは新幹線開業しても途中の駅に止まらない所の利便性を図った措置だといえます。
本音をいえば新幹線に乗って欲しいけど大宮暫定開業の上に乗り換えを嫌う層への利便性を図った暫定措置だといえます。
昭和57年のダイヤ改正の重大なもう1つの要素は国鉄分割民営化の予兆ともいえるような改正で東京からの直通列車を見ると急行越前の廃止は福井県、昭和58年度には特急紀伊の廃止は三重・和歌山県からの撤退であることから解るように東京を中心とした全国ネットによる輸送サービスの崩壊であると同時に急行列車が活躍出来る舞台が限られてしまったといえる。
大阪発の夜行急行4列車である東京行きの銀河、新潟行きのきたぐに、長野行きのちくま、出雲市行きのだいせんである。
銀河は新幹線・寝台特急が止まらない大津辺りからの東京ヘの直通需要が大きいといえる。
きたぐには新潟打ち切りは効率の問題もあるけど、1番大きいのは寝台特急日本海ヘの誘導である。
きたぐには昼の特急雷鳥や寝台特急つるぎでカバー出来ない所を走っている。
ちくまは昼の特急しなのでも時間がかかる。
だいせんは昼の特急まつかぜが相当時間がかかる上に隠岐連絡となるとこれしかないからである。
急行越前の金沢打ち切りは特急雷鳥(富山〜大阪)の増発で金沢〜福井が似たような時間帯で重複するからである。
越前は北陸地方のローカル私鉄の他に地方交通線に乗り継ぐのに便利だったことから東京から尾小屋鉄道(昭和52年廃止)訪問するのに利用するマニアも多かった時代もありました。
本日時刻表の復刻版(昭和57年11月15日)を買いました。
善幸新幹線こと東北新幹線&角栄新幹線こと上越新幹線開業で改めて時刻表を読んで見ると急行列車が昼夜問わず1本も走らないのは東の房総各線と西の伯備線です。
この2線のオール特急化は東の房総各線は上越新幹線で余剰になった183系1000番台の転用なのに対して西の伯備線は山陰本線の伯耆大山〜知井宮をセットで電化して中央西線方式での振り子電車381系の投入があげられます。
もう1つは田沢湖線はローカル線でありながら実質的に伯備線待遇で相当の大盤振る舞いでの特急たざわ新設もありました。

旧型客車による急行運用をやめた(10系寝台車に関しては14系の北海道向け改造が遅れて58.6まで運用)のが遅すぎる位でしたね。特に高崎線系統は20系天の川以外は旧型客車急行でしたから、通勤電車が冷房化されたにもかかわらず急行料金を取る列車が冷房無しのボロ客車というのは利用者から見れば「ふざけんな!」という話も残っています…話によると組合の抵抗だという。
>>[43]、昭和50年代に旧型客車を使用した列車はやはり東日本方面の方に多く特に北海道はこのことで新聞記事にも騒がれました。
急行列車は色んな意味で問題が多いことから一般の利用客に嫌われていました。
特に空調設備のない車両で通勤電車でさえ冷房が入るような時代では冷房設備のないのに料金を取る急行列車が苦情が出るのも当たり前だといえます。
このことが昭和57年のダイヤ改正によく表れていました。
東の急行十和田、西の急行きそから寝台車連結が12系化により廃止されましたが共通点をあげると東の十和田はプレ夜行・夜行区間である上野〜盛岡が新幹線(大宮乗り換え)で4時間というボーダーラインの上に盛岡以遠だと寝台特急はくつる(2往復)、ゆうづる(5往復)がある。
西のきそは名古屋〜長野が特急しなので3時間16分の上に大阪〜長野の急行ちくま、上野〜直江津の急行妙高(長野〜直江津普通列車)がある。
やはり十和田・きそは今回の改正でも極めて条件が似通っているといえます。
14系寝台車の急行格下げ転用されたのは北海道の他では急行きたぐに(A寝台連結)の他に信越本線系統の越前改め能登・妙高でしたが居住性からして特急列車と大差がないことで好評でしたが583系電車の立山は残念ながら季節列車の上に下段寝台が割高な為(\5500)評判はイマイチでした。
立山の走行区間の条件からいえば結局の所はL特急雷鳥が頻繁運行している上に大阪〜富山が4時間というのは夜行列車にとっては商売としては難しいといえます。
急行妙高が寝台列車として成り立っていたのは特急あさまの上りの妙高高原から上野到着が12時を越えてしまうからでした。
これは寝台普通列車山陰号が京都到着の時間で見ると倉吉からの特急あさしお号と極めてよく似ているケースだといえます。
そういう所にも東の妙高、西の山陰は急行と普通の種別の違いはあっても極めて似通っているといえます。
この改正で東北・上越新幹線が大宮暫定開業という中途半端ながら朝一番の新幹線で東京からだと昭和43年の時は九州は熊本・大分、北海道は函館までが限度ラインだったのが九州は鹿児島、北海道は札幌まで行けるようになったのは大きな特色だといえます。
残存した夜行急行列車は比較的実力派ともいえる列車で寝台急行銀河は東京から京都周辺でのビジネスや観光に比較的都合の良い列車だといえます。
西日本系の急行きたぐには特急つるぎと違うのはつるぎは京阪神〜新潟一辺倒なのに対してきたぐには京阪神の他に米原で東海方面、敦賀で北近畿方面からの乗り継ぎサービスが出来る上に金沢で能登方面では朝一番の列車に接続するといった特徴があるからです。
ちくまは松本での大糸線連絡ならだいせんは米子・松江・出雲市での大山・隠岐・大社連絡といった特徴があります。
この改正のもう1つの特色はちくま・アルプスでの相互乗り換えが出来るようになったのも特色の1つであるといえます。 
きたぐにに関しては実際ほとんどが新潟で下車し、大阪から青森まで行くのは周遊券ユーザーだけでした。理由としては青森着17時10分で連絡船に乗り継いで函館着が夜23時で道央圏から先に行くには二晩夜行になるからで、新潟打ち切り(その先は特急いなほに格上げ)は当然でした。
>>[50] 急行きたぐには時間帯からいって夜行列車として効率が良いのは新潟までで実際は寝台車を新潟で回転させていました。
このパターンは寝台普通のはやたまの寝台車を新宮で回転させているのと同様の措置だといえます。
函館着が23時となるとそこから先の夜行列車は急行すずらんなきあとは山線普通しかありません。
もう1つは急行きたぐにの新潟打切りは寝台特急日本海や東海道新幹線+特急はくつる・ゆうづるもあるからある意味で妥当だといえます。
上野駅関連の急行妙高の特急あさまへの格上げというのは車両設備に差があることに加えてダイヤ的にも信越本線の駅である軽井沢、小諸、上田の辺りで特急に追い越されるダイヤが嫌われていたといえます。
九州〜山陰を結ぶ急行さんべ(夜行便)は昭和58年度まで持ちこたえました。
急行さんべが持ちこたえた要因は中国自動車道が全通していなかったことや特急やくもは電車化したのが昭和57年だから九州へ行くのに当然時間が掛かるのと、もう1つは荷物輸送の需要も大きかったからだといえます。
寝台特急北星が東北新幹線開業まで持ったもう1つ背景にはあまちゃんで有名な三陸方面での連絡が急行十和田よりも優先されていたことに加えてもう1つはラグビーで有名な新日鉄釜石へのビジネス旅客も少なからずいたことが考えられるといえます。
北星は車両は北陸と共通運用の為、当然だけどA寝台が連結されていました。
昭和57年11月のダイヤ改正は新幹線開業に伴うダイヤ改正でしたが、それと似たようなケースは平成14年のりんかい線全線開業でこれによって、都営バス深川自動車営業所は新たにメインルートとして早稲田自動車営業所から有楽町線が加わり、その他に巣鴨自動車営業所から京浜東北線が加わった結果として近隣にある杉並・臨海・目黒・大塚が東京都の組織から廃止になりました。
上野駅発着の昼の特急列車で残存したのは、特急つばさ・やまばとの合計3往復の他に、特急あいづ、常磐線特急ひたち12往復、信越本線特急あさま13往復の他に、特急白山3往復、上越線は特急いなほ改め鳥海1往復のみが残存しましたが、やはり新幹線が大宮暫定開業の為、時間短縮の効果が得られにくいことから、上野直通で残存したともいえます。
この改正で急行津軽に乗客が殺到してしまった原因は自由席で乗れるような列車がそれしかない上に、特急つばさ・やまばとの9両編成ではかなりきついことがあげられるといえます。
昭和57年のダイヤ改正のもう1つの特徴は東北・上越新幹線開業で余剰となる特急型車両の玉突きによる、急行型車両の淘汰である。
そのやり方の始まりは千葉鉄道管理局が昭和47年の総武線快速の東京駅地下線開業による183系新製での、房総急行の特急格上げの所から始まっている。
全ては57.11までに東北・上越新幹線が開業し、485系や183系が大量にダブついたのが急行列車を一気に特急化した原因。

>>[58] 昭和57年のダイヤ改正に伴う車両転配=ビリヤードは、181系は寿命の為に引退。
183系は房総特急や中央東線の特急へ転配。 
中央東線で使用していた189系は信越本線の特急へ玉突き。
485系は北陸本線や九州地区へ玉突きによる特急化というのがありました。
特急白山の食堂車復活は、特急つばさなどで使用していた食堂車の玉突きです。
上野口の昼行急行で、上越線の佐渡、東北本線のまつしま、常磐線のときわ、信越本線の信州が残存したもう1つの理由は、東北・上越新幹線のリレー号で使用している185系の将来の転用先確保の問題があったからです。
その他に、在来の特急型車両の転配問題などがあったからだといえます。
昭和57年で昼行急行列車が多く残った所は、北海道、上野駅関係、中央東線関係、能登半島、高山本線、紀勢本線(天王寺口)、山陰本線関係、四国の辺りです。
これらは、特急型車両が不足していてビリヤード出来るような車両がないということがあげられるといえます。

北陸本線では、急行立山・ゆのくにの特急雷鳥への格上げ統合や急行くずりゅうの特急加越への統合などがあり、夜行急行立山の季節降格、紀勢本線でも夜行急行紀州廃止、きのくに季節降格がありました。
北陸本線のこのケースは、やはり鹿児島本線の特急有明への格上げ統合とよく似たケースだといえます。
夜行急行紀州やきのくにのケースは、寝台特急紀伊や太公望列車といわれている寝台普通はやたまで間に合うような需要しかないからだといえます。
上野駅から唯一福井県にまで歩を進めた急行越前のもう1つの特徴は、越前の走行経路や時間帯などからして、鉄道マニアの乗車が多いことから、鉄ちゃん列車でも有名でした。
昭和57年ダイヤ改正の予兆ともいえる、もう1つは、昭和55年秋のダイヤ改正で、特急ゆうづるの2往復(電車1往復、客車1往復)の季節列車降格の他に、特急ゆうづるの客車2往復の二段式寝台への取替というのがありました。
その原因になったのは、相次ぐ国鉄の値上げで、旅客が航空機に転移したことに加えて、北海道連絡をメインにしている、電車寝台特急はくつる・ゆうづると比較して、かなり所要時間に開きがあることから、客車ゆうづるが嫌われたことから、二段式寝台で運び切れる需要しかなかった。
東北地方のローカル急行のリストラは昭和57年の時ですが、やはり東北地方では、デラックス化した上に、頻発運行する高速バスの影響が大きかったといえます。
仙台〜山形・新庄、山形〜鶴岡の辺りです。
結局の所、急行仙山・くりこまの快速格下げの他に、急行千秋・こまくさなどの特急つばさ格上げはやはりこのことに影響しているといえます。
昭和57年11月のダイヤ改正は、九州の三大幹線は、事実上のオール特急化で、急行列車は地方交通線、夜行急行かいもん・日南で、その他に普通列車ながさきといった、速度の早い特急列車と速度の遅い急行列車が一緒に仕事しないという徹底ぶりだったといえます。
>>[67]
夜行列車の「ながさき」はもうこの時には廃止されていませんでしたか?
>>[70] 夜行普通列車ながさきの廃止は、寝台電車特急なは・彗星1・4号の廃止で、関西〜九州からの寝台電車特急撤退の他に、夜行急行さんべの廃止と、同時期の昭和58年度で、その他に特急紀伊も効率化と急行津軽への寝台車捻出を理由に廃止なったのと同じ時です。
昭和57年時点で残存した夜行急行列車は以下の通り。
北海道はまりも(釧路)、大雪(網走)、利尻(稚内)で、これらは北海道ワイド周遊券での需要が多い上に、本州からの航空機で千歳空港からの連絡の需要の多い列車。
東日本は八甲田(仙台〜青森)、十和田(上野〜平〜盛岡)、津軽(上野〜秋田)、天の川(上野〜酒田)、能登(上野〜長野〜金沢)、妙高(上野〜長野が急行区間、長野〜直江津が普通列車扱い)、アルプス(新宿〜松本が急行区間、松本〜南小谷が普通列車扱い)、銀河(東京〜大阪)で、これらの列車の共通点は、新幹線や特急列車関係が被らないような所での需要が極めて大きい列車であるといえる。
急行八甲田は青森での、北海道連絡の需要が南東北で大きい。
東海は急行きそ(中央西線)・のりくら(高山本線)で、これらは中日新聞社からの新聞輸送の他に、シーズンでの波動輸送の対応の絡みがある。
西日本は急行きたぐに(大阪〜新潟)・ちくま(大阪〜長野)・だいせん(大阪〜大社)で普通はやたま(天王寺〜新宮)、普通山陰(京都〜出雲市)。
これらは昼行特急で距離の割に、時間が掛かるような所だから、寝台列車で走らせるような需要が大きい所である。
四国は下りうわじま、上りいよだけど、本州からの宇高連絡船からの需要である。
九州は急行さんべ(博多〜米子)・かいもん(門司港〜西鹿児島)・日南(門司港〜宮崎)、普通ながさき(門司港〜長崎・佐世保)。
これらは北九州からの連絡需要が極めて大きいのがあげられるといえる。
その他に、現地での島への航路連絡(さんべだと隠岐島、ながさきは五島列島、かいもんは屋久島や奄美諸島、日南は四国)の需要がある。
もう1つ、昭和57年11月改正の特徴は、相次ぐ国鉄の運賃・料金の値上げによるシェアの低下などを理由として、昭和55年10月の北海道(航空機とのタイアップによる札幌中心のダイヤ体系ヘの切り替え)、四国(航路とのタイアップや、急行グリーン車の空気輸送が原因による普通車指定席ヘの格下げ)、九州(極端なやり方でのL特急ヘの格上げによる、急行列車の徹底した整理)の影響を本州で受けたことによるダイヤ改正だともいえます。
東北・上越新幹線開業の影響で、上野〜盛岡・新潟のL特急や夜行急行は全廃に加えて、民鉄特急の影響による、房総のオール特急化(これは特急踊り子のケースと一緒)や北陸自動車道の影響による、北陸本線のオール特急化に加えて、夜行急行立山の季節降格がありました。
その他に、少し前の伯備線電化で急行伯耆(岡山〜米子)の電車化したL特急やくもへの統合がありました。
昭和55年10月の九州方式のもう1つの特徴は、大阪方面から直通の寝台特急で583系使用のなは(鹿児島)、彗星(宮崎)、明星(博多)の他に、名古屋〜博多の金星は、航空機の最終便より遅く出発して、航空機の初便より早く到着するダイヤに切り替えたのにも特徴があるといえます。
九州方式はトータルでの品質管理(特急の頻発運行、車種統一、幹線と支線を分離することによるダイヤの乱れの最小化)が導入されたともいえます。
電車明星1往復の廃止は、鹿児島本線の特急有明の他に、特急かもめ・みどり増発の絡みに加えて、熊本だと客車明星があるといった理由があったからだといえます。

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