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急行列車コミュの国鉄&JRから急行列車がなくなった背景

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国鉄&JRから急行列車がなくなった背景をあげると、まずは四人掛けボックスシートの相席であるといった車内設備である。
もう1つは特急と急行は停車駅や車両性能に差があるから、途中で特急に追い抜かれてしまう。
さらに並行する民鉄特急や高速バスと比較すると車両設備からして見劣りする。
夜行列車をみると、寝台特急列車は新式の寝台車なのに対して、急行列車は旧式の寝台車に座席車も旧式である。
さらに長距離は航空機もあるから勝負にならないといえる。

コメント(191)

急行列車がなくなって行くもう1つの背景には新幹線・特急列車と比較して移動効率が悪いこともあげられるといえます。
東海道線関係では新幹線のこだまが名古屋なのに急行東海は静岡、特急あまぎが伊豆急下田なのに急行伊豆は伊豆熱川。
中央線関係では特急あずさが松本なのに急行アルプスは辰野。
信越本線関係では特急あさまが長野なのに急行信州は上田。
上越線関係では特急ときが新潟なのに急行佐渡は長岡。
東北本線関係では特急ひばりが仙台なのに急行まつしまが福島。
常磐線関係では特急ときわが平なのに急行ときわが高萩。
このことにも急行列車解体の原因があるといえます。
バブル崩壊した90年代には夜行急行列車の半数以上がリストラの憂き目に合いました。
JR北海道の大雪・まりもは機関車運用の合理化に加えてスターライト釧路号運行による利用客減少に伴う昼行列車との共通運用に伴う特急格上げ。
JR東日本の八甲田・津軽・能登・妙高は新幹線ヘの転移による需要減少。
八甲田は東北新幹線+はつかり。
津軽は山形新幹線+都市間バス。
妙高は特急あさまと上越新幹線。
能登は上越新幹線+かがやき、東海道新幹線+きらめき、東海道新幹線+ひだ(急行のりくらからの全面格上げ)。
JR西日本はJR東海の絡みなどがある。
ちくまはJR西日本・東海・東日本の3者跨り走行している上に機関車交換の手間が大きいこれは津軽・能登と同じパターンでこれがきたぐにとの大きな違いである。
だいせんは新幹線+伯備線の特急やくも、智頭急行のスーパーはくと、サンライズ出雲・瀬戸がある。
JR九州のかいもん・日南は繁忙期ですらワイド周遊券の利用客しかいない上につばめ(787系)の接客設備の優秀な車両だから夜行でも十分通用する。
さらに90年代はバブル崩壊して失われた20年の始まりの象徴ともいえるようなリストラである。
バブル時代は豪華な設備といえばまりものドリームカー(グリーン車座席の転用)、かいもん・日南の普通車のグリーン車座席やミニバー併設などである。
急行列車の全盛期が昭和43年だから特急列車の車両が冷房設備が完備なのに対して急行列車は冷房設備のない車両の方が多かったという点です。
このことが一因となって乗客が特急列車ヘの転移が進みました。
それともう1つは地方交通線を走る急行列車は線路設備が旧式の上に車両が旧式の為にバスを含めた自動車ヘの転移が進みました。
昭和53年の時点で特急・急行列車の移動効率を比較すると東京から1日の移動効率を比較すると特急列車は新幹線を利用して南は九州の鹿児島・長崎まで北は特急はつかりで青函連絡船を利用して函館までなのに対して急行列車は東名高速・名神高速バスを代替して西は四国の観音寺、山陽の西条、山陰の倉吉が限度ラインなのと東は東北の青森までだ。
急行列車は昼行列車でボックスシートだから普通列車がJR東日本以外では転換クロスシートが導入されているような状況では普通列車よりも接客設備が劣っているといえる。
夜行列車は新幹線や昼行特急列車がスピードアップしているような状況では走らせることそのものからして難しい。
急行列車がなくなったもう1つの背景には国鉄急行電車物語(福原俊一著)を図書館から借用して読んだら肝心の車両が一番最新の169系電車でさえ昭和43年製だから特急用車両が新技術を開発して導入した上に普通列車にもそのような車両が導入された為に急行用車両そのものからして陳腐化したのも要因の1つだといえます。
急行列車がなくなったもう1つの原因は旧式の信号設備や線路設備である地方交通線や田舎になるとマイカーや路線バスなどで市の中心駅へ直接向かうような利用形態が多かったことも原因だといえます。
急行列車が特急列車と違う所は特急列車は県庁所在地や市の主要駅しか停車しないのに対して急行列車は田舎に行くと停車駅が多いイメージだからです。
>>[159] 急行廃止は、昭和43年高崎線からです。特急・急行・普通・貨物では、複線でもダイヤが過密になり急行をと成りました。案の定上尾事件が、上野〜高崎も貨物列車で3種のダイヤが、まぁ良く走ったな?が、私の見解です。
>>[160] 確かに過密ダイヤによる高速運転だと線路がボロボロになり保線に携わる人たちは大変だったと思います。
急行列車の全盛期は昭和43年の辺りでその後は急行列車は順次特急格上げして行きますが一番の象徴は千葉鉄道管理局の183系電車による特急格上げが昭和47年に行われた所からです。
夜行列車に関していえば昭和49年に関西〜九州系統に登場した二段式B寝台が当たり前になった時代の上に新幹線開業による昼行優等列車のスピードアップや国鉄の値上げによってビジネス旅客が航空機にシフトした結果として寝台特急でさえ利用減している状況なわけだから車両設備が劣る上に客層が悪い急行列車への影響は大きい。
昭和55年のダイヤ改正で廃止になった夜行急行列車は山陽本線、木次・芸備線、北海道(急行1往復、普通1往復)はライバルであるフェリー、バス、航空機の影響が大きかったといえる。
山陽本線の夜行急行(全車座席車)の廃止は新幹線や寝台特急列車が被るからである。
関東地方では、京浜急行の快速特急、小田急のロマンスカー、西武のレッドアロー、東武のDRCのホかに急行りようもう、京成スカイライナー。
中部地方では、長野電鉄の特急、富山地方鉄道の特急、名鉄のパノラマカー。
近畿地方の近鉄特急、南海の四国、こうや、京阪のテレビカー、阪急の6300形。
九州地方は西鉄特急。
これらは冷房設備のある車両の為、急行列車の車両設備では勝負にならなかったといえます。
このことにも急行列車がなくなった原因だといえます。
昭和43年が急行列車の全盛期でしたが、急行列車の役割を大きく分けてしまうと、以下の通り。
幹線系では、新幹線を含む特急列車の補完輸送であると同時に、特急列車が目的地への速達輸送なら急行列車は地域間連絡である。 
地方交通線系では、特急列車では、設備投資しても採算が合わないことから、その線区の優等列車であり、普通列車が地域の足なら、急行列車は都市間輸送である。
夜行列車は寝台特急列車が目的地への時間帯輸送サービスなら、夜行急行列車は地方間連絡がメインである。
急行列車がなくなっていった背景には、昭和40年は名神高速道路、昭和44年は東名自動車道だけだったのが、昭和50年代ともなると高速道路が全国に普及していきました。
夜行高速バスは昭和40年代はドリーム号(東京〜名古屋・京都・大阪)、日本交通の山陰特急バス(大阪〜鳥取・倉吉・米子)、東北急行バスの東京〜仙台・山形位しかなく、しかも4列シートでハザの指定席レベルでした。
昭和57年の東北・上越新幹線開業で、急行出羽が廃止になった原因は、やはり東北自動車道開業の影響が大きかったといえます。

急行鳥海・佐渡・能登(上越線経由)の廃止のもう1つの原因は、関越自動車道や北陸自動車道の影響を無視することが出来ないといえます。
さらに新幹線や寝台列車との収益のバランスも軽視出来ないのは事実です。
57.11改正において、鳥海は寝台特急出羽に格上げ・佐渡は上越新幹線開業絡みで特急とき共に廃止・能登は越前を金沢まで短縮して能登に改称(実質統合した形)であり、関越道は一切関係無い(以前の問題で前年にやっと東松山-前橋間が開通したばかりで関越トンネルも未開通。北陸道も朝日-上越間は未開通)です。
>>[167] 高速道路の開業に関していえば、そのことは急行列車の特急格上げの原因となり、その区間などに影響が出ると、他にまで影響が出るからです。
もう1つはマイカーなどへの転移も十分考えられるからです。
急行出羽(上野〜酒田=山形経由)の廃止は、東北自動車道そのものだったといえます。
80年秋のダイヤ改正での九州での急行列車の大幅整理の原因は、鹿児島本線の例を取ると、短距離は西鉄特急、中距離は高速バス、長距離は航空機があるから、ビジネス旅客主体の特急の乗車率は30%、周遊券旅客主体の急行の乗車率は40%であることから解るように、かなり無視出来ない影響は大きいといえます。
九州のやり方は、いわゆる典型的なショック療法だといえました。
これが全国に拡大して、急行列車解体の原因になったのは、否定しようもない原因だといえます。
ちなみに57.11当時東北道は安代(盛岡のちょっと先)までで、東北道から奥羽沿線には山形道も無くかなり不便でした。一応東北急行バスは走っていたものの一般的ではありませんでした。

急行出羽は津軽と「新庄もしくは余目乗り換えで済む」という理由で廃止になったかと(十和田から転用された20系を使った津軽がパニックを起こしたのも出羽廃止が絡んでいたりします)。夜行高速バスが今の様にメジャーになったのは昭和60年頃(梅田-天神のバスと翌年の東北道全通と共に登場した品川-弘前のバスから)からであり、57.11頃は東名・名神のドリーム号を除くと他の交通機関に影響を与える程ではありませんでしたよ。
国鉄時代は「役所的なやり方」での廃止がほとんどであり、「新幹線が出来たから在来線の役目は終わった」的な思考のもとに廃止されたのが事実で、「高速道路が…」とか、「バスが…」などという事はあり得ません。


特急格上げも「増収の為」に過ぎません。
>>[171] 特にその典型は昭和49年度の山陽新幹線の博多開業の時で、徹底した優等列車の整理は有名でした。 
その前兆となるのが、私が生まれた年の昭和46年度の岡山開業の時です。
他にも一部の夜行急行の季節降格があり、それは新型寝台車導入に伴う、寝台特急あかつき・彗星への格上げ予備軍の列車です。
これは昼行列車でも同様で、新車導入したら同時に特急格上げです。
急行列車が坂道を転げ落ちるようになくなっていく、もう1つの原因は昭和51年の50%値上げを始めとする、連続値上げの結果として、長距離旅客が航空機にシフトした結果として、中心から4時間が勝負の分かれ道となり、4時間を越えると航空機の方が有利となりました。
夜行列車に関していえば、航空機の最終便と同等より遅い時間に出て、航空機の初便と同等の時刻に到着しないと、勝負にならない状況になったからです。
このことも、移動効率の悪い急行列車が特急格上げ統合に繋がっていく原因だったといえます。
80年秋の九州の特急格上げによる、急行列車の大幅整理は、色んな車両や色んな列車が入って来ることによる、運転計画上の問題や運行管理上の問題が多かったからだと、いえます。
鹿児島本線の優等列車を特急有明に統一したのは、運転計画と運行管理の都合によるメリットが大きかったといえます。
どうしても「自動車と高速バスが原因」ということに固執する方がいらっしゃるので・・・

全ては東北・上越新幹線開業に伴う485系・183系・14系・24系の転用計画と旧型客車を使った列車の置き換えの為に急行列車は犠牲になりました。

これらの車両を使って既存の急行列車を特急に格上げし、捻出された急行型車両を普通列車用に転用するべく全国配転(松本の165系が日根野に行ったり、和歌山のキハ58系が四国や九州に行ったりと)をやったりして「架線下DC列車」や旧型客車列車を一気に電車&気動車化(足りない分は余剰の583系を格下げ改造して投入)と東北・山陰においては12系客車化を行いました。

あの頃のファン・ジャーナル・ピクトリアル各誌の記事を見ればわかると思いますが、国鉄の各工場はこれらの為にフル稼働状態でしたし、主要幹線(特に東海道・東北)においては毎日の様にEF58に牽引された配点の為の甲種回送車両を見かけましたね。


今でこそ「都市圏の鉄道らしい運行形態」をやっている名古屋・広島・仙台・札幌もあの当時は「汽車」と呼ばれて「不便な乗り物扱い」されてきました。それを是正するべく(民営化に向けての地盤固めの為)「都市型ダイヤ」への移行の為の普通列車増発用の車両捻出の一環として「中途半端な存在」となっていた急行列車の車両を転用する為に廃止&格上げという方向に行ったのでした。


>>[176] 都市間鉄道の件についていえば、組合の協力と運行車両や乗務員を増やさない短編成だったから出来たやり方だったといえます。急行列車の特急格上げが本格化したのは、昭和57年の東北・上越新幹線開業の昭和55年の秋の九州の鹿児島本線の急行列車の特急有明・にちりん・かもめ・みどりへの統合でした。
これは昭和47年の千葉鉄道管理局、昭和49年度の湖西線開業による北陸本線の時と一緒です。
そこで余剰になった急行型列車は、普通列車の格下げ転用に持って行きました。
都市間鉄道といえば、広島・名古屋・大阪・札幌は並行私鉄や並行路線バスとの、やはり競合が厳しい条件の所だと、いえます。
東海道本線の185系電車新造で、急行伊豆の特急踊り子統合というのがありました。
似たような時期に京阪神・名古屋では117系の運行を開始しましたが、両者は転換クロスシートでありながら、片方は有料、片方は無料ということでも大きな話題になりました。
これが昭和57年11月の急行列車大削減に繋がる予兆があったといえます。
80年秋の山陽夜行急行全廃、北海道の急行すずらんの廃止に関していえば、軽視出来ないのが航空機の影響です。 
東京〜札幌、東京〜福岡は、国鉄の連続値上げによる運賃格差縮小、便数、所要時間の関係から、寝台特急ですら、対抗出来ないといわざるを得ないです。
関西〜九州から夜行急行列車が全廃に至ったもう1つの原因は寝台特急が大所帯であることからして、運転計画上の都合からいって問題のある急行列車を走らせることが難しかったといえます。
関西ー九州間の夜行急行は50.3改正時に全廃していればよかったものを14系座席化して「他の急行との格差を考慮」という役所的な思考が働いて全席指定となって3往復(雲仙/西海・くにさき・阿蘇)残されたものの「空気輸送」状態が続く事態になり、くにさき・阿蘇の併結化と自由席設定を行う・・・でも、寝台特急を含めて関西発九州行き夜行列車の衰退に勝てずに55.10で廃止という流れでした。後に北海道・東北方面で活躍した14系・24系のほぼ全ては「関西発九州行き夜行列車崩れ」の車両だったりするのもこの一連の流れから来ています。
>>[181] 山陽新幹線が博多開業した、昭和50年3月は国鉄の運賃が政策上の都合から運賃の値上げが出来ないことことや、山陽新幹線の運行時間帯が被っていないことから、寝台特急15往復、夜行急行4往復が残りました。
その当時は周遊券の需要が多かったことから、全車指定席にしたことは、当然余分な追加料金(急行券+指定席券)を払わないとならないわけだから、嫌われるのは当たり前です。
根本的に、急行列車の指定席と自由席の客層が違う上に、山陽本線は自由席の夜行列車がないからです。
関西〜九州系統の夜行列車にダメージが大きかったのは、昭和51年に国鉄史上最悪の50%値上げでした。
こうなると、寝台特急のB寝台よりも、航空機の利用の方が安い区間も表れたから、当然航空機に転移します。
さらに関西〜九州はフェリーもあるから、フェリー2等だと雑魚寝であれば運賃が安いわけだから、当然だけど、経路が指定されているワイド周遊券の売れ行きが一時落ちるのも、又当然だといえます。
関西〜九州の夜行急行全廃に繋がった原因をあげて行くと、山陽本線の寝台特急は当時としては大所帯である上に、途中で後続の寝台特急に追い抜かれるようなダイヤだったことも、運行を難しくした原因だといえます。
当時の山陽本線は電車寝台特急や東京直通のブルートレインを多く抱えていたことから、速度の違う優等列車が一緒に仕事をすることにムリがあったといえます。
山陽夜行急行が潰された原因はこのことにあるといっても差し支えないといえます。
JRの夜行急行列車撤退の予兆は、やはりバブルが弾けた、北海道の急行利尻の機関車運用合理化の為、座席車をディーゼルカーとして、寝台車を連結する方式に改めたのと、山形新幹線の関係の工事で奥羽本線関係の夜行列車である、特急あけぼの(2往復)・急行津軽の乗客潮流の関係での経路変更した所からだといえます。
私が北海道のユースホステルに泊まった時は、新幹線、寝台特急、航空機、フェリー、高速バス、バイク、自家用車と多様化していました。
これが急行八甲田廃止の遠因となるといえます。
さらに急行津軽が客車をやめてしまった理由は、私もユースホステルで聞いたことがありますが、結局の所は、方向転換する山形での機関車交換が手間が掛かるといった理由があったからです。
話はそれるので失礼しますが、ユースホステルの宿泊者数全盛期(日本人対象)は、急行列車がピークだった頃の昭和47年の辺りで、この頃は団塊の世代の青春時代に周遊券を使って急行列車自由席で行くのがベストの時代だった時だといえます。
その代表格は急行桜島・高千穂でこれに乗れば、九州はもとより、山陰・四国ワイド周遊券でカバー出来た時代でした。
ユースホステル減少傾向が始まったのは、やはり寝台特急に二段式寝台が導入された上に、新幹線博多開業による急行桜島・高千穂廃止で、ブルートレインへの強制誘導が始まった、昭和49年の辺りだといえます。
ユースホステル宿泊者数第一次激減は、急行列車が4桁を割った上に、九州は寝台特急、四国は航路、北海道は飛行機への強制誘導が始まった昭和56年辺りだといえます。
再びユースホステルが増加したのは、やはりバブル真っ只中の91年(平成3年)辺りで、この頃は夜行高速バスがメジャーとなり、それに対抗する為に走らせたのが、座席指定料金のみでOKのムーンライトシリーズで、割安で豪華な接客設備の上に青春18きっぷで利用出来ることで、人気を博しました。
バブル世代を中心に、青春18きっぷで行くのが、ベストみたいな所がユースホステルにありました。
93年辺りからユースホステルは宿泊者数の第二次激減に繋がったのは、バブル崩壊などに伴う、夜行急行列車などのリストラである。
バブル世代のホスティングで利用していた、夜行快速列車は収益そのものからして満員であっても赤字なわけだから、存続出来る程甘いものではなく、やはり規制緩和(バス、タクシー、航空機、航路などの自由化)の上に、宿泊施設が多様化したわけだから、姿を消すのも解る。
急行列車の特急格上げなどによる、解体が本格化したのは、昭和55年10月改正からだといえます。
東京から国鉄の列車1本、若しくは乗り換え1回で行けるのは、九州は長崎、鹿児島、宮崎。
四国は特急瀬戸号に乗る条件で高松。
北海道は青函連絡船で函館までだからです。
そうなると、本州から効率が良いのが、北海道は飛行機、四国はフェリー、九州だと昼は新幹線、夜は寝台特急に自ずと限定されるからです。
昭和55年10月で廃止された、夜行急行列車7往復(合計14本)は、いずれもこの条件に当てはまるといえます。
急行列車の特急格上げは、当然だけど高速鉄道である新幹線の開業は特に大きく、夜行急行列車の寝台特急格上げは、日本の中心である東京駅からの所要時間が4時間となると、当然新幹線との接続列車での移動を選択する為、そうなると夜行急行列車では、有効時間帯が被る所が出てしまう為、その結果として車両更新とダイヤ再編を目的に格上げするといったパターンです。
1980年の九州は、急行列車の特急格上げは相当徹底して行わました。
鹿児島本線のL特急有明は、博多〜熊本・西鹿児島の急行列車がメインで行われました。
日豊本線のL特急にちりんは、博多〜大分・宮崎で、特急おおよど廃止(キハ80系で肥薩線経由)の絡みによる、気動車追放の代わりに583系投入。
長崎本線のL特急かもめ・みどりは、博多〜長崎・佐世保でも、急行の一部から特急格上げがありました。
九州特急列車整備の副産物が特急明星(583系電車1往復)・彗星(24系客車1往復)の2往復に加えて、山陽本線の夜行座席急行(4往復)の全廃でした。
こういった列車の廃止は、大阪方面からの直通する為に、長いからダイヤが乱れてしまうと、九州に大きな影響を与える上に、九州の特急列車の整備と被っているからである。
世界的な例などを見ると、公共交通機関のサービスが、その地域の民度が反映されているように、国鉄とかに代表されているものは、その国の国民性がサービスに如実に反映されているといえます。
国鉄&JRから、急行列車が撤退した背景には、やはり農耕民族である日本人の性格が極めて関係しているといえます。
ドイツ鉄道のやり方そのものからして、日本の鉄道と極めて酷似しています。
これは、アメリカ、インド、韓国辺りと比較するとよく解る位です。
急行列車の廃止から話がそれますが、房総特急の縮小は、急行列車廃止と同様のパターンです。
房総は、高速道路やアクアラインの開業により、京成スカイライナーのスピードアップの他に、房総方面の高速バスが多数走るようになった結果として、縮小となりました。
夜行高速バスムーンライト(大阪〜福岡)は阪急・西鉄バスの共同運行で、中国自動車道が全通した昭和58年の辺りに運行開始しましたが、やはりそこでも国鉄の列車は影響を受けました。
寝台電車特急なは・彗星1・4号の廃止による、関西〜九州の寝台電車撤退。
夜行急行さんべの米子〜博多の廃止。
1番の象徴は、山陰の女王とよばれた特急まつかぜ1・4号(新大阪〜博多)の系統分割とキハ80系撤退と同時に食堂車廃止である。
話は少しそれるので失礼しますが、普通列車乗り放題の青春18きっぷが販売開始されたのが、皮肉なことに急行列車大削減前後の昭和57年で、当時は4枚綴りの¥8000で、春・夏・冬と学生の休みの期間に合わせて発売されました。

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