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CHE VIVE!!チェ・ゲバラ待望論コミュの「足るを知れ!!」チェ・ゲバラも天国で願ってる!!

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京都の龍安寺には、有名な蹲踞があります。

蹲踞(つくばい)とは、茶室の庭先にある石の手水鉢(ちょうずばち)のことで、この手水鉢が低く据えてあって、茶客が手を洗うのに、つくばうことから、蹲踞と言うようになったものだそうです。

真ん中に水を入れる四角を共有し上から時計回りに「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」と記してあります。
水が満ちたり過ぎるとつくばいから外に流れ落ちてしまいます。
水が不足すると手が洗う役目を果たしません。

つまり「吾唯足知」というのは、「満足することを知っている者は貧しくても幸せであり、満足することを知らない者はたとえ金持ちでも不幸である。」という事です。

人間の場合、人体の約60%が水からできているといわれています。
水が不足すれば脱水症状になり、供給しなければ息絶えます。
逆に水分を取りすぎても水中毒になり息絶えます。

いわいる何事にも加減があり、それを知ることが大切だと思います。

昨今、わが国でも水不足になってプールが閉鎖になったりすることがしばしばあります。
原因は、さまざまですがなににもまして道路をアスファルトにしてしまったことにあると知りました。
アスファルトにすることによって地表に水が浸透しにくくなってしまって、水の循環を阻害してしまっています。
その結果、降水量も低下し気温も上昇してしまいクーラーをかけ過ぎるという悪循環に陥っています。

人間にとって便利や合理性を追求しすぎて、足るを知ることを置き去りにしたあまりに起きるべくして起きたと思います。

母なる地球は、今息絶え絶えになっています。

石油文明によって産業は、著しく発展し、ヒトにとって生活にゆとりができ、暇という時間的悪弊がはびこってしまった。

野生の象は水をのみに行くために毎日6時間歩いていくといいます。

また産業発展は、循環不可能なゴミを生んでしまい地球の土壌は悲鳴を上げ、生態系は、崩れ、動植物たちとの共生も崩壊したといっても過言では、ありません。

ヒトにとってゆとりができて「ひま」になったことで、本来一番大切な家族愛を置き去りにして、自己愛にふける人々が増え義務を放棄して権利ばかり主張する有様になっています。

本来、人間にとって大切にしてきた「がまん」「犠牲」を絶対に死語にしては、いけないと思います。

今このときだけが幸せだったらいいという短絡的な感情を持ち行動し続ける事を一切やめなければいけないと思います。

母なる地球をないがしろにすることは、自らに唾をはき続けるのといっしょだと思うので。
私は、先日最澄の偉人伝を読んだのですが、
最澄の書いた「山家学生式」のなかに国の宝とは、なにかというのがあって、宝というのは、道を求める心である。
道を求める心のある人を、国の宝という。
だから、お金とか物を持っていることが、国の宝ではない。
世の中の一隅を照らすような立派な人を持っていることが、国宝を持っていることだと言いました。
また悪いことを自分自身に向け、良いことを他人に与えて、自己を忘れて、他人のためになることをするのは、慈悲の極みであるとも言いました。
私は、これらの言葉に感銘を受けました。
ひとりひとりが、片隅でいいから灯りをともしていけば、やがて地球の果てまできっと明るくなる時が来るという希望を持てる言葉だと感じました。
それは、人間自身が自らを節制して地球のためにしなければならないと最澄が言っているかのような気がしました。

今地球にとって一番うれしいって思うのは、植林であると断言します。

ここにいるひとりひとりが一本でも植えれば、やがて何万本にもなって少しでも環境がよくなるって思っています。

最後に人類を含め地球上の動植物にとっての起源でもあるかけがえのない水を見つめなおさなければ未来は、ないと思います。

水を見つめなおすことは、こころを見つめなおすことでもあると思っています。
そして水が清らかになればこころまで清らかになるのではないかと思っています。

そして、そろそろ人類だけの欲望を捨て去るときだと思います。
今こそ人類が足るを知る事を放棄すれば滅びるときではないかと思います。

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