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東谷隆司コミュの広島の空での出来事に、思ったこと

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元管理人です。
というか、東谷です。

さて、ここ数日、あの出来事について考えています。
そう、広島での例の件です。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200810220233.html

このこと、多くの人と同じように、思い出すたびに、非常に「不快」な気持ちになるのですが、同時に、なんとも悲しいというか、暗い気持ちというか、複雑な気持ちになる。それがなぜなのか、ここ数日、ずっと考えてきました。
なので、ちょっと書いてみます。


問題になってるグループにも知り合いはいるし、所属しているギャラリーも古くからの知り合いが立ち上げたものだし、記事に出てくる学芸員も知り合いです。
しかし、このグループの活動については、個人的には、まったくポジティブに受け取ってません。
率直に言うと、「嫌い」です。

しかし、なぜ、自分が嫌いかというと、「理解できない」のではなく、むしろ、彼らの表現のモティベーションの在り処が「理解できすぎる」のだと思う。

僕の知る限りでは、彼らのグループにいる女性を除いては、いわゆる美大的な教育は受けていない。受けているとすれば、神田の美学校という学校ともなんとも言えない場所で、そのメンバーのうちの何人かが講義を受けていたくらい(だったと思う)。僕も彼らと知り合いになったのは、僕自身がそこで講師をやっていた5,6年前だったと思う。当然、グループが結成される前。

その当時、美学校に集まっていた受講生は、美大などの美術教育を受けておらず、どちらかと言えば、いわゆるアカデミックな「アート界」の仕組みに馴染めない人が多かった。また、講師も、既存のアート界の枠組みに対して、疑問を持っている作家が多かった。

そういうことを知っているからだろうけど、彼らのグループの活動のモティベーションに、既存の「アート界」に対してのカウンターが含まれていることが十分に理解できる。つまり、「アート界」に属している人ほど、不快になる要素が含まれている。
これについては、僕は、非常に理解できる。

実際、ここのところ、僕自身が発表した作品(のようなもの)やこのコミュにもトピとしてあげてある、通称「変体論文」には、他者を不快にする要素が含まれていると思う(なので、積極的に告知はしないんですが、実際2005年に、浅草のアート・スクェアというところで、パフォーマンス、というか、ライブをやったときは、ブログで、「不愉快!最低!」と書かれました)。


ただ、同時に、僕自身は、どう弁解したって、「アート界」に属してしまうと思われるので、彼らが既存のアート界に対して、カウンターとしての態度をとるならば、自分が「不快にされる」対象であることも自覚している。

また、もし不快でなくなりたいとすれば、一緒になって面白がる、という方法があるのだろうけど、それにも抵抗がある。
「アート」を度外視したら、もっと面白いものがある、という気持ちと、ちゃんとカウンターの相手になる人間がいたほうが良いのではないか、と気持ちがあったから。
つまり、ちゃんと「嫌い」と表明する人間がアート界にも必要。
ここには、僕自身が評価している作家への責任感も関係していると思う。


なので、僕自身は「理解」はできるが、「同調」はできかねる。あるいは、個人的には、理解できるが故に、自分から遠ざけたいような気持ちがあったことは確か。
また、技術的に「下手だなぁ」と思う部分があるのだけど、彼らが正当な美術教育を受けていないことを知っているだけに、そのことが「差別的」に働いてしまう気持ちもあり、言いづらいところもあった。

というか、逆に、これまでのように、彼らを「評価したがる」アート界の人が多いことの方が奇妙に思っていた。
どちらかというと、その評価の根拠にあるのは、彼らを「批判しづらい」アート界の構造にあるのではないかと思う。
言ってみれば、「誉めときゃ大丈夫だろ」的な感じで、作品そのものと向き合ってるというよりは、彼らが出てきた「現象」を論じているにとどまっているように思え、彼らを作家と認めるならば、それはそれで無責任な感覚を抱いていた。


そこで、今回の出来事。

いや、正確に言うと、出来事を実際に見ているわけではないので、「報道」を聞いたときに感じたのは、「あ、やっちまったなー」という程度だった。白状すれば、僕自身もそれほど深刻ではなく、以前から感じている不快感の延長でしかなかった。

しかし、その後の報道や世間の反応を見ていると、どんどん複雑な気持ちになってくるわけです。

なぜか。

まず留意すべきは、今回の件で、僕が最初に感じた「不快感」は、広島の人たち、被爆者の方たちが感じた不快感とは、まったく別であること。
つまり、僕自身が侮辱されたわけではない。

さらに、新聞報道にある、「東京の芸術家集団」という表現。
これは、『中国新聞』という地方紙(東京ではない、という意味で)からの、目線で書かれたものですが、この新聞社の報道には、「広島に住んでいる人、歴史に対して、東京からきた、ワケのわからないもの(=芸術)をつくる集団が侮辱した」という論調が読み取れる。
そうしたとき、文字通りの「東京の芸術家集団」という言葉には、少なからず、東京で、芸術関係の仕事をしている自分自身も含まれる気がする。
現在、『中国新聞』が、報道し、糾弾にも近い論調で、あげつらっている対象の中に僕自身も入っているのではないか、と思えてくるのだ。


つまり、今回の件の不快さには、もともとあまりポジティブに受け止めてなかったグループが、「やってしまった」ことに対し、「自分は関わってない」と思う一方で、どこか「アート界」の人間として、自責の念にかられる、というようなところがある。
彼らが「アート界」の埒を出ないで、「アート界内アーティスト」であれば、ここまで問題は顕在化しなかっただろうが、そういった閉鎖性もまた問題だと思う。


もう、グループについては、一通り、mixi内でも、2chでも、ブログでも、一通りバッシングを受けているようなので、ここでは、それを繰り返すことも、もちろん擁護する気もまったくない。ただ、同グループのコミュでの感情的な書き込みの他、「現代美術」系のコミュで、この話題があがってないことは奇妙な感じがしたので、あげてみました(このコミュって、「現代美術」系ですよね?)。


基本、アーティストは、己の欲望やモティベーションに忠実であるべきだと思うので、彼らが謝罪したいと思えばすればいいし、自粛したいと思ったら、そうするべきだと思う。
また、僕自身、公立の美術館に勤務していた経験があるので、公立の機関が、新聞社が市民の声を誘発するための格好の餌食であることも知っているし、過去に新聞の報道が現場を正確に反映してないケースがあったことも知っているので、報道のみを鵜呑みにするだけでなく、想像力を働かせる必要はある(とくに、新聞に掲載されている写真は、第3者が撮って新聞社に持ち込まれたものであることは留意する必要あり)。


とにかく、今回の彼らのことを、「他者」として批判するのは、容易いのだけど、「東京の芸術関係者」は、自分も胸に手をあてて考えるべきなのではないか、というのが、現在の心情です。






コメント(1)

ニュースをまとめてみました。
http://d.hatena.ne.jp/knakano/20081024

また、この件に意見されたブログをまとめたサイト
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20081027#p7

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