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日月神示 ひふみ神示 五十黙示録コミュの肝腎要の事(かんじんかなめのこと)

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ひふみ神示 第一巻「上つ巻」
第二帖 (二)
「悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、初めは辛いなれど、さきを楽しみに辛抱して呉れよ。配給は配給、統制は統制のやり方、神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ。人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、盲には困る困る。
(・・・中略・・・)
☉の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。岩戸が明けたら一度に分かる。」

第三十二帖 (三二)
「世の元からヒツグとミツグとあるぞ、ヒツグは☉の系統ぞ、ミツグは○の系統ぞ。ヒツグはまことの神の臣民ぞ、ミツグは外国の民ぞ。☉と○と結びて一二三(ひふみ)となるのざから、外国人も神の子ざから外国人も助けなならんと申してあらうがな。一二三唱へて岩戸あくぞ。神から見た世界の民と、人の見た世界の人とは、さっぱりアベコベであるから、間違はん様にして呉れよ。ひみつの仕組とは一二三の仕組ざ、早う一二三唱へて呉れよ、一二三唱へると岩戸あくぞ。」

ひふみ神示 第二巻「下つ巻」
第二十一帖 (六三)
「・ばかりでもならぬ、○ばかりでもならぬ。☉がまことの神の元の国の姿ぞ。元の神の国の臣民は☉でありたが、・が神国に残り○が外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。・もかたわ○もかたわ、・と○と合はせて まことの☉(かみ)の世に致すぞ。今の戦は・と○との戦ぞ、神の最後の仕組と申すのは○に・入れることぞ。○も五ぞ・も五ぞ、どちらも、このままでは立ちて行かんのぞ。一厘の仕組とは○に神の国の・を入れることぞ、よく心にたたみておいて呉れよ。神は十柱五十九柱のからだ待ちてゐるぞ。五十と九柱のミタマの神々様お待ちかねであるから、早うまゐりて呉れよ。今度の御役大層であるが、末代残る結構な御役であるぞ。」
第二十八帖 (七〇)
「仮名ばかりの神示と申して馬鹿にする臣民も出て来るが、仕まひにはその仮名に頭下げて来ねばならんぞ、かなとは☉(カミ)の七(ナ)ぞ、神の言葉ぞ。今の上の臣民、自分で世の中のことやりてゐるように思うているが、みな神がばかして使ってゐるのに気づかんか、気の毒なお役も出て来るから、早う改心して呉れよ。」

ひふみ神示 第三巻「二二の巻」
第三帖(八三)
「一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、この道理分らんか、剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。」
第五帖 (八五)
「この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろがな、早く身魂みがいて下されよ。外国は○、神の国は・と申してあるが、・は神ざ、○は臣民ぞ、○ばかりでも何も出来ぬ、・ばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、それで神かかれるやうに早う大洗濯して呉れと申してゐるのぞ、神急(せ)けるぞ、この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。」
第七帖 (八七)
「悪の世であるから、悪の臣民 世に出てござるぞ、善の世にグレンと引繰り返ると申すのは善の臣民の世になることぞ。今は悪が栄えてゐるのざが、この世では人間の世界が一番おくれてゐるのざぞ、草木はそれぞれに神のみことのまにまになってゐるぞ。一本の大根でも一粒の米でも何でも貴くなったであろが、一筋の糸でも光出て来たであろがな、臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、殊に神の国の臣民みな、まことの光あらはしたなら、天地が輝いて悪の身魂は目あいて居れんことになるぞ。結構な血筋に生まれてゐながら、今の姿は何事ぞ、神はいつまでも待てんから、いつ気の毒出来るか知れんぞ。戦恐れてゐるが臣民の戦位、何が恐いのぞ、それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ。」
第十帖(九〇)
「神の国から除かれた臣民と神の臣民と何ちらがえらいか、その時になりたらハッキリするぞ、その時になりて何うしたらよいかと申すことは神の臣民なら誰でも神が教えて手引張ってやるから、今から心配せずに神の御用なされよ、神の御用と申して自分の仕事をなまけてはならんぞ。」

ひふみ神示 第四巻「天つ巻」
第二十九帖(一三六)
「戦も病の一つであるぞ、国の足のうら掃除すれば国の病直るのぞ、
国、逆立ちしてると申してあること忘れずに掃除して呉れよ。」

ひふみ神示 第五巻「地つ巻」
第十帖 (一四七)
「何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐるが、方便と申すもの神の国には無いのざぞ。まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。これまでは方便と申して逃げられたが、も早 逃げること出来ないぞ、方便の人々早う心洗ひて呉れよ、方便の世は済みたのざぞ、いまでも仏の世と思うてゐるとびっくりがでるぞ、神の国、元の神がスッカリ現はれて富士の高嶺から天地(あめつち)へのりとするぞ、岩戸しめる御役になるなよ。」
第二十四帖 (一六一)
「衣(ころも)はくるむものであるぞ、くるむとは、まつらふものぞ、神の衣は人であるぞ、汚(けが)れ破れた衣では神はいやざぞ。衣は何でもよいと申すやうなものではないぞ、暑さ寒さ防げばよいと申す様な簡単なものではないぞ。今は神の衣なくなってゐる、九分九厘の臣民、神の衣になれないのざぞ。悪神の衣ばかりぞ、今に臣民の衣も九分九厘なくなるのざぞ。☉の国、霊の国とこの世とは合せ鏡であるから、この世に映って来るのざぞ、臣民 身魂洗濯して呉れとくどう申してあらうがな、この道理よく分りたか。十月とは十(かみ)の月ぞ、―と|との組みた月ぞ。」

ひふみ神示 第六巻「日月の巻」
第十一帖 (一八四)
「学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ。肝腎の真中なくなりてゐると申してあろが。真中動いてはならんのざぞ。神国の政治は魂のまつりことぞ。」
第三十六帖 (二〇九)
「今の臣民見て褒める様な事は皆奥知れてゐるぞ。之が善である、まことの遣り方ぞと思ってゐる事九分九厘迄は皆悪のやり方ぞ。今の世のやり方、見れば判るであらうが、上の番頭殿 悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。」

ひふみ神示 第八巻「磐戸の巻」
第八帖 (二四四)
「神の国の昔からの生神の声は、世に出てゐる守護人の耳には入らんぞ、世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂ざから、聞こえんのざぞ。」

ひふみ神示 第九巻「キの巻」
第四帖 (二六一)
「カミの大事の肝腎の所が違ふた事になりてゐるから、其の肝腎要(かんじんかなめ)の所 元に戻さな何程人間が、いくら学や智でやりてもドウにもならんぞ、元の先祖の神でないと、此処と云ふ所 出来んぞ、神の国の元の因(もと)のキのミタマを入れて練り直さな出来んのざぞ、肝腎がひっくり返りてゐるぞ、早う気付かんと、間に合はんぞ、もちと大き心持ちなされよ、世界の事ざから、世界の御用ざから、大き心でないと御用出来んぞ。これからは神が化けに化けて心引くことあるから其のつもりでゐて呉れよ、三、四月気付けて呉れよ。三月九日、ひつ九の神ふで。」
第六帖 (二六三)
「戦すんでからが愈々のイクサぞ、褌しめよ、役員も一度は青なるのざぞ、土もぐるのざぞ、九、十、気付けて呉れよ。神示よく読めよ、肝腎のこと判りては居らんぞ、一のことぞ。」
第十二帖 (二六九)
「鎮魂(ミタマシズメ)には神示読みて聞かせよ、
三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回で始めはよいぞ、
それで判らぬ様なれば お出直しで御座る。」

ひふみ神示 第十巻「水の巻」
第六帖 (二八〇)
「島国日本にとらはれて呉れるなよ。小さい事思ふてゐると見当取れん事になるぞ。」
第十帖 (二八四)
「五大洲 引繰り返って居ることまだ判らぬか。肝腎要(かんじんかなめ)の事ざぞ。七大洲となるぞ。八大洲となるぞ。」

ひふみ神示 第十三巻「アメの巻」
第二帖 (三三六)
「天の大神様は慈悲深くて何んな偉い臣民にも底知れぬし、
地の大神様は力ありすぎて、人民には手におへん見当取れん、
そこで神々様を此の世から追い出して
悪神の云ふこと聞く人民許りとなりてゐたのであるぞ。
七五三(しめ)は神々様をしめ込んで出さぬ為のものと申してある事
これで判るであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ、
基督(キリスト)の十字架も同様ぞ、基督信者よ改心致されよ、
基督を十字架に釘付けしたのは、そなた達であるぞ、懺悔せよ、
○とは外国の事ぞ、☉が神国の旗印ぞ、
神国と外国の分けへだて誤ってゐるぞ。
大き心持てよ、かがみ掃除せよ、
上中下三段に分けてある違ふ血統(ちすじ)を段々に現すぞよ、
びっくり箱あくぞ、八九の次は+であるぞよ。
何事もウラハラと申してあろが、
ひとがひとがと思ってゐた事我の事でありたであろがな、
よく神示読んでおらんと、キリキリ舞ひせんならんぞ、
日本が日本がと思って居た事外国でありた事もあるであろがな、
上下ひっくり返るのざぞ、判りたか。
餓鬼までも救はなならんのであるが、餓鬼は食物やれば救はれるが、
悪と善と取違へてゐる人民、守護神、神々様 救ふのはなかなかであるぞ、
悪を善と取違へ、天を地と信じてゐる臣民人民なかなかに改心六ヶ敷いぞ。
我と改心出来ねば今度は止むを得ん事出来るぞ、
我程偉い者ないと天狗になりてゐるから気を付ける程 悪ふとりてゐるから、
こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれん事になったぞ。」
第六帖 (三四〇)
「毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されんぞ。あら楽し、黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し。淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねば益々判らん事になったであろうが、天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん。」
第八帖 (三四二)
「今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ、悪も御役ながら奥表に出ては誠おさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(ホトケ)結構、基(ヤソ)結構、儒(コトゴトク)結構の世となりなる神の仕組 近くなって来たぞ。世の元からの仕組、中行く仕組、天晴(アッパレ)三千世界結構であるぞ、心の不二も晴れ晴れとなるぞ、結構々々。甘くてもならんぞ、辛(カラ)くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ、天の神様許りではならんのざ、くどう申して此処迄知らしてゐるにまだ判らんのか、心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、何時迄も神待たれんぞ、辛さには甘さかげにあるのざぞ、此の道理よく判るであろがな、水の味 火の味 結構ぞ、恐い味ない様な結構な恐さであるぞ、喜びであるぞ、苦しみであるぞ、此の道理よく判りたか。」
第十二帖 (三四六)
「神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国 真中の国は十万や二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。」
第十三帖 (三四七)
「世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、五十九柱いくらでもあるのざぞ、かへミタマあると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。心から勇む仕事よき事ぞ、此の方の好く事ざぞ。木の葉落ちて冬となれば淋しかろがな、紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが紅葉の山も落ちたであろがな、他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち付いて聞き落しのない様になされよ、悔しさ目に見へておろがな、どぶつぼに我と落ち込む人民許り出て来て、神の国 臭くて足の踏場もないぞ、なれども見て御座れ、三千世界一度にひらいて世界一列一平一つのてん詞(四)で治めるぞ。地の世界に大将なくなって五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、あんまりな事ぢゃなあ。是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ、誠とはコトざぞ 口でないぞ、筆でないぞ コトざぞ、コト気付けと申してあろがな。」
第十四帖 (三四八)
「一番尊い所 一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落した上に落して もう落す所無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事 間違へるでないぞ。此の道 難しい道でないぞ、欲はなれて、命はなれてなる様にしておりて下されたら それでよいのぢゃ。今が神国の初めぞ、今までのことすっかり用ひられんのに未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(めくらつんぼ)ざぞ、今迄の事自慢すると鼻ポキンぞ、皆 鼻ポキン許りぢゃなあ。まだまだ俘虜(とりこ)になる者 沢山あるなれど、今度の俘虜まだまだぞ、何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ、次に又捕へられる者 出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、是も因縁ざぞ。」

ひふみ神示 第十四巻「カゼの巻」
第二帖 (三五三)
「二柱の神あると申してあろが、旗印も同様ぞ、
かみの国の旗印と、☉(もとつかみ)の国の旗印と同様であるぞ、
●であるぞと知らしてあろがな、
●にも二通りあるのざぞ、スメラ●の旗印と
十米*●と申して知らしてあろがな、
今は逆さざぞと申してあろがな、
このことわからいでは、今度の仕組分らんぞ、
神示分らんぞ、岩戸開けんぞ。
よく旗印みてよと申してあろがな、
お日様赤いのでないぞ、
赤いとばかり思ってゐたであろがな、
まともにお日様みよ、みどりであるぞ、
お日様も一つでないぞ。ひとりまもられているのざぞ。
さむさ狂ふぞ。」

ひふみ神示 第十五巻「一八(イハ)の巻」
第八帖
「神の国の元のミタマと外国のミタマとスッカリ取換へられてゐるのにまだ眼覚めんのか。神の国は真中の国、土台の国、神の元の鎮まった国と申してあらうがな。神の国であるぞ、我さへよけら、よその国、よその人民どうなってもよいといふ程に世界の臣民、皆なりてゐるが、表面(うわべ)ばかりよい事に見せてゐるが、中は極悪ぢゃ。」

ひふみ神示 第二十巻「ん目(ウメ)の巻」
第八帖
「口と心と行と三つ揃ふたら今度は次に・入れて下されよ、・は神ぢゃ、神示ぢゃ、神示元ぢゃ、と申してあろが、三つ揃ふても肝腎の神示肚に入って居らんと何にもならん事になるぞ。九分九分九厘となってゐる事も判るであろが、御用 勇んで仕へまつれよ。」
第十一帖
「日本の上に立つ者に外国の教伝へて外国魂に致したのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度ざぞ、判りたか。それを元に戻すのであるから今度の御用中々であるぞ、中つ枝からの神々様には判らん事ざぞと申してあることもガッテン出来るであろがな。」
第十三帖
「天(あめ)の岩戸ばかりでないぞ、地(くに)の岩戸 臣民の手で開かなならんぞ、誠一つで開くのぢゃ、誠のタチカラオの神、誠のウズメの命殿、御用結構ぞ。ダマシタ岩戸開きではダマシタ神様お出ましざぞ、この道理判らんか、取違ひ禁物ぞ、生れ赤子の心になれば分るのぢゃぞ。今の臣民お日様明るいと思ふてゐるが、お日様、マコトの代のマコトのお日様どんなに明るいか見当とれまいがな。」
第十四帖
「外国を日本の地面にせなならん、日本とにほんと取違ひすな。何事も神第一ぞ、神よそになすこと云ふことスコタンばかりぢゃ。分け隔てあると思ふは我が心に分け隔てあるからぢゃぞ、世界中のそれぞれの国、皆、氏神様、産土様、愈々天の命令通りにかかり下されよ、もう待たれん事に時節参りて居るぞ、世界の人民 皆泥海の中に住んでゐるのぢゃぞ、元の水流して清めてやらねばならんなり、泥水を泥水と知らずに喜んでゐるので始末に困るぞ、清い水に住めん魚は誠の魚ではないのぢゃぞ。」
第二十一帖
「早くから此の方の元へ来て居ても因縁あっても肝腎が判らんと後戻りばかりぢゃ、肝腎々々ぢゃ、学もよいが、それはそれの様なものぢゃぞ、途中からの神は途中からの神、途中からの教は途中からの教、今度の御用は元のキの道ざぞ、世の元からの神でないと判らんぞ、出来はせんぞ、生れ赤児の心とは、途中からの心、教、すっかり捨てて了へと云ふ事ざぞ。」

ひふみ神示 第二十二巻「ア火八(アホバ)の巻」
第十五帖
「世の建替と申すのは、身魂の建替へざから取違ひせん様致されよ、ミタマとは身と霊(たま)であるぞ、今の学ある人民 ミばかりで建替へするつもりでゐるから、タマが判らんから、いくらあせっても汗流しても建替へ出来んのざぞ。天地(あめつち)の秋(とき)来てゐることは大方の人民には分って居りて、さあ建替へぢゃと申しても、肝腎のタマが分らんから成就せんのざぞ、神示読んでタマ早う掃除せよ、世界から見るから日本が日本ぞ、も一つ上の世界から見れば世界は日本ぞ、神国ざぞ、今迄は大地の先祖の大神様の血統を落して了ふて途中からの代りの神でありたから、まぜこぜしたから世が乱れに乱れて了ふたのぢゃぞ、知らしてあらうがな、よくなっとくしてくれよ、人民 皆その通りになってゐるのぢゃ。」

ひふみ神示 第二十四巻「黄金の巻」
第二帖
「日本が日本がと、まだ小さい島国日本に捉はれてゐるぞ。世界の日本と口で申してゐるが、生きかへるもの八分ぞ。八分の中の八分は又生きかへるぞ。生きかへっても日本に捉はれるぞ。おはりの仕組はみのおはり。骨なし日本を、まだ日本と思うて目さめん。九十九十(コトコト)と申してカラスになってゐるぞ。古いことばかり守ってゐるぞ。古いことが新しいことと思うてゐるなれど、新しいことが古いのであるぞ。取違ひいたすなよ。」
第二十一帖
「言はれる間はよいぞ。読まれる間はよいぞ。綱切れたら沖の舟、神信じつつ迷信に落ちて御座るぞ。日本の国のミタマ曇ってゐることひどいぞ。外国、同様ながら筋通ってゐるぞ。型にはめると動きないことになるぞ。型外せと申してあらうが。自分で自分を監視せよ。」
第八十四帖
「神は人民に改心さして、世の立替立直し致さうと思うたのであるが、曇りがあまりにひどいから、何事のびっくりが出るか、もう神も堪忍袋の緒 切れたぞ。(・・・中略・・・)いくら古くから信心してゐると申しても肝腎が判りて居らんと何もならん。よい御用出来ん。」

ひふみ神示 第二十九巻「秋の巻」
第二十四帖
「今迄の、三千年のやり方違ってゐたと心つくなれば、心付いて神示よむなれば、一切のことありやかとなるのぢゃ。カンジンぢゃ。」
第二十六帖
「中は無、外は有であるぞ。中になる程 無の無となるのぢゃ。同じことくり返すと、人民申すであろうが、得心して居らんから、かんじんのことぢゃから、クドう申してゐるのぢゃ。人民それぞれのミタマによって役目違ふのであるぞ。手は手、足は足と申してあろう。何も彼もマゼコゼにやるから結びつかんのぢゃ。」

五十黙示録 第一巻「扶桑の巻」
第十五帖
「天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、人民は我(ガ)が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、人民の中では宗教人が一等おくれてゐるぞ、神人(カミヒト)とならねば生きては行かれんのぢゃ、天地がアメツチとなってきてゐるからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民少ないぞ、今に昇り降りで急しくなり、衝突するものも出てくるぞ、他人におんぶされたり、車に乗せられてゐた人民たちよ、もうその時は過ぎてゐるのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地をふみしめよ、大地の気が身内に甦るぞ。」

五十黙示録 第二巻「碧玉の巻」
第十帖
「神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。」
第十四帖
「頭と尻尾だけでは何も出来ん、化物ぢゃ。八尾八頭(かしら)の時代はすんだのであるぞ、かんじんの胴体がないぞ、日本が胴体であるぞ、日本を何処に忘れて来たのか、自分でも判るまいがな、尻の毛まで抜かれた化物の姿、鏡にうつして見るがよい、鏡は神示ぢゃと早うから知らしてあろうがな。」

五十黙示録 第四巻「竜音の巻」
第五帖
「幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりの殆どは この幽界からの感応によることを忘れるでないぞ。霊かかりの動作をよく見極めればすぐ判る。高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊であるぞ、インチキ霊であるぞ、インチキ霊にかかるなよ、たとへ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。迷信であってもそれを信ずる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部をつくり出すことがあるから気付けておくぞ。無き筈(はず)のものを生み出し それが又地上界に反影してくるのであるから心して下されよ。今の人民 九分九厘は幽界とのつながりをもつ、胸に手をあててよくよく自分をサニワせよ。」

五十黙示録 第七巻「五葉の巻」
第十帖
「悪自由、悪平等の神が最後の追込みにかかってゐるなれど、もう悪の世はすんで岩戸がひらけてゐるのざから、何とやらのように前から外れてアフンぢゃ、七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ、七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれると申してあろうがな。」

第十五帖
「今に大き呼吸(いき)も出来んことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、岩戸がひらけると言ふことは【半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ】、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。」

五十黙示録 補巻「紫金の巻」
第十帖
「素盞鳴の命のまことの御姿が判らねば次(通基)の世のことは判らんそ、神示をいくら読んでもカンジンカナメのことが判らねば何にもならんぞ。」

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ひふみ神示 第五巻「地つ巻」
第十五帖 (一五二)
「神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。石物言ふ時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。てん詞様が世界みそなはすのざぞ。世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、盲つんばばかりと申してもあまりでないか。」

祓戸の大神様に罪穢れを負わせて追い払えば厄を掃えるという発想にも間違いがありそうです。
古代エジプト人は、1年を360日と特別な5日間からなると考えた。5日間は神々の誕生を祝う日。オシリス神、セト神、イシス女神などの誕生を祝ったという。ここに登場するオシリス神話は、古代エジプトを知る上で欠かせない物語である。
 オシリスは地上の王となり、イシスを妻にする。彼は人間に農耕や牧畜を教え、よく治めた。これをねたんだのが弟のセト。オシリスを箱に閉じ込め、ナイル川に流してしまう。妻イシスは嘆き悲み、オシリスの遺体を探しに出掛ける。
 遺体は地中海に達し、ある地の岸に流れ着いていたという。イシスはオシリスの遺体を連れ帰った。これを知ったセトは、遺体を十四に切り刻んでエジプト中にばらまいてしまう。
 イシスは悲しみにくれながら、バラバラになった夫を探し回っては集めた。とうとう完全な体にし、ミイラの夫に命を吹き込んだという。そしてオシリスの子ホルスを授かるのである。
http://blog.livedoor.jp/nasa1/archives/50332299.html
 「ホルスを抱くイシス女神小像」は、こうした神話に基づいて作られた。神話はさらに続く。
 ホルスは父のかたきセトと戦い、勝利を収める。ホルスは現世の王として君臨し、オシリスは冥界(めいかい)の王となった。
 古代エジプトでこの神話の影響力は大きい。ファラオはホルス神の化身だとされた。ホルスは王の守護神でもあった。その姿はハヤブサで表され、「ホルス神小像」のようなポーズが、ファラオの墓に描かれている。
http://tetsuwanco.exblog.jp/3291846/
テオドシウス帝により380年にキリスト教が国教とされるまでの数十年間ローマ帝国の国教はミトラ教でした。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2600401.html
マルクス=アウレリウス帝が「無敵の太陽神=Deus Sol Invictus」をローマ帝国の最高神と定めた後、西暦304年にディオクレチアヌス帝が「無敵の太陽」の称号を「ミトラ」のみをさす称号として「無敵の太陽ミトラ=Sol Invictus Mithras」が帝国の保護者(救世主)となります。

392年にキリスト教以外の異教信仰を禁止する帝国の政策でミトラ・キリスト(救世主なるミトラ)という呼称がイエス・キリストになり、救世主・無敵の太陽のイメージが、少年の姿をした「ミトラ・キリスト」からひげを生やした「イエス・キリスト」の像へと操作され、これがイエス・キリスト(像)誕生の真相であるのなら「12月25日」は妥当な生誕日と言えます。
他にも「聖母子像」が200年頃帝国内で(特に女性に)人気のあった「天上の女王・海の星・処女の聖母」と呼ばれた「イシス」であるのは確実で、イシスの神殿は後に「聖母アリア教会」になっています。

ミトラ教の歴史
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraic_Articles_History.htm
*ローマ教皇(パパ)が被る三角の帽子は「ミトラ帽」と呼ばれています。また、ミトラ教の最高位は「パパ」と呼ばれました。

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