mixiユーザー(id:10383654)

2021年04月21日09:39

311 view

真っ赤なウソ

 節気:穀雨、候:葭始生(あしはじめてしょうず)。自粛云々による籠居の連続が輪をかけたのか私奴の生活は、まさに俳句の季語でいう目借時(めかりどき。蛙の目借時とも)。「目借時」とは晩春の眠気を催す季節を言い、眠くなるのは蛙が人間の目を借りに来るからなのだと俳人は奇妙なウソを言う。
私奴ら年寄りは出かけることもママならず、ひたすらTVやPCの前で録画映画やYouTubeに浸ったり文庫本や雑誌に手を伸ばしたり、でも大半の時間はカワズに目を貸し出した如くウツラウツラ、コックリコックリの日々が続く(カワズは年寄りに近づいて目を借りるのかな)。

 ウソと言えば暇つぶしに、先日図書館で借りた養老先生の『真っ赤なウソ』を流し読みしている。売れに売れている『ハリー・ポッター』や観客動員二千万の『千と千尋の神隠し』の共通点は、両方とも「真っ赤なウソ」だという。
先生は、こういうのが人気があるのは、みんなが本当にウソを欲しがっているのではなく、泣いたり笑ったり胸がじ〜んとなったりと感動や感激を得られるからだ(即ちそれを「リアリティ」という)なんだと言う。
「ホントはネ」と先生はさらに言う、「ホントは、『ハリー・…』や『千と千尋の…』ではなく、宗教(日本では仏教)がリアリティをもたらさねばならんのよネ!」と。「だって「真っ赤なウソ」のご本家は宗教なんだから、お寺であり教会なんですから」と。
「なるほど、ナルホド。やっぱ、ウソってのは「白々しい」のはダメで、「真っ赤」でなくっちゃあということネ」と奇妙な(どこかピントが外れた)感想を持った。

 閑話休題。俳句に話を戻せば、たしか芭蕉翁は「俳諧は別のことなし。上手に嘘をつくことなり」と述べたそうな。
そう言えば、―蕉風開眼とかの「古池や蛙飛び込む水のおと」は、「(芭蕉さんの面前)でカエルがポチャンと池に飛び込んだよなんてことを写生して句ができたんではないのよ」と俳人長谷川櫂さんは言う。まず、蛙が鳴いたんではなく「蛙飛び込むみずのおと」というのが先にあって、芭蕉さんは上の句をアレコレ思案なげくび最後に「古池や」を思いついたんだとか(だから「古池に」ではなく「古池や」でなければならないんだそうな)。

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ…」。
芭蕉さんの有名な紀行文「おくのほそ道」の冒頭のくだりだ。考えてみれば、単なる旅行の記録文としては「切り出しからしてヘン」だ。何にも考えることがなかった高校生の頃の私奴などは、「エライ大仰大げさなことやな」と思っていたのみ。
この紀行文は旅程の進行と共にホイホイと出来上がったのではなく、その完成に芭蕉さんは数年にわたって思考推敲を重ねて、蝦蟇が油を身から搾り出すように書き上げたんだそうな。
ヤッパリ、芭蕉さんは真っ赤なウソを並べ立てることによって、養老先生のいう「リアリティ」をもたらしたんだと言えるかな。芭蕉さんは稀代の大ウソつきなのだ。

 二年目に入ったコロナ禍による晩春の籠居中の目借時、ニブイ頭で考えた。
「真っ赤なウソにはリアリティがあると言うのは別に芭蕉さんの作品に限った話ではなく、諸々の芸術はすべてリアリティを含む真っ赤なウソなのだ」
「いいや、そうではなく、私奴らが揺るぎない事実・現実の世界と思っているものが実は真っ赤なウソで、真っ赤なウソの世界と思っているものが実は事実・現実なのかも知れない」。

写真左:図書館で借りた本
写真中央:ラジオ体操仲間から頂戴した朝堀りタケノコ。昨夜はタケノコ三昧だった。
写真右:このところ餌台に来るのは、もっぱらスズメたち。
3 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する