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2021年01月10日00:12

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1月10日が誕生日である人々

1835年(天保5年12月12日)、武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者である福澤諭吉が生まれました。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していましたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになります。慶應義塾(旧:蘭学塾、現在の慶應義塾大学はじめ系列校)の創設者であり、商法講習所(のちの一橋大学)、神戸商業講習所(のちの神戸商業高校)、伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)、土筆ヶ岡養生園(現:東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力しました。新聞『時事新報』の創刊者。ほかに東京学士会院(現:日本学士院)初代会長を務めました。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列されます。若き頃に学んだ大阪の適塾でのエピソードも面白いし、『福翁自伝』にも触れたかったのですが、スペースの都合でカット。諭吉と渡米した際の咸臨丸の指揮官を務めた勝海舟とはあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続きました。性格がそっくりだった海舟を諭吉は攻撃し続けましたが、海舟のほうは「そうかい?」とあまりまともに相手にはしなかったようです。欧州からの帰国後、『西洋事情』(慶応2年(1866年)〜)などの著書を通じて啓蒙活動を開始。日本人としての自覚、日本について何か語りたいのなら、この書物と新井白石の『西洋紀聞』、それにルース・ベネディクトの『菊と刀』は必読でしょう。諭吉は明治31年(1898年)9月26日、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥るも、このときには回復しました。その後、慶應義塾の『修身要領』を編纂しました。しかし明治34年(1901年)1月25日、脳溢血が再発したため2月3日に東京で死去。享年68(満66歳没) 。
1868年(慶応3年12月16日)、作家の尾崎紅葉が生まれました。1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなしました。1897年(明治30年)から『金色夜叉』を書きましたが、1903年(明治36年)10月30日、35歳のおり、未完のまま没しました。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生がいます。
俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。
1871年、文芸評論家、思想家の高山樗牛が生まれました。日本や中国の古典に造詣が深く、欧米の思想にも通じ、美文体を得意とし、文豪と呼ばれました。日本主義、ロマン主義、ニーチェ主義、日蓮主義など主張の変遷が激しく、急激な近代化で変転した明治思想史の歩みを体現したともいえます。樗牛の説いた日本主義の優勝劣敗論の影響は大きく、当時の小学校教科書にまで樗牛流の表現が多く見られました。1902年12月24日、31歳で没。
同じく1871年、文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人の島村抱月が生まれました。ベルリン大学留学から帰国後、早稲田大学文学部教授となり、「早稲田文学」誌を復刊(第二次)して主宰。自然主義文学運動の旗手の一人となります。1906年(明治39年)には坪内逍遥とともに文芸協会を設立、1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめます。しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化、これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となりました。同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。翌1914年(大正3年)にトルストイの小説を基に抱月が脚色した『復活』の舞台が評判になり、各地で興行が行われました。須磨子が歌う劇中歌『カチューシャの唄』はレコードにも吹き込まれて大ヒット曲になり、新劇の大衆化に貢献しました。1915年(大正4年)、須磨子とともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同講演をプーシキン劇場で行い大好評を博しました。しかしその成功も束の間、1918年(大正7年)、抱月は全世界で大流行していたスペイン風邪に罹患し、さらに急性肺炎を併発してしまい、東京市牛込区横寺町(現・東京都新宿区横寺町)の芸術倶楽部の居室で急死しました。47歳没。
1884年、詩人、児童文学作家の山村暮鳥(やまむら ぼちょう)が生まれました。1913年7月、萩原朔太郎、室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立。1914年3月、同社の機関誌「卓上噴水」創刊。1913年12月、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成。機関誌「風景」には萩原朔太郎、室生犀星の他、三木露風らが参加。1924年12月8日、肺結核に悪性腸結核を併発し、茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」で死去、40歳。
1898年、ソ連の映画監督、セルゲイ・エイゼンシュテインについては代表作の『戦艦ポチョムキン』を見ていないので話になりません。1948年2月11日、心臓発作により、50歳で没。
1908年、喜劇役者の伴淳三郎が生まれました。1927年、日活大将軍撮影所に大部屋俳優として入ります。しばらく、端役での出演が続きましたが、1929年、渡辺邦男監督の『竜巻長屋』に大役をもらいます。以後、渡辺監督に喜劇俳優として重用されました。
1931年、東京に戻り、曾我廼家五九郎一座に入り、清川虹子らと活動しますが、1934年、大都映画に入り、主役級として活躍。極東映画を経て、1937年、日活で親しかった永田雅一が所長を務める新興キネマ京都撮影所に入社し、忍術映画などで活躍。1951年頃から当時同棲中の清川虹子の仲介により新東宝の斎藤寅次郎監督の一家に入って、本格的に映画に復帰します。1951年、斎藤寅次郎監督、高田浩吉主演の『吃七捕物帖・一番手柄』に出演した折、「アジャジャーにしてパーでございます」が大ウケし、それを短くした「アジャパー」が大流行。1953年には、主役映画『アジャパー天国』が斎藤寅次郎監督で作られるにいたり、「バンジュン」の愛称で主演映画が次々と封切られる売れっ子スターとなります。1955年からは、松竹で、花菱アチャコと共演の『二等兵物語』シリーズ、1958年からは、森繁久彌、フランキー堺と共演の『駅前シリーズ』が大ヒットしました。珍演怪演をする珍優とも言われ、喜劇俳優として活躍する一方、1964年、内田吐夢監督、水上勉原作の『飢餓海峡』の老刑事の演技で毎日映画コンクール男優助演賞を受賞するなど、シリアスな演技にも独特な味わいを見せました。浅草サンバカーニバルを発案したり、募金運動のあゆみの箱の提唱者でもありました。個人的にはTVの清酒のCMで「かあちゃん、一杯やっか?」とやっていたのが懐かしいです。1981年10月26日に食道静脈瘤破裂により73歳で死去。
1926年、作家、評論家、新左翼活動家のいいだもも(本名:飯田 桃、読み同じ)が生まれました。多元主義的共産主義者。『21世紀への構想』研究会主宰。『近代日本社会運動史人物大事典』編集委員。男性。東大法学部を首席卒業して日本銀行に入行。まもなく結核のため退職し、茨城県で療養中、新日本文学会などに参加。いわゆる残飯闘争を指導しました。1967年(昭和42年)、共産主義労働者党書記長に就任。後に議長となり、1969年(昭和44年)に辞任。その後、同党の赤色戦線派を結成して活動しましたが、メンバーを結集させる事ができず指導を放棄して組織から離脱しました。以降は自称「しろうと」として、評論家・著述家として活動。2011年(平成23年)3月31日、老衰のため神奈川県藤沢市の病院で死去。85歳没。
1924年、アフロ系アメリカ人のジャズドラマー、マックス・ローチが生まれています。ドラマーとしてはケニー・クラークと共にモダンジャズの創始に関わっています。1953年5月15日には、トロントのマッセイ・ホールでチャーリー・パーカー、バド・パウエル、ディジー・ガレスピー、チャールス・ミンガスと共演。この時の演奏は、初期のモダンジャズであるビ・バップのオールスター・アルバムと言える『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』としてレコード化されています。1954年春、天才的トランペッターのクリフォード・ブラウンと共に双頭クインテットを結成。しかしブラウンは交通事故で死亡。1960年8月31日から9月6日には、公民権運動に関わっていた詩人/歌手のオスカー・ブラウン・ジュニアの詩を取り上げて、アメリカ白人による人種差別に抵抗したアルバム『ウィ・インシスト』を録音。同作にはアビー・リンカーン、コールマン・ホーキンス、ブッカー・リトル等が参加しており、音楽的には4分の5拍子が多用されています。2007年8月16日、ニューヨークの病院で、ローチは83歳で死去。生前のローチは酒を飲むと執拗に「俺がNo.1だ」とからむなど、一癖あったようです。
1930年、政治評論家の三宅久之が生まれました。元毎日新聞記者。1978年(昭和53年)10月から〜1985年(昭和60年)3月まで、テレビ朝日『ANNニュースレーダー』の木曜日から土曜日まで(当初は金曜日と土曜日)のキャスターを務めます。その後、同局の『やじうまワイド』や『新・アフタヌーンショー』などにコメンテーターとして出演するようになりました。昭和から平成になってからはテレビ朝日『ビートたけしのTVタックル』に出演するようになり、三宅の知名度が向上。2000年代からは読売テレビ『たかじんのそこまで言って委員会』などの討論系バラエティ番組にレギュラー出演しています。2012年(平成24年)、評論家活動からの引退を表明。同年11月15日朝、東京都内の自宅で倒れ病院に搬送されたが同日午前8時46分に死去。82歳没。
1933年、俳優、声優の田口計が生まれました。劇団新劇場出身。1955年(昭和30年)、山本薩夫監督の映画『愛すればこそ』(共演:山田五十鈴、久我美子)でデビューし、以後も『第五福竜丸』(大映)、『俺の空』(東宝=東京ムービー新社)、『人間の証明』・『野性の証明』(ともに東映=角川春樹事務所)、『刑事物語3 潮騒の詩』、『極道の妻たち 赫い絆』など多数の映画に出演。また、杉良太郎明治座公演『遠山の金さん』をはじめ時代劇の舞台公演にも出演。川合伸旺らと並び、時代劇の悪役・悪代官役で名を馳せました。劇中では悪徳商人を演じることが多く、時代劇ファンの人気を獲得しました(「悪の廻船問屋や材木問屋役といえば田口」とうたわれたほど)。「悪代官=(○○屋、)お主も悪よのう」というイメージを定着された一人ともされます。刑事ドラマや2時間ドラマなど現代劇への出演も数多く、洋画の吹き替えなど声優としての実績も豊富。
1934年、俳優の長門裕之が生まれました。妻は南田洋子、弟は津川雅彦、父は沢村国太郎、母はマキノ智子、叔父に加東大介、叔母に沢村貞子、祖父には「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三、狂言作者の竹芝伝蔵、姪には真由子を持つという芸能一家の一員。映画初出演は1940年の『続清水港』。第二次大戦前の少年期から名子役として広く知られました。学生時代は俳優を一時休業しますが、戦後、映画製作を再開した日活に入社。太陽族映画の第1作となる『太陽の季節』に主演し、デビュー間もない石原裕次郎と共演したほか、今村昌平監督ともコンビを組み、印象深い演技を残し、「日活の看板スター」となりました。同じ昭和9年(1934年)生まれの石原裕次郎、愛川欽也、大橋巨泉、財津一郎、坂上二郎、藤村俊二、睦五朗、森山周一郎らと「昭和九年会」を結成し、チャリティー事業などにも取り組みました。1985年11月に『洋子へ』(データハウス)を出版。南田への告白という形で、自身の奔放な女性関係などを実名で赤裸々に記し、いわゆる暴露本として世を騒がせました。テレビドラマのスケバン刑事シリーズでは長年にわたって昇進も降格もされない「暗闇指令」を演じていました。南田の死から1年7か月後の2011年5月21日午後5時20分、東京都文京区の順天堂医院で死去。77歳没。
1935年、司会者、ラジオパーソナリティー、映画評論家の浜村淳が生まれました。オリコン創業者で前社長の小池聰行とは同支社大学の同じゼミナールに所属していました。1974年からは、『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ午前中の生ワイド番組シリーズ)のパーソナリティを担当中。休暇や放送休止期間を除いて、放送開始以来生放送を1日も休まないまま、2019年4月に放送開始45周年を迎えました。近畿以外の地域では、『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)や『ゲーム ホントにホント?』(NHK総合テレビ)に一時レギュラーで出演していたことで知られます。浜村の映画解説の仕方は独特で、映画の内容を詳細にわたって、ラストシーンはおろかエンドロールに至るまで言及してしまうため、これから映画を観ようとしている人も必然的にストーリーを知ってしまうことになります。いわゆる究極のネタバレ。10年前、大阪に行ったとき、タクシーの中で流れていた浜村の口調が変でした。おそらく入れ歯の具合でも悪かったのでしょう。数年後、ポッドキャストで聴いたら、調子は戻っていました。
1936年、歌舞伎研究家の渡辺保が生まれました。小山観翁と共に、信頼のおける人です。1965年(昭和40年)六代目中村歌右衛門を論じた『女形の運命』で芸術選奨新人賞を受賞、以後歌舞伎の批評家として活躍。駸々堂出版から出た『歌舞伎手帖』には私もずいぶんお世話になりました。ネタバレにならない程度のあらすじ、見どころ、過去の名演のエピソードなど、歌舞伎初心者だった時代には手放せませんでした。
1942年、タレント、喜劇俳優の小松政夫が生まれました。社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)。スタートは植木等の付け人兼運転手。今でも小松は植木のことを「おやじ」と呼んでいます。小松の前職は記録的な売り上げを誇る車のセールスマンでした。有名な淀川長治の物真似は付き人時代からクレージーの舞台のつなぎに披露し、受けていたそうです。学校の担任やキャバレーでのホステスの会話など、これまで接してきた人たちからヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」(1976年発売)、「しらけ鳥音頭」(1978年発売、30万枚超え、または60万枚を売り上げた)、「タコフン音頭」(1980年発売)、淀川長治の物真似などで一躍人気コメディアンとなりました。また、伊東四朗との息の合ったコンビ芸は、1970年代を代表するギャグの一つとして今なお語り継がれています。『みごろ!食べごろ!笑いごろ!』や『笑って!笑って!!60分』では「小松の親分さん」、「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」など数々の名コントを演じました(先の「電線音頭」や「ずんずんずんずん〜小松の親分さん♪」、「ニンドスハッカッカ マー ヒジリキホッキョッキョ」など)。故郷の博多では「どんたく」開催の一か月前から戻り、盛り上げに一役かっているので、同地出身の数多い芸能人の中でももっとも一目置かれている存在です。
同じく1942年、エッセイスト、編集者の嵐山光三郎が生まれました。本名、祐乗坊英昭(ゆうじょうぼう ひであき)。 1965年、平凡社へ入社。『別冊太陽』と『太陽』のそれぞれ編集長を務めます。また、広告会社から平凡社に入社してきた安西水丸を知り、1976年に合作絵本「ピッキーとポッキー」を刊行。40年間で70万部近くを売り上げるロングセラーとなりました。また、雑誌「宝島」で連載された“チューサン階級の友”で人気を博し、「…なのでR」などカタカナやアルファベットを多用した、独特の文体でのエッセイを多数の雑誌に発表。椎名誠らとともに「昭和軽薄体」と呼ばれました。タモリ司会のテレビ番組『今夜は最高!』に、『月刊ドリブ』の宣伝も兼ねて出演。これがきっかけで、1982年からは『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ)に編集長としてレギュラー出演しました。2010年3月、国立市の教育委員に任命され、2012年には日本文藝家協会理事に。
1945年、歌手、女優の佐良直美が生まれました。1967年に歌手デビュー。デビュー曲の「世界は二人のために」は、120万枚のレコード売り上げを記録し、第9回日本レコード大賞の新人賞を受賞。1969年には、「いいじゃないの幸せならば」で第11回日本レコード大賞を受賞。女性歌手として日本レコード大賞の新人賞・大賞を両方受賞したのは、史上初の快挙でした。歌手としてだけでなく、作曲(テレビドラマの音楽も担当)、タレントとしてのバラエティー番組への出演やテレビ番組の司会、女優としても石井組の一員として『ありがとう』に出演するなど、多方面で活躍しました。タレントのキャシーとの同棲、レズビアン騒動の後には芸能界の第一線から退き、実業家へと転身。2013年3月20日、2年半ぶりとなる新曲「お・か・え・り」が発売。国分寺市でバレエ教室を開いている私の従姉は佐良の親友でした。しかし従姉はちゃんと結婚しており、別にレズではありません。また私がよく呑みに行っていた高円寺の酒亭「啄木亭」の常連で、レコードのジャケットにもこの店が使われていました。実際に遭遇したこともありますが、店が満員で「〇〇の従弟です」と自己紹介はできませんでした。
同じく1945年、ロック歌手のロッド・スチュワートが生まれていますが、この人の事、よく知りません。歌を聞いたこともないし。
1948年、俳優、歌手のあおい輝彦が生まれました。解散した四人組グループ「ジャニーズ」のメンバーでした。1970年、アニメ『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈役に抜擢されました。1976年6月にリリースした『あなただけを』が、オリコン週間チャートで6週連続第1位を獲得、同年の年間シングルチャートでも第7位に入り、自身最大のヒット曲となりました。1976年11月に公開された映画『犬神家の一族』に犬神佐清役で出演。同映画は1976年邦画配給収入2位のヒット作となります。なお、同年の邦画配給収入1位となった映画は『続・人間革命』であり、あおいは同作で山本伸一役を演じています。1988年より、『水戸黄門』で12年間に渡り、助さんこと佐々木助三郎を演じました。1973年に日本テレビで放映されていた『水滸伝』では九紋竜史進を演じていましたが、片肌ぬいでの演技で、やけに乳頭が大きいのが目立ちました。
1949年、アメリカのプロボクサー、ジョージ・フォアマンが生まれました。「象をも倒す」といわれた強打を生かし、1968年メキシコシティーオリンピックボクシングヘビー級で金メダルを獲得。プロ転向後はジョー・フレージャーやケン・ノートンをも2ラウンドでKOし、統一世界ヘビー級王座を獲得・防衛しました。その後、キンシャサの奇跡でモハメド・アリに敗れるなどし1977年に28歳で一度は引退するも、1994年に45歳にして実に20年ぶりに世界ヘビー級王者に返り咲きました。引退表明こそしていませんが、現在は自らの名を冠したバーベキューグリル「ジョージ・フォアマン・グリル (George Foreman Grill) 」をヒットさせ、TVドラマやCMに出演するなど、ビジネスでも成功を収めています。
1965年、漫才コンビ「爆笑問題」のツッコミ、田中裕二が生まれています。相方の太田のボケに素早くつっこむだけでなく、高笑いで反応することもあります。椎茸とミミズが大嫌いなのですが、出演したラジオ番組のショッピングコーナーで「椎茸はダメ」と駄目押しするなど、ある意味、太田よりも危険な人物。離婚を一度経験後、山口もえと再婚し、三児のパパとなっています。
1966年生まれの女優、財前直見については、正直、ぜんぜん分かりません。

次は忌日。
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